『飛礫55』(2007年夏号)掲載論文

   天皇制とハンセン病問題  
   ──『プリンセス・マサコ』出版中止問題から考えること──

                           滝尾 英二
                    人権図書館・広島青丘文庫

▽ はじめに

 ベン・ヒルズ著『プリンセス・マサコ―菊の御紋の囚われ人 日本の皇太子妃の秘話』の原書はランダム・ハウス・オーストラリアから二〇〇六年十一月に発行され、A五判大、三〇〇ページ余で米国のペンギン・グループからも発行されている。
 ベン・ヒルズ氏はオーストラリアのジャーナリストで元東京特派員。三年間の日本滞在を記録した本など多数の著作がある。彼の妻の金森マユ子さんは写真家で、「山と積まれた日本のこの不遇なカップルについての本や雑誌、新聞記事の中から重要な事項をふるい分ける」仕事に従事した。著者は「世界中に点在している中から公の場では一度も発言したことのない六〇人をさがし出して」インタビューしている。この本の日本語訳本は講談社から出版されることになっていた。
 ところが日本の外務省当局や宮内庁の渡辺允侍従長から「皇室の方々を侮辱し、実態とかけ離れた皇室像を描いた」とする抗議文が、著者のベン・ヒルズ氏と出版社あてに届けられた。外務省は大使館をつうじてオーストラリア政府にも伝えたという。オーストラリア政府は「……本件については、出版社と日本側との問題であるので、事態の推移を見守りたい」という反応であったという。そして講談社は二月一六日、出版を中止した。とりわけ渡辺侍従長からヒルズ氏あてに出された二〇〇七年二月一日付けの書簡は「……少なくとも、事実関係のはっきりしている皇室のハンセン病への関与に関して、回答を求めたいと思います」と書かれているだけに、ハンセン病問題の歴史にかかわってきている私にとっては、黙視できない内容となっている。

 

▽ 出版中止問題と渡辺侍従長のハンセン病問題認識を糾す

 渡辺允侍従長の書簡は宮内庁のホームページに掲載されている(本稿文末の資料参照)ので、いつでも見ることができる。長々と天皇・皇后のハンセン病施設の訪問や、ハンセン病回復者や施設関係者の面談のこと=「天皇・皇后の〈ご仁慈〉の事実」を書いているが、ヒルズ氏が著作で書いているのは『プリンセス・マサコ』のことである。なぜ渡辺侍従長は皇太子夫妻に関して抗議書簡を書かず、天皇・皇后のハンセン病施設の訪問や沖縄訪問のことを、ことさら持ち出して強調するのであろうか。このことについて私の所感をのべてみたい。
 第一は、天皇制・宮内庁を具体的に批判した本が講談社という大手出版社から日本語訳で多量に出ることを宮内庁は恐れたのであろう。それは「天皇の継承問題=女性天皇論争」からくる天皇制存在の問題ともからまって、ヒルズ氏のインパクトのある著書の出版にたいする宮内庁の危機意識が働いたことがあげられる。
 第二に、ハンセン病問題と天皇制・皇室の相互存在の関係を渡辺侍従長らはよく知っており、「天皇・皇后のご仁慈」と称する過去四〇年間の皇太子時代からの行為を示すことによって、「慈愛に満ちた天皇・皇后」をアピールしようとしたことである。
 したがって、今後、われわれとしては天皇・皇后のハンセン病施設の訪問の目的や意味、すなわち天皇・皇后の〈ご仁慈〉の事実を明確にすることが必要であろう。
 『ハンセン病問題検証会議最終報告書』(二〇〇五年三月)の「第四章・一九五三年の『らい予防法』―強制隔離の強化拡大の理由と責任 第四・藤楓協会および皇室の役割 四・皇室の療養所訪問」(一四四~一五二ページ)に不十分であるが、「皇族が旅行すると必ずと言っていいほど、病院や福祉施設を訪問する」「貞明皇后に続き、高松宮は皇室のハンセン病患者への『仁慈』の象徴となった」と書かれている。それをアキヒト天皇夫妻は継続したのである。
 渡辺書簡は「……皇后陛下は、政府の委託によって過去の日本政府のハンセン病患者隔離政策を批判的に検証した二〇〇五年の報告書が出版された際には、関係者をお招きになって、説明を聴取しておられます」とのべている。ミチコ皇后が「聴取」したという『ハンセン病問題検証会議最終報告書』は政府にとって、すでに「空文化」されているのであろうか。
 このたびの『プリンセス・マサコ』にたいする渡辺侍従長の抗議書簡、講談社の自主規制を強要されて出版中止をした「国民の知る権利」侵害という重大問題を、ハンセン病市民学会をふくめてハンセン病関係の団体から正式に抗議したという事実を知らない。これが、問題の第三といえよう。
 渡辺侍従長の書簡に見られるハンセン病の差別・隔離政策を支え、かつ推進してきた天皇・皇室の責任の所在という問題がある。そのことをあいまいにしている日本の現状と、その責任所在を明らかにする努力を、行政も私を含めた研究者も、さらに運動側・支援者も怠ってきたことは重大である。これが私の率直な感想であった。以下、近代天皇制の歴史の中で天皇制が日本のハンセン病政策の推進にかかわった事実およびその責任をのべてみたい。

 

▽ その1 国立ハンセン病資料館「展示」の問題

 本年四月一八日、私は東京都東村山市の多磨全生園に隣接する国立ハンセン病資料館をたずねた。一九九二年に財団法人藤楓協会が同所に建てた高松宮記念ハンセン病資料館が国費の投入の下に約一年半の準備期間を経て四月一日にリニューアルオープンしたものである。そのとき常設展示および同時展示されていた「趙昌源(チョチャンウオン)絵画展―小鹿島(ソロクト)の光と影」に大いに問題を感じたので、その場で学芸員に指摘し、厚生労働省の担当者にも電話で申し入れ、また四月二四日には国立ハンセン病資料館、厚生労働省健康局疾病対策課長、社会福祉法人ふれあい福祉協会(『国立ハンセン病資料館開館記念誌』および趙昌源絵画展図録の発行者)あてに意見書を送付し、展示内容の再考を求めた(趙昌源絵画展への意見書の内容はここでは述べない。詳しい意見書は滝尾のホームページに掲載している)。

 意見書で批判したのは、おおよそ次の点である。
(1)あらたに開設された国立ハンセン病資料館の展示の問題点と、なぜそうなったのかの分析。
(2)「過去のことは過去のこと」として、きれいごととして展示がなされている。高松宮ハンセン病資料館の以前の展示のほうが、問題はあったが生々しくて迫力があった。それが国立ハンセン病資料館の展示では失われている。これが、「今日の啓発教育」である。歴史事実の改ざんされた隠匿の多いものになっている。
(3)常設展示と企画展示の問題性・差別性について、国立ハンセン病資料館企画・編集『国立ハンセン病資料館 開設記念誌』(二〇〇七年四月一日、社会福祉法人ふれあい福祉協会発行、以下、『開館記念誌』とする)の内容にそって具体的に述べておいた。
1.天皇制とハンセン病のかかわりの抹殺=「歴史」の改ざん、その責任の不問。
2.優生思想、優生保護法によるハンセン病患者、その家族の抹殺政策にふれていない問題性。その要因と責任の不問。
3.日本の旧植民地・日本占領地域支配下のハンセン病政策にふれておらず、その被害実態や責任所在の不問。
4.戦後も一九五三年の「らい予防法」によって隔離強化政策が貫かれたが、「らい予防法」制定を用意する発端となったのは一九五一年の参議院厚生委員会での長島愛生園長・光田健輔らの「三園長証言」である。こうした悪法の制定経緯も具体的な説明がない。

 (3)の1について付言すると、大正天皇の妻である皇太后節子(さだこ)(死後、追号されて貞明皇后)はハンセン病隔離収容を奨励し、ハンセン病療養所長を大宮御所へ呼んで激励するなどハンセン病患者絶対隔離政策に大きな役割を果たした。一九三一年には終生隔離をうたった「癩予防法」ができ皇太后節子のだした一〇万円で「癩予防協会」がつくられる。また、光田健輔、林文雄、高野六郎、南次郎(朝鮮総督)、西川義方(節子の侍医)、関屋貞三郎(宮内次官)、下村海南(戦後は初代藤楓協会会長)、西亀三圭、周防正季、大谷藤郎らが、「皇恩」を強調して日本のハンセン病政策を推進してきた(滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』〔不二出版〕第七巻の解説および『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』人権図書館・広島青丘文庫発行の第四章第七節一一八~一三九ページ参照)。 
 高松宮宣仁(のぶひと)とその妻・喜久子、昭和天皇の三女・池田厚子のハンセン病療養所訪問の実態とその役割も大きい(滝尾『「らい予防法」国家賠償請求事件資料の考察』第一集、広島青丘文庫、二〇〇〇年。藤野豊『「いのち」の近代史』かもがわ出版、二〇〇一年)。
 アキヒト天皇、ミチコ皇后のハンセン病療養所の訪問の意味と問題点は『全患協ニュース 第一~七〇〇号』の皇室関連の記事をみてみると、この天皇・皇后の訪問は「仁慈」を強調することにより、隔離された療養所の生活をありがたがる融和策にすぎなかったことがわかる。
 癩予防協会→財団法人藤楓協会→社会福祉法人ふれあい福祉協会もまた、ハンセン病療養所の入所者に皇室の「仁慈」を強調することによって隔離された療養所の生活を容認・推進するものであった。国立ハンセン病資料館にはこれらに関する展示はまったくない。

 (3)の2については『開館記念誌』のどこを見ても優生思想、優生保護法(一九四八~一九九六年)のことが書かれていない。『開館記念誌』二十二ページの「結婚、断種、中絶」を見ても、処罰としての断種への言及はないが、植民地であった小鹿島更生園のみならず、日本国内でもおこなわれている。また人工妊娠中絶だけでなく、女性が臨月で産み落とした嬰児を生きながら殺害(自然死)させたという事実がある。そうしたことも不問にふせられている。拙著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫、五九~六二ページ、および『ハンセン病問題検証会議最終報告書』一九一~二〇八ページを参照されたい。統計上だけでも「癩疾患」の不妊手術と中絶の届出総数は一五五一名におよんでいる。「中絶胎児」の標本が残っていて社会的に問題になったり、いまも「産んだ子どもを生きながら殺された」という証言を聞く。こうした多くの人々が現在なお、苦悩していることをなぜ不問にふすのか、国立ハンセン病資料館の責任者・担当者に聞きたい。

 (3)の3については、『開館記念誌 展示室Ⅲ 海外のハンセン病事情』(三一ページ)がある。韓国の小鹿島病院(前身は一九一七年五月に開設された小鹿島慈恵医院、のち小鹿島更生園)や台湾楽生院(前身は一九三〇年十二月に台北州新荘に開設された楽生院)は、いずれも日本の植民地支配下で日本のハンセン病政策が強行されたものである。クリオン療養所(フィリピン)はアメリカがつくった療養所を日本占領時代に占領し、戦争末期には三千とも六百名ともその人数は不明であるが、多数の餓死者をだした。これらの事実を国立ハンセン病資料館の展示は隠ぺいしている。
 「改正ハンセン病補償法」による厚生労働大臣の「告示」でも「ミクロネシア(南洋)四島」に存在したハンセン病療養所の入所者が補償対象に追加され小鹿島更生園や楽生院の入所者と同様、日本のハンセン病政策の被害者として、国は慰謝(=謝罪)し、補償金が支払われる。こうした現在の国の施策すら、国立ハンセン病資料館は知らないのか、あるいは日本の責任を黙殺しているのか。いずれにしても展示にこの事実が書かれていないということは無知をとおりすぎて差別記述としか言いようがない。

 上記(2)に関して付言すると、『開館記念誌 展示室Ⅱ 癩療養所―出口の見えない隔離―』(一六ページ)の「癩の『宣告』と収容」の項目の下に三枚の写真を掲示している。その一枚は「家にこもる/患者自宅検診 星塚敬愛園 一九三五(昭和一〇)年/病気の家族を隠して暮らす家にも、警察や医師らが訪れて、家にいたいという望みを絶っていった」という説明文を書いている。
 この写真は星塚敬愛園慰安会発行の『星座 第一輯 建設編』(昭和十一〔一九三六〕年)の二七二ページに収録された写真であるが、その説明文は資料館の説明文とは異なっている(滝尾『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫、二〇〇〇年、二九八ページ)。『星座』では「患者訪問/山間渓谷に蹲居する癩者を訪ね、皇室の御仁慈を伝へ、療養所入所をすゝめる。一人の患者を訪ねるのに一日を要することが稀ではない。/けれ共もこれによりて世を呪ひしものが皇室の恩化によりて光を見、療養所を知らざりしものが、安住の楽園あるを知りて涙をもて喜ぶさまは我等にとりて最もおおいなる慰めである」と説明している。資料館の写真説明は、皇室の「仁慈」が、じつはハンセン病療養所への強制隔離収容に一役かったという事実を隠しているといえる。
 
 五月二十二日付で資料館の学芸員から、「天皇制が果たした役割、日本の政策としておこなわれた植民地での『癩対策』、断種手術や中絶手術の背景にある優生思想などは、重大なご指摘ですので、館外とも意見調整が必要になります。もうしばらくお時間をいただければと思います」との回答がきた。国立ハンセン病資料館には現在、館長がいない。しかし私が問うているのは、二〇〇七年三月まで館長であった大谷藤郎の下で新しい開館へ向けての展示計画・準備がなされ、その段階でこれらの問題を取り上げないとした大谷前館長以下、館内の学芸員たちや国の関係者の姿勢を問うているのである。資料館が「資料を収集保存し調査研究活動を行い、その結果得られた成果を展示して公開」(『開館記念誌』三ページ)するということを明言しているのならば、学芸員が独自に調査研究した成果にもとづいて展示内容や方法を決めればよいのであって、それが日本国憲法に定められた学問の自由にもとづく研究活動に従事する公務員の義務と権利である、という自覚がない。残念であり、このような国立ハンセン病資料館に期待をもつことはできない。

 

▽ その2 皇太后節子の誕生日をはさむ「ハンセン病を正しく理解する週間」

 私が居住する広島県庁の保健対策課のハンセン病担当者に、今年度の「ハンセン病を正しく理解する週間」について問い合わせたところ、五月九日付で厚生労働省健康局長名で各都道府県に、今年度の「ハンセン病を正しく理解する週間」は六月二四~三〇日、趣旨・目的は昨年と同様であるという通達が出されているということであった。
 昨年(〇六年)度には厚生労働省は実施についてつぎのような趣旨説明をしている。

 ハンセン病に対する正しい知識の普及に努め、ハンセン病療養所入所者等の福祉の増進を図ることを目的に、病気の予防と患者の救済に特別のご関心を寄せられた貞明皇后のお誕生日である六月二五日を含めた週の日曜日から土曜日までを標記週間として毎年実施してきたところである。
 特に平成八(一九九六)年のらい予防法廃止に伴う国会の附帯決議において「ハンセン病に関する正しい知識の普及に努め、偏見や差別の解消に一層の努力をすること」とされるとともに、第五回ハンセン病問題対策協議会(平成一三(二〇〇一)年十二月二五日)において、「厚生労働省は、患者・元患者の名誉回復についての措置の実施について最大限努めること」が確認されたことを受け、さらなる充実を図っているところである。これらを踏まえ、ハンセン病に対する正しい知識の普及啓発を図り、偏見や差別の解消に努めるために、標記週間を実施するものである。

 ところが、昨年(〇六年)度のハンセン病問題対策協議会における確認事項には、厚生労働省・ハンセン病問題対策協議会・ハンセン病違憲国家賠償訴訟全国弁護団連絡会・全国ハンセン病療養所入所者協議会(以下、あわせて「統一交渉団」という)は「……平成一三(〇一)年七月二三日付『基本合意書』、平成一三(〇一)年十二月二五日付『ハンセン病問題対策協議会における確認書』および平成一四(〇二)年一月二八日付『基本合意書』にもとづき、平成一八(〇六)年八月二三日、ハンセン病問題対策協議会を開催し、以下の通り合意したことを確認した」として、つぎのような確認をおこなっている。
 「『ハンセン病を正しく理解する週間』の時期の移行については、早急に謝罪・名誉回復部会を開催し、今年度中に決着をはかるようにつとめる」
 ここで本年中というのは二〇〇七年三月三十一日までをいう。しかし、その合意は実行されず、かつ厚生労働省(および社会福祉法人ふれあい福祉協会)はその不実行の抗議も受けず、今年度も「ハンセン病を正しく理解する週間」を実施するという。この問題について私が厚生労働省健康局の健康対策課に問い合わせると、つぎの経緯が判明した。
 今年度の週間を六月二四~三〇日の貞明皇后の誕生日である六月二五日を含めた週としたことについては、統一交渉団からも、ハンセン病市民学会からも、ハンセン病違憲国賠訴訟全国弁護団連絡会からも抗議や反対意見は届いていないという。今年の四月二五日にこの問題などを検討したが、その席には全国弁護団連絡会および全国ハンセン病療養所入所者協議会も参加して、本年度の週間を決め、今後、継続して作業部会でこの期日移行のことは審議・検討することになったという。「もう、何をか言わんや!」という思いである。これが、ハンセン病問題と天皇制の深いかかわりを示すこの週間を批判できないハンセン病問題で運動している団体や人々の実態なのである。


▽ その3 ハンセン病市民学会(藤野豊事務局長)の天皇制問題の欠落

 日本の植民地統治期に南洋庁が設置した南洋群島四島のハンセン病療養所の維持は、『南洋群島要覧・各年度版』(南洋庁編集・発行)によると、大正天皇の大喪に際し「慈恵救済の資に充てしむるの聖旨を以て御下賜相成りたる」千円を基金に一九二七年に設立された恩賜財団・慈恵会がおこなった。慈恵会の中心事業はハンセン病療養所の運営事業であった。ここでも「皇恩」が強調されている(滝尾英二「日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任」『飛礫47』(05年7月10日発行)参照。その後十一月八日に川崎厚労相が「南洋群島四島のハンセン病収容者の救済策」に言及した)。
 ところで藤野豊・ハンセン病市民学会事務局長は本年(二〇〇七年)三月三〇日に「改正ハンセン病補償法」(二〇〇六年二月一〇日制定)にもとづく厚生労働大臣の告示の補償対象に南洋四島を加記するよう要請した。また昨年十二月二八日には南洋四島についての「新資料」なるものを記者会見で発表している。それらのなかで藤野事務局長は、パラオでの患者の戦争末期の虐殺のことは語っても(そのことは重大な被害事実であるが)、恩賜財団慈恵会のことはまったく触れていない。
 藤野豊氏が検討委員を勤めた『ハンセン病問題検証会議最終報告書』は法曹界、福祉界、教育界、宗教界、患者運動、マスメディアの役割をあげ、その責任を追及している。しかし天皇・皇室の果たした役割については、前述した第四章第四で申し訳ていどに記述しているのみで、欠落させている。その藤野豊氏の天皇制認識について私は『飛礫48』(〇五年秋号)で批判をのべておいた(滝尾「藤野豊氏の『ハンセン病問題』に関する認識と行動への疑問―『ハンセン病問題と天皇制(三)』(飛礫47)の記述と『富山シンポジウム』の問題性」)。三月三〇日の要請行動やその後の記者会見での行動にも私は疑問をもっている。
 『プリンセス・マサコ』出版中止問題への沈黙と同様に、国立ハンセン病資料館の「恥ずべき展示」に関してのハンセン病市民学会からの意見提言も、私は寡聞にして知らない。ハンセン病市民学会事務局長としての藤野豊氏の責任は重いといわざるをえない。

 

▽ 結論

 国立ハンセン病資料館は毎日、来館者があり、問題の多い展示を見ている。私が国立ハンセン病資料館、厚生労働省健康局疾病対策課長、社会福祉法人ふれあい福祉協会あてに出した四月二四日付意見書の回答は、国立ハンセン病資料館の学芸員二名の連名で私の「意見書」に対して回答にもならない「文書」が来たほかはいまだにない。しかし来館者は多いと聞くからには、各地各界からの国立ハンセン病資料館への意見・批判がもっと寄せられねばならない。私には藤巻修一さん(ハンセン病図書館友の会)が季刊雑誌『社会評論』一四九号(〇七年春号)に執筆しておられたエッセイが参考になった。国立ハンセン病資料館の今回の歴史を「改ざん」した内容として具現化したこと、この事実を深刻に受け止め、今後のハンセン病差別と闘わなければならない。
 自国民中心意識と排他的歴史認識を克服することができないまま、天皇制が果たした役割をあいまいにしたことが、天皇の「慈恵」を「ありがたがる」意識となり、今回の渡辺侍従長のベン・ヒルズ氏あて書簡となり、その結果、出版予定の翻訳本の出版中止となった。これは、宮内庁=渡辺侍従長という政府権力によるハンセン病問題を口実にした言論・出版の自由への侵害である。
 悲惨きわまる日本のハンセン病政策を遂行・実施するにあたり、天皇・皇室が果たした歴史がある。それを国は現在、無視している。渡辺書簡に書かれているような天皇・皇后のハンセン病療養所などの訪問の強調は、「皇恩」の宣伝によって差別・隔離政策を覆い隠し「国民統合の象徴」としての天皇制の存続をはかるものである。安倍晋三首相は「日本人が織りなしてきた長い歴史、伝統、文化をタペストリーだとすると、その縦糸は天皇だ」と発言し、憲法改悪の目的の一つに天皇を国家の元首とすることをあげている。これはまさに象徴天皇制から戦争天皇制への世論の誘導であり「戦争への道」につうじている。安倍首相ら超右翼の人たちの改憲論に反撃するうえでも、皇室の責任の歴史の究明が必要である。とくに植民地支配との関係で、ハンセン病患者の被害事実とそれをもたらした天皇制の解明は不可欠である。
 『飛礫54』(二〇〇七年春号)の「特集にあたって」の文中で、昨年十二月、天皇がインド洋やイラクに派遣された制服姿の自衛隊員を皇居に招き懇談したことを伝え「戦争と国家を束ね、国家への服従(忠誠心)を許容する天皇制イデオロギーは不可欠である、それは象徴天皇制から戦争天皇制への転換をぬきにはありえない」と述べている。この問題と今回の天皇制とハンセン病問題の一連の歴史の改ざん・隠匿問題は、同じ地下茎でつながっているように思う。そうした意味から、小論を書くことを決意した。
                 (たきお えいじ)

*滝尾英二的こころ
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【資料】渡辺允侍従長書簡
※ 日本語仮訳【 正文(English)】

 二〇〇七年二月一日
 ベン・ヒルズ氏へ
 貴著「雅子妃―菊の玉座の囚人」について、この書簡を送ります。
 長年皇室報道を専門としてきた或る老練な新聞記者が、この本を読んで、「各ページに間違いがあるのではないかというくらい」不正確な箇所が目につくと書いています。また、より実質内容に関わる観点から、政府は、この本の描いている皇室像が如何に歪んだものであるかに驚き、対応ぶりを検討しています。その間、ここでは、天皇皇后両陛下の側近にお仕えしている立場から、両陛下に直接関わり、しかも明らかに事実と異なる一つの箇 所に絞って、問題を提起します。
 この本の第七章で、貴方は、「天皇には、年間に千件以上‥の公務があるといわれるが、いずれも、‥当たり障りのない行事への、負担のない形式的な出席ばかりである」と述べた上で、「日本の皇室が、ダイアナ妃による‥レプロシー・ミッション‥への支援のような論議を呼ぶ事柄に関わりをもつことはありえない」と断定しています。
 ここで貴方は、両陛下が、四十年にわたってレプロシー、すなわちハンセン病の問題に大きく関与してこられたことを全く無視しています。日本には、全国各地に十三箇所の国立ハンセン病療養所があります。両陛下は、一九六八年、皇太子皇太子妃の時代に、鹿児島県の奄美大島にある療養所をお訪ねになって以来、二〇〇五年までの間に、これらの国立ハンセン病療養所のうち青森、群馬、東京、岡山(二箇所)、鹿児島(二箇所)および沖縄(二箇所)の各都県にある九箇所を訪ねてこられました。
 これらの療養所のご訪問に当たっては、入所者と膝をつき合わせ、手を握って、病いと差別、偏見に苦しんできたその人々の苦しみを分かち合い、慰められるとともに、園長、医師、看護師など入所者の世話をしている人々の労をねぎらってこられました。
 一九七五年に沖縄県の療養所の一つをお訪ねになった時には、入所者が、御訪問を終えられてお帰りになる両陛下を、沖縄の伝統的な別れの歌を歌ってお送りし、また、後に、感謝の意をこめた詩をお送りしました。これに対し、天皇陛下は、沖縄特有の定型詩を詠んで、この人々の気持ちにお応えになっています(陛下は、さきの大戦で唯一地上戦が行われ、その後一九七二年まで米国の施政権のもとに置かれることとなった沖縄の人々の苦難を理解する一助として、沖縄の古典文学を学ばれました)。二〇〇四年、両陛下は香川県の高松市をお訪ねになりましたが、その折、市の沖合にある小さな島の療養所から入所者が来て、両陛下にお目にかかっています。また、翌二〇〇五年の岡山県ご訪問の際は、ほぼ一日をかけて、島にある隣接した二つの療養所をそれぞれお訪ねになりました。
 これまで入所者にお会いになることができなかった三箇所の療養所については、皇后陛下が、それぞれの園長をお招きになって、現状をお聞きになっています。また、皇后陛下は、政府の委託によって過去の日本政府のハンセン病患者隔離政策を批判的に検証した二〇〇五年の報告書が出版された際には、関係者をお招きになって、説明を聴取しておられます。
 両陛下のこれらの活動は、常に静かに行われてきましたが、両陛下とハンセン病問題に関わる以上の事実は、全て報道され、記録されており、初歩的な調査によって、容易に知りうることであります。
 また、天皇の公務は、「当たり障りのない行事への、負担のない形式的な出席ばかりである」というのが貴方の見解でありますが、例えば、一九七五年に皇太子同妃として沖縄を訪問された時には、ご訪問に反対した過激派が至近距離から火炎瓶を投げつけたにもかかわらず、全く予定を変更することなく訪問を続けられました。一九九五年、戦後最悪の自然災害となった阪神・淡路大震災が発生した際には、被災地に飛ばれ、本土と淡路島の双方にわたって、被災者の避難した小学校の体育館などを回ってその人々と一日を過ごされました。
 一九九四年、終戦五十年に先立ち、両陛下は、硫黄島に赴かれ、日米双方の戦死者のために祈られました。二〇〇五年には、終戦六十年に当たり、さきの大戦で激しい戦闘の行われたサイパン島を訪問され、炎天下、島内の日米韓各国民と現地島民の戦没者のための慰霊碑や大勢の婦女子が戦争の末期に身を投げた崖などで心をこめた祈りを捧げられました。
 両陛下は、社会福祉の分野全般にわたって、この四十七年、困難を抱えた人々をたゆみなく励まし、慰めてこられました。これまでに、全都道府県の四百箇所を超える福祉施設(知的障害者、身体障害者、高齢者、幼児などのための施設)を訪ねられ、外国においても、英国のストークマンデヴィル身体障害者スポーツ・センター(一九七六)、いくつもの福祉施設が集まり、人々がナチス時代にも障害者たちを護り通したドイツの町ベーテル(一九九三)、米国のナショナル障害者サーヴィス・センター(一九九四)など様々な福祉施設をたずねてこられています。貴方の母国オーストラリアでは、皇后陛下が、パース・リハビリティション病院(一九七三)を訪ねておられます。
 貴方は、両陛下のなさっていることが、無意味で形式的なことばかりであると示唆しているように見えますが、仮に、そうであるとするならば、何故、世論調査で、現在の形の皇室に対して、常に七十五パーセントを超える支持があるのでしょうか。また、何故、両陛下が地方に旅行される度に、何万という人々が両陛下を歓迎するために喜んで沿道に出てくるのでしょうか。
 以上の諸点について、著者はどのように考えるのか、少なくも、事実関係のはっきりしている皇室のハンセン病への関与に関して、回答を求めたいと思います。
                      
               侍従長 渡辺 允

 〔編集部注〕渡辺充侍従長は〇七年六月一五日退任した。