課題資料 Ⅲ

滝尾英二著『在朝日本人の女性たち ―「史料」からのアプローチの試み― 』1994年2月16日、 史料

(Ⅰ)韓国・慶尚南道の遊廓・軍慰安所跡についての聞き取り ―釜山および蔚山市方魚津を訪ねて;

1993年12月―

第三章 釜山の影島(ヨンド)遊廓跡、及び軍慰安所跡を訪ねて(p63~65)

第一節 この二、三年、「軍慰安婦・女子挺身隊」に関する本、新聞記事はかなりの数に及ぶ。私のところの人権図書館・広島青丘文庫でも、数えてみたら単行本だけでも40冊を越え、雑誌論文、新聞記事となると、莫大な数にのぼる。(註:101)=<これは、1993年12月現在の記述であることをお断りしておきたい。2007年9月2日 滝尾>。

(註:101) このことについては、① 金英達編『朝鮮人従軍慰安婦・女子挺身隊資料集』(第1部 朝鮮人従軍慰安婦・女子挺身隊文献リスト、第2部 新聞記事抄録、第3部 新聞投書抄録)神戸学生青年センター出版部刊、1992年7月発行、266p。

 ② 吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年11月発行、600p。

 ③ 挺身隊問題実務対策班編輯兼発行『日帝軍隊慰安婦実態調査 中間報告』1992年7月、211pの該当箇所を参照されたい。また、「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話(平成五年(ママ)八月四日)」に付せられた「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」1993年8月、30pは「文書件名(簿冊の表題)、時期(年月日)、発出者、宛名、記述の概要」があり、参考になる。

 私は、「慰安所」のあった場所―国及び地域、地名が書かれてある「電話での当事者たちの証言」を書いた二冊の本をみたが(註:104)、女性の出身地は朝鮮という場合が多いが、「慰安所」のあった場所は「満州」「中国」「フィリピン・マレーシア」など東南アジアに散らばり、「朝鮮」「日本」というのは、まれであった。

 (註:104)、① 従軍慰安婦110番編集委員会編『従軍慰安婦110番―電話の向こうから歴史の声が』明石書店、1992年6月発行。
 ② 1992・京都「おしえてください!『慰安婦』情報電話報告編集委員会編『[新装版]性と侵略―「軍隊慰安所」84か所 元日本兵らの証言』社会評論社、1993年8月発行。

 ところが、(註:102)の尹頭理(ユンドウリ)さんの証言には、はっきりと「釜山影島(プサンヨンド)の第一慰安所」「‥‥その一帯には雲雀町(ひばりまち)という日本人の遊廓街がありましたが、影島橋を渡り左に五百メートルほど離れた場所に位置していました。その日本人の遊廓街を過ぎ、さらに奥に入ったところに慰安所がありました」(p306)と、はっきりと、その場所を明示しており、慰安所で受けた差別と屈辱の生活を語っている。

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<尹頭理(ユンドウリ)さんの証言さんの証言>

尹頭理(ユンドウリ) 一九二八年、釜山生まれ。父親が建築業を営み家庭はゆとりのある方だった。

しかし兄は結婚後精神異常で家出し、父も亡くなって家運が傾きだして家庭がめちゃくちゃになった。

一九四二年、十五歳でゴム工場に働きに行くが、軍服工場に移った。そこの日本人の課長に下心を持たれたのでまた職場を変えることとなり、釜山鎮駅の前を通りかかった。その時派出所の前で巡査に呼び止められ、そのまま釜山影島(ヨンド)の第一慰安所に連行され、慰安婦生活をさせられるようになった。

「影島第一慰安所で」
 一九四三年九月、釜山の影島にある第一慰安所に行くことになりました。影島の第一慰安所には四十五人の慰安婦がいました。彼女たちはみな朝鮮人でした。慶尚南道出身者がもっとも多く、そのほか忠清道、全羅道、江原道などでした。たいていが農村の娘でした。
    (中略)
 第一慰安所だった建物は、昔朝鮮人が旅館をしていたのを日本人が取り上げたものでした。その一帯には雲雀町(ひばりまち)という日本人の遊廓街がありましたが、影島橋を渡り左に五百メートルほど離れた場所に位置していました。その日本人の遊廓街を過ぎ、さらに奥に入ったところに慰安所がありました。

 慰安所の経営者は日本人の高山(たかやま)という人で、慰安所の監視は軍隊がしていました。山下(やました)という日本人軍属が玄関に座っていて、軍人たちが来れば空いた部屋に入れと部屋を決めるのでした。(中略)

 建物は二階建てで、一階には部屋が十一あり二階には十二ありました。一つの部屋の広さは、二畳半ほどでした。そのうちオンドルの部屋が一つありましたが、そこは小間使いをする人の部屋で薬品も置いてありました。私の部屋は二階でした。横にもう一つ平屋の建物がありましたが、部屋数は二十ほどでした。朝鮮人が住んでいた民家で部屋が広かったので、仕切って使っていました。そのため隣の部屋の話し声はつつぬけでした。

 一日平均三十~四十人ほどの相手をしました。主に釜山から来た海軍と陸軍の軍人でした。特に船が着く日は多く、土曜日、日曜日にはさらに多くなりました。」 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク訳『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』

明石書店、1993年10月発行、p301~315.

 この『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店の本が日本で発売された半年ほど前に解放出版社編・発行の『金学順(キムハクスン)さんの証言―「従軍慰安婦問題」を問う―』1993年2月が発行された。その中で解放出版社の川瀬俊治さんは、「『従軍慰安婦問題』を問う―『資料』解説ノート―」でつぎのように書いている。

「‥‥『韓国政府文書』でも『大邱、影島等の地に、日本軍の慰安所があったと見られる』と記している。(第二部「四 配置」の項)。そして実際に慰安婦を強制された女性の証言が韓国内の新聞で報道されたことを紹介している。大邱は慶尚南道、影島は慶尚北道にある。」(p222)。と書き、さらに「‥‥『韓国政府文書』の指摘に呼応してその存在の確認を急ぐことだ。さらにいつから設立されたのか―など、論及していく課題が数多く残されており」(p222)とも書いている。

 大邱は慶尚南道ではなく慶尚北道であり、影島は慶尚北道ではなく慶尚南道で、川瀬さんは誤っているが、ともあれ「その存在の確認を急ぐことだ」という点は、その通りだと同感である。「十年来るのが遅い」と一人身となったハルモニ(おばあさん)がつぶやいた。あまりにも遅いということだろう(p283)。そうならないためにも、わたしは釜山の影島に足を運ばねばならない。

 「歴史は足で書くものだ」し、「足が精神をそこまで連れていってくれる」という。広島から釜山まで、直線距離にして、300kmに過ぎない。     
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  第一節 1993年12月25日、わたしは荷物を釜関フェリーターミナルの事務所に預け、徒歩で影島にむかう。釜山市街から影島までには、陸橋を二本架っている。東側に赤いアーチのある大橋を渡る

。「漁業期節に多数の漁業者及び商人等の入込む地域」の釜山府瀛仙町東部海岸に、日本人娼妓20人、朝鮮人娼妓20人貸座敷新抱込むとある(註104=『従軍慰安婦110番―電話の向こうから歴史の声が』、明石書店)のは、どのあたりなのだろうか。

 大橋の渡ったところで、道路掃除をしていた男性に、「このあたりに遊廓・女子挺身隊の慰安所の跡はないだろうか」ときく。日本語が通じないので、その男性は日本語の解せる近くの中老の男性を紹介。わたしが同じことをきくと、小さなお店―店内は五、六人入れば一ぱいになる居酒屋に案内してくれた。店内の小さな机の上には、マコリ(どぶろく)と、キムチを置いて、老人ふたりが一杯昼間からやっている。

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釜山=PUSANの影島あたりの地図あり(省略)。
釜山市街から影島まで架る陸橋を二本の写真2枚あり(省略)。
 (写真説明の右の写真)
右の写真は、釜山大橋。1980年1月30日に竣工したと、大橋の柱に書かれてある。
 (写真説明の左の写真)
左の写真は、影島大橋。1935年竣工とある。日帝時代につくられた。右手に見えるアーチは、釜山大橋。釜山港は写真右手、つまり東側にある。釜山フェリーターミナルはと徒歩15分。一般の旅港は徒歩5分のところにある。影島(ヨンド)は日帝時代には、絶影島と呼んで」いた。

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 わたしもマコリ(4合ビンほどのプラスチック製のビン)一本を注文し(10,000ウオン=134円ほど)払って、老人ふたりの座っている椅子に腰掛ける。日本語の話ができる老人たちである。77歳の老人は、船の機関長で、戦争中は広島県の竹原―宇品で船員の仕事をやり、「敗戦」(朝鮮人にとっては「光復」である)は、フィリピンのマニラでむかえたという。原爆投下のことも、広島の町名(紙屋町‥‥)もよく知っていた。

 もう一人の老人は68歳で、船の船長である。ふたりとも、雇主が賃金を払ってくれないので、その雇主をここで待っているのだという。わたしが名刺を渡すと、ふたりとも自分の名前と生年月日を書いてくれる。

「釜山では、緑町と瀛仙町のほかに、影島と東莱温泉に遊廓があった」ということは、前日の12月24日、釜山から蔚山へ行く途中の列車のなかで、東莱で英語の教師をやっていた老人から教えられていた。ただ、具体的な場所は、はっきりしていなかった。これは、今までの朝鮮総督府の文献、統計からは出てこない売買街=遊廓である。

 もちろん、軍慰安所のことなど、朝鮮総督府のものからは少なくとも、私のみるかぎり出てこない。現在の「韓国政府文書」でも、「大邱、影島等の地に、日本軍の慰安所があったと見られる」(5字傍点=傍点は滝尾)といった程度である。

 老人の機関長に私はきく。
私: 「このへんに、むかし遊廓はなかったかしら?」
老人: 「この道路のむかいがわのところに、十二、三軒あったよ。」
私: 「いつごろからあったかしら?」
老人: 「影島の大橋がつくられた時はあった。戦前の、そうよのぉ、60年も前かな。」
私: 「その遊廓は、釜山の緑町の遊廓のようだったかしら?」
老人: 「いいや。港の船乗り相手の安遊廓よ。金をもっとる者は、向かいの丘の緑町(みどりまち)遊廓に行ったものよ。」
私: 「おじさんも、若い時には遊廓に行っとったの?」
老人: 「この島の遊廓には、行っとった。」(と言って、向かいの「船長」老人にむかって、笑っていた。)
私: 「緑町遊廓には、行かなかったの?」
老人: 「二度ほど行った。二度とも戦後になってね。」
私: 「日本の軍隊が、この辺に軍人の慰安所=遊廓をつくったというが、本当かい?」
老人: 「大東亜戦争が始まって、しばらくしてから、兵隊の遊廓がここらにできたで。」
私: 「20軒か30軒くらいかい?」
老人: 「そんなに少のうない。普通の民家を借り上げて、そこにみな兵隊の遊廓にした。そうじゃの。

100軒以上はあったかの。前あった影島遊廓から奥にかけて、みな遊廓になっていったがの。」
私: 「商売する若い女の人、慰安婦とか娼妓とかいった人は、何人くらいいたかしら・」
老人: 「全部で、500人はいたかの。」
私: 「そこには、おじさんのような島の人や船員も、遊びに行けたのかしら?」
老人: 「‥‥‥‥。」

 マコリ(どぶろく)の4合ビンをアルミニウムのお碗についで飲みあったので、二本とも空(から)になる。1,000ウオン(134円ほど)紙幣をお店のおばさんに渡して、マコリを注文し、機関長老人らと、更に飲み合う。自分の血糖値が高くなることも、忘れてしまう。

私: 「その遊廓のあった場所へ、近かったら連れていってくれない?」

  機関長老人は、雇用主に賃金未払いを要求すべく待っていたので、しばらく考えていたが、「よかろう」と言ってくれたので、船長老人を置いて機関長老人が、影島遊廓跡を案内してくれた。大橋から歩いて5分くらいなところ。釜山大橋から徒歩で5分くらいのところに、二階建ての当時そのままの遊廓の建物があった。

 老人: 「少し表を建て直しているが、むかしの遊廓のままよ。ここから街の奥にむかって、大東亜戦争になって、民家を借りて、そこらじゅうが、兵隊の遊廓になったよ。」
 機関長老人は、人待ちしているので、お礼を言って別れた。 影島の遊廓跡と軍慰安所になっていた街一帯をカメラで撮っておこうと思ったが、手元にカメラを持っていなかった。来た道を引き返して、国内船の出入りする船着き旅港の売店で、インスタント・カメラを購入した。

 釜山大橋の竣工は1980年。影島大橋は、1935年竣工と橋の欄干の柱に刻まれた年号を写した。

影島の遊廓跡のすぐ裏手の道路で、老人(機関長老人でも、船長老人でもない別の人)が、古鉄をあれこれ細工していたので、もう一度、遊廓のあった場所を尋ねる。老人の年齢を問うと80歳。これは韓国では数え年なので、満年齢では78歳。とてもお元気な老人である。写真を撮る。

 私を連れて行ったところは、やはり前に機関長老人が連れて行ったところで、この老人は「ここが、むかしの遊廓だったところだ」という。数枚写真を撮る。
 私: 「戦争中、日本の兵隊がつくった遊廓は知らないか。民家を借りて、慰安所をつくったというが‥‥」。
 老人: 「それは知らない。ここ以外にあったところは、影島大橋の島寄りのところに二、三軒、おんなと寝られた宿があったが‥‥」。
 私: 「ここのおんなと、緑町遊廓のおんなと、どちらがきれいだったかしら?」
 老人: 「それは、緑町のおんなはべっぴんばかりよ。ここの遊廓のおんなは、不べっぴんよ」。
 そう言って、笑っていた。

 影島の軍慰安所のことは「知らない」と、この老人は言った。私の質問の仕方が悪かったのか、本当に知らなかった(この当時、影島に不在だったので)のか、分からなかった。本当に、なかったか私には分からない。しかし、軍慰安所で、影島第一慰安所で身を鬻(ひさ)がれていた尹頭理さんの証言は、信用できると思う。

 しかし、規模や軍慰安婦の数は、機関長老人のいう500人であったかどか、もっと確かめてみる必要はあろう。イギリスの社会学者であるドーア・R・Pが『農地改革』(岩波書店発行)でいうように、答弁者は相手を見、それに気に入るように答えを出す「やさしさ」を持っているから。聞き取りの場合、気をつけなければならない原則である。

(この第三節は終わる。=2007年9月5日に、パソコンで転記した。滝尾)