【課題資料=Ⅰ】
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(報告論文の表紙)

滝尾英二著『在朝日本人の女性たち ―「史料」からのアプローチの試み― 』1994年2月16日、人権図書館・広島青丘文庫(広島県立図書館人権問題委託相談員)

【別添史料】
史料(1)韓国・慶尚南道の遊廓・軍慰安所跡についての聞き取り―釜山および蔚山市方魚津を訪ねて;1993年12月―
史料(2)「朝鮮に於ける売春婦」<道家斉一郎著『売春婦論考』史談出版社、1928年より>

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[はじめに] 
在朝日本人の女性たち ―「史料」からのアプローチの試み―
 滝尾英二

 みだしの題目の報告資料(神戸・須磨にあった青丘文庫での研究報告当日配布、B4判百二十頁)を作成するに当たり、特に課題と思われた諸点のいくつかを報告したい。

 その一は、「歴史は足で書くものだ」と歴史家の間でいいふるされている言葉を実感したことである。釜山にある「影島(ヨイド)」(日帝時代は「絶影島」といっていた)の遊廓については、朝鮮総督府の資料等には一切出て来ない。しかし、釜山の地にいるお年寄りはよく知っており、昨年(九三年)十二月のことであるが、私は影島(ヨイド)のお年寄りの案内で、その跡を訪ねた。十二、三軒の元「遊廓」の建物がいまも、当時のまま残っていた。

 現在は、一般の住宅街となっているが、アジア・太平洋戦争末期には、その「影島(ヨイド)」遊廓を核として、軍は、周辺の民家を接収して、影島「軍慰安所」をつくった。約五百人の朝鮮人「慰安婦」がこの地に連行され、「兵士」たちによって犯されていたという。そうした事実は、日本で文献をあさっていただけでは、わからなかったと思う。歴史研究には、現地での聞き取りがなによりも必要であると思った。

 その二は、朝鮮総督府をはじめとする史料は、ある目的をもって書かれた史料であることは、しばしば事実とは異なっているという確認である。それぞれの史料は、史料批判を経なければ、史料記述をそのまま史実(二字傍点)だと、とり違えてしまう誤りをおかしてしまう。

 例えば、各年度『朝鮮総督府統計年俸』の「警察―警察上取締営業」の項に、娼妓・芸妓・酌婦の数が出てくるが、それはあくまで、朝鮮総督府警察の把握し得て、しかも、一半に公表した数に過ぎない。したがって、実態と統計の数との間には、食い違いの出るのは、当然である。つまり、朝鮮にいた娼妓等(売春婦)の数の実態数を「統計」はいっているのではない。それは、あくまで日帝の警察が「管理」し得たと思われる数字に過ぎない。日帝警察の手に及ばないところにも、それは存在(二字傍点)していたのであり、(日帝はそれを「私娼」と呼び、悪の存在(二字傍点)として宣伝した)。

 そういう意味では、日本人―朝鮮人売春婦の「二重構造支配」を余儀なくされた。朝鮮総督府の「二重構造支配」は、人口、職業、土地‥‥とあらゆる面に及んだ。日帝は、己れの支配の及ばない朝鮮人を、一方では武力で鎮圧しようとしたが、結局「支配」し得なかったまま、敗戦をむかえたと考える。

 その三は、筆者の「郷土」・「自分史」との関係を明らかにし、同時に朝鮮史を研究することは、自分にとって何なのかを問いつめることである。筆者は、日本人であるとともに、朝鮮侵略の最大拠点の一つであった「廣島」の地で生まれ、育った男(一字傍点)である。そのことを絶えず問いつづけなければ、私の朝鮮史の「歴史叙述」は成り立ち得ない。また「在朝日本人の女性たち」の究明は、日本人男性である私にとって、差別性を削り落す意味において、生涯追いつづけなければならならない課題であることも、痛感した。
                 
(1994年3月9日)

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 上記の研究報告文は、1994年3月=つまり今から13年余に書いて神戸にあった青丘文庫主催の「在日朝鮮史研究会の月例会」において滝尾が報告したももの「序文」である。そのなかでも書かれているように、みだしの題目の報告資料(神戸・須磨にあった青丘文庫での研究報告当日配布、B4判百二十頁)である。当時の私は、ワープロもパソコンも使うことができず、もっぱら鉛筆で手書きしたものをコピーして、手で綴じたものである。30部ほど製本して、例会当日配布した。

 それを東京在住だった鈴木裕子さんにお送りしたら、韓国の挺対協の尹貞玉先生や山下英愛さんのも寄贈したら、というご助言だったので、鈴木裕子さんを通してご両人にお送りしたことが基となり、滝尾がソウルに事務所がある挺対協の尹貞玉先生や挺対協たち十数人の挺対協の会員に報告するということになった。通訳は挺対協の山下英愛さんにしていただいた。日本人男性の本性丸出しの報告だったと思う。

 この度、『滝尾英二的こころ』へ、「近代天皇制、植民地支配に関する資料」を連載するにあたり、まず、この冊子から掲載を初めとうと思う。今から13年余前の1994年に書いたものであるので、書いた内容の不適切なところもあるが、私にとって思い出多いものであり、かつ、発行部数もわずかであることもあり、連載することにした。おおかたのご批判をお願いしたい。

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滝尾英二著『在朝日本人の女性たち ―「史料」からのアプローチの試み― 』1994年2月16日、 史料(1)韓国・慶尚南道の遊廓・軍慰安所跡についての聞き取り ―釜山および蔚山市方魚津を訪ねて;1993年12月―

[ 序 ] みだしの題目の報告史料(神戸・須磨にあった青丘文庫での研究報告当日配布、B4判120ページ)は、1994年2月16日に青丘文庫で、在日朝鮮史研究の月例会で研究報告をし、のち、[序文]を同年3月9日に追記して、手製の冊子として極小部数、発刊したものである。

また、< 韓国・慶尚南道の遊廓・軍慰安所跡についての聞き取り ―釜山および蔚山市方魚津を訪ねて;1993年12月― >は、1993年12月23~25日の3日間、韓国を訪問時に、釜山および蔚山市方魚津を訪ねて、慶尚南道の遊廓・軍慰安所跡についての聞き取りをして、報告文にまとめたものである。今回の【課題資料=1-02】は、「記録」として慶尚南道の遊廓・軍慰安所が、どのようにして書かれているかという文献資料を13タイトルの書名を紹介してみることにする。

 この冊子を書いた以降、おびただしい日本軍「慰安婦」問題に関しての著作が発刊されている。したがって、1994年2月の時点での滝尾のささやかな同問題研究に過ぎないことをご理解いただき、13年余の一在野の歴史研究者の当時の書作であることを、ご容赦いただけば幸いである。

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<冊子冒頭の同問題の文献資料を13タイトルの書名を紹介>

 1993年12月23~25の3日間、私は韓国の釜山および蔚山市方魚津を訪ね、日本支配下の社会でつくられた遊廓および軍慰安所の場所を訪ね、十数人の古老・関係者の聞き取りを行なった。

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従来の文字による記録からうかがいとることの出来ない事実を知ることができ、有益だった。今後とも、こうした聞き取り=フィールドを現地でしなければ、と思っている。

 はじめに、とりあえず「記録」として、慶尚南道の遊廓・軍慰安所がどのように書かれているかみていくことにしよう。
 「慶尚南道」は日本と最も近く、往来のはげしところで、釜山、馬山、蔚山、晋州など近代に入って日本人の「移住」も多く、遊廓・軍慰安所も多くつくられた。そのことは、次の資料でうかがうことが出来る。

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資料(01)釜山府編集『釜山府史原稿 6 居留地編(前、中、後期、領事館時代)、府制編、民族文化発行、1984年(景仁文化社;1989年)、27cm、p685:

資料(02)森田福太郎編『釜山要覧』釜山商業会議所、1912年(復刻版; 景仁文化社;1989年)、22.5cm、p545:

資料(03)善生永助著『調査資料;第39輯 朝鮮の聚落、前篇・中篇』朝鮮総督府、1933年、(復刻本、景仁文化社;1989年)、22.5cm、p944(前篇)、p994(中篇):

資料(04)道家斉一郎著『売春婦論考―売笑の沿革と現状』史談出版社、1928年、22.5cm、p649:

資料(05)廓清会本部『廓 清』第15巻第11号、1925年11月、(復刻本、龍渓書舎;1980年)、26cm、

資料(06)廓清会本部『廓 清』第19巻第10号、1929年10月、(復刻本、龍渓書舎;1980年)、26cm

資料(07)廓清会本部『廓 清』第21巻第10号、1931年10月、(復刻本、龍渓書舎;1980年)、26cm: 廓清会本部『廓 清』第21巻第11号、1931年11月、(同前)26cm:

 以上 資料(05)~(07)は、いずれも「数字上より観たる朝鮮風教情勢」「数字上より観たる最近風教状態」となっている。なお、資料(4)のp365~368「七、慶尚南道」と資料(5)p14「慶尚南道之部」の統計数字は同じであるが、調査項目は資料(4)の道家斉一郎著『売春婦論考―売笑の沿革と現状』が詳しい。

 資料(8) 伊藤秀吉著『紅燈下の彼女の生活』実業之日本、1938年、(復刻本、不二出版、1982年)のp172~194には、第二篇 第一章 第六節に「植民地風教状態調」で「朝鮮之部」を載せているが、これは資料(7)と同じである。

 資料(9)日本遊覧社編『全国遊廓案内』、1935年(南 博・林喜代弘編『近代庶民生活誌 第14巻 色街・遊廓Ⅱ』三一書房、1993年、p8~172)は、p163~170に、「朝鮮地方」の遊廓を載せている。  23cm、p212:

 資料(10) 尹貞玉(ユン ジョンオク)ほか著『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』のなかで山下英愛(ヤマシタ ヨンエ)著「朝鮮における公娼制度の実施 ―植民地統治下の性支配」で「釜山の日本人居留地における遊廓の形成」扱っている。17cm、p281:また

 資料(11)韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店、1993年発行のなかで、尹頭理(ユン ドウリ)が「自宅のそばの慰安所に監禁」p301~315で、「釜山影島(ヨンド)の第一慰安所」と影島(ヨンド)の雲雀町(ひばりまち)遊廓街のことを語っている。 18・5cm、p345:

 資料(12)『大阪朝日新聞 朝鮮版<西北版、南鮮板(ママ=南鮮は差別語=滝尾)>にも釜山の緑町遊廓などが記事とあいて散見する。 マイクロ・フィルム:

 資料(13) 佐藤早苗著『誰も書かなかった韓国』サンケイ新聞出版部、1974年発行は、今から20年以前の釜山の「旧・緑町町」の娼婦街の短いルポ(p92~97)を載せている。
18・5cm、p223:

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滝尾英二著『在朝日本人の女性たち ―「史料」からのアプローチの試み― 』1994年2月16日、 史料

(Ⅰ)韓国・慶尚南道の遊廓・軍慰安所跡についての聞き取り ―釜山および蔚山市方魚津を訪ねて;

1993年12月―

第三章 釜山の影島(ヨンド)遊廓跡、及び軍慰安所跡を訪ねて(p63~65)

第一節 この二、三年、「軍慰安婦・女子挺身隊」に関する本、新聞記事はかなりの数に及ぶ。私のところの人権図書館・広島青丘文庫でも、数えてみたら単行本だけでも40冊を越え、雑誌論文、新聞記事となると、莫大な数にのぼる。(註:101)=<これは、1993年12月現在の記述であることをお断りしておきたい。2007年9月2日 滝尾>。

(註:101) このことについては、① 金英達編『朝鮮人従軍慰安婦・女子挺身隊資料集』(第1部 朝鮮人従軍慰安婦・女子挺身隊文献リスト、第2部 新聞記事抄録、第3部 新聞投書抄録)神戸学生青年センター出版部刊、1992年7月発行、266p。

 ② 吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年11月発行、600p。

 ③ 挺身隊問題実務対策班編輯兼発行『日帝軍隊慰安婦実態調査 中間報告』1992年7月、211pの該当箇所を参照されたい。また、「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話(平成五年(ママ)八月四日)」に付せられた「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」1993年8月、30pは「文書件名(簿冊の表題)、時期(年月日)、発出者、宛名、記述の概要」があり、参考になる。

 私は、「慰安所」のあった場所―国及び地域、地名が書かれてある「電話での当事者たちの証言」を書いた二冊の本をみたが(註:104)、女性の出身地は朝鮮という場合が多いが、「慰安所」のあった場所は「満州」「中国」「フィリピン・マレーシア」など東南アジアに散らばり、「朝鮮」「日本」というのは、まれであった。

 (註:104)、① 従軍慰安婦110番編集委員会編『従軍慰安婦110番―電話の向こうから歴史の声が』明石書店、1992年6月発行。
 ② 1992・京都「おしえてください!『慰安婦』情報電話報告編集委員会編『[新装版]性と侵略―「軍隊慰安所」84か所 元日本兵らの証言』社会評論社、1993年8月発行。

 ところが、(註:102)の尹頭理(ユンドウリ)さんの証言には、はっきりと「釜山影島(プサンヨンド)の第一慰安所」「‥‥その一帯には雲雀町(ひばりまち)という日本人の遊廓街がありましたが、影島橋を渡り左に五百メートルほど離れた場所に位置していました。その日本人の遊廓街を過ぎ、さらに奥に入ったところに慰安所がありました」(p306)と、はっきりと、その場所を明示しており、慰安所で受けた差別と屈辱の生活を語っている。

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<尹頭理(ユンドウリ)さんの証言さんの証言>

尹頭理(ユンドウリ) 一九二八年、釜山生まれ。父親が建築業を営み家庭はゆとりのある方だった。

しかし兄は結婚後精神異常で家出し、父も亡くなって家運が傾きだして家庭がめちゃくちゃになった。

一九四二年、十五歳でゴム工場に働きに行くが、軍服工場に移った。そこの日本人の課長に下心を持たれたのでまた職場を変えることとなり、釜山鎮駅の前を通りかかった。その時派出所の前で巡査に呼び止められ、そのまま釜山影島(ヨンド)の第一慰安所に連行され、慰安婦生活をさせられるようになった。

「影島第一慰安所で」
 一九四三年九月、釜山の影島にある第一慰安所に行くことになりました。影島の第一慰安所には四十五人の慰安婦がいました。彼女たちはみな朝鮮人でした。慶尚南道出身者がもっとも多く、そのほか忠清道、全羅道、江原道などでした。たいていが農村の娘でした。
    (中略)
 第一慰安所だった建物は、昔朝鮮人が旅館をしていたのを日本人が取り上げたものでした。その一帯には雲雀町(ひばりまち)という日本人の遊廓街がありましたが、影島橋を渡り左に五百メートルほど離れた場所に位置していました。その日本人の遊廓街を過ぎ、さらに奥に入ったところに慰安所がありました。

 慰安所の経営者は日本人の高山(たかやま)という人で、慰安所の監視は軍隊がしていました。山下(やました)という日本人軍属が玄関に座っていて、軍人たちが来れば空いた部屋に入れと部屋を決めるのでした。(中略)

 建物は二階建てで、一階には部屋が十一あり二階には十二ありました。一つの部屋の広さは、二畳半ほどでした。そのうちオンドルの部屋が一つありましたが、そこは小間使いをする人の部屋で薬品も置いてありました。私の部屋は二階でした。横にもう一つ平屋の建物がありましたが、部屋数は二十ほどでした。朝鮮人が住んでいた民家で部屋が広かったので、仕切って使っていました。そのため隣の部屋の話し声はつつぬけでした。

 一日平均三十~四十人ほどの相手をしました。主に釜山から来た海軍と陸軍の軍人でした。特に船が着く日は多く、土曜日、日曜日にはさらに多くなりました。」 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク訳『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』

明石書店、1993年10月発行、p301~315.

 この『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店の本が日本で発売された半年ほど前に解放出版社編・発行の『金学順(キムハクスン)さんの証言―「従軍慰安婦問題」を問う―』1993年2月が発行された。その中で解放出版社の川瀬俊治さんは、「『従軍慰安婦問題』を問う―『資料』解説ノート―」でつぎのように書いている。

「‥‥『韓国政府文書』でも『大邱、影島等の地に、日本軍の慰安所があったと見られる』と記している。(第二部「四 配置」の項)。そして実際に慰安婦を強制された女性の証言が韓国内の新聞で報道されたことを紹介している。大邱は慶尚南道、影島は慶尚北道にある。」(p222)。と書き、さらに「‥‥『韓国政府文書』の指摘に呼応してその存在の確認を急ぐことだ。さらにいつから設立されたのか―など、論及していく課題が数多く残されており」(p222)とも書いている。

 大邱は慶尚南道ではなく慶尚北道であり、影島は慶尚北道ではなく慶尚南道で、川瀬さんは誤っているが、ともあれ「その存在の確認を急ぐことだ」という点は、その通りだと同感である。「十年来るのが遅い」と一人身となったハルモニ(おばあさん)がつぶやいた。あまりにも遅いということだろう(p283)。そうならないためにも、わたしは釜山の影島に足を運ばねばならない。

 「歴史は足で書くものだ」し、「足が精神をそこまで連れていってくれる」という。広島から釜山まで、直線距離にして、300kmに過ぎない。     
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  第一節 1993年12月25日、わたしは荷物を釜関フェリーターミナルの事務所に預け、徒歩で影島にむかう。釜山市街から影島までには、陸橋を二本架っている。東側に赤いアーチのある大橋を渡る

。「漁業期節に多数の漁業者及び商人等の入込む地域」の釜山府瀛仙町東部海岸に、日本人娼妓20人、朝鮮人娼妓20人貸座敷新抱込むとある(註104=『従軍慰安婦110番―電話の向こうから歴史の声が』、明石書店)のは、どのあたりなのだろうか。

 大橋の渡ったところで、道路掃除をしていた男性に、「このあたりに遊廓・女子挺身隊の慰安所の跡はないだろうか」ときく。日本語が通じないので、その男性は日本語の解せる近くの中老の男性を紹介。わたしが同じことをきくと、小さなお店―店内は五、六人入れば一ぱいになる居酒屋に案内してくれた。店内の小さな机の上には、マコリ(どぶろく)と、キムチを置いて、老人ふたりが一杯昼間からやっている。

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釜山=PUSANの影島あたりの地図あり(省略)。
釜山市街から影島まで架る陸橋を二本の写真2枚あり(省略)。
 (写真説明の右の写真)
右の写真は、釜山大橋。1980年1月30日に竣工したと、大橋の柱に書かれてある。
 (写真説明の左の写真)
左の写真は、影島大橋。1935年竣工とある。日帝時代につくられた。右手に見えるアーチは、釜山大橋。釜山港は写真右手、つまり東側にある。釜山フェリーターミナルはと徒歩15分。一般の旅港は徒歩5分のところにある。影島(ヨンド)は日帝時代には、絶影島と呼んで」いた。

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 わたしもマコリ(4合ビンほどのプラスチック製のビン)一本を注文し(10,000ウオン=134円ほど)払って、老人ふたりの座っている椅子に腰掛ける。日本語の話ができる老人たちである。77歳の老人は、船の機関長で、戦争中は広島県の竹原―宇品で船員の仕事をやり、「敗戦」(朝鮮人にとっては「光復」である)は、フィリピンのマニラでむかえたという。原爆投下のことも、広島の町名(紙屋町‥‥)もよく知っていた。

 もう一人の老人は68歳で、船の船長である。ふたりとも、雇主が賃金を払ってくれないので、その雇主をここで待っているのだという。わたしが名刺を渡すと、ふたりとも自分の名前と生年月日を書いてくれる。

「釜山では、緑町と瀛仙町のほかに、影島と東莱温泉に遊廓があった」ということは、前日の12月24日、釜山から蔚山へ行く途中の列車のなかで、東莱で英語の教師をやっていた老人から教えられていた。ただ、具体的な場所は、はっきりしていなかった。これは、今までの朝鮮総督府の文献、統計からは出てこない売買街=遊廓である。

 もちろん、軍慰安所のことなど、朝鮮総督府のものからは少なくとも、私のみるかぎり出てこない。現在の「韓国政府文書」でも、「大邱、影島等の地に、日本軍の慰安所があったと見られる」(5字傍点=傍点は滝尾)といった程度である。

 老人の機関長に私はきく。
私: 「このへんに、むかし遊廓はなかったかしら?」
老人: 「この道路のむかいがわのところに、十二、三軒あったよ。」
私: 「いつごろからあったかしら?」
老人: 「影島の大橋がつくられた時はあった。戦前の、そうよのぉ、60年も前かな。」
私: 「その遊廓は、釜山の緑町の遊廓のようだったかしら?」
老人: 「いいや。港の船乗り相手の安遊廓よ。金をもっとる者は、向かいの丘の緑町(みどりまち)遊廓に行ったものよ。」
私: 「おじさんも、若い時には遊廓に行っとったの?」
老人: 「この島の遊廓には、行っとった。」(と言って、向かいの「船長」老人にむかって、笑っていた。)
私: 「緑町遊廓には、行かなかったの?」
老人: 「二度ほど行った。二度とも戦後になってね。」
私: 「日本の軍隊が、この辺に軍人の慰安所=遊廓をつくったというが、本当かい?」
老人: 「大東亜戦争が始まって、しばらくしてから、兵隊の遊廓がここらにできたで。」
私: 「20軒か30軒くらいかい?」
老人: 「そんなに少のうない。普通の民家を借り上げて、そこにみな兵隊の遊廓にした。そうじゃの。

100軒以上はあったかの。前あった影島遊廓から奥にかけて、みな遊廓になっていったがの。」
私: 「商売する若い女の人、慰安婦とか娼妓とかいった人は、何人くらいいたかしら・」
老人: 「全部で、500人はいたかの。」
私: 「そこには、おじさんのような島の人や船員も、遊びに行けたのかしら?」
老人: 「‥‥‥‥。」

 マコリ(どぶろく)の4合ビンをアルミニウムのお碗についで飲みあったので、二本とも空(から)になる。1,000ウオン(134円ほど)紙幣をお店のおばさんに渡して、マコリを注文し、機関長老人らと、更に飲み合う。自分の血糖値が高くなることも、忘れてしまう。

私: 「その遊廓のあった場所へ、近かったら連れていってくれない?」

  機関長老人は、雇用主に賃金未払いを要求すべく待っていたので、しばらく考えていたが、「よかろう」と言ってくれたので、船長老人を置いて機関長老人が、影島遊廓跡を案内してくれた。大橋から歩いて5分くらいなところ。釜山大橋から徒歩で5分くらいのところに、二階建ての当時そのままの遊廓の建物があった。

 老人: 「少し表を建て直しているが、むかしの遊廓のままよ。ここから街の奥にむかって、大東亜戦争になって、民家を借りて、そこらじゅうが、兵隊の遊廓になったよ。」
 機関長老人は、人待ちしているので、お礼を言って別れた。 影島の遊廓跡と軍慰安所になっていた街一帯をカメラで撮っておこうと思ったが、手元にカメラを持っていなかった。来た道を引き返して、国内船の出入りする船着き旅港の売店で、インスタント・カメラを購入した。

 釜山大橋の竣工は1980年。影島大橋は、1935年竣工と橋の欄干の柱に刻まれた年号を写した。

影島の遊廓跡のすぐ裏手の道路で、老人(機関長老人でも、船長老人でもない別の人)が、古鉄をあれこれ細工していたので、もう一度、遊廓のあった場所を尋ねる。老人の年齢を問うと80歳。これは韓国では数え年なので、満年齢では78歳。とてもお元気な老人である。写真を撮る。

 私を連れて行ったところは、やはり前に機関長老人が連れて行ったところで、この老人は「ここが、むかしの遊廓だったところだ」という。数枚写真を撮る。
 私: 「戦争中、日本の兵隊がつくった遊廓は知らないか。民家を借りて、慰安所をつくったというが‥‥」。
 老人: 「それは知らない。ここ以外にあったところは、影島大橋の島寄りのところに二、三軒、おんなと寝られた宿があったが‥‥」。
 私: 「ここのおんなと、緑町遊廓のおんなと、どちらがきれいだったかしら?」
 老人: 「それは、緑町のおんなはべっぴんばかりよ。ここの遊廓のおんなは、不べっぴんよ」。
 そう言って、笑っていた。

 影島の軍慰安所のことは「知らない」と、この老人は言った。私の質問の仕方が悪かったのか、本当に知らなかった(この当時、影島に不在だったので)のか、分からなかった。本当に、なかったか私には分からない。しかし、軍慰安所で、影島第一慰安所で身を鬻(ひさ)がれていた尹頭理さんの証言は、信用できると思う。

 しかし、規模や軍慰安婦の数は、機関長老人のいう500人であったかどか、もっと確かめてみる必要はあろう。イギリスの社会学者であるドーア・R・Pが『農地改革』(岩波書店発行)でいうように、答弁者は相手を見、それに気に入るように答えを出す「やさしさ」を持っているから。聞き取りの場合、気をつけなければならない原則である。

(この第三節は終わる。=2007年9月5日に、パソコンで転記した。滝尾)

【課題資料=Ⅱ】 

滝尾英二著『在朝日本人の女性たち ―「史料」からのアプローチの試み― 』1994年2月16日、 < 韓国・慶尚南道の遊廓・軍慰安所跡についての聞き取り >

第Ⅱ章 第三節 蔚山市方魚津の遊廓跡を訪ねて;1993年12月 (冊子=59~62ページより)

 釜山駅を午前10時05分、中央線慶州(キョンジュ)行きのジーゼル車に乗ると、午前11時29分に蔚山(ULSAN)へ着いた。その間74・4km、運賃は2600ウオン、日本のお金になおして、350円ほどである。韓国の汽車賃はびっくりするほど安い。前日、ソウルから釜山までのセマウル特急のファーストクラスに乗ったが、3万ウオン、日本価にすると5,000円足らずだった。

 四両の客車は、全車指定席。私の隣の指定席に東萊駅から老人が座った。日本語で話しかけると、きれいな日本語で答えてくれる。戦前は日本に住んでいて、中学校は神戸第二中学校(夜間)を卒業し関西大学を中退、大阪―神戸―姫路と日本通運につとめ、終戦(1945年8月)は、姫路郊外で国鉄姫路駅から四つ目の駅、「播磨新宮駅」の日通支店につとめていたという。
  
 1945年に帰国。検定を受けて東萊女子高等学校の英語の教官をしていた。定年で退職。この列車で慶州まで行き、ホテルのマイクロ・バスに乗りかえて、慶州の北にある白岩温泉で二泊三日、のんびりとお湯につかって来ようと思っている。カソリックの信者で、住んでいるアパート団地内の老人会会長の仕事をしている。年齢(とし)は80である。

 「あなたは、昔の遊廓の資料蒐集のため、或る目標に向って突進している。あなたの意欲に対して、尊敬して居ます。私はあなたのなさる事がなんであれ、計画通り進行し、良い成果を得る事を念願しています」(翌年の1991年1月2日のその方からの手紙)ということだった。一時間ばかりのその老人との会話だったが、とても楽しい時を過ごすことができた。

 蔚山駅に下車。駅前に一台タクシーが客待ちしていた。若い運転手である。
「方魚津まで行きたいのだが、料金はいくらか」と問うと、運転手は1万5千ウオンだという。蔚山駅から方魚津までは「6里」、まあ20km前後だから、韓国のタクシー料金は、一区間900ウオンであることからして、高目に言うているなな、と思ったが、韓国にもイエロータクシーは、普通タクシーの二倍から三倍だし、日本でのタクシーの20km―2,000円より割安だし、見知らぬ土地で、しかもタクシーは一台しかいなかったので、方魚津(方魚里)まで、そのタクシーに乗ることにした。

 若い運転手は、私に乗客席でなく運転手の横の座席にすわれといい、メーターを倒さず車は走り出した。「闇で走るのだな」と思ったが、運転手の言いなりにしておいた。

 若い運転手は、悪いと思ってか、さかんに「現代」自動車工場、石油コンビナート、「現代」造船所ダック‥‥と車窓から見える工場群を説明する。2ヶ月半前、やはり慶尚南道の馬山(マサン)を訪ねて、韓国経済・産業をリードする工場群を眺めたときの感じ、煙の都・蔚山も「公害」対策のおくれのようなものを感じた。

 運転手は私にタバコをすすめ、「ノースモーキング サンキュウ! ヨァ プリーズ」というと、タバコをおいしそうに吸いながら運転していた。25分ほどタクシーは走って、街並みを見た。「昼食を食べに食堂に入るか?」と問う。私が断ると、車は少し走って停車。「ここが方魚津だ」と運転手は言う。大きな湾を図示した看板があって、そこで私は車を降りた。

 たしかに方魚津には違いないが、ここは、漁業特有の雑踏・騒音もなければ、人びとの活気もない。

静かな湾に波が押し寄せ、引いてゆく。どうも私が目指す港わきの元遊廓の跡などありようがない。方魚津中心街から離れた日山里(イルサンリ)の湾内にいるらしい。何人かの人に「ここは方魚津か」と問うてみたが、「そうだ。ここは方魚津だ」という。

 昼食をとりに、湾近くの食堂に入る。ニラの入ったピンデクトと韓式おでんを頼む。食堂のおばさん(アジュマ)に「方魚津の街はどこか?」と問うと、「あそこの席の三人組のアボジにきけ」という。三人組の男たちは「現代」社のネームの付いたジャンパーを着て、韓式おでんを肴にビール(OBビール)を飲んでいる。私も店のおばさんにビールを一本注文し、三人組の男たちの座席に座り直す。

 一番年かさの男は、片言の日本語ができる。なんでも「終戦」のときは国民学校(小学校)2年生のこと。私にさかんにビールをすすめる。「むかしのユーカクの跡なら、方魚津洞事務所(トムサムソー)できけ」と言う。「車で行けば5分ともかからない。何なら、わたしが車でつれていってあげよう」ということになり、ビールを飲んでいない一番若い男が自分の車で、洞事務所(トムサムソー)まで連れて行ってくれた。

 そこは、方魚バスターミナルの近くの木造二階建てのオフイスで、受付に私の名刺を出すと、洞事務所の所長室へ案内された。  

 洞事務所の所長に来意をいうと、「そのことなら方魚津国民学校の校長にきけ」という、「国民学校までは、若い男に案内させるから」という。しばらくあしたら、このオフィスの二階が警察かなにかになっていて、カーキー色の制服に、黒い網靴をはいた一見警察官らしき男が、私を方魚津国民学校まで連れて行ってくれた。その間、徒歩5分。

 国民学校―日本では小学校だが、校庭は広く鉄筋コンクリート三階建で、校舎正面には、朝鮮王朝第四代の王である世宗(朝鮮独特の表音文字であるハングルを創制)の銅像と、壬辰倭(イムジンウェ)乱、丁酉(チョン)の再乱のとき水軍を指揮して活躍した李舜臣(イスンシン)の銅像が建っていた。

教務室に入る。

 その日は、12月24日のクリスマス・イブの日で、教職員は男女3人いるだけだった。校長も不在。もちろん児童のすがたはなかった。教員が電話で学校長に連絡してくれ、15分ほど待って、学校長が来られた。50歳なかばであろうか。日本語は、堪能であった。

 まず、この学校の児童数と教職員数を示そう。
一学年は、6学級で、 男子124名、女子114名で、計238名。
二学年は、5学級で、 男子107名、女子122名で、計229名。
三学年は、6学級で、 男子151名、女子114名で、計238名。
四学年は、7学級で、 男子155名、女子141名で、計296名。
五学年は、8学級で、 男子176名、女子173名で、計349名。
六学年は、8学級で、 男子179名、女子164名で、計343名。
全学年は、40学級で、 男子892名、女子828名で、計1720名。

 教職員数は、学校長ほか、男性17名、女性37名 で計57名である。女性の教職員が多いのは、日本と同様である。

 方魚津国民学校・朴武翼学校長(電話番号は、教務室=0522-51-2052、校長室=0522-51-2852)は、方魚津の歴史について、つぎのように語ってくれた。

「日本人がここへ来るまでは、一寒村で火ともいないところだった。一番先に来た日本人は、岡山県和気郡日生村(ひなせむら)の漁師たちだった。だから、ここは和気郡日生村―今の日生町出身の人が多かった。この夏も、日生町の中学校生徒の団体や町会議員、役場職員が、この町を訪れ、方魚津国民学校も訪問する。(日生町の中学生の記念写真、当時の方魚津のそのことを報じた地元新聞を示してもらった。)

長いこと、この方魚津にいて、またここで生まれ、方魚津の小学校に学び、働き・生活をしていた日本人は、1945年を境にみな日本に引き揚げた。そして、ここ方魚津は第二の故郷(ふるさと)だといい、その人たちは今でもそう言う。でも、日本人にとって故郷(ふるさと)とは何でしょう。

日本の漁民たちは、朝鮮人より大きい漁船、発動機付きで、大きな網で漁をした。そのため地元朝鮮人の漁民は、日本人の漁場を奪われ、生活が苦しくなっていった‥‥」と朴武翼学校長はおっしゃった。私は、日本人としての「罪」を感じ、かつて被差別部落の年寄りから投げつけられたときと同じの思いがした。「部落差別の現実」を語り、地域進出(4字は傍点あり)の時に受けた身のちぢむ「きつさ」を思い出した。そして、韓国訪問の前に読んだつぎの1927年2月27日の『朝鮮日報社説』の記事が、頭をよぎった。

「水産進入軍(朝鮮日報社説)」という見出しで書かれた記事で、私は1927年2月27日の『朝鮮思想通信』(昭和二年二月二十七日・第二六六号)に掲載された新聞社説である。

「朝鮮水産界に日本人進出の非常なる事は一般朝鮮人の知り且目睹しつつあることである。就中発動機船に爆発物を使用して所謂海賊的行動を取る者等のことは此方面に於ける問題の焦点となってをる。しかしかかるものの外にも彼等の発動機船並に新式の手操網を使用して頗る微弱なる朝鮮人の漁業を圧倒し、海中の利益を心のままに攫取しつつある事は重大なる問題である。
      ×
 威鏡道の代表的大産物たる明太漁業に関し朝鮮人は従来帆船に刺網漁業を行くひ、漁獲高六百万円に達してをつたのであるが、近時一時間七海里乃至八海里の速力を有する発動機船と、水深一千尋以上に亘る鉄線に新式の漁網を使用する日本漁業者が到る処に跋扈し、一昼夜に七八百円乃至一千円以上の漁獲を為しつつあるが故に、時代に遅れたる朝鮮人漁民等は唯青くなつて傍観してをるのみである。

 而して地方行政の当局は常に口実の制限区域を盾としてをるが、彼等の跋扈の状態は少しも減ることなく一個月間一隻平均の漁獲高が三四千円以上に達するさうである。朝鮮漁業民の困難なる状態と他方経済破綻に陥る一部の経路を成するのである。
         ×
 これに対し法規の力を以て彼等の跋扈を防いでくれることを望んでをるのは可笑しいことである。しからば今後は朝鮮人漁業者等が其の僅少の資本を聨合して発動機船や新式漁具等其の漁獲手段を変へなければならぬか? 或は農業小作人等の如く進入しつつある統治群に資源を綺麗に明け渡して遂ひ出されて行かねばならないか? 二つの内の一つは是非擇ばねばならぬ。 

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 帰り際、朴校長は一冊のパンフを見せてくれた。『方魚津会名簿(平成五年三月二〇日作成)である。わずかB6判で22ページの冊子である。「恩師氏名、旧姓、住所、電話番号」恩師氏名が計13人。そのなかに広島市佐伯区=女性、広島県芦品郡=女性、広島市安佐北区=女性と、3名の広島県人の名前があがっている。

 そのあとに、あいうえお順に上記の要領で名前などの記載がつづく。計271人。別に韓国人名簿6人 合計290人。「岡山県和気郡日生(ひなせ)町」を住所としている人が51人で最も多かった。広島県では、沼隈郡内海町、広島市安佐南区、庄原市、福山市、同市鞆町、芦品郡新市町と計13人。「恩師」と併せて広島県人が16人。沼隈郡内海町と福山市の人が多い。この名簿は、複写していただいて帰った。

 方魚津国民学校を去るとき、見送っていただいた朴校長に私が、「あの銅像は、世宗と李舜臣(イスンシン)の銅像ですね」というと、朴校長はうなずき、にこやかに「そうです」と答えてもらった。

方魚津の港は、人びとが生き生きと活動していた。
 1993年10月7日の日の入りの鎮海湾漁港の静けさ、美しさはなかった。私は今までみた最も美しい夕暮れを慶尚南道の鎮海湾で見た。老人が漕ぐ伝馬舟、島々から帰り着く連絡船‥‥するめを肴にひとり港の石垣に座ってマコリ(にごり酒)を飲む幸せ。そして孤独‥‥。そのようなものは、方魚津の港にはなかった。木浦(モッポ)の港に方魚津の港はよく似ていると思った。

 生魚を扱う魚市場に行き、年取ったおばさんに「むかしの遊廓の跡は、どこにあるかしら。港の裏手にあるはずだけど‥‥」と問うと、生魚を売っている60歳代半ばのおばさんは、「い××え(伏字にした=滝尾)」という元方魚津で遊廓の娼婦をやっていた人がいる。もう80歳くらいの日本人だが、日本にも帰らず、一人息子とも死に別れて、今はひとりで福祉の金で生活している。頭がおかしくなって‥‥。いつもいる所を知っているから、私についてきなさい」と言い、着物を少し直して、仕事を隣店の人に頼んで、魚市場から私を連れて、外に出た。

 その前々日の夜、釜山の書店・光復文庫でいろいろと本を買おうと思ったとき、店の本をあれこれ紹介してくれた「東亜大学」とかの若い教員が、「この釜山にも年老いた元・日本人娼婦が、日本にも帰らず、何人もフラフラ街で生活している」と言っていた。その時は「戦後50年も経ったのに、『経済大国・日本』の元娼婦が、この釜山になんにんもいるなんて、なにかの間違いではないか」というくらいにしか思っていなかった。

 その日本人の元娼婦が(方魚津の男と所帯をもって、韓国籍をとって)、いまそこにいる。方魚津の漁業のことや当時の遊廓の話もきけるかも知れない。

 魚市場のアズマ(おばさん)が連れて行ってくれたのは、方魚津の農業・漁業共同組合の金融機関・銀行だった。そこにお金を受け取りに「い××え」さんという老婆は、国から福祉のお金が出ているらしく、よくここへ来るし、今日も昼過ぎまでここにいた、ということだった。名前は、登録票を見せてもらったが「い××え」とだけ書かれていて、フルネームはない。ハングルで書かれていたのかも知れない。姓名だというのなら、姓だけあって名はないということになる。年齢は80歳だった。

 その「銀行」で、「い××え」お婆さんのことを聞き出そうとし、職員の方も私の周囲に集まって話そうとするのだが、私は韓国語が会話できないし、若いそこの職員も日本語が分からない。

 しばらくすると、77歳になる小柄でやせた老人・ハラボジがやって来た。少しぎこちないが、日本語が出来る。そしてさかんに私に「“い××え”に会ってどうするのか」ということを繰り返しきく。私は、その老人に「すぐなにが出来るかと問われても、なにも出来ないと答えるしか私には出来ない。しかし、日本の細川首相が慶州(キョンジュ)で金泳三(キムヨンサン)大統領に会って、日本の植民地支配をお詫びしたけれど、もっと具体的に日本は韓国・朝鮮でなにをしたか明らかにしなければならない。

 この方魚津でも、日本人がなにをしたかを調べ、どのくらい力になるか分からないけれど、その内容の報告をしたいと思う。韓国への償いも、そのことをしっかりふまえて行なわれるべきだと思い、日本人移住者の多かった方魚津を訪れたのです」と答えた。

 するとハラボジは言う。
「わしらは、日本人を腹の底から信用していない。この方魚津の街中にも小学校はあった。けれども、それは日本人の子どもしか行けなかった。わしら朝鮮の子は、しかたなくここから二里も離れた学校―朝鮮人が行ける学校に行かなければならんかった。ちぃさい子どもが二里の道を往き帰りできっこない。だから、わしもそうだが、その頃、小学校(普通学校)へ行った仲間は、わずか二・三人だった。

なぜ、すぐ近くの街の小学校へ朝鮮人だったら行けないのか。なぜ、日本人だけ学校へ行けるのか。

 “い××え”は、韓国の籍に入って、福祉の金も出て生活している。わしらが守っている。その“い××え”のおばあさんに会って、あんたは何をしようとするのか。何が出来るというのか」。

 この老人の私につきつけた問いに、私は答えなければならない。今すぐには答えられないにしても、これからずっと考えつづけて、その答えを出さねばならない。方魚津を訪ねて、背負った重たい荷であるが、その荷を負いつづけねばならない。

 私は、“い××え”のおばあさんに会うのをやめにした。私の詰問した老人とも、最後に別れるときは。肩をたたき合い、手を握り合った。温かい手だった。

 もう一度、方魚津の漁港に出た。
 男たちが数人、「石すごろく」のあそびに興じていた。女たちは、大きな手押し車に荷物を積んで、気ぜわしそうに岸壁の上を動かしていた。この漁港裏手一帯に方魚津遊廓があったはずだが、今回は調べないことにした。

 午後3時30分、方魚津バス・ターミナルから、釜山行きの乗合バスに乗った。料金は2,550ウオン、日本価に直せば350円。バスは満員だった。

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 【付記①=2007年8月22日】 蔚山市方魚津を訪問した1993年12月の3ヶ月後の翌94年3月に、私は全羅南道の南端の島・小鹿島を訪れた。日本政府が朝鮮のハンセン病患者を隔離収容した島である。私にとって、小鹿島を訪れたのはその時が始めての体験だった。その後、何度この小鹿島を訪れ

ただろうか。それは、方魚津を訪問したとき学んだことと、そのとき背負った重たい荷と同質のものであり、1993年12月24日に私が、背負った日本人としての重たい、重たい贖罪の荷であった。

 それから10年後の2004年8月に、小鹿島更生園の日帝による被害者たちは、東京地裁に訴訟を起こした。その間、ながい歳月を経過した。2005年2月3日、衆参両議会は、全員一致で、「改正ハンセン病問題に関する補償法」を成立させ、日本の慰謝=謝罪に基づく補償金が、植民地のハンセン病収容所に支給されることになった。私が、方魚津を訪問して日帝の被害事実を学ばなかったら、小鹿島の訪問もしなかったかも知れない。

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いま、この報告文を書くにあたって、もう三十年近く前に学生社から1965年発行された太田秀通著『史学概論』を読んだ、いな学んだこの本を思い、この本から学び・教訓とした内容をどのように自分として、具現化するかについて考えながらこの研究の作業をしている。この太田秀通著『史学概論』の記述のなかから、四箇所をつぎに引用しておきたいと思う。

<史学概論=引用 その1>
 歴史家の間にいいふるされた言葉に「歴史は足で書くものだ」というのがある。これは、頭で考えてばかりしていては、よい歴史は書けない、実地の踏査と実物の目撃によって、はじめてよい歴史が書けるのだ、という意味である。しかしこれは、歴史学を精神的生産と規定することと矛盾しているわけではない。足が精神をそこに連れていってくれるだけである。(p65)

<史学概論=引用 その2>
 「すべての歴史は現在の歴史である」トクローチェの有名な言葉であるが、この言葉の科学的意味は、歴史認識および客観的表現である歴史叙述は、この認識と叙述を生みだしたその時代の人々にとっての歴史である、ということでなければならない。(p27)

<史学概論=引用 その3>
 ではなぜそれらの材料(2字傍点)は研究(2字傍点)材料たりうるのであろうか。研究材料は人間の存在によって生ずる一切の痕跡(2字傍点)であり、歴史的現実の一部をなし、人間の観念形態の一部をなしていたところのものが、物理的な姿で残った一切のものである。人骨の破片から美術品や手紙や哲学的労作や社会的遺制に至るまで、人間それ自身および人間の物理的精神的活動の一切の痕跡が研究材料となる。

 それは歴史的となった人間の現実のいろいろな断片であり部分である。それらの痕跡は、決して歴史的現実の全貌ではなく ―全貌が残ることは不可能である― きわめて制限されたその残留物あるいは遺物である。しかしそれでもなお、それは過去の現実(2字傍点)の部分であり破片である。このことが、これらの痕跡が研究材料となりうる根拠である。すなわち人間の、および人間による一切の遺物であることが研究材料の第一の性質(5字傍点)であり、この性質から、それは研究のための、歴史認識のための、歴史像構成のたまの客観的手段となる資格をもつものである。(p70)

<史学概論=引用 その4>
 通常、歴史研究の材料は史料とよばれ、史料は遺物(2字傍点)と伝承(2字傍点)または沈黙史料(4字傍点)と発言史料(4字傍点)とに分けられる。そしてさらに直接の観察と思い出とがつけ加えられることがある。しかし直接の観察と思い出は、文字に表現されるや発言史料となり、研究者自身の

観察と思い出は研究者の心証を構成する主体的条件の一つとなる。(p73)

 次章=第Ⅲ章は釜山市影島(ヨンド)の遊廓と「日本軍慰安所跡」について、93年12月25日に見てきたこと、それについて考えたこと、読んだことについて、叙述したいと思っている。

註(100) 朝鮮思想通信社編・発行『朝鮮思想通信』1929年2月27日の記事は、復刻本、景仁文化社発行の第5巻、ソウル;1989年12月発行のp187によった。

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 【後記=2007年8月25日(滝尾)】
「直接の観察と思い出は、文字に表現されるや発言史料となり、研究者自身の観察と思い出は研究者の心証を構成する主体的条件の一つとなる」と太田秀通著『史学概論』学生社の73ページには書かれている。

 これまで私が書いた「発言史料」の一部は、『滝尾英二的こころ』のトップページに「滝尾英二 書庫」として収録されている。また、『滝尾英二的こころPart2』には、「著作紹介」として紹介されている。しかし、両者のホームページに収録・紹介されているものは、「発言史料」のごく一部に過ぎない。広島県教育行政機関に在職していた頃のものは、その殆んどが、無記名である。そうした史料を私自身の観察と思い出などを含めて、ひろく「発言史料」としておくことは、人権・平和などの視点から考えて必要だと思う。

 実は、滝尾のホームページである『滝尾英二的こころ』を作成していただいているスタッフの方が、このホームページの作成を私に提案なさったとき、つぎのようにおっしゃった。

「滝尾さんでなければ、書き遺せないものが、たくさんあるのよ。滝尾さんは、生きて、生きてそれをホームページのかたちでのこしましょうよ。たとえそれが現在に、政治的・社会的に影響が少なくても、100年後の人たちが残されたこの記録をみて、ひとりだってよい。<20世紀の後半から、21世紀の初頭まで、こういう生き方・運動をした人たちがいたのだ>と読んで、100年後の人権・平和の運動に寄与できるホームページにしましょうね」と、このようにおっしゃっていた。

 だから、2005年1月24~25日の厳寒下の第二衆議院議員会館前の午前9時から深夜にわたる翌午前10時までの25時間の座り込みにしても、座り込む滝尾の健康を配慮されて、深夜の座り込みには、こころからの「賛成」ではなかったと思う。

 おそらく『滝尾英二的こころPart2』を作成していただいているスタッフも、『滝尾英二的こころ』の方と同じ考えで、毎日の掲示板に私が投稿している原稿の整理・作成をしていただいていることであろう。

 
 福留範昭先生をはじめとする「韓国に関する報道記事」など、私のところまで届けていただいていることも「歴史と現代」を認識する上でかがすことのできない存在になっている。福山の畏友である割石忠典さんや、つぶて書房編集部の秋山 史さんのお力ぞいも、大きな私の励みになっている。そうした

方がたのご支援・ご協力をえながら、持病持ちのわたしではあるが、頭脳機能と、パソコンのキーが打てるまでは、このふたつのホームページの投稿原稿を書きつづけていきたいと思う。よろしくお願いいたします。

      2007年8月25日  松江にて

人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

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