【課題資料=Ⅱ】
滝尾英二著『在朝日本人の女性たち ―「史料」からのアプローチの試み― 』1994年2月16日、 < 韓国・慶尚南道の遊廓・軍慰安所跡についての聞き取り >
第Ⅱ章 第三節 蔚山市方魚津の遊廓跡を訪ねて;1993年12月 (冊子=59~62ページより)
釜山駅を午前10時05分、中央線慶州(キョンジュ)行きのジーゼル車に乗ると、午前11時29分に蔚山(ULSAN)へ着いた。その間74・4km、運賃は2600ウオン、日本のお金になおして、350円ほどである。韓国の汽車賃はびっくりするほど安い。前日、ソウルから釜山までのセマウル特急のファーストクラスに乗ったが、3万ウオン、日本価にすると5,000円足らずだった。
四両の客車は、全車指定席。私の隣の指定席に東萊駅から老人が座った。日本語で話しかけると、きれいな日本語で答えてくれる。戦前は日本に住んでいて、中学校は神戸第二中学校(夜間)を卒業し関西大学を中退、大阪―神戸―姫路と日本通運につとめ、終戦(1945年8月)は、姫路郊外で国鉄姫路駅から四つ目の駅、「播磨新宮駅」の日通支店につとめていたという。
1945年に帰国。検定を受けて東萊女子高等学校の英語の教官をしていた。定年で退職。この列車で慶州まで行き、ホテルのマイクロ・バスに乗りかえて、慶州の北にある白岩温泉で二泊三日、のんびりとお湯につかって来ようと思っている。カソリックの信者で、住んでいるアパート団地内の老人会会長の仕事をしている。年齢(とし)は80である。
「あなたは、昔の遊廓の資料蒐集のため、或る目標に向って突進している。あなたの意欲に対して、尊敬して居ます。私はあなたのなさる事がなんであれ、計画通り進行し、良い成果を得る事を念願しています」(翌年の1991年1月2日のその方からの手紙)ということだった。一時間ばかりのその老人との会話だったが、とても楽しい時を過ごすことができた。
蔚山駅に下車。駅前に一台タクシーが客待ちしていた。若い運転手である。
「方魚津まで行きたいのだが、料金はいくらか」と問うと、運転手は1万5千ウオンだという。蔚山駅から方魚津までは「6里」、まあ20km前後だから、韓国のタクシー料金は、一区間900ウオンであることからして、高目に言うているなな、と思ったが、韓国にもイエロータクシーは、普通タクシーの二倍から三倍だし、日本でのタクシーの20km―2,000円より割安だし、見知らぬ土地で、しかもタクシーは一台しかいなかったので、方魚津(方魚里)まで、そのタクシーに乗ることにした。
若い運転手は、私に乗客席でなく運転手の横の座席にすわれといい、メーターを倒さず車は走り出した。「闇で走るのだな」と思ったが、運転手の言いなりにしておいた。
若い運転手は、悪いと思ってか、さかんに「現代」自動車工場、石油コンビナート、「現代」造船所ダック‥‥と車窓から見える工場群を説明する。2ヶ月半前、やはり慶尚南道の馬山(マサン)を訪ねて、韓国経済・産業をリードする工場群を眺めたときの感じ、煙の都・蔚山も「公害」対策のおくれのようなものを感じた。
運転手は私にタバコをすすめ、「ノースモーキング サンキュウ! ヨァ プリーズ」というと、タバコをおいしそうに吸いながら運転していた。25分ほどタクシーは走って、街並みを見た。「昼食を食べに食堂に入るか?」と問う。私が断ると、車は少し走って停車。「ここが方魚津だ」と運転手は言う。大きな湾を図示した看板があって、そこで私は車を降りた。
たしかに方魚津には違いないが、ここは、漁業特有の雑踏・騒音もなければ、人びとの活気もない。
静かな湾に波が押し寄せ、引いてゆく。どうも私が目指す港わきの元遊廓の跡などありようがない。方魚津中心街から離れた日山里(イルサンリ)の湾内にいるらしい。何人かの人に「ここは方魚津か」と問うてみたが、「そうだ。ここは方魚津だ」という。
昼食をとりに、湾近くの食堂に入る。ニラの入ったピンデクトと韓式おでんを頼む。食堂のおばさん(アジュマ)に「方魚津の街はどこか?」と問うと、「あそこの席の三人組のアボジにきけ」という。三人組の男たちは「現代」社のネームの付いたジャンパーを着て、韓式おでんを肴にビール(OBビール)を飲んでいる。私も店のおばさんにビールを一本注文し、三人組の男たちの座席に座り直す。
一番年かさの男は、片言の日本語ができる。なんでも「終戦」のときは国民学校(小学校)2年生のこと。私にさかんにビールをすすめる。「むかしのユーカクの跡なら、方魚津洞事務所(トムサムソー)できけ」と言う。「車で行けば5分ともかからない。何なら、わたしが車でつれていってあげよう」ということになり、ビールを飲んでいない一番若い男が自分の車で、洞事務所(トムサムソー)まで連れて行ってくれた。
そこは、方魚バスターミナルの近くの木造二階建てのオフイスで、受付に私の名刺を出すと、洞事務所の所長室へ案内された。
洞事務所の所長に来意をいうと、「そのことなら方魚津国民学校の校長にきけ」という、「国民学校までは、若い男に案内させるから」という。しばらくあしたら、このオフィスの二階が警察かなにかになっていて、カーキー色の制服に、黒い網靴をはいた一見警察官らしき男が、私を方魚津国民学校まで連れて行ってくれた。その間、徒歩5分。
国民学校―日本では小学校だが、校庭は広く鉄筋コンクリート三階建で、校舎正面には、朝鮮王朝第四代の王である世宗(朝鮮独特の表音文字であるハングルを創制)の銅像と、壬辰倭(イムジンウェ)乱、丁酉(チョン)の再乱のとき水軍を指揮して活躍した李舜臣(イスンシン)の銅像が建っていた。
教務室に入る。
その日は、12月24日のクリスマス・イブの日で、教職員は男女3人いるだけだった。校長も不在。もちろん児童のすがたはなかった。教員が電話で学校長に連絡してくれ、15分ほど待って、学校長が来られた。50歳なかばであろうか。日本語は、堪能であった。
まず、この学校の児童数と教職員数を示そう。
一学年は、6学級で、 男子124名、女子114名で、計238名。
二学年は、5学級で、 男子107名、女子122名で、計229名。
三学年は、6学級で、 男子151名、女子114名で、計238名。
四学年は、7学級で、 男子155名、女子141名で、計296名。
五学年は、8学級で、 男子176名、女子173名で、計349名。
六学年は、8学級で、 男子179名、女子164名で、計343名。
全学年は、40学級で、 男子892名、女子828名で、計1720名。
教職員数は、学校長ほか、男性17名、女性37名 で計57名である。女性の教職員が多いのは、日本と同様である。
方魚津国民学校・朴武翼学校長(電話番号は、教務室=0522-51-2052、校長室=0522-51-2852)は、方魚津の歴史について、つぎのように語ってくれた。
「日本人がここへ来るまでは、一寒村で火ともいないところだった。一番先に来た日本人は、岡山県和気郡日生村(ひなせむら)の漁師たちだった。だから、ここは和気郡日生村―今の日生町出身の人が多かった。この夏も、日生町の中学校生徒の団体や町会議員、役場職員が、この町を訪れ、方魚津国民学校も訪問する。(日生町の中学生の記念写真、当時の方魚津のそのことを報じた地元新聞を示してもらった。)
長いこと、この方魚津にいて、またここで生まれ、方魚津の小学校に学び、働き・生活をしていた日本人は、1945年を境にみな日本に引き揚げた。そして、ここ方魚津は第二の故郷(ふるさと)だといい、その人たちは今でもそう言う。でも、日本人にとって故郷(ふるさと)とは何でしょう。
日本の漁民たちは、朝鮮人より大きい漁船、発動機付きで、大きな網で漁をした。そのため地元朝鮮人の漁民は、日本人の漁場を奪われ、生活が苦しくなっていった‥‥」と朴武翼学校長はおっしゃった。私は、日本人としての「罪」を感じ、かつて被差別部落の年寄りから投げつけられたときと同じの思いがした。「部落差別の現実」を語り、地域進出(4字は傍点あり)の時に受けた身のちぢむ「きつさ」を思い出した。そして、韓国訪問の前に読んだつぎの1927年2月27日の『朝鮮日報社説』の記事が、頭をよぎった。
「水産進入軍(朝鮮日報社説)」という見出しで書かれた記事で、私は1927年2月27日の『朝鮮思想通信』(昭和二年二月二十七日・第二六六号)に掲載された新聞社説である。
「朝鮮水産界に日本人進出の非常なる事は一般朝鮮人の知り且目睹しつつあることである。就中発動機船に爆発物を使用して所謂海賊的行動を取る者等のことは此方面に於ける問題の焦点となってをる。しかしかかるものの外にも彼等の発動機船並に新式の手操網を使用して頗る微弱なる朝鮮人の漁業を圧倒し、海中の利益を心のままに攫取しつつある事は重大なる問題である。
×
威鏡道の代表的大産物たる明太漁業に関し朝鮮人は従来帆船に刺網漁業を行くひ、漁獲高六百万円に達してをつたのであるが、近時一時間七海里乃至八海里の速力を有する発動機船と、水深一千尋以上に亘る鉄線に新式の漁網を使用する日本漁業者が到る処に跋扈し、一昼夜に七八百円乃至一千円以上の漁獲を為しつつあるが故に、時代に遅れたる朝鮮人漁民等は唯青くなつて傍観してをるのみである。
而して地方行政の当局は常に口実の制限区域を盾としてをるが、彼等の跋扈の状態は少しも減ることなく一個月間一隻平均の漁獲高が三四千円以上に達するさうである。朝鮮漁業民の困難なる状態と他方経済破綻に陥る一部の経路を成するのである。
×
これに対し法規の力を以て彼等の跋扈を防いでくれることを望んでをるのは可笑しいことである。しからば今後は朝鮮人漁業者等が其の僅少の資本を聨合して発動機船や新式漁具等其の漁獲手段を変へなければならぬか? 或は農業小作人等の如く進入しつつある統治群に資源を綺麗に明け渡して遂ひ出されて行かねばならないか? 二つの内の一つは是非擇ばねばならぬ。
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帰り際、朴校長は一冊のパンフを見せてくれた。『方魚津会名簿(平成五年三月二〇日作成)である。わずかB6判で22ページの冊子である。「恩師氏名、旧姓、住所、電話番号」恩師氏名が計13人。そのなかに広島市佐伯区=女性、広島県芦品郡=女性、広島市安佐北区=女性と、3名の広島県人の名前があがっている。
そのあとに、あいうえお順に上記の要領で名前などの記載がつづく。計271人。別に韓国人名簿6人 合計290人。「岡山県和気郡日生(ひなせ)町」を住所としている人が51人で最も多かった。広島県では、沼隈郡内海町、広島市安佐南区、庄原市、福山市、同市鞆町、芦品郡新市町と計13人。「恩師」と併せて広島県人が16人。沼隈郡内海町と福山市の人が多い。この名簿は、複写していただいて帰った。
方魚津国民学校を去るとき、見送っていただいた朴校長に私が、「あの銅像は、世宗と李舜臣(イスンシン)の銅像ですね」というと、朴校長はうなずき、にこやかに「そうです」と答えてもらった。
方魚津の港は、人びとが生き生きと活動していた。
1993年10月7日の日の入りの鎮海湾漁港の静けさ、美しさはなかった。私は今までみた最も美しい夕暮れを慶尚南道の鎮海湾で見た。老人が漕ぐ伝馬舟、島々から帰り着く連絡船‥‥するめを肴にひとり港の石垣に座ってマコリ(にごり酒)を飲む幸せ。そして孤独‥‥。そのようなものは、方魚津の港にはなかった。木浦(モッポ)の港に方魚津の港はよく似ていると思った。
生魚を扱う魚市場に行き、年取ったおばさんに「むかしの遊廓の跡は、どこにあるかしら。港の裏手にあるはずだけど‥‥」と問うと、生魚を売っている60歳代半ばのおばさんは、「い××え(伏字にした=滝尾)」という元方魚津で遊廓の娼婦をやっていた人がいる。もう80歳くらいの日本人だが、日本にも帰らず、一人息子とも死に別れて、今はひとりで福祉の金で生活している。頭がおかしくなって‥‥。いつもいる所を知っているから、私についてきなさい」と言い、着物を少し直して、仕事を隣店の人に頼んで、魚市場から私を連れて、外に出た。
その前々日の夜、釜山の書店・光復文庫でいろいろと本を買おうと思ったとき、店の本をあれこれ紹介してくれた「東亜大学」とかの若い教員が、「この釜山にも年老いた元・日本人娼婦が、日本にも帰らず、何人もフラフラ街で生活している」と言っていた。その時は「戦後50年も経ったのに、『経済大国・日本』の元娼婦が、この釜山になんにんもいるなんて、なにかの間違いではないか」というくらいにしか思っていなかった。
その日本人の元娼婦が(方魚津の男と所帯をもって、韓国籍をとって)、いまそこにいる。方魚津の漁業のことや当時の遊廓の話もきけるかも知れない。
魚市場のアズマ(おばさん)が連れて行ってくれたのは、方魚津の農業・漁業共同組合の金融機関・銀行だった。そこにお金を受け取りに「い××え」さんという老婆は、国から福祉のお金が出ているらしく、よくここへ来るし、今日も昼過ぎまでここにいた、ということだった。名前は、登録票を見せてもらったが「い××え」とだけ書かれていて、フルネームはない。ハングルで書かれていたのかも知れない。姓名だというのなら、姓だけあって名はないということになる。年齢は80歳だった。
その「銀行」で、「い××え」お婆さんのことを聞き出そうとし、職員の方も私の周囲に集まって話そうとするのだが、私は韓国語が会話できないし、若いそこの職員も日本語が分からない。
しばらくすると、77歳になる小柄でやせた老人・ハラボジがやって来た。少しぎこちないが、日本語が出来る。そしてさかんに私に「“い××え”に会ってどうするのか」ということを繰り返しきく。私は、その老人に「すぐなにが出来るかと問われても、なにも出来ないと答えるしか私には出来ない。しかし、日本の細川首相が慶州(キョンジュ)で金泳三(キムヨンサン)大統領に会って、日本の植民地支配をお詫びしたけれど、もっと具体的に日本は韓国・朝鮮でなにをしたか明らかにしなければならない。
この方魚津でも、日本人がなにをしたかを調べ、どのくらい力になるか分からないけれど、その内容の報告をしたいと思う。韓国への償いも、そのことをしっかりふまえて行なわれるべきだと思い、日本人移住者の多かった方魚津を訪れたのです」と答えた。
するとハラボジは言う。
「わしらは、日本人を腹の底から信用していない。この方魚津の街中にも小学校はあった。けれども、それは日本人の子どもしか行けなかった。わしら朝鮮の子は、しかたなくここから二里も離れた学校―朝鮮人が行ける学校に行かなければならんかった。ちぃさい子どもが二里の道を往き帰りできっこない。だから、わしもそうだが、その頃、小学校(普通学校)へ行った仲間は、わずか二・三人だった。
なぜ、すぐ近くの街の小学校へ朝鮮人だったら行けないのか。なぜ、日本人だけ学校へ行けるのか。
“い××え”は、韓国の籍に入って、福祉の金も出て生活している。わしらが守っている。その“い××え”のおばあさんに会って、あんたは何をしようとするのか。何が出来るというのか」。
この老人の私につきつけた問いに、私は答えなければならない。今すぐには答えられないにしても、これからずっと考えつづけて、その答えを出さねばならない。方魚津を訪ねて、背負った重たい荷であるが、その荷を負いつづけねばならない。
私は、“い××え”のおばあさんに会うのをやめにした。私の詰問した老人とも、最後に別れるときは。肩をたたき合い、手を握り合った。温かい手だった。
もう一度、方魚津の漁港に出た。
男たちが数人、「石すごろく」のあそびに興じていた。女たちは、大きな手押し車に荷物を積んで、気ぜわしそうに岸壁の上を動かしていた。この漁港裏手一帯に方魚津遊廓があったはずだが、今回は調べないことにした。
午後3時30分、方魚津バス・ターミナルから、釜山行きの乗合バスに乗った。料金は2,550ウオン、日本価に直せば350円。バスは満員だった。
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【付記①=2007年8月22日】 蔚山市方魚津を訪問した1993年12月の3ヶ月後の翌94年3月に、私は全羅南道の南端の島・小鹿島を訪れた。日本政府が朝鮮のハンセン病患者を隔離収容した島である。私にとって、小鹿島を訪れたのはその時が始めての体験だった。その後、何度この小鹿島を訪れ
ただろうか。それは、方魚津を訪問したとき学んだことと、そのとき背負った重たい荷と同質のものであり、1993年12月24日に私が、背負った日本人としての重たい、重たい贖罪の荷であった。
それから10年後の2004年8月に、小鹿島更生園の日帝による被害者たちは、東京地裁に訴訟を起こした。その間、ながい歳月を経過した。2005年2月3日、衆参両議会は、全員一致で、「改正ハンセン病問題に関する補償法」を成立させ、日本の慰謝=謝罪に基づく補償金が、植民地のハンセン病収容所に支給されることになった。私が、方魚津を訪問して日帝の被害事実を学ばなかったら、小鹿島の訪問もしなかったかも知れない。
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いま、この報告文を書くにあたって、もう三十年近く前に学生社から1965年発行された太田秀通著『史学概論』を読んだ、いな学んだこの本を思い、この本から学び・教訓とした内容をどのように自分として、具現化するかについて考えながらこの研究の作業をしている。この太田秀通著『史学概論』の記述のなかから、四箇所をつぎに引用しておきたいと思う。
<史学概論=引用 その1>
歴史家の間にいいふるされた言葉に「歴史は足で書くものだ」というのがある。これは、頭で考えてばかりしていては、よい歴史は書けない、実地の踏査と実物の目撃によって、はじめてよい歴史が書けるのだ、という意味である。しかしこれは、歴史学を精神的生産と規定することと矛盾しているわけではない。足が精神をそこに連れていってくれるだけである。(p65)
<史学概論=引用 その2>
「すべての歴史は現在の歴史である」トクローチェの有名な言葉であるが、この言葉の科学的意味は、歴史認識および客観的表現である歴史叙述は、この認識と叙述を生みだしたその時代の人々にとっての歴史である、ということでなければならない。(p27)
<史学概論=引用 その3>
ではなぜそれらの材料(2字傍点)は研究(2字傍点)材料たりうるのであろうか。研究材料は人間の存在によって生ずる一切の痕跡(2字傍点)であり、歴史的現実の一部をなし、人間の観念形態の一部をなしていたところのものが、物理的な姿で残った一切のものである。人骨の破片から美術品や手紙や哲学的労作や社会的遺制に至るまで、人間それ自身および人間の物理的精神的活動の一切の痕跡が研究材料となる。
それは歴史的となった人間の現実のいろいろな断片であり部分である。それらの痕跡は、決して歴史的現実の全貌ではなく ―全貌が残ることは不可能である― きわめて制限されたその残留物あるいは遺物である。しかしそれでもなお、それは過去の現実(2字傍点)の部分であり破片である。このことが、これらの痕跡が研究材料となりうる根拠である。すなわち人間の、および人間による一切の遺物であることが研究材料の第一の性質(5字傍点)であり、この性質から、それは研究のための、歴史認識のための、歴史像構成のたまの客観的手段となる資格をもつものである。(p70)
<史学概論=引用 その4>
通常、歴史研究の材料は史料とよばれ、史料は遺物(2字傍点)と伝承(2字傍点)または沈黙史料(4字傍点)と発言史料(4字傍点)とに分けられる。そしてさらに直接の観察と思い出とがつけ加えられることがある。しかし直接の観察と思い出は、文字に表現されるや発言史料となり、研究者自身の
観察と思い出は研究者の心証を構成する主体的条件の一つとなる。(p73)
次章=第Ⅲ章は釜山市影島(ヨンド)の遊廓と「日本軍慰安所跡」について、93年12月25日に見てきたこと、それについて考えたこと、読んだことについて、叙述したいと思っている。
註(100) 朝鮮思想通信社編・発行『朝鮮思想通信』1929年2月27日の記事は、復刻本、景仁文化社発行の第5巻、ソウル;1989年12月発行のp187によった。
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【後記=2007年8月25日(滝尾)】
「直接の観察と思い出は、文字に表現されるや発言史料となり、研究者自身の観察と思い出は研究者の心証を構成する主体的条件の一つとなる」と太田秀通著『史学概論』学生社の73ページには書かれている。
これまで私が書いた「発言史料」の一部は、『滝尾英二的こころ』のトップページに「滝尾英二 書庫」として収録されている。また、『滝尾英二的こころPart2』には、「著作紹介」として紹介されている。しかし、両者のホームページに収録・紹介されているものは、「発言史料」のごく一部に過ぎない。広島県教育行政機関に在職していた頃のものは、その殆んどが、無記名である。そうした史料を私自身の観察と思い出などを含めて、ひろく「発言史料」としておくことは、人権・平和などの視点から考えて必要だと思う。
実は、滝尾のホームページである『滝尾英二的こころ』を作成していただいているスタッフの方が、このホームページの作成を私に提案なさったとき、つぎのようにおっしゃった。
「滝尾さんでなければ、書き遺せないものが、たくさんあるのよ。滝尾さんは、生きて、生きてそれをホームページのかたちでのこしましょうよ。たとえそれが現在に、政治的・社会的に影響が少なくても、100年後の人たちが残されたこの記録をみて、ひとりだってよい。<20世紀の後半から、21世紀の初頭まで、こういう生き方・運動をした人たちがいたのだ>と読んで、100年後の人権・平和の運動に寄与できるホームページにしましょうね」と、このようにおっしゃっていた。
だから、2005年1月24~25日の厳寒下の第二衆議院議員会館前の午前9時から深夜にわたる翌午前10時までの25時間の座り込みにしても、座り込む滝尾の健康を配慮されて、深夜の座り込みには、こころからの「賛成」ではなかったと思う。
おそらく『滝尾英二的こころPart2』を作成していただいているスタッフも、『滝尾英二的こころ』の方と同じ考えで、毎日の掲示板に私が投稿している原稿の整理・作成をしていただいていることであろう。
福留範昭先生をはじめとする「韓国に関する報道記事」など、私のところまで届けていただいていることも「歴史と現代」を認識する上でかがすことのできない存在になっている。福山の畏友である割石忠典さんや、つぶて書房編集部の秋山 史さんのお力ぞいも、大きな私の励みになっている。そうした
方がたのご支援・ご協力をえながら、持病持ちのわたしではあるが、頭脳機能と、パソコンのキーが打てるまでは、このふたつのホームページの投稿原稿を書きつづけていきたいと思う。よろしくお願いいたします。
2007年8月25日 松江にて
人権図書館・広島青丘文庫 主宰 滝尾英二
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