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【連載】日本近現代ハンセン病史の考察 (第四回)

【連載】日本近現代ハンセン病史の考察
―「ハンセン病違憲国賠訴訟弁護団」、【小鹿島更生園・台湾楽生院の裁判闘争】の批判―(第四回)  
<2006年9月4日、滝尾英二記す>

                         人権図書館・広島青丘文庫  主宰 滝尾英二

(前承)つづけて、小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団の代表兼事務局長・国宗直子弁護士弁護団の「補償法改正へ」というインタビュー記事(『熊本日日新聞』の2006年2月2日の朝刊に掲載)への滝尾の批判的意見・見解を書いていこう。

 なによりも、小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団が、2月3日の参議院厚生労働委員会で審議・成立した「改正補償法」に対して、また、2005年10月25日の東京地裁民事三部(裁判長・鶴岡稔彦判事)の原告敗訴判決を受けて、どのようにこの判決を認識し、行動していったかをたどってみたい。

 鶴岡稔彦裁判長が書いた判決文は、100ページ余にのぼるが、「本件の争点は、本件療養所の厚労省告示該当性であり、その前提として、ハンセン病補償法の趣旨が問題となる」(判決要旨)とし、判決内容を簡潔に要約すれば、「ハンセン病補償法2条にいう国立ハンセン病療養所等に‥‥その文言上は、どのような施設がこれに含まれるのかが明らかでないというほかはないから、同法の審議経過や、同法全体の規定ぶり、その趣旨、目的等に照らしてこれを解釈していくほかはない」(判決要旨)と述べ、ハンセン病補償法の国会審議過程で、小鹿島更生園を補償法の対象にするということはしていなく、小鹿島更生園の被害者の問題は、将来課題とてか議員の質問者に対して、政府は述べているに過ぎない。

 したがって、厚生労働省の「告示」(2001年6月)に、補償対象として、日本統治下の小鹿島更生園が書かれていないことは、違法とはいえない。だから、補償請求却下は違法ではない、として「原告らが入所していた本件療養所は、ハンセン病補償法2条の『国立ハンセン病療養所等』にあたらず、原告らは、同条の『ハンセン病療養所入所者等』に該当しないから、原告らの補償金の支給の請求を認めなかった本件不支給は適法であり、その取消しを求める原告らの請求は理由がない」(判決要旨)として、原告らの補償金の支給の請求を認めなかった責任を、立法府とそれを受けての行政府に丸投げにした判決を下した。しかし、「鶴岡判決」は、詳細に当時の国会審議記録を検討して行なわれている。

 それに対して、同日判決があった台湾楽生院訴訟の東京地裁判決(裁判長・菅野博之判事)の内容について述べておきたい。同判決文を読むと、「争点」として、在外ハンセン病療養所は、告示2号にいう国立らい療養所と同視することが相当と認められるハンセン病療養所であるかという視点から考えて、在外ハンセン病療養所のことは、「具体的な問題として‥‥入所者が補償の対象者となるのか否かについては検討しておらず、あいまいな認識のままであったと推認することができる」と述べながらも、「‥‥ハンセン病補償法は、広く網羅的にハンセン病の救護・療養施設に入所していた者を救済しようとする特別な立法であり、我が国の施政権外であった時期の沖縄の施設や私立の療養所への入所者も補償の対象とする立法趣旨が認められ、‥‥そこ(在外療養所)への入所者を補償の対象から除外することは、平等取扱いの原則上好ましくないということもできる、‥‥以上によれば、原告らは、ハンセン病補償法2条及び3条にいう『ハンセン病療養所入所者等』に該当することになるので、本件各不支給決定はいずれも違法である」(判決要旨)として、原告勝訴の判決を下した。

 さて、こうしたふたつ(鶴岡稔彦裁判長と、菅野博之裁判長)の東京地裁の相反する「判決文」を読んで、当時の私(=滝尾)はどのように判断をするとともに、行動したかを先ず、述べておこう。このことが、「小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団」への具体的な批判になり、また、同弁護団への疑問点にもつながるからである。

(その1)原告らの敗訴判決をうけて、小鹿島訴訟原告団と小鹿島更生園補償請求弁護団は、ただちに東京高裁へ控訴し、一方、台湾楽生院訴訟に敗訴した厚生労働省は、11月8日に高裁に控訴する。どちらの訴訟は、東京高裁に移る。しかし、これまでの戦後補償裁判では、浮島丸裁判にしても、日本軍「慰安婦」裁判にしても、地裁で勝てても高裁で原告らは負けている。

 東京高裁の判事には、小鹿島補償請求訴訟の判決をした鶴岡稔彦裁判長のような認識をして判決する人たちが、多いという。また、「関西水俣病訴訟」のように、「小鹿島訴訟」が行なわれるとすると、裁判は非常に長期化して、これでは小鹿島の原告の年齢を考えると、小鹿島の原告のほとんどは死亡してしまってしまう。だから、「政治決着」によるしかない。つまり、「ハンセン病補償法」を国会で再審議し、その改正を成立させて、厚生労働省の「告示」のなかに、小鹿島更生園・台湾楽生院を含む旧・日本の植民地、日本占領地のハンセン病政策による被害者への「謝罪に基づく賠償・補償」を行なわせるということの必要を痛感した。

 幸い、① 国会議員たちの中には、10月25日の小鹿島補償請求訴訟の「敗訴判決」直後から、国会で「補償法」の見直しの意見が、国会議員のホームページなどで出されだしたこと。② 厚生労働省は、台湾楽生院訴訟の控訴にあたって川崎次郎厚労大臣が11月8日の閣議後の会見で、「控訴とは別に、韓国と台湾に加え、パラオとサイパン、ヤップ、ヤルートの太平洋の四島を含め国外の療養所の入所者に対し、適切な補償をするため、省内で検討し、速やかに結論を出す考えを示し」(『毎日新聞』2005年11月8日)たことである。

 その後の「小鹿島訴訟敗訴」を受けての私の意見と行動については、季刊誌の『飛礫』49号(2006年1月、つぶて書房発行)に滝尾英二著「ソロクト訴訟はなぜ敗訴したか―今後の闘いにむけて―」、および『飛礫』50号(2006年4月発行)に「『新補償法』国会成立・公布への『道のり』雑感」に詳述している。また、2005年8月18日には、『滝尾英二的こころ』、翌年2006年3月1日からは、『滝尾英二的こころPart2』というホームページを開設し、「小鹿島補償請求訴訟」と「小鹿島訴訟敗訴」後を受けての私の意見と行動について、詳細に記録している。

『飛礫』49号(2006年1月、つぶて書房発行)に滝尾英二著「ソロクト訴訟はなぜ敗訴したか―今後の闘いにむけて―」の中でつぎのように述べている。

 ‥‥‥わたしは、今なによりも、敗訴判決で東京から泣して小鹿島(ソロクト)へ帰られた原告の方がたの声を聞くことが大事だと考え、十一月十三、一四日に小鹿島をたずねて、金明鎬(キム・ミョンホ)自治会長や自治会員、多くの原告や被害者の声を聞いてきました。原告の方がたが一様に言われることは、「弁護団からは、九〇パーセントは勝訴すると言われていた。私もそう考えていた。それが敗訴した。その理由がわからない」「われわれは天皇陛下の赤子だと教育され、そのようになれと強制された。だけど一〇月二五日の裁判では私たちは敗訴した。これはとうてい、納得いかない」とくやし涙を流されていました。原告の蒋基鎭(ヂャン・ギジン)さんは八四歳になられるのですが、たいへん落胆されていましたよ。私は日本人のひとりとして、長い間の不作為を恥じ入りお詫びするばかりでした。

 十二日には原告のハラボジが亡くなられ、補償申請者のうち二十三名のかたが怨嗟の気持ちを抱いたままこの世を去って彼岸に行ってしまわれました。私がたずねた十三日にも非原告のハラボジが亡くなられ一四日に葬儀があり、私も列席させていただきました。

 真とともに報告を載せていますので、ぜひご覧下さい。小鹿島療養所が開園した一九一六年以後、本年の十月十四日までに小鹿島で亡くなり「納骨堂」と土墳に納められた方は一万四〇九人にも及んでいます。私は葬儀のあと、小さい土墳にぬかずいて「恨魂」に謝罪の祈りをするだけでした。

 <ソロクト自治会長の「陳情書」を届ける>

島を去るとき、金明鎬自治会長から日本の各政党の責任者や行政担当者にあてた「陳情書」を託されました。ソロクトの方がたの声を私なりにまとめてみると、早急に国会議員や行政当局者が小鹿島を訪ね、日本帝国政府がつくり運営した施設を見て、直接に植民地下で収容された患者の声を聞いてほしいということと、平等の原則の立場で、迅速に補償を決定してほしいということでした。韓国在住の若い日本人に自治会長の「陳情書」を翻訳してもらい、十一月一七、一八日にそれをもって東京へ出向きました。

 社会民主党の福島みずほ党首と阿部知子政調会長、日本共産党の市田忠義書記局長には直接会い、民主党は前原誠司党首と仙石由人・民主党「次の内閣」厚生労働大臣あてに仙石議員の秘書に、公明党は冬柴鐵三幹事長の秘書に「陳情書」を手渡しました。自民党は安部晋三官房長官室をたずねて、安部晋二衆議院議員に「陳情書」を渡してほしいと言いましたが、官房長官として行政府に入ると党からはなれるので、直接に自民党本部の小泉純一郎総裁あてに「陳情書」は送れというので、郵送しました。官房長官としては、陳情はうけないとのことでしたが、政策に反映させる資料として「陳情書」と持参した資料類は受け取ってくれました。厚生労働大臣あては秘書官に手渡しました。

「ハンセン病問題の最終解決を求める議員懇談会」会長の江田五月・民主党議員をアポなしで訪ねたところ、幸いなことに直接会って「陳情書」を手渡すことができました。当たって砕けろという気持ちで東京へいきましたが、どこでも私の話を聞き「陳述書」を受け取ってくれたことは成果だったと思っています。あとは国会と行政府が「謝罪にもとづく補償」をどれだけきっちりとやりきるか、監視をしていきたい。

 さらに、『飛礫』50号の「『新補償法』国会成立・公布への『道のり』雑感」には、つぎのように書いている。

 この被告・国が、二〇〇五年一〇月二五日の東京地方裁判所の判決後、朝鮮総督府管轄の小鹿島更生園をはじめ台湾総督府管轄の台湾楽生院、さらに南洋庁が設立したサイパンをはじめとするミクロネシア四島の「ハンセン病療養所」を国が設置し、人事・運営・国家予算などすべてを仕切った「国立療養所」とすると認識を変えて、これらの療養所に収容された患者を『補償法』の対象として被害に対する補償をすると言いだした。

 それは、同裁判中に滝尾が著書三冊を発表し、それにもとづいて原告弁護団が作成した「準備書面」や「弁護団の意見陳述」によって当初の国の意見を変更させた結果である。これによって二〇〇五年一〇月二五日の東京地方裁判所の「小鹿島更生園入所者原告訴訟」の敗訴判決、「台湾楽生院入所者原告訴訟」の勝訴判決の直後、当時の尾辻厚生労働大臣が、「補償法改正」もしくは「救済措置実施」で原告らに「補償金」(または、それに見合う補償金)を支給するということを公表・声明せざるを得なくなったのである。

「ソロクト弁護団」は敗訴したのだが、それは二〇〇一年五~六月の国会での「補償法」審議と議員立法である「補償法」成立時において、自国内のハンセン病療養所入所者の「補償(賠償)」のみを審議内容とし、対象を「隔離政策によって被害を受けたすべての人」としたことによる。「旧植民地、占領地における被害者」については、ふたりの衆議院議員から、日本の植民地時代の小鹿島更生園の被害のことを質問され、そのことは、将来の課題であると論じられたけれども、「補償法」の対象から除外した「自国内問題」に審議内容が終始した結果であったといえる。

「ソロクト行政訴訟」判決は、確かに原告側が敗訴した。しかし、裁判の過程で「小鹿島更生園に収容された入所者」の原告の証言で国内以上に被害が非人間的で、暴力と残酷な被害実態がわかったことと共に、二〇〇一年五~六月の「補償法」成立の審議には触れられなかったが、日本が植民地に設置したハンセン病療養所は、国内のハンセン病療養所と同様、国が設置しただけでなく、運営・予算・人事など一切の責任が天皇、内閣、帝国議会など国家にあったというまぎれもない事実を、「ソロクト原告弁護団」が法廷で明らかにしていった功績が大きいと私は評価している。

 そういった意味において、滝尾の今次裁判において一番の「功績」があるとすれば、以下、三著の自家本の発行であり、その中で「官報」その他の行政資料で小鹿島更正園が国立であることを証明したことだと考えている。

(1)滝尾英二著『小鹿島更生園・台湾楽生院への強制収容患者 ハンセン病補償金不支給処分取消請求事件「陳述書」』二〇〇五年一月(人権図書館・広島青丘文庫)発行、五二ページ。
 この冊子は「陳述書」を掲載し、その「陳述書」に『朝鮮総督府官報』を中心として「一五の資料」と註を掲載して小鹿島更生園が設立のみでなく、天皇、内閣、帝国議会が人事・運営・国家予算などすべてをおこなっていることを証拠にもとづいて述べている。販価五〇〇円。東京地裁裁判終了後、報告集会で販売した。

(2)滝尾英二著『ソロクト(小鹿島)裁判のための資料・研究ハンドブック――「国の行為による加害責任」は明らかである』二〇〇五年一月(人権図書・広島青丘文庫)発行、九〇ページ。
 『朝鮮総督府官報』を中心に、資料三〇を掲載している。前掲と同様に天皇制国家・日本政府が直接、すべてをおこなったことを行政資料で明らかにした。販価一二〇〇円。東京地裁裁判終了後、報告集会で販売した。

(3)滝尾英二編『小鹿島補償請求訴訟(東京地方裁判所)に関する資料集』(韓国語訳)も、編ではあるが、今次裁判でとりわけ韓国の弁護団、支援者には大きな影響を与えた。販価八〇〇円。東京地裁裁判終了後、報告集会で販売した。

 本年(二〇〇六年)一月二十四~二五日の「深夜座り込み」とその「評価」、およびその後の二月三日の『補償法』改正の成立までの過程はホームページ『滝尾英二的こころ』に掲載した。とりわけ「ソロクト弁護団」がいまだに紹介しない『補償法一部改正の参議院厚生労働委員会』審議過程など最重要資料も「改正補償法」が成立・公布された直後に『滝尾英二的こころ』に掲載した。これらを参考にしていただきたい。この審議内容を勝ち取る過程が、じつは、一〇年余にわたり私が「山」へ登る過程の「終着駅」でもあったことをご了知していただけるだろう。

 「情念」だけでは、法治国家(形式だけであっても)である限り、状況をかえられない。裁判闘争にしろ、国会闘争にしろ、それは相手の土俵内でする行為だからである。
 相手が使用する論理で、相手を論破し、あるいは説得するしか方法はないと思う。動員される支援者の多寡の問題だけではない。大声で厚生労働省に「恥を知れ!」と叫ぶことでもない。これが、「ソロクト弁護団」やその支援者の多くと私の行動や意見、認識の相違だったと思う。

 動員される人の数の多寡だけでは勝てないのである(集会や裁判に参加した人の数の増減、さらには支援する世論の増減は「問題性」を訴える意味では大切なことであり重要ではあるが……)。

 その点、辛淑玉さんの『怒りの方法』(岩波新書)がたいへん参考になった。権力に対しては三名でも闘えるのであり、相手はそれを恐れるものなのである。国の内外の政府への闘いも、早期決着をうながすことになった。さらにいえば、政府がもっともおそれたことは、裁判が長期化してくると、戦争責任・植民地支配の責任追及が戦後補償訴訟に影響していくことで、他の戦後補償裁判が「政府敗訴」となることであり、朝鮮をはじめとする旧植民地・占領地域の損害請求への影響を食い止めたいという意思が、「小鹿島更生園・台湾楽生院訴訟」を早期に終焉させたいとの認識を政府にさせたのだと考える。

 厚労省委託事業の『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』(二〇〇五年三月)の尾辻厚労大臣受理も早期解決に有利に働いた。

 本年二月三日の参議院厚生労働委員会で日本共産党の仁比聡平参議院議員の質問に答えて、川崎二郎厚労大臣は次のように答弁している。戦前の植民地統治の責任、被害実態と「ハンセン病患者隔離政策」による被害実態とを、政府・与党は切り離そうとしたのである。

 国務大臣(川崎二郎君) 検証会議最終報告書において、戦前の台湾、韓国においては隔離政策に伴う被害には、植民地支配下の被害が加わり二重の人権侵害があったとの記載がされていることは承知しております。戦前の植民地統治に伴う問題は今回の補償法の問題とは次元の異なる問題だと考えておりますが、国外のハンセン病療養所に入所されていた方々は当時のハンセン病の隔離政策によって大変な経験をされたと、このように考えておりす」。

 さらに、仁比聡平参議院議員の質問に対し、本改正に当たって「戦前、我が国の隔離政策により国外のハンセン病療養所に入所されていた方々の大変な経験というものを改めて銘記しながら、二度とこのようなことが行われないようにしていかなきゃならぬと思っております。

 ハンセン病補償法前文に記載のとおり、戦前、我が国の隔離政策が実施されていた国外のハンセン病療養所に入所されていた方々の精神的な苦痛について慰謝させていただきたいと考えております。厚生労働省といたしましては、今回の法改正の趣旨を踏まえ、ハンセン病問題の全面的解決に向けて全力で取り組んでまいります」と川崎厚労大臣は答弁している。「慰謝料=慰謝のための補償金」とは、「生命・身体・自由・名誉・貞操などを侵害する不法行為によって生じた精神的苦痛に対する損害賠償」(『広辞苑』)をいう。川崎厚労大臣は、国会で「国の不法行為による損害賠償」をすることを明言したのである。

 このようにして、衆参両議会の本会議において全員一致で「補償法」は改正され、一応、私のこの闘いは終わった。最近、小鹿島病院へ、厚生労働省の担当者が確認のために申請者の調査に行ったという。この「補償法」の改正で「一山」は越した感はあるけれども、まだ、問題・課題は山積している。「山を越して」みたら、行く手にはさらに大きな山なみが連なっている。

 弁護団の代表兼事務局長の国宗直子弁護士の「補償法改正へ」というインタビュー記事(『熊本日日新聞』の2月2日の朝刊掲載)のおかしさは、『熊本日日新聞』の記者の「満額回答」を引き出させた要因は? という質問につぎのように答えていることである。

「一つは判決の際、日本の支援者らが東京に詰め掛け、控訴断念の運動を展開したこと。日本人が一緒になって闘う姿は、厚労省にも相当のプレッシャーになったはず。加えて、八百万円を下回るようであれば、裁判は絶対に取り下げないと、強い姿勢で臨んだのも効いたと思う。決定的だったのは、厚労省がつくった『ハンセン病問題検証会議』の元委員らが、国内の入所者と平等に補償すべきと、明確な意見表明をしてくれたこと。あれは本当に心強かった」と。

 戦後、「狭山事件の石川一夫さんの冤罪裁判判決」、「原爆訴訟裁判」、「日本軍『慰安婦』訴訟」、「水俣病裁判」など数多くの裁判を経験している私には、「一つは判決の際、日本の支援者らが東京に詰め掛け、控訴断念の運動を展開したこと。日本人が一緒になって闘う姿は、厚労省にも相当のプレッシャーになったはず‥‥」という代表兼事務局長の国宗直子弁護士のインタビュー回答の無知で、恥知らずの発言に愕然とする。

 この昨年10月25日午後に、厚生労働省前の路上で2時間ばかりの集会に、私も参加し、集会の司会していた酒井義一さんに宣伝カー上での「発言」を要請されたが、お断りした。あの程度の集会で「厚労省にも相当のプレッシャーになったはず‥‥」など認識している国宗直子弁護士の「おごましさ」!

 さらにいえば、インタビューで「‥‥八百万円を下回るようであれば、裁判は絶対に取り下げないと、強い姿勢で臨んだのも効いたと思う。決定的だったのは、厚労省がつくった『ハンセン病問題検証会議』の元委員らが、国内の入所者と平等に補償すべきと、明確な意見表明をしてくれたこと。あれは本当に心強かった」などとインタビューで発言しているが、12月12日になっての『ハンセン病問題検証会議』の元委員らが、国内の入所者と平等に補償すべきと意見表明など、翌年の2月3日の「改正補償法」の成立には、「何のつっぱり」にもなっていない。

それよりも、「小鹿島訴訟敗訴判決」の10月25日から、約2ヶ月後の12月17~19日になって、「弁護団」は敗訴判決後、はじめての「小鹿島訪問」をしている。この「遅過ぎた小鹿島訪問」の問題を含めて、次回「第五回」の【連載】日本近現代ハンセン病史の考察は、小鹿島補償請求弁護団に、疑問点や質問をしようと思う。

                                    (9月4日・月曜日  午前3時45分、記す) 

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