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【基本資料07】

【基本資料=07】として、2004年10月18日に、「小鹿島更生園・台湾楽生院訴訟・原告ら弁護団」(代表・国宗直子)が、東京地方裁判所民事3部合議係に提出した『準備書面Ⅰ』の全文を掲載する。

 この『準備書面Ⅰ』の記述は、研究者の立場がら見れば不満は残るが、基本的に正しいと私(滝尾)は考え、それを支持していた。

 ただ、2001年5~6月に、国会(=衆議院厚生労働委員会)の審議過程は、日本植民地・日本占領地のハンセン病政策による患者やその家族らが被った被害実態やその責任を、国会議員も、また参考人として出席し、発言した原告ら谺雄二、志村康の各氏、また、全療協の神事務局長らが参考人として出席したが、国内のハンセン病問題に対する現状や意見を述べたののであり、日本植民地・日本占領地のハンセン病政策による患者やその家族らが被った被害実態やその責任の問題は、不問にふした。この問題を詳細、かつ、法的にどう考えるかの審議が、東京地裁の鶴岡裁判長にいる法廷で、審議が充分審議されなかった。

 この事に関しては、法的にどう考えるかの東京地裁3部(鶴岡裁判長)での審議が充分でなく、被告側と原告側の法廷での審議が、噛み合わないまゝ終審したと思う。

 被告の弁護士は、「小鹿島更生園に収容された患者の被害事実」と「その責任」についての審議を回避していると、傍聴席で私は感じた。

 また、2001年5~6月の国会で「ハンセン病補償法」(議員立法である「補償法」)の審議した過程では、審議した国会議員も、厚生労働省を始めとする大臣を始めとする政府職員も、原告ら参考人も、小鹿島更生園や台湾楽生院など植民地のハンセン病政策の深刻で残虐な日本ハンセン病政策のことも、その被害実態のことも、知らなかったか、知っていても取り上げようとしなかったのか、不明であるが、殆ど「視野」には無いまま、「ハンセン病補償法」は、そのことを無視・軽視したまま、審議を殆どしないまま、「補償法」は国会で成立した。そのことは、「ハンセン病(らい予防法)違憲国賠訴訟弁護団」の弁護士たちや、その支援者の多くにも言えよう。

 その過程は、滝尾英二著『ソロクト訴訟はなぜ敗訴したか―今後の闘いにむけて―』(『飛礫』49号、148~160ページを参照)していただきたい。さらに、2005年10月25日の東京地裁の「ソロクト訴訟、原告ら敗訴」後においても、「ソロクト弁護団」の排外的・自国民中心意識は以前より増してつづいており、その「迷走」さらに強化している感がある。『基本資料=06』の前文と同じ内容であるが、一言、述べておきたい。(滝尾より)

平成16年(行ウ)第370号 ハンセン病補償金不支給決定取消請求事件
原告 1番ほか109名
被告 厚生労働大臣
                           2004年(平成16)年10月18日

 東京地方裁判所民事3部合議係

                     原告ら訴訟代理人弁護士  徳 田 靖 之
                                       国 宗 直 子
                                       鈴 木 敦 士
                                        田 部 知江子
                                         外61名

                       準 備 書 面  1

 第1 ハンセン病とは

 ハンセン病は、抗酸菌の一種であるらい菌によって引き起こされる慢性の細菌感染症である。主として末梢神経と皮膚が侵される疾患で、慢性に経過する。

 らい菌の毒力は極めて弱く、ほとんどの人に対して病原性を持たないため、人の体内にらい菌が侵入し感染しても、発病することは極めて稀である。
ハンセン病の本格的な薬物療法は、1943(昭和18)年、アメリカでのプロミンの有効性についての報告に始まる。その後、らい菌に対して強い殺菌力を持つ薬物が相次いで発見され、現在では、ハンセン病は、早期発見と早期治療により、障害を残すことなく、外来治療によって完治する病気となっている。

 ハンセン病そのものはもともと致死的な病気ではない。例えば、1931(昭和6)年から1948(昭和23)年までの長島愛生園の死亡統計によれば、ハンセン病による衰弱死は全体の2.9%にすぎず、喉頭のらい腫性病変による喉頭狭窄を来した死亡例を加えても3.6%であり、スルフォン剤による化学療法の出現前においても、ハンセン病が直接的な死因となったものは極めて少なかった。

第2 日本におけるハンセン病政策

 日本では、戦前から1996(平成8)年にらい予防法(昭和28年法律第214号)が廃止されるまで、一貫して隔離政策が継続されてきた。
訴状記載のとおり、補償法はその戦前から継続する隔離政策のすべての被害者を慰謝する趣旨で制定された法律である。

 日本の隔離政策の歴史は、国の控訴断念によって確定した「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟熊本判決によって指摘されたとおりである。以下、略述する。

1 「癩予防ニ関スル件」の制定および療養所の設置

 1907(明治40)年、ハンセン病が文明国として不名誉であり恥辱であるとする国辱論の影響を強く受け「癩予防ニ関スル件」(明治40年法律第11号)が制定された。この段階では、財政上の理由もあって、療養の途がなく救護者のない者のみが隔離の対象とされ
ている。

 同年、内務省は、まず2000人の浮浪患者を収容する方針を決め、次のとおり、全国5か所に道府県連合立療養所が設置された(いずれも1941(昭和16)年に国立療養所となる)。

第一区全生病院 (東京都東村山市所在、後の多磨全生園)
第二区北部保養院(青森市所在、後の松丘保養園)
第三区外島保養院(大阪市所在、なお1934(昭和9)年9月の室戸台風により壊滅的被害を受け、そのまま復興されなかった。)
第四区大島療養所(1910(明治43)年に大島療養所と改称(香川県木田郡庵治町所在、後の大島青松園)
第五区九州癩療養所(1911(明治44)年に九州療養所と改称熊本県菊池郡合志町所在、後の菊池恵楓園)

2 患者作業

 これらの療養所の運営においては、当初より入所者の労働力が不可欠なものとして予定されていた。入所者には身体的に可能である限り患者作業と呼ばれる労働が割り当てられた。「日本のハンセン病患者ほど後遺症の重いのは世界に類がない、患者作業のためである」(らい予防法違憲国家賠償請求訴訟における和泉眞藏証言)、「患者作業のために、日本及び日本の占領下にあった台湾、韓国の患者の後遺症は、外の国の患者の後遺症に比べて非常に重い」(同訴訟における犀川一夫意見書)。

3 懲戒検束権の付与

 1916(大正5)年、「癩予防ニ関スル件」の一部改正(大正5年法律第21号)により、「療養所ノ長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ被救護者ニ対シ必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ得」(4条ノ2)とされ、療養所長の懲戒検束権が法文化された。
懲戒検束権の法文化により、療養所長の取締りの権限が大幅に強化され、療養所の救護施設としての性格は後退して、強制収容施設としての性格が更に顕著になった。

 また、懲戒検束権の威嚇の下、患者作業はまさしく強制労働と化した。
この懲戒検束制度の象徴が、1938(昭和13)年、栗生楽泉園に設置された特別病室という名の重監房であった。そこでは、1947(昭和22)年に廃止されるまで、名前が確認された者だけでも92名が監禁された上、22名が死亡している。

4 優生政策

 全国の療養所では、結婚を許す条件としてワゼクトミー(精管切除)が実施され、妊娠した女性に対しては、人工妊娠中絶が実施された。優生手術は、1948(昭和23)年の優生保護法制定まで、法律に明文の根拠なく行われていた。

5 入所対象の拡張

 内務省は、1925(大正14)年、衛生局長の地方長官あて通牒により、「癩予防ニ関スル件」3条1項の「療養ノ途ヲ有セズ」の解釈については、「なお未だいずれの患者といえども、ほとんど療養の設備を有せざるものと考うるの外なき状況にこれあり。なお救護者なる字句については、扶養義務者なると否とを問わず、常に患者を扶養するにとどまらず、療病的処遇を与うるものなることのいいと解すべく、かたがた患者の入所資格は相当広きものと解せられ」として、事実上すべての患者を入所の対象とすることとした。

6 「癩の根絶策」

 内務省衛生局は、1930(昭和5)年10月、「癩の根絶策」を発表した。
これによれば、ハンセン病は「惨鼻の極」であり、「癩を根絶し得ないやうでは、未だ真の文明国の域に達したとは云へ」ず、「癩を根絶する方策は唯一つである。癩患者を悉く隔離して療養を加へればそれでよい。外に方法はない。欧州に於て、古来の癩国が病毒から浄められたのは、何れも病毒に対する恐怖から、患者の絶対的隔離を励行したからである。(中略)現今も患者の隔離が唯一の手段であり、最も有効なる方法なのである。若し十分なる収容施設があって、世上の癩患者を全部其の中に収容し、後から発生する患者をも、発生するに従って収容隔離することが出来るなれば、十年にして癩患者は大部分なくなり、20年を出でずして癩の絶滅を見るであらう。

(中略)然しかくの如き予防方法が講ぜられない場合は、癩はいつまで経っても自然に消滅することはない。過去の癩国は永久に癩国として残る。」とされ、癩根絶計画案として、20年根絶計画、30年根絶計画、50年根絶計画の3つを挙げている。癩根絶計画は直ちには実施されなかったが、1935(昭和10)年に20年根絶計画の実施が決定され、1936(昭和11)年からの10年間に療養所の病床数を1万床とし、さらにその後の10年間でハンセン病を根絶することとされた。

7 旧癩予防法の制定及び療養所の新設

 1931(昭和6)年に「癩予防ニ関スル件」(明治40年法律第11号)が大幅に改正され(昭和6年法律第58号)、法律名も「癩予防法」(以下、1953(昭和28)年制定の「らい予防法」と区別するため「旧癩予防法」という。)となった。

 旧癩予防法は、療養所の入所対象に関する「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」(「癩予防ニ関スル件」3条1項)との限定を、「癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノ」と改め、入所対象を拡張し(旧癩予防法3条1項)、従業禁止の規定を新設し、隔離政策を一層推し進める法的根拠を整備した。

「癩の根絶策」及び旧法策定等に伴い、1930(昭和5)年11月に初の国立療養所である長島愛生園が岡山県邑久郡邑久町の瀬戸内海の小島に開設されたのを始めとして、次のとおり、国立療養所の開設が続いた。

1932(昭和 7)年11月 栗生楽泉園(群馬県吾妻郡草津町所在)
1933(昭和 8)年10月 臨時国立宮古療養所(沖縄県平良市所在。後の宮古南静園)
1935(昭和10)年10月 星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市所在)
1938(昭和13)年 4月 邑久光明園(岡山県邑久郡邑久町所在)
1938(昭和13)年11月 県立国頭愛楽園(沖縄県名護市所在。後の沖縄愛楽園)
1939(昭和14)年10月 東北新生園(宮城県登米郡迫町所在)
1941(昭和16)年 7月 松丘保養園、多磨全生園、邑久光明園、大島青松園及び菊池恵楓園、宮古南静園、国頭愛楽園が国立療養所に組織変更
1943(昭和18)年 4月 奄美和光園(鹿児島県名瀬市所在)
1945(昭和20)年12月 駿河療養所(静岡県御殿場市所在)

8 無らい県運動

 日中戦争が始まった1936(昭和11)年頃から、全国的に強制収容が徹底・強化され、1940(昭和15)年には、厚生省から都道府県に次の指示が出された。すわなち、「らいの予防は、少なくとも隔離によりて達成し得るものなる以上、患者の収容こそ最大の急務にして、これがためには上述の如く収容、病床の拡充を図るとともに、患者の収容を励行せざるべからず。しかして患者収容の完全を期せんがためには、いわゆる無らい県運動の徹底を必要なりと認む。(中略)これが実施に当たりては、ただに政府より各都道府県に対し一層の督励を加うるを必要とするのみならず、あまねく国民に対し、あらゆる機会に種々の手段を通じてらい予防思想の普及を行ない、本事業の意義を理解協力せしむるとともに、患者に対しても一層その趣旨の徹底を期せざるべからず」と指示されたのである。

 こうして、戦時体制の下、全国津々浦々で、無らい県運動により、山間へき地の患者をもしらみつぶしに探索するなどの徹底的な強制収容が行われ、多くの国民に対し、ハンセン病が恐ろしい伝染病でありハンセン病患者が地域社会に脅威をもたらす危険な存在であるとの認識を強く根付かせた。

9 戦後の状況

 以上のようなハンセン病患者に対する隔離政策は、1945(昭和20)年に第二次世界大戦が終了した後も基本的には変更されなかった。
1953(昭和28)年に新たに制定されたらい予防法(昭和28年法律第214号)は、旧癩予防法による隔離政策をほぼそのまま踏襲するものであり、この隔離政策は1996(平成8)年、らい予防法を廃止する法律(平成8年法律第28号)によって、らい予防法が廃止されるまで継続した。

 2001(平成13)年5月11日、熊本地裁は、ハンセン病隔離政策に関する国家賠償責任を認める判決を下した。この判決は日本政府の控訴断念により確定し、同年6月、ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給に関する法律(平成13年法律第63号)が制定された。

第3 小鹿島更生園の創設と韓国での隔離政策の展開

1 「日韓併合」と朝鮮総督府

(1)  1910年、日本は韓国を併合した。「韓国併合ニ関スル条約」(明治43年条約第4号)は、その第1条において、「韓国全部に関する一切の統治権を完全且つ永久に日本国皇帝陛下に譲与する」と定め、さらに第6条において、「日本国政府は前記併合の結果として全然韓国の施設を担任」することを規定した。
(2)  これを受けて、日本国は「朝鮮総督府設置ニ関スル件」(明治43年勅令第319号)を定め、即日施行した。
    同勅令には、以下のように規定されている。
   1.朝鮮に朝鮮総督府を置く
   2.朝鮮総督府に朝鮮総督を置き、委任の範囲内において陸海軍を統率し、一切の政務を統轄せしむ

(3) 続いて制定された「朝鮮総督府官制」(明治43年勅令第354号)には、朝鮮総督の地位、権限について、以下のとおり規定された。

 第1条  朝鮮総督府に朝鮮総督を置く。  2  総督は朝鮮を管轄す
 第2条  総督は親任とす
 第3条    総督は天皇に直隷し、委任の範囲内に於いて陸海軍を統率し、及び朝鮮の防備の事を掌る。 2  総督は、諸般の政務を統轄し、内閣総理大臣を経て上奏を為し及び裁可を受く

(4)  そのうえで、翌1911年には、「朝鮮ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」(明治44年法律第30号)が制定され、以下の規定が置かれた。

 第1条 朝鮮に於ては、法律を要する事項は、朝鮮総督府の命令を以ってこれを規定することを得

 第2条 前条の命令は、内閣総理大臣を経て勅裁を請うべし
第4条 法律の全部又は一部を朝鮮に施行するを要するものは勅令を以てこれを定む

(5)  以上から次の2つのことが明らかとなる。

 第1は、日本が統治権を有していた時代における韓国には、韓国内における一切の政務を統轄する朝鮮総督府が日本国の機関として設置され、韓国における法律を要する事項を命令で定める権限を有していたのであり、その長たる朝鮮総督は、天皇に直隷していたということである。

 第2は、韓国内に施行すべき法律については、勅令で定めるとされていたということである。

2 小鹿島慈恵医院の開設とその拡張

(1) 日本国内では、既に1907年に法律「癩予防ニ関スル件」が制定され、ハンセン病患者に対する隔離政策が開始されていた。

 したがって、その3年後に行われた「日韓併合」によって、韓国内にも同様の隔離政策が実施されることとなり、朝鮮総督府は、1916年2月、朝鮮総督府令第7号を定めて、「全羅南道立小鹿島慈恵医院」を創設した。

 朝鮮総督府が毎年度作成した「全羅南道小鹿島慈恵医院概況」には、その沿革として、必らず「明治天皇よりの御下賜金を基金として大正5年2月朝鮮総督府令第7号を以て創設せられ」と記述されている。

 韓国におけるハンセン病隔離政策の開始である。

 同年11月20日、朝鮮総督府内務部第2課が発令した「患者収容に関する件」(同課第569号)には、同医院の定員が約100名であるから、「先ず重症患者にして、療養に途を有せず路傍又は市場などを徘徊し、病毒伝播のおそれある者に限り、これを収容すること」と明記され、その隔離の対象が、日本国内における「癩予防ニ関スル件」と同一であることが明らかにされている。

(2) 小鹿島慈恵医院は、朝鮮半島南部の全羅南道高興郡錦山面小鹿島の西端約30万坪(島の約6分の1)を買収し、1916年7月より工事が開始され、治療所、職員宿舎、礼拝堂、病舎等が竣工し、翌1917年5月定員を100名として開院式が行なわれた。

(3)  その後、第2代院長花井善吉の時代(1921年~1929年)に、小鹿島慈恵医院は漸次拡張され、定員数は100名から750名まで増加した。

 その間の1925年4月1日には、地方官官制改訂令(大正14年勅令第85号)によって

 朝鮮総督府地方官官制の一部改正が行われ、その第26条は次のように改められた。
全羅南道に慈恵医院を付設し、慈恵医院は癩の診療に関することを管掌する

 こうして、全羅南道小鹿島慈恵医院は、名実ともにハンセン病の診療のみを行う診療所となったということができる。

 そのうえで、1933年3月に至って朝鮮癩予防協会(後述)の委任を受けた全羅南道知事により島全体が病院用地として買収された。

 こうして、小鹿島はハンセン病患者の隔離施設として社会から完全に隔離される存在となった。

(4)  1933年3月に小鹿島全島を買収した後の、同年9月、周防正季が第4代院長に就任すると小鹿島慈恵医院の拡張工事が実行に移された。
もっとも、拡張工事は、工事費用を極力抑えるために、患者を労働者として利用し、また、材料の煉瓦も島内に工場を建設し患者に製造をさせて自給した。

 この結果、2年あまりで拡張工事は完了し、定員数3770名を擁する施設へと変容した。

3 「癩根絶計画」の策定と「国立癩療養所小鹿島更生園」の誕生

(1) 前述の如く、日本国内において、ハンセン病患者1万人収容を内容とする「癩根絶計画」が策定されたのは、1930年10月である。

 その目的のために、翌1931年3月に設立されたのが、財団法人「癩予防協会」であり、その目的遂行のために同年4月に制定公布されたのが「旧癩予防法」である。

(2)  こうした日本国内のハンセン病絶対隔離政策の進行に連動して、朝鮮総督府は、韓国内における「癩根絶計画」を策定し、そのために、韓国内に「国立癩療養所」を設立することを計画するに至った。

 総督府は、その準備のために、次の3つの事業に着手した。

 第1が財団法人朝鮮癩予防協会の設立である。

 1932年12月に朝鮮総督府の主導によって設立された同協会は、「隔離収容施設」の拡張・整備のための資金集めを目的としたものである。

 第2が、未収容ハンセン病患者の全国調査である。

1932年2月、朝鮮総督府は、全国一斉調査により、未収容患者1万2242名、「浮浪徘徊患者」2461名を確認したと公表し、当面療養所を3000床増床する計画に改めたうえで、20年計画で韓国内におけるハンセン病患者を根絶する方針を明らかにした。

 第3が、国立療養所の位置選定である。

 朝鮮総督府は、1933年3月、国立癩療養所の所在地として「全羅南道小鹿島を最適地と認め」これを公表した。

(3)  こうして設立された朝鮮癩予防協会の委任を受けた全羅南道知事による小鹿島全島買収が完了し、拡張工事が開始されたことを受けて、1934年9月朝鮮総督府癩療養所官制(昭和9年勅令第260号)が公布され、その第1条には、次のように定められた。

「朝鮮総督府癩療養所は、朝鮮総督府の管理に属し、癩患者の救護及び療養に関することを掌る」

 これを受けて、同年9月の朝鮮総督府令(第98号)により、同年10月1日より名称が小鹿島更生園と改められ、こうして朝鮮総督府の管理する「国立癩療養所」小鹿島更生園が誕生することとなったのである。

4 「朝鮮癩予防令」の制定と隔離政策の本格化

(1)  1935年4月20日、朝鮮癩予防令(昭和10年制令第4号)が、朝鮮総督宇垣一成によって公布された。

 同令第5条には、「行政官庁は、癩予防上必要ありと認めるときは、癩患者を朝鮮総督府癩療養所に入所せしむることを得」と規定されている。
同令は、1931年に日本本土で制定公布された「旧癩予防法」と内容はほぼ同一であるが、以下の二つの特徴を有する。

 まず、同令の制定が日本本土における旧癩予防法の制定から4年遅れているということである。

 この遅れは、韓国において、未収容患者数に比して収容施設の整備が十分でなかったため、当面先ず施設の拡充及び増床に全力を注ぐ必要があったためである。
次に、同令は内容が、朝鮮民事令のような、いわゆる「法律の依用」という方式を採らず、旧癩予防法と同一の内容を独自に定めるという方式を採っているということである。
その理由は、日本本土に比して、収容施設の整備が遅れ、未収容患者が多数に上っている朝鮮の実情に応じて、旧癩予防法の規定を若干修正し、韓国にのみ適用すべき内容にしたためであると思われる。

  (2)  「朝鮮癩予防令」第6条は、「朝鮮総督府癩療養所長は、朝鮮総督府の定むるところにより、入所患者に対し必要なる懲戒又は検束を加えることを得」と定め、これを受けて同施設規則第8条は、監禁、減食、謹慎等の懲戒処分を規定した。日本国内と全く同様である。

 そのうえで、同規則第9条に基づいて定められた「朝鮮総督府癩療養所患者懲戒検束規程」には、その懲戒の対象として、
   ① 逃走し又は逃走せんとしたるとき
   ② 濫りに他人の物を使用し又は共用品を占有したるとき
   ③ 多衆聚合して、陳情請願を為さんとしたとき
等が揚げられた。

 この内②及び③は、日本国内の療養所の懲戒検束規程にも記載のない厳しい規程である。

 このような患者取締規程の存在は、韓国小鹿島における施策が、単なる隔離政策にとどまらず、植民地政策として貫徹されたことを示すものである。   

第4 補償法の趣旨と補償法の支給要件

1 厚生労働省告示第224号の定めるハンセン病療養所の範囲の特徴

(1) 補償法2条は、同法によって補償金を支給される「ハンセン病療養所入所者等」について、「らい予防法が廃止されるまでの間に、国立ハンセン病療養所その他の厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所に入所していた者」であって、「この法律の施行の日において生存しているもの」と定義している。

 同条を受けて、厚生労働大臣は、同法によって補償金を支給されるハンセン病療養所の範囲を厚生労働省告示第224号に定めた。

(2) 同告示には、訴状記載のとおり、次のような特徴がある。

 第1に、国立、公立、私立といった運営主体を問わず、かつ、入所時期についてもハンセン病療養所に戦前においてのみ入所した者をも補償金支給の対象としている。

 第2に、日本の施政権の及んでいない時期におけるハンセン病療養所への入所者をも対象にしている。

 第3に、国籍、現在の居住地について一切の制限を設けていない。

2 補償法の趣旨

(1) このように、同告示の定める「ハンセン病療養所」が極めて広範囲に及んでいるのは、ハンセン病補償法が、日本が戦前かららい予防法廃止に至るまで一貫して隔離政策をとり続け、ハンセン病患者らに耐え難い苦痛と苦難を与え続けてきたことに対する悔悟と反省に基づき、日本の隔離政策のすべての被害者を慰謝する趣旨で制定された法律であるからに他ならない。

 すなわち、同法は、国の法的責任を厳しく断じた熊本地裁判決の確定を踏まえて議員立法により制定されたものではあるが、同判決が認めた法的責任にとどまることなく、かつて国が行った隔離政策により耐え難い苦痛と苦難を受けたすべての被害者に対し、行政としての公平性、平等性を全うして補償を行うことによって、精神的苦痛を慰謝する趣旨で制定された法律なのである。

(2) このことは、同法の前文が「ハンセン病の患者は、これまで、偏見と差別の中で多大の苦痛と苦難を強いられてきた。我が国においては、昭和二十八年制定の「らい予防法」においても引き続きハンセン病の患者に対する隔離政策がとられ」、「ハンセン病の患者であった者等にいたずらに耐え難い苦痛と苦難を継続せしめるままに経過し」、「我らは、これらの悲惨な事実を悔悟と反省の念を込めて深刻に受け止め、深くおわびする」、「ハンセン病の患者であった者等のいやし難い心身の傷跡の回復と今後の生活の平穏に資することを希求して、ハンセン病療養所入所者等がこれまでに被った精神的苦痛を慰謝する」等と規定していることによっても明らかである。

3 厚生労働省告示第224号の解釈

 厚生労働省告示第224号の前記特徴を、同告示の条項に沿って改めて確認すれば、以下のとおりである。

(1) 旧癩予防法第3条第1項の国立癩療養所及び第4条第1項の規定により2以上の道府県が設置した療養所(同告示1号)

旧癩予防法が施行されるまでの間における国立療養所長島愛生園(同告示2号イ)

① 1907(明治40)年、内務省が、「癩予防ニ関スル件」(明治40年法律第11号)を制定して、2000人の浮浪患者を収容する方針を決めたのに伴って、全国5か所に設置した本準備書面第2項1記載の府県連合立の各療養所(同法第4条1項)、及び癩の根絶策、旧癩予防法(「癩予防ニ関スル件」明治40年法律第11号の改正法である昭和6年法律第58号)の策定に伴い、設置した本準備書面第2項7記載の各国立療養所(同法3条1項)が告示1号に該当する。

② 長島愛生園は、第1号の国立療養所であるが、1927(昭和2)年、勅令第308号「国立療養所管制」第1条に基づいて、旧癩予防法の制定に先立つ1930(昭和5)年に設置されたため、告示1号とは別に告示2イが規定された。
 国立療養所長島愛生園は、旧癩予防法制定前は、勅令に基づく国立療養所として告示2号イの適用を受け、旧癩予防法制定後は同法第3条1項の定める国立療養所に該当するとして告示1号の適用を受けることになる。

③ 同告示1号及び同告示2号イは、旧癩予防法に規定する国立療養所はもとより、それ以前に設置されたすべての国立療養所、公立療養所を補償法の対象とするという趣旨で規定されているのである。

④ ところで、同告示1号は、「旧癩予防法第3条1号の国立癩療養所」と規定しているが、旧癩予防法第3条1号は、ハンセン病患者で、伝染のおそれある者を「国立癩療養所に入所せしむべし」と定めるのみである。旧癩予防法3条1号の規定は、「癩予防ニ関スル件」第4条の道府県連合立療養所の設置に関する規定やらい予防法11条の国立らい療養所の設置に関する規定と明らかに異なり、旧癩予防法3条1号の規定が組織法上の根拠となって、癩療養所が設立されるという関係にない。

 したがって、同告示1号は、旧癩予防法施行後に同法により、伝染のおそれありとしてハンセン病患者が入所させられることになった国立癩療養所の入所者について補償法の適用がある旨を定めた規定という他はない。つまり、旧癩予防法施行時に存在していたか、あるいは、それ以降に同法廃止までの間に設立された国立癩療養所であれば同法3条1項の規定する国立ハンセン病療養所に該当するのである。

 従って、前項で詳述したとおり、旧癩予防法制定後に国立療養所として設置された小鹿島更生園は、旧癩予防法3条1項の定める国立ハンセン病療養所に該当し、同告示1号の適用を受ける。

 1927年、昭和2年勅令第308号第1条により設置された国立療養所長島愛生園が、旧癩予防法3条1項の国立療養所に該当するというのであれば、同様に、1934年、昭和9年勅令第260号1条により設置された国立癩療養所小鹿島更生園も、旧癩予防法第3条1項の国立療養所に該当するというべきである(昭和2年勅令第308号は旧癩予防法の制定によって廃止されたものではないから、国立療養所長島愛生園の組織法上の根拠は旧癩予防法制定後も勅令であり、勅令によって設置された国立療養所であるという点で、国立療養所長島愛生園も、国立療養所小鹿島更生園も何ら異なるところはないのである)。このことからも、小鹿島更生園が、同告示1号の適用を受けることは明かである。

(2)らい予防法によって国が設置したハンセン病療養所(同告示3号)

 明治40年法律第11号が、昭和6年法律第58号の改正他数回の改正を経て、「らい予防法」(昭和28年法律第214号)の附則により廃止され、「らい予防法」第11条に規定されるところとなった前記各国立療養所がこれに該当する。

(3) 国に移管されるまでの間における沖縄県立国頭愛楽園及び沖縄県立宮古保養院(同告示2号ロ)

 沖縄においても、1907(明治40)年の「癩予防ニ関スル件」に基づいて、公立の療養所の設置が検討されたが、1910(明治43)年に、第5区九州県連合に加入し九州療養所を利用することとなった。しかし、地理的な条件から利用者は限られたため、沖縄における療養所の設置が模索され、1929(昭和4)年に宮古郡島の平良島尻に県立宮古保養園、1938(昭和13)年に、県立療養所国頭愛楽園が設置された(宮古保養園は、1933(昭和8)年に臨時国立宮古療養所と改称、1941(昭和16)年に厚生省に移管されて国立宮古南静園となり、国頭愛楽園も1941(昭和16)年に厚生省に移管されている)。

 戦前に設置された県立療養所も、前同様、補償の対象とする趣旨の規定である。

(4) 1945(昭和20)年米国海軍軍政府布告第1号及び1945(昭和20)年米国海軍軍政府布告第1のA号の規定により施行を持続することとされた1907(明治40)年法第2条第1項の国立癩療養所(同告示2号ハ)、琉球政府がハンセン氏病予防法の規定によって設置した、ハンセン病療養所及び琉球政府が指定した政府立病院(同告示4号)

 1945(昭和20)年4月、米軍は、沖縄本島に上陸し、読谷村に海軍軍政府を設置、沖縄本島については米国海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告)、宮古・八重山・奄美の各諸島については米国海軍軍政府布告第1のA号に基づき、米軍の施政権下に入り、国頭愛楽園、宮古南静園も、1946(昭和21)年には軍政府の所管に移った。

 1950(昭和25)年12月、占領の主体は、琉球列島米国民政府(United State Civilian Administration)と変わり、1951(昭和26)年4月には、琉球臨時中央政府が設立されて、琉球政府に発展し(米国民政府は、琉球政府に対して拒否権等を留保するものの、琉球における政治は琉球政府が行うという間接統治制度)、国頭愛楽園、宮古南静園は、琉球政府に移管された。

 1952(昭和27)年4月、サンフランシスコ講話条約発効により、日本は連合国軍の占領から独立したが、同条約3条により、沖縄は引き続き米国施政権下に置かれることとなり、国頭愛楽園、宮古南静園は、1961(昭和36)年、琉球政府がハンセン氏病予防法を制定したのに伴い、同法に定める療養所となった。

 なお、奄美地方は、1953(昭和28)年12月に本土復帰し、奄美和光園はこの時点で既に施行されていたらい予防法に基づく療養所となった。

 1961(昭和36)年に制定されたハンセン氏病予防法は、らい予防法と異なり、退所規定、非伝染性の新患者の外来治療に関する規定等をもつとともに、「行政主席は、ハンセン氏病を伝染させるおそれがある患者について、ハンセン氏病予防上必要があると認めるときは、当該患者またはその保護者に対し、政府が設置するハンセン病療養所または政府が指定する政府立の医療機関に入所し若しくは入院し、または入所させ若しくは入院させるように勧奨することができる」(6条)と規定し、政府立の一般医療機関への入院も予定していた。ただし、これは離島の患者を南静園や愛楽園に収容する間、仮入院させるという一時的措置でしかなく、第6条には、患者が入所・入院の勧奨に応じない場合には、行政主席が強制できる旨の規定があり、隔離政策が払拭されたわけではなく、むしろ日本の隔離政策が承継されていた(なお、ハンセン氏病予防法は、1972(昭和47)年5月の沖縄日本復帰により廃止され、沖縄にもらい予防法が適用されることになる)。

 いずれにしても、本規定が、米国の施政権下に置かれた期間のハンセン病療養所や、医療機関の入所者を補償法の対象としていることは、本件訴訟において、小鹿島更生園について、厚生労働省告示第224号の適用を考えるうえで極めて重要である。

(5) 次の表に掲げる私立のハンセン病療養所(1996(平成8)年3月31日までの間又は当該療養所を廃止するまでの間に名称の変更があった場合には当該変更後の名称のもの事業を承継したものを含む。)(同告示5号)

 同告示の表に列挙された11の私立療養所のうち、主要なものについての所在地、存続期間、設立者は、次のようになる。

復生病院(静岡県)1889(明治22)年~現在
      テストウィード(英カトリック神父)

慰廃園 (東京府)1894(明治27)年~1942(昭和17)年
    ゲーテ・ヤングマン(米宣教師)

回春病院(熊本県)1895(明治28)年~1941(昭和16)年
     ハンナ・リデル(英宣教師)

待労院 (熊本県)1898(明治31)年~現在
     ジョン・メリー・コール(仏宣教師)

身延深敬病院(山梨県)1906(明治39)年~1993(平成5)年
     綱脇竜妙(日蓮宗僧侶)

聖バルナバ医院(群馬県)1916(大正5)年~1941(昭和16)年
     コンウォール・リー(英宣教師)

鈴蘭病院(群馬県)1926(大正15)年~1931(昭和6)年
     服部けさ、三上千代(医師、看護婦)

 私立療養所には、外国人宗教関係者が私財を投じ、あるいは寄付を集めて設立したものも少なくなく、上記のとおり、その存続期間が戦前の一時期に限られているものが多数ある。

 本規定は、そのような私立療養所の入所者もすべて、日本の隔離政策の下にあった被害者として補償法の対象とするものである。

4 小括

(1) 以上のとおり、厚生労働省告示第224号が、補償法の適用対象として列挙したハンセン病療養所は、その設置、運営の主体について、国立か公立かを問わないばかりか、私立療養所や我国の施政権外のものを含み、設置、運営の根拠についても、らい予防法、旧癩予防法等に基づくことを必須の要件とはしていない。

 また、私立、公立、国立を問わず、時期については、戦前、すなわち日本国憲法、国家賠償法制定前の期間を含んでいる。

 そして、居住地域、国籍についても一切の制限がない。

 列挙されたハンセン病療養所に一度でも入所した者は同法の適用を受け、例えば、私立療養所に戦前の一時期にのみ入所、あるいは米国占領下にあった一時期にのみ沖縄のハンセン病療養所に入所し、他に入所経験のない者も同法の対象となる。

 また、複数の園に入所していた者について、入所期間に応じて補償金の算定を行う場合においても、それが私立か、日本の施政権外の期間か、戦前かによって何らの区別もない。

(2) これは前記のとおり、補償法が、日本が戦前かららい予防法廃止に至るまで一貫して隔離政策をとり続け、ハンセン病患者らに耐え難い苦痛と苦難を与え続けてきたことに対する悔悟と反省に基づき、熊本地裁判決が認めた法的責任にとどまることなく、かつて日本が行った隔離政策のすべての被害者に対し、行政としての公平性、平等性を全うして補償を行うことによって、精神的苦痛を慰謝する趣旨で制定された法律であることの証左である。

(3)  そして、小鹿島更生園の設置・運営等に関する経過やその実態は、本準備書面第3項記載のとおりであるから、同園は、私立療養所や我国の施政権が及ばなかったハンセン病療養所にも増して、補償法の対象となるべき療養所であり、同園に入所した者は、日本のハンセン病政策の被害者である。

(4) 前記のとおり、そもそも小鹿島更生園は、1934(昭和9)年に、昭和9年勅令第260号によって定められた「国立癩療養所」であり、同告示1号にいう旧癩予防法第3条第1項の国立療養所に該当し、補償法の適用を受けるが、仮に該当しないとしても、補償法の趣旨に照らし、同告示2号に例示された類型と同等以上に同告示1号と同視すべきハンセン病療養所であることは明らかであるから、同告示2号が類推適用されるべきである。

第5 総括

 よって、本件不支給決定は違法であり、取り消されるべきである。

                                   以上   

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