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2006年1月21日 (土)

『滝尾英二的こころ』最終回のメッセージです

広島・東京・ソウル・ソロクトと、思うに任せないお体での活動に加え、徹夜になることも厭わなかった日々の執筆。ひとつひとつご自身でタイプして下さったものです。朝になって、メッセージを書き終えたことを伝える電話は、やっとのことで振り絞るような声だったことがいく度もありました。滝尾先生、本当にお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。

無念の思いで命絶えてきた幾万の御霊に、この声が届きますように。

                                        【スタッフ】======================================================================

    ソロクト訪問の旅に思うこと

 韓国訪問記【2006年1月10~17日】(その2)

『小鹿島の訪問記=日本の歴史研究者として気が重くて、また心踊る旅の道程(Ⅰ)』

              広島青丘文庫 滝尾英二 (2006年1月18日記す)

(1) 日本占領地域・フイリピン「クリオン」のハンセン病収容所の患者に対する大虐殺を知って

 ソウルには、1月10日から12日までの3日のあいだ滞在し、13日の早朝にホテルを後に小鹿島を訪問した。前日に龍山駅が始発の特急「セマウル」の予約席をソウル駅の窓口で購入しておいた。龍山駅は地下鉄で「鐘路2街」から市庁、ソウル駅を経て行くことが出来る。龍山(yongsan)駅を07:50発で、順天(suncheon)駅には12:17到着する。特急「セマウル」の運賃は32,600Wである。通訳を依頼した天飛龍さんとは、一足はやく順天駅に到着した天さんとお逢いして、小鹿島を訪問することになっている。

 午前6時に起床して、身支度をすませて朝食を食べにすぐ近くの「ヘイジャンク専門店」へ行く。たいてい毎朝は、食事はこの店で済ませることにしている。「ヘイジャンク」とは牛の内臓と野菜をお米に混ぜて炊き上げた雑炊と思っていただけばと思う。しかし、気の重い・反省することの多い一日だった。その要因は、前日・前前日にソウル大学教授である鄭根埴さんから教えていただいた日本占領軍によるフィリピン「クリオン」の1943年に起きたハンセン病収容患者の2,000人もの大虐殺の事実である。これをハンセン病問題の歴史研究者として、「不作為」とはいえ、この60余年年間も放置してきた責任の問題である。

「クリオン」のことは、光田健輔の著作でよく知っていた。例えば滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻には、光田健輔が1940年10月号の『愛生』に掲載した「小鹿島更生園参観」を収録している。そのなかで光田は「要するに世界第一と云はれた比律賓「クリオン」に比するに収容人員は相同じであるが彼等の患者住宅は粗末なる小屋掛けが多く大風一過すれば吹っ飛ぶが如き棕櫚萱屋根である、‥‥」と書いている。南方年鑑刊行会編『南方年間・昭和十八年版』(1943年9月発行)の1956ページには、疾病として「‥‥癩病に関してはフィリッピン政府の特に意を用ひるところで、癩重病者はパラワン島のクリオン島及びセブ島に収容してゐる」と書かれている。

 米英開戦により、フィリピンは米日の激戦地として知られ、多くの「戦記物」が出版されてきた。その何冊かは、私も読んでいる。そして「クリオン」のハンセン病患者のことが私の頭を霞めたこともあった。しかし、私はこの日本占領地域フィリピン「クリオン」のことを調べようとはしなかった。

 昨年=2005年3月に厚生労働省より委託事業ではじめられて、2年半あまりついやして出来上がった『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の「旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策(要約版)」の記述には、この「クリオン」のハンセン病患者収容施設のことをどのように書いているか、調べてみた。この最終報告書の総頁数は1,500に及ぶという。

「フィリピンでは、日米開戦時、アメリカは開放治療を採用し、フィリピン全土に五か所の療養所を開設し、重症者のみクリオン島の療養所に収容していた。‥‥」(91ページ)。本最終報告書の記述もまったく同じ内容である。前日・前前日にソウル大学教授である鄭根埴さんから教えていただいた日本占領軍によるフィリピン「クリオン」のことは、全然書かれていない。このように書く私自身、その『検証会議最終報告書』を批判・検討してきたが、私も「クリオン」のことを知ろうとしなくて、不問にしてしまったことでは、検証会議委員・検討委員と私は同罪である。いう言葉を失ってしまう。

 鄭根埴さんから教えていただいた「クリオン」の大虐殺の歴史事実を以下、簡潔に書いてみたい。

 3ヶ月前の10月、フィリピンの「クリオン」島のハンセン病療養所の関係者と鄭根埴さんはインタビューをしている。現在も小規模ながら「クリオン」のハンセン病の療養所は開設されている。日本占領軍がこの療養所を運営しはじめた1943年、患者に支給する食料を絶ち始めた。餓死者は続出し、この年に2,000人の餓死者を出した。ハンセン病患者を「虐殺」したのであるという。「クリオン」療養所には前述したろうに「重病者はパラワン島のクリオン島」に収容されていたことを考えると、自分で食糧を得ることは困難であったのだろう。

 順天にむかう車中で、私は大岡昇平が書いた『捕虜記』『野火』などの戦記文学を思い出していた。もちもん、それはフィリピンで敗戦末期に、USA軍・現地ゲリラ軍に追われた日本軍兵士の餓えとの闘いを記した戦記である。日本占領地域でハンセン病療養所の患者たちの餓死者の続出の情況を思い浮かべる。そうして、順天に列車は到着した。そうだ !1月24日から26日までの「謝罪と恨霊への祈り」の座り込みには、「クリオン」のハンセン病患者の恨霊への祈りと謝罪が必要だと思った。外は小雨が降っていた。

 順天駅頭まで、迎えにきていただいた天飛龍さんと駅前の食堂で昼食のうどんを啜る。小鹿島の桟橋には金明鎬自治会長に依頼しておいたので、車が待っていた。自治会室に直行して、次節のような話し合いを金明鎬自治会長や小鹿島病院職員らと行なった。

   

      
(2)小鹿島からの「陳情書」=「新・補償法」制定にむけての闘いについて

 <1月13日午後に話し合った滝尾と自治会(・原告)代表、病院の方がたとの長い討議の末に作成された「陳情書」案、及びその案の補注>

 「陳情書」(案)   【自治会長 金明鎬、補償請求原告代表 蒋基鎭】

「陳情趣旨」=1945年以来、日本政府によって運営された小鹿島更生園入所者など被害者たちに対する補償法を早急に制定し、すべての被害者たちが補償を受けることができる方策を用意してくださることを切に要請します。

「陳情理由」

(1)日本国外ハンセン病療養所入所者補償のための法を早急に制定してください。【註   1】

 被害者である原告たちは、国会議員各位にこのたび「通常国会会期中」の早い時期の本年末(3月末日)までに、日本国外ハンセン病療養所入所者のための法律を議員立法で制定してくださることを要請します。

(2) 当法律には、ハンセン病患者本人だけではなく、小鹿島更生園に強制収容されたその家族に対する被害も補償対象に含まれることができるようにお願いします。【註2】

 強制収容政策は入所者だけではなく、その家族にもそのまま適用されました。今でも苦痛を受けています。日本国内と同様に、その家族も補償対象に含まれるように国会議員各位が立法してくださることを切に要請します。

(3) 当法律によって、すべての被害者が補償を受けることができる措置がとられることができることを希望します。
 本人と原告たちは、「原爆被爆者認定方法」と同様な方法で被害者認定を確認することができる方案が実現するのを希望します。【註3】

 1945年8月15日以後にも、日本人園長(=西亀三圭園長)がずっと療養所を運営していたし、その状況で日本政府によって雇用せられた療養所職員によって84人の入所者が虐殺される事件が発生しました。また、1950年朝鮮戦争当時、2が月間、北朝鮮軍によって小鹿島が占領されて行政の空白期が発生しました。

 このような混乱期に、1945年以前の入所者名簿の消失する事態が発生したし、60年が経った今、1945年以前に小鹿島更生園に入所した事実を記録で確認することができない対象者が存在しています。【註4】
 このような理由で、原爆被害者のような方式の補償対象者認定方法が必要です。

 記録によってだけ入所者を確認する場合、すべての被害者を補償対象にする補償法の目的を実現することができないのみならず、また、他の被害者を発生させることになるでしょう。

 高齢である被害者たちが、さっそく補償を受けることができるように人間の普遍的な原理である人権尊重される方案を用意してくださることを国会議員各位に切に希望します。

ありがとうございます。

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【註1】「原告の方」が、今年になって死亡され、小鹿島での「原告」の死亡者は、24人となった。滝尾の意見であるが、通常国会で「新・補償法案」が審議される際に、補償申請をした方で、その後、死亡された人は、「新・補償法案」でも相続人に「補償金」が支給されるよう厚生労働大臣は、「省令」の「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律施行規則」に明記するよう立法府である国会が、下位機関である行政府の担当大臣に確認をとる必要があろう。

【註2】滝尾英二著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫(2000年3月発行)123~144ページ参照。なお小鹿島更生園編・発行の『昭和十一年年報』には「未感児童保育所」の挿絵写真があり、長島愛生園書記の宮川量は、昭和十一年七月(1936年7月)「小鹿島更生園訪問記録」には、「未感児童について」述べている。滝尾英二編・解説『植民地朝鮮におけるハンセン病資料集成』不二出版、第1巻310ページ。第6巻249~251ページ参照。親とるわけ母親は、子供を伴って収容され、また、ハンセン病の夫とともに「ノン」の妻が来島し、病院側の使役に服することもある。

【註3】(二)申請にあたっての「認定」の問題については、「入所者名簿」等の書類が、消却されている場合も、現実にはあるであろう。その場合は、『原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行について』の各都道府県知事・広島・長崎市長あて厚生省公衆衛生局長通達を参考にして、ハンセン病患者収容の申請手続きで、処理されることが大切である。以下、厚生省事務次官より依命された標記の公衆衛生局長通達を記述しておく。

一、被爆者健康手帳交付の申請にあたつての添付書類について
 原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行規則(以下「規則」という。)第一条の規定による原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行第二条各号の一に該当することを認めることができる書類としては、おおむね次によること。
(一) 当時の罹災証明書その他公の機関が発行した証明書
(二) 前号のものがない場合は、当時の書簡、写真等の記録書類
(三) 前二号のものがない場合は、市町村長等の証明書
(四) 前三号のものがない場合は第三者(三親等内の親族を除く。)二人以上の証明書
(五) 前各号のいずれもない場合は、本人意外の者の証明書又は本人において当時の状況を記載した申術書及び誓約書

【註4】解放後、小鹿島病院では、各生里にそれぞれ残されていた「名簿」や「学校の卒業名簿」などや、入所者の証言をもとに、正確な日帝時代の入所者の名簿作りをしてきた。しかし、これらは正しいものだけれど、すべてを覆うということにはならず、覆いきれない部分が存在する。それは上記の【註3】にある「原爆被爆者認定方法」と同様な方法で被害者認定を確認することができるよう補償対象者認定方法が必要であると考える。

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 【辛淑玉さんのHPより】

                            (2006.01.09)
 滝尾さんと共に韓国のハンセン病回復者の住む、ソロクトにいったのは、3年前です。
植民地にハンセン病というむごい人生に涙を流した滝尾さんは、ご自身も体調が優れません。
 まもなく命を懸けた座り込みが始まろうとしています。
私はこの時期に、日本に居ないことが何よりも胸が痛く、叫びたい思いです。
多くの方の支援をお願いします。
 日帝強占期、韓国と台湾で強制収容されたハンセン病元患者さんたちが補償を求めた裁判で、
 たたかいの舞台は国会審議に移ろうとしています。
通常国会を前に、広島の滝尾英二氏が議員会館前での座り込みを計画されており、そのお知らせです。

 *「謝罪と恨霊への祈り」50時間の座り込み
 * 関連情報: シンの手帳『ハンセン病回復者差別 二つの取り組み』    

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2006年1月20日 (金)

「謝罪と恨霊への祈り」50時間の座り込みの日程変更・短縮について

人権図書館・広島青丘文庫  滝 尾 英 二

2006年1月19日(木曜日)深夜

 『2006年1月24日(火)午前9時から、1月26日(木)午前11時まで、「小鹿島更生園・台湾楽生院ハンセン病被害者」に対する政府の【救済策】乃至【『補償法』見直し厚生労働委員会の審議】が通常国会で行なわれる時期に向けて、衆議院第二議員会館前の路上で、「謝罪と恨霊への祈り」50時間の座り込みの集いを行ないます。』と昨年来、予告してきました。

 ところが、1月19日(木曜日)の早朝以来、国会議員からの連絡、またNHK、『朝日新聞』などの報道により、「日本の植民地統治下の時代に、韓国や台湾など国外のハンセン病療養所に入所させられていた人たちに対する補償問題で、与党は補償額を国内入所者の水準に合わせて1人800万円とするハンセン病補償法の改正案を20日からの通常国会に提出する方針を決めた。すでに民主党とも調整を始めており、他の野党にも呼びかけて、超党派の議員立法で早期成立を目指す。改正案によると、対象となるのは、戦争中、韓国、台湾のほか、パラオ、サイパンなど南洋諸島の国・地域にあった療養所施設に入所していた人たち。」(『朝日新聞より』)である。また、補償申請後に死亡した者も、改正案では規定により補償金を支給されることになっている。

 このことは、「小鹿島更生園・台湾楽生院ハンセン病被害者」に対する取り組みの前進として評価できる。しかし、日本占領地域のハンセン病被害者の補償はもりこまれておらず、また、国外ハンセン病療養所入所者の名誉回復や、死没者に対する追悼の意を表するために必要な措置等についての扱いなど、問題も見当たりして、手放しには喜べないところも見受けられるが、こうしたことを受けて、「謝罪と恨霊への祈り」50時間の座り込みは、25時間短縮することとした。

 第二衆議院議員会館前の「座り込み」開始は、従来通りに1月24日(火曜日)午前9時から始め、翌25日(水曜日)10時までとし、座り込み解除する。その後に、座り込みに参加した方たちなどからの意見を集約し、午前10時の時点で集まった人たちで、今次提出される「改正案」を討議・論議して「要望書」を取り纏め、それを各政党責任者や厚生労働大臣に手渡したい。また、その際に国会という立法府で「旧・植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策の被害実態調査」の実施を要望したいと考えている。 

皆さまのご協力とご支援を要請いたします。

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「ハンセン病補償法改正案」に対する韓国の報道論調です【滝尾】

    福留範昭先生から、滝尾宛てに送信していただいた1月19日の日本の通常国会で議員立法で審議されようとする法案「ハンセン病被害者補償法改正案」に対する韓国の報道記事の見解です。批判的な見解である点に、ご留意下さい。

 福留、森川両先生! 毎度のことですが、ありがとうございました。

  2006年1月20日(金) 14:40  人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二より 

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1) 日本、韓国などのハンセン者に、1人当たり800万円ずつ補償 (聯合ニュース)
2) 強制徴用糾明 「歳月よ、歳月よ」 (京郷新聞)
3) <寄稿 / 有光健> 「韓国政府、日本に戦後補償要求すべき」 (東亜日報)
4) 私たちの中の小鹿島 (ハンギョレ)

1) ***************************
[聯合ニュース 2006/01/19 16:50]

【日本、韓国などのハンセン者に、1人当たり800万円ずつ補償】

(東京=聯合ニュース) シン・ジホン特派員= 日本の政権党である自民党は、日帝強占期に強制隔離・収容していた韓国と台湾などの外国のハンセン者に、1人当たり800万円を補償する方案を推進することにした、と朝日新聞が19日報道した。

自民党は、野党との調整を通して、このような内容のハンセン病補償法改正案を、20日に開会する定期国会に与野党の議員立法として提出することにした。

1人当り800万円は、強制隔離・収容されていた日本のハンセン者に与えられた補償額に多少及ばない水準だ。

日本政府は、自国のハンセン者には、収容所への入所期間に比例して、800万~1,400万円を補償している。しかし、自民党は、外国のハンセン者には一律に800万円を補償する方案を法案に盛り込んだ。

厚生労働省の検証会議は、昨年3月に発表した報告書で、日帝強占期の外国のハンセン者が、日本のハンセン者と同じ人権被害を被ったと指摘した。

また、昨年10月東京地裁は、日帝の韓国と台湾のハンセン者の強制隔離政策と関連した2件の訴訟で、台湾のハンセン者側には勝訴を、韓国のハンセン者には敗訴の、くい違う判決を下した。

以後、日本政府は台湾の訴訟を控訴したが、同時に両国のハンセン者に補償する方案も検討してきた。

<森川静子訳>

2) ***************************
[京郷新聞 2006年1月19日 22:50]

【強制徴用糾明 「歳月よ、歳月よ」、「いつまで待たなければならないのか」】

朴某氏(54)は、日帝強占期に強制徴用された父親に対する真相究明の話になると、溜め息をつく。

朴氏は、昨年2月政府が日帝による強制徴用被害の受付けを始めると、父親の徴用事実を立証するための書類を「日帝強占下強制動員被害真相究明委員会」に提出した。

しかし、申請を終えて1年が過ぎようとしているのに、進捗状況に関して、一言も聞貸されていない。

真相究明は、強制徴用者であることを立証しうる書類を通して、書類がない場合は、徴用事実を知っている証人に確認する方式でなされている。

朴氏の場合、父親が当時徴用現場の日本から家族に送った手紙2枚が根拠書類の全てだったが、これを紛失した。このため、徴用および手紙紛失の事実をよく知っている二人の叔母の隣保証[正しくは、隣友保証]をもらい、書類を提出した。

しかし、昨年11月年上の叔母が老患で死亡し、もう一人の叔母も糖尿病の症状が重篤だ。この叔母まで死亡した場合、父親の徴用事実を明らかにする人がいなくなる。

朴氏は、委員会に隣保証人が亡くなった場合、その後の確認手続きがどうなるのか何回も問い合わせたが、明確な回答を聞くことができなかった。

彼は、「公証でも受けるかと考えているが、死後の隣友保証が有効かどうか分からない」といい、もどかしさを吐露した。

◇ 遅すぎる処理手続き= 真相糾明委員会で受け付けられた件数は19日現在、21万件余り。しかし、委員会が1年間で検討した書類は2万余件に過ぎず、このうち被害事実が確定したものは5,100件余りで、全受付件数の4%だけだ。

その上、確定した事例は徴用事実を書類で明確に、立証できる場合で限定されている。朴氏のように隣友保証を付けた人は8万人余りに達するが、まったく検討対象から除外されている。

隣友保証に関しては、どのように被害事実を口証するのか明確な基準も準備されない状態だ。

太平洋戦争犠牲者遺族会の梁順任(ヤン・スニム)会長は、「政府が処理基準を出さないでいる間に亡くなる方々に対しては、政府が立証責任を負わなければならない」と語った。

委員会は、「被害調査の人員が25人に過ぎず、資料検討に多くの時間がかかる」とし、「27日頃隣友保証の処理基準を準備し、後続措置をとるだろう」と明らかにした。

◇ 残る問題点= どれだけ多くの期間がかかるのか分からないが、一旦被害確認手続きが終了しても、真相究明と共に、犠牲者の霊を慰労する慰霊塔建設、補償などの問題が残っている。

遺族たちは、真相究明と共に政府の補償も要求してが、該当特別法では、真相究明および慰霊塔建設に委員会の活動を制限している。補償に関する根拠は全くないのだ。

政府は当初昨年12月末までに補償手続きをまとめると明らかにしたが、今年の上半期中に延期した状態だ。

補償方式をめぐっても、意見が対立している。政府は、生活安定支援法(国会係留中)に根拠を置き、生計費名目で支援するという腹案を持っているが、被害者らは生計費でない報償金支給を要求している。

遺族たちは、「もの乞い」ではなく、報勲次元の「補償」を望んでいるのだ。補償主体に関する論議も、解決すべき課題だ。

韓・日協定を通して、韓国政府が補償金を受けたのだから、政府が責任を負わなければならないという意見と、日本側の明確な補償意志がなかったので日本政府が補償しなければならないという見解などが交錯している。

             (チョ・ヒョンチョル・イム・ジソン記者)

■強制徴用真相究明日誌

▲2004・2・13 真相糾明等に関する特別法 国会議決
▲04・11・10 真相糾明委員会発足
▲05・2・1 強制動員被害申告および真相調査申請受付開始
▲05・6・30 第1次受付完了
▲05・12・12 第2次受付開始
▲06・1・11  5,229件の被害認定

3) ***************************
[東亜日報 2006年1月20日 03:20]

 【寄稿 / 有光健> 「韓国政府、日本に戦後補償要求すべき」】

終戦60年、日韓修交40周年の2005年に戦後問題解決が大きく進展することを期待したが、そうはいかなかった。これに関与してきた一人として、残念に思わざるをえない。

戦後問題解決を妨げてきた最大の障壁は、A級戦犯を合祀している靖国神社への参拝をこれ見よがしに強行している小泉純一郎日本総理であるに違いない。そのような頑固な歴史認識を持った総理が、国民の人気を得ているという事実が残念だ。

一方、韓国側はこの間どうだったか。2004年7月済州で開かれた韓日首脳会談で、盧武鉉大統領は、「私の任期中は、韓国政府は韓日間の過去の問題を公式的な議題や争点にしないようにする」と言った。しかしながら、昨年3月日本政府に過去史の真相究明と謝罪、賠償などを要求し。

こういう姿は、説得力に欠け、無気力に見えさえした。こういう韓国政府の態度に対し、日本の外相は、「韓国政府の意中が分からない」という反応を見せた。この時、韓国政府は外交チャンネルを稼動させ、日本政府のそういった反応に正面から対応すべきだった。

昨年11月のアジア太平洋経済協力体(APEC)首脳会議に際し、両国首脳が会った時も、盧大統領は当時盛んに問題になっていた靖国神社参拝や教科書歪曲、独島問題をより一層浮き立たせようとする意図があっただろうが、これ以上謝罪や賠償を要求しない」と言った。

続いて盧大統領は、「個人の個別請求権は残っている」と蛇足を付け加えたが、果たして適切な発言であっただろうか。日本の外務省はいち早く公式声明で、こういった内容をホームページに発表し、新聞やテレビも素早く報道してしまった。

韓国政府としては、その時も明確な意味を再び明らかにすべきだった。特定の目的だけをねらって、他のことを疎かにするのでなく、総体的戦略的、そして併合的な交渉が賢明な対応だという気がする。

歴史認識も重要な問題だが、人権問題は決して過去の問題として終わりえない。

昨年は、17人の日本軍慰安婦が恨(ハン)多き生涯を終え、戦時に右腕を失い、60年間日本政府を相手に独り最高裁判所まで闘ってきた釜山の金成壽(キム・ソンス)氏も亡くなった。

南方戦線で捕虜監視員として動員され、B級・C級戦犯の汚名を負った人たちもいる。

終戦後日本人と共に強制労働をしてソ連に抑留されて帰ったきた人たち(朔風会会員)もいる。彼らは、戦争が終わって一週間余りの1945年8月23日からソ連の地に強制連行され、冬季には零下55度にまでなる極寒の地で飢餓と強制労働、酷寒の三重苦を体験した人たちだ。

運良く再び祖国の土を踏んだ韓国人は500人余りだったが、彼らも今では約30人しか残っていない。朔風会は終戦後の事件であり、請求権協定対象とは何の関係もないにも関わらず、韓国政府はどうしてずっと沈黙しているのか。

慰安婦とサハリン徴用者、被爆者も請求権協定の対象になっていないが、適切な措置は講じられていない。

日本政府は戦後問題に関して、相手方が公式的な問題提起をしない限り、進んで良心的な措置はしない傾向がある。返事はいつも終始一貫している。「終わった」だ。

韓国政府の姿勢が一層明白で、決然としていなければならない理由が、まさにここにある。

             (有光健 日本戦後補償ネットワーク代表)

4) ***************************
[ハンギョレ 2006年1月19日 22:12]

【私たちの中の小鹿島】

「人々がチン(鉦)とドラを打ち鳴らしながら集まってきた。テントの中に逃げる込んだので、竹槍を目茶苦茶に突き刺した。傷つき出血して、大騒ぎになった。ガソリンが撒かれ、火がつけられた。出て行っても殺されると、死んだふりをして隠れていた。」

1957年8月、慶尚南道の小さな島ビトリで、農地を作るため土を掘り起こしていたハンセン者28名が、竹槍で突かれ、焼かれて亡くなった。

虐殺の主犯は、「ハンセン病患者と一緒には住めない」という隣住民たちだった。50年近い歳月が流れたが、生存者たちの証言と記憶は、おぞましいほど生々しい。

ハンセン者たちは、63年伝染病予防法が改正され、法的隔離が解除された後でも、定着村を抜け出せなかった。別名「フリガリ」と呼ばれた一斉取り締まりにかかれば、まちがいなく小鹿島(ソロクト)などの定着村に引きずられて行った。

子供を取って食べるという俗説のために、ともすると誘拐犯にされ、感染の心配がないハンセン病歴者と2世たちも、一般学校に通うことは不可能だった。

80年代後半にいたるまで、「精管手術をしなければ、部屋を与えない」と言われ、結婚前に断種手術を受けなければならなかった。今でも事情はそれほど異ならない。

薬物治療で99%完治するだけでなく、遺伝性がないという事実は、それほど重要でないと思われる。

言葉では、ハンセン者と近隣として住むことは「別に問題ない」(63%)とか、「何でもない」(11%)と言うが、実際町内の浴場や床屋を一緒に利用したがらない人が大部分(80%)だ。

定着村に隔離するのは避けられない措置(60%)であり、ハンセン者2世との結婚は考えられないこと(87%)だ。(国家人権委員会アンケート調査)

ハンセン者に限った問題ではない。町の近所に障害者施設が建てられることになると、「住民一同」は間違いなく「絶対反対」の横断幕を掲げる。

性的少数者とエイズ感染者は、彼らが「変態」者であるから問題であり、移住労働者は少々冷遇しても構わないと思われているのだ。予備役の人たちは、信念であれ何であれ、軍隊を拒否する若者たちが憎らしいだけなのだ。

社会的弱者と少数者に対する偏見と差別意識は、あちこちで内面化されている。

ハンセン者がそうであるように、障害者、移住労働者、セト民(北からの脱出者)、同性愛者など隣人として暮らすのは、なぜか不便で好ましくない。

最近、国家人権委員会に熱心に礫(つぶて)を投じている保守言論と財界の論理は、こういう二重性に、洪世和(ホン・セファ)氏の言葉を借りると、「存在を裏切られる意識」に巧妙に寄り添っている。

考えてみれば、偏見と差別に対抗して戦ったのは、人権委ではない。肌色があんず色に変わる過程には大胆な小学生たちがいたし、強制的な日記帳検査を児童人権侵害として陳情したのはある小学校教頭だった。

[※訳注 :  2001年11月、外国人たちは国家人権委員会に、クレパス製造業社を相手に「特定色を『はだ色』と名付けているは、憲法第11条の平等権を侵害する素地がある」と申請した。人権委は、改訂を勧告し、以後、技術標準院は産業規格KS標準から「はだ色」を無くし、文具類などでは「はだ色」の系統色の名称である「軟朱黄」を使用することにした。
  しかし、小中学生6名が2004年8月、「難しすぎる漢字語である『軟朱黄』を使うのは子供に対する差別だ」と人権委に申請を申し立てた。これを受け、昨年5月、技術標準院はKS標準名称として、「あんず色」を最終確定した。]

背が1㎝足りずに、警官になる夢をかなえることができない若者の呼びかけは、公務員採用時の身体規定を撤廃する勧告を導き出した。

人権委は、彼らの声を無視しないで傾聴したに過ぎない。しかし、現実を見ると、国家アイデンティティーまで云々して、大げさに騒ぐことでもないようだ。

肌色があんず色に変わったとしても、移住労働者の生活は相変らず厳しく、良心的兵役拒否者は、今でも黙黙と1年6ケ月の監獄行を選んでいる。

警察の身体規定廃止勧告は、「それでは、筆記試験も差別か」という警察総帥の一言で葬られてしまったし、非正規職差別に対する意見表明は、労働部長官が立ち上がり、「よく知らなければ、勇敢だ」と一蹴しはしなかったか。

黒人人権運動家マーティン・ルーサー・キングは、生前に「悲劇は悪しき人の粗野な叫び声ではなく、善良な人の鳥肌の立つ沈黙」だとし、社会全体の自省を促した。

私たちの中の小鹿島は、依然として多い。

            (金フェスン論説委員)

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2006年1月19日 (木)

韓国訪問記【2006年1月10~17日】(その2)/「小鹿島の訪問記=日本の歴史研究者として気が重くて、また心踊る旅の道程(Ⅰ)」

『小鹿島の訪問記=日本の歴史研究者として気が重くて、また心踊る旅の道程(Ⅰ)』

              広島青丘文庫 滝尾英二 (2006年1月18日記す)

(1) 日本占領地域・フィリピン「クリオン」のハンセン病収容所の患者に対する大虐殺を知って

ソウルには、1月10日から12日までの3日のあいだ滞在し、13日の早朝にホテルを後に小鹿島を訪問した。前日に龍山駅が始発の特急「セマウル」の予約席をソウル駅の窓口で購入しておいた。龍山駅は地下鉄で「鐘路2街」から市庁、ソウル駅を経て行くことが出来る。龍山(yongsan)駅を07:50発で、順天(suncheon)駅には12:17到着する。特急「セマウル」の運賃は32,600Wである。通訳を依頼した天飛龍さんとは、一足はやく順天駅に到着した天さんとお逢いして、小鹿島を訪問することになっている。

午前6時に起床して、身支度をすませて朝食を食べにすぐ近くの「ヘイジャンク専門店」へ行く。たいてい毎朝は、食事はこの店で済ませることにしている。「ヘイジャンク」とは牛の内臓と野菜をお米に混ぜて炊き上げた雑炊と思っていただけばと思う。しかし、気の重い・反省することの多い一日だった。その要因は、前日・前前日にソウル大学教授である鄭根埴さんから教えていただいた日本占領軍によるフィリピン「クリオン」の1943年に起きたハンセン病収容患者の2,000人もの大虐殺の事実である。これをハンセン病問題の歴史研究者として、「不作為」とはいえ、この60余年年間も放置してきた責任の問題である。

「クリオン」のことは、光田健輔の著作でよく知っていた。例えば滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻には、光田健輔が1940年10月号の『愛生』に掲載した「小鹿島更生園参観」を収録している。そのなかで光田は「要するに世界第一と云はれた比律賓「クリオン」に比するに収容人員は相同じであるが彼等の患者住宅は粗末なる小屋掛けが多く大風一過すれば吹っ飛ぶが如き棕櫚萱屋根である、‥‥」と書いている。南方年鑑刊行会編『南方年鑑・昭和十八年版』(1943年9月発行)の1956ページには、疾病として「‥‥癩病に関してはフィリッピン政府の特に意を用ひるところで、癩重病者はパラワン島のクリオン島及びセブ島に収容してゐる」と書かれている。
米英開戦により、フィリピンは米日の激戦地として知られ、多くの「戦記物」が出版されてきた。その何冊かは、私も読んでいる。そして「クリオン」のハンセン病患者のことが私の頭を霞めたこともあった。しかし、私はこの日本占領地域フィリピン「クリオン」のことを調べようとはしなかった。

厚生労働省より委託事業ではじめられて、昨年=2005年3月に2年半あまりついやして出来上がった『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の「旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策(要約版)」の記述には、この「クリオン」のハンセン病患者収容施設のことをどのように書いているか、調べてみた。この最終報告書の総頁数は1,500に及ぶという。
「フィリピンでは、日米開戦時、アメリカは開放治療を採用し、フィリピン全土に五か所の療養所を開設し、重症者のみクリオン島の療養所に収容していた。‥‥」(91ページ)。本最終報告書の記述もまったく同じ内容である。前日・前前日にソウル大学教授である鄭根埴さんから教えていただいた日本占領軍によるフィリピン「クリオン」のことは、全然書かれていない。このように書く私自身、その『検証会議最終報告書』を批判・検討してきたが、私も「クリオン」のことを知ろうとしなくて、不問にしてしまったことでは、検証会議委員・検討委員と私は同罪である。いう言葉を失ってしまう。

鄭根埴さんから教えていただいた「クリオン」の大虐殺の歴史事実を以下、簡潔に書いてみたい。
3ヶ月前の10月、フィリピンの「クリオン」島のハンセン病療養所の関係者と鄭根埴さんはインタビューをしている。現在も小規模ながら「クリオン」のハンセン病の療養所は開設されている。日本占領軍がこの療養所を運営しはじめた1943年、患者に支給する食料を絶ち始めた。餓死者は続出し、この年に2,000人の餓死者を出した。ハンセン病患者を「虐殺」したのであるという。「クリオン」療養所には前述したように「重病者はパラワン島のクリオン島」に収容されていたことを考えると、自分で食糧を得ることは困難であったのだろう。

順天にむかう車中で、私は大岡昇平が書いた『捕虜記』『野火』などの戦記文学を思い出していた。もちもん、それはフィリピンで敗戦末期に、USA軍・現地ゲリラ軍に追われた日本軍兵士の餓えとの闘いを記した戦記である。日本占領地域でハンセン病療養所の患者たちの餓死者の続出の情況を思い浮かべる。そうして、順天に列車は到着した。そうだ !1月24日から26日までの「謝罪と恨霊への祈り」の座り込みには、「クリオン」のハンセン病患者の恨霊への祈りと謝罪が必要だと思った。外は小雨が降っていた。

順天駅頭まで、迎えにきていただいた天飛龍さんと駅前の食堂で昼食のうどんを啜る。小鹿島の桟橋には金明鎬自治会長に依頼しておいたので、車が待っていた。自治会室に直行して、次節のような話し合いを金明鎬自治会長や小鹿島病院職員らと行なった。

   

(2)小鹿島からの「陳情書」=「新・補償法」制定にむけての闘いについて

<1月13日午後に話し合った滝尾と自治会(・原告)代表、病院の方がたとの長い討議の末に作成された「陳情書」案、及びその案の補注>

「陳情書」(案)   自治会長 金明鎬、補償請求原告代表 蒋基鎭

「陳情趣旨」=1945年以来、日本政府によって運営された小鹿島更生園入所者など被害者たちに対する補償法を早急に制定し、すべての被害者たちが補償を受けることができる方策を用意してくださることを切に要請します。

「陳情理由」

(1) 日本国外ハンセン病療養所入所者補償のための法を早急に制定してください。【註1】

被害者である原告たちは、国会議員各位にこのたび「通常国会会期中」の早い時期の本年末(3月末日)までに、日本国外ハンセン病療養所入所者のための法律を議員立法で制定してくださることを要請します。

(2) 当法律には、ハンセン病患者本人だけではなく、小鹿島更生園に強制収容されたその家族に対する被害も補償対象に含まれることができるようにお願いします。【註2】
 強制収容政策は入所者だけではなく、その家族にもそのまま適用されました。今でも苦痛を受けています。日本国内と同様に、その家族も補償対象に含まれるように国会議員各位が立法してくださることを切に要請します。

(3) 当法律によって、すべての被害者が補償を受けることができる措置がとられることができることを希望します。
 本人と原告たちは、「原爆被爆者認定方法」と同様な方法で被害者認定を確認することができる方案が実現するのを希望します。【註3】

 1945年8月15日以後にも、日本人園長(=西亀三圭園長)がずっと療養所を運営していたし、その状況で日本政府によって雇用せられた療養所職員によって84人の入所者が虐殺される事件が発生しました。また、1950年朝鮮戦争当時、2が月間、北朝鮮軍によって小鹿島が占領されて行政の空白期が発生しました。

 このような混乱期に、1945年以前の入所者名簿の消失する事態が発生したし、60年が経った今、1945年以前に小鹿島更生園に入所した事実を記録で確認することができない対象者が存在しています。【註4】
 このような理由で、原爆被害者のような方式の補償対象者認定方法が必要です。

記録によってだけ入所者を確認する場合、すべての被害者を補償対象にする補償法の目的を実現することができないのみならず、また、他の被害者を発生させることになるでしょう。

高齢である被害者たちが、さっそく補償を受けることができるように人間の普遍的な原理である人権尊重される法案を用意してくださることを国会議員各位に切に希望します。

ありがとうございます。

============================

【註1】「原告の方」が、今年になって死亡され、小鹿島での「原告」の死亡者は、24人となった。滝尾の意見であるが、通常国会で「新・補償法案」が審議される際に、補償申請をした方で、その後、死亡された人は、「新・補償法案」でも相続人に「補償金」が支給されるよう厚生労働大臣は、「省令」の「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律施行規則」に明記するよう立法府である国会が、下位機関である行政府の担当大臣に確認をとる必要があろう。

【註2】滝尾英二著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫(2000年3月発行)123~144ページ参照。なお小鹿島更生園編・発行の『昭和十一年年報』には「未感児童保育所」の挿絵写真があり、長島愛生園書記の宮川量は、昭和十一年七月(1936年7月)「小鹿島更生園訪問記録」には、「未感児童について」述べている。滝尾英二編・解説『植民地朝鮮におけるハンセン病資料集成』不二出版、第1巻310ページ。第6巻249~251ページ参照。親とりわけ母親は、子供を伴って収容され、また、ハンセン病の夫とともに「ノン」の妻が来島し、病院側の使役に服することもある。

【註3】(二)申請にあたっての「認定」の問題については、「入所者名簿」等の書類が、消却されている場合も、現実にはあるであろう。その場合は、『原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行について』の各都道府県知事・広島・長崎市長あて厚生省公衆衛生局長通達を参考にして、ハンセン病患者収容の申請手続きで、処理されることが大切である。以下、厚生省事務次官より依命された標記の公衆衛生局長通達を記述しておく。

一、被爆者健康手帳交付の申請にあたつての添付書類について
 原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行規則(以下「規則」という。)第一条の規定による原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行第二条各号の一に該当することを認めることができる書類としては、おおむね次によること。
(一) 当時の罹災証明書その他公の機関が発行した証明書
(二) 前号のものがない場合は、当時の書簡、写真等の記録書類
(三) 前二号のものがない場合は、市町村長等の証明書
(四) 前三号のものがない場合は第三者(三親等内の親族を除く。)二人以上の証明書
(五) 前各号のいずれもない場合は、本人意外の者の証明書又は本人において当時の状況を記載した申術書及び誓約書

【註4】解放後、小鹿島病院では、各生里にそれぞれ残されていた「名簿」や「学校の卒業名簿」などや、入所者の証言をもとに、正確な日帝時代の入所者の名簿作りをしてきた。しかし、これらは正しいものだけれど、すべてを覆うということにはならず、覆いきれない部分が存在する。それは上記の【註3】にある「原爆被爆者認定方法」と同様な方法で被害者認定を確認することができるよう補償対象者認定方法が必要であると考える。 

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2006年1月18日 (水)

韓国フォト訪問記【2006年1月10~17日】

                                        (広島青丘文庫 滝尾英二)

1)
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2006年1月11日午前10時、韓国国立・日帝強占下 強制動員被害真相究明委員会事務局長・崔鳳泰さんを同事務局を訪ねて、ハンセン病問題などの意見・要望などを話す。崔鳳泰事務局長は、国家公務員を辞し、「法務法人・三一(大邱)」で、再度、弁護士として、人権問題などに復職されるという。
 11日の夜には、滝尾の宿泊しているホテルを訪ねてこられ、1時間余り、喫茶店で談笑する。日帝強占下 強制動員被害真相究明委員会事務局長時代に関わってきた人間関係を今後も活かして行きたいと言われていた。今後とも、ご協力をお願いしたいと話し、了承を得ることができた。

2)
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「日帝強占下 強制動員被害真相究明委員会事務局内」での写真。ハンセン病問題担当の調査1課、調査委員の方たち。おふたりには、大変、お世話になりました。

3)
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『滝尾英二的こころ』のホームページを見る日帝強占下強制動員被害真相究明委員会調査委員。日本語通訳ができ、パソコンもとても上手だった。滝尾が見方を実地に指導し、説明したら、内容が充実しているので驚いていた。これからは、毎日、開いて訪問し、他の委員たちにも、見せていきたいと言っていた。うれしいことである。さらに充実していきたいものである。
検索しても「滝尾英二的こころ」や「滝尾英二ウェブ」にも、当たれるようにしてみたい、ということであった。まだ、限られたところしか韓国では「滝尾英二的こころ」や「滝尾英二ウェブ」は見られていない。
     

4)
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日帝強占下 強制動員被害真相究明委員会事務局が8階にある「世安ビル」の前で写る滝尾。教弘ビル(教弘文庫が地下にあるビル)から徒歩3分ほどのところに建っている。(2006年1月11日、正午)

5)
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1月11日(水曜日)午後1時30分から2時まで、市庁横にある「釜山銀行ビル」の11階で、人権政策委員会本部長になられた朴燦運さんと懇談した。お忙しい中、時間を割いていただいての意見交換であった。私からは、韓国政府の人権政策の基本をお伺いした。
 日本の弁護団からは、1月22日の東京でのシンポジウムにおいて、韓国のハンセン病全国調査の報告をしてもらいたいという依頼があったそうだが、「調査結果はこの3月末にならないと出ないので、それまでは、国家人権委員会としては報告をすることは出来ない」ということであった。
  朴燦運さんの机上には、『未来』2005年11月号が置かれていた。早稲田大学へ留学している若い弁護士が送ってくれたものだという。滝尾英二著「植民地下鹿 小島更生園での『生体実験――KBS(韓国放送)の取材に答えて』が掲載され、そのなかで、朴燦運さんのことを書いているからであろう。


6)
DSCF1884
1月11日(水9午後2時がら4時まで、滝尾の宿泊している「ソウル・ホテル」に国立ソウル大学・歴史学部の鄭根埴教授が訪ねてくる。十年来の学友である。
韓国人権委員会の依嘱で「チームリーダー」となり、ハンセン病患者・病歴者の全国調査をしているので、滝尾は今回その調査の意見を求められての訪韓であった。
 その後も、鄭教授とは、翌日のソウル大学と、1月16日(月)の人権委員会のハンセン病問題シンポジウムに滝尾も出席し、鄭教授はそのシンポの報告者の一人であったため、今回の韓国訪問では3回会ったことになる。

 11日は、滝尾が宿泊しているホテルの室内で行なった。1月22日に明治大学駿河台校舎リバティータワー1階ホールで「~弁護団」主催で開催され、鄭教授がその最初の報告者である「=ともに生きる=日韓台共同シンポジウム~ハンセン病隔離政策からの被害回復をめざして~」のことなども話し合った。

 同シンポジウムは、第一部「基調提案」と「~同弁護団のHP」には書かれていながら、肝心の日本からの「基調提案」は、なされるとは書かれていない。韓国も台湾も「補償(法)立法の動向」は「基調提案」はあっても、日本からは「「補償(法)立法の動向」はなされない。侵された韓国・台湾をされておいて、侵した側の日本が「基調提案」をしないのは、納得いかない。そのことを話すと、鄭教授も大いに同感された。

 それから、「非入所者」のハンセン病患者の被害事実と、その家族の被害事実について確認した。このことは、小鹿島訪問したときも、金明鎬自治会長と話し合い、また 1945年以前の「入所者名簿」が「消失」する事態が発生した後60年が経った現在、入所していたことを確認する方法に関しても意見の交換をしたので、後刻お知らせする。
 その夜は、「韓国の秋葉原」といわれる鐘路四街へ「1月24~26日の国会議員会館前の座り込み」用のCDを買いに行った。「アリラン集」など購入したが、ついでに、「チョウ・ヨンピル、ライブ・コンサート=THE HISTORY」のDVDなどを買ってしまった。歌手生活35周記念コンサートだという。

7)
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ソウル大学16棟で、大学院生・ソウルの大学助教授たちが鄭根埴教授(向かって左から3人目)を囲んで「人権ゼミ(今回のテーマは、沖縄問題であった)」をしているところ。若い女性は、在日朝鮮人=横浜出身で、現在ソウル大学博士課程生である。日本語も堪能なので、「ゼミ終了後」、鄭教授と滝尾の通訳をしてくれた。

 終わって、夕食のブルコギ(焼肉)とお酒の会があり、私も招待を受けた。集まったのは男性ばかりであった。やはり「儒教の社会」だと思う。教科書問題を韓・日共同で研究している大学の研究者が同席していたので、滝尾から、「七三一部隊の人体実験」の問題提議をふまえた滝尾の論考「植民地下小鹿島更生園での<生体実験>――KBS(韓国放送)の取材に答えて」が掲載されている『未来』誌2005年11月号を寄贈しておいた。山の斜面に広大に拡がる校地には、新しい校舎が多く、市内にあったソウル大学を1970年他校と直ちに連帯して学生運動させないため、この地に移したのだという。今はまったくといっていいほど学生運動はない。かつて、鄭教授がいたときの国立全南大学(光州にあったが~)の騒然とした明るさが、現在のソウル大学には見ることができない。

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2006年1月 9日 (月)

 【今ひとつの新たなる大きな前進】―「小鹿島更生園・台湾楽生院、南洋庁設立のミクロネシア四島を含め国外の入所者を対象に、国内と同様の補償を行う」というハンセン病収容所へ強制隔離された人たちへの謝罪と補償問題に関して―

                  人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二
                           (2006年1月9日、記す)

 (一)『毎日新聞』朝刊(大阪本社版)の3面に、「下記」の通りの記事が掲載されていた。

『ハンセン病:国外の入所者救済へ 改正案を議員立法で』

 日本統治時代に開設された韓国と台湾のハンセン病療養所入所者に対する補償問題で、超党派の国会議員が8日、両国を含めた国外の入所者を救済するためのハンセン病補償法改正案を20日召集予定の通常国会に議員立法で提出することを決めた。両国の入所者が日本政府に補償を求めた訴訟は係争中だが、入所者の高齢化が進む中、早期救済が必要と判断した。各党とも合意しており、今年度中の成立を目指す。

 改正案は、韓国、台湾のほかパラオ、サイパン、ミクロネシア、マーシャル諸島を含め国外の入所者を対象に、国内と同様の補償を行う。補償額は入所期間に応じて規定されるが、「入所時点の責任は当時の日本政府にあるが、戦後について負うべきかは議論がある」(川崎二郎厚生労働相)との立場から、戦前の日本統治時代に限定する。改正案が成立すれば政府は予備費で対応する方針だ。

 韓国と台湾の入所者が日本政府に補償を求めた訴訟では、昨年10月の東京地裁判決で、台湾訴訟が原告勝訴となる一方、韓国訴訟は原告の請求が棄却された。川崎厚労相は、台湾訴訟について控訴するとともに、国外の療養所入所者らを対象とした救済措置を検討していた。【坂口佳代】

毎日新聞 2006年1月9日

******************************

このことは、今ひとつの新たなる大きな前進だと評価できよう。問題は、このことを本年度中(=2006年3月31日中)といわず、成るべく早い時期に国会は審議し、成立させることであろう。また、「パラオ、サイパン、ミクロネシア、マーシャル諸島を含め国外の入所者を対象に、国内と同様の補償を行う」ためには、早急に政府は調査団をハンセン病療養所入所者を対象に行なう必要がある。誠実にそのことを実現してもらいたい。

(二)申請にあたっての「認定」の問題については、「入所者名簿」等の書類が、消却されている場合も、現実にはあるであろう。その場合は、『原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行について』の各都道府県知事・広島・長崎市長あて厚生省公衆衛生局長通達を参考にして、ハンセン病患者収容の申請手続きで、処理されることが大切である。以下、厚生省事務次官より依命された標記の公衆衛生局長通達を記述しておく。

「(2) 신청 시 「인정」의 문제에 대해선, 「입소자 명단」등의 서류가 소각되어 있는 경우도
현실적으로는 있을 것이다. 그러한 경우는, 『원자폭탄 피폭자들의 의료 등에 관한 법률의 시행에
관하여』의 일본국내 각 도도부현<행정구역>지사・히로시마<広島>・나가사키<長崎>시장 앞 후생노동성
공중위생국장 통달을 참고로 삼아, 한센병환자 수용의 신청수속으로 처리되는 것이 긴요하다. 이하,
후생노동성 사무차관으로부터 의명 받은 표기의 공중위생국장 통달을 기술해 둔다.

一、被爆者健康手帳交付の申請にあたつての添付書類について
  原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行規則(以下「規則」という。)第一条の規定による原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行第二条各号の一に該当することを認めることができる書類としては、おおむね次によること。
(一) 当時の罹災証明書その他公の機関が発行した証明書
(二) 前号のものがない場合は、当時の書簡、写真等の記録書類
(三) 前二号のものがない場合は、市町村長等の証明書
(四) 前三号のものがない場合は第三者(三親等内の親族を除く。)二人以上の証明書
(五) 前各号のいずれもない場合は、本人意外の者の証明書又は本人において当時の状況を記載した申術書及び誓約書                                           (以下、省略する=滝尾)

1. 피폭자건강수첩 교부신청 시 첨부서류에 대하여
   원자폭탄 피폭자들의 의료 등에 관한 법률의 시행규칙(이하「규칙)이라 한다.)
제 1조의 규정으로 인한 원자폭탄 피폭자의 의료 등에 관한 법률의 시행 제 2조
각호의 1에 해당되는 사실을 인정할 수가 있는 서류로서는 대개 다음과 같이 할 것.

( 1 ) 당시의 피재증명서 기타 공적 기관이 발행한 증명서
( 2 ) 전호의 서류가 없는 경우는, 당시의 서간, 사진 등의 기록서류
( 3 ) 전 2호의 서류가 없는 경우는, 시읍면 수장이 발행한 증면서.
( 4 ) 전 3호의 서류가 없는 경우는, 제3자( 3촌 이내의 친척을 제외한다) 2명 이상의 증명서.
( 5 ) 전 각호의 어느 서류도 없는 경우는, 본인 이외의 증명서 또는 본인에 대해 당시의 상황을
     기재한 진술서 및 서약서.

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上記『通達』文は、広島県社民党会長の金子哲夫さんから提供していただきました。
早速に天飛龍氏が韓国語に翻訳してくださいました。
金子哲夫、天飛龍両氏に心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

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参考    【スタッフ】

オーマイニュース(9日14時43分)

소록도 한센인들 '대일 보상' 길 열리나
일 초당파 의원들, 한국-대만 한센인 보상법 개정안 제출 방침

일제 강점기 하의 격리 정책으로 요양소에 강제 수용된 소록도 한센인 등 아시아 각국의 한센병 환자들이 일본 정부로부터 보상받을 길이 열릴 것으로 보인다.

한국과 대만 한센병환자 보상문제를 검토해 온 일본 초당파 국회의원들이 8일 '한센병 보상법 개정안'을 20일 소집되는 정기국회에 의원입법으로 제출하기로 했다고 <마이니치 신문>이 9일 전했다.

한국과 대만의 한센병 환자가 일본 정부에 보상을 청구한 소송은 아직 2심 절차가 진행 중이다. 그러나 이들이 모두 고령이라는 점을 감안, 빠른 보상이 필요하다는 판단이 작용한 것으로 보인다. 이들 의원들의 입법안은 각 당과도 합의가 끝낸 상태로 올해 안에 법 제정절차를 끝낼 방침이다.

개정안은 한국과 대만 외에도 파라오와 사이판, 마샬 군도 등을 포함한 일본 국외 입소자를 대상으로 일본 국내와 동일한 보상을 실시할 것을 규정하고 있다. 보상 금액은 입소 기간에 따라 결정된다.

그러나 가와사키 지로 일 후생노동상은 "입소 시점의 책임은 일본 정부에게 있지만, 2차대전 종결 후에도 일본 정부가 책임을 져야 하는지에 대해서는 논란이 있다"는 입장이다. 이에 따라 보상 대상 기간은 일제 강점기로 한정할 것으로 보인다.

일 정부, 대만 한센인 승소에 항소... 국외 한센인 포괄적 보상 검토

개정 대상이 된 '한센병 보상법'은 2001년 6월 시행된 법으로, 국적과 현재의 거주지를 불문하고 한 번이라도 한센병 요양소에 입소한 경험이 있으면 보상 대상에 해당된다고 규정, 입소 시기에 따라 800만엔~1400만엔을 지급해 왔다.

그러나 한국과 대만의 한센병 환자들에 대해서는 보상 대상을 규정한 '후생노동성 고시'에 '소록도 자혜원'과 대만의 '낙생원'이 명시되어 있지 않다는 이유로 보상을 거절했다.

이에 소록도 한센인 117명과 대만 '낙생원' 한센인 25명이 일본 정부를 상대로 보상 청구 소송을 제기했다. 이에 대해 도쿄 지방법원은 지난해 10월 25일, 대만 측 소송에 대해서는 "평등 취급 원칙 상 바람직하지 않다"며 원고측 손을 들어준 반면, 한국측에 대해서는 "국회 심의 과정 등에서 외지 요양소의 입소자가 보상 대상으로 인식되지 않았다"며 청구를 기각하는 등 엇갈린 판결을 내렸다.

이에 대해 한국측은 2심 법원에 항소한 상태이며 일본 정부도 대만측 승소 판결에 불복해 항소를 제기했다. 가와사키 후생노동상은 지난해 11월 "한국측 소송에서는 원고측 청구가 기각되어 동일 소송에서 판단이 나뉘어 상급심 판단이 필요하다"며 항소이유를 밝혔다.

그러나 일 후생노동성은 항소와는 별도로 일본 국외 입소자를 대상으로 한 포괄적인 구제 조치도 검토해 나갈 방침이다.

http://www.ohmynews.com/articleview/article_view.asp?at_code=303605

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KBSニュース(9日6時30分)
일 초당파 의원 한센병 보상법 개정안 제출

일본의 초당파 의원들이 오는 20일부터 시작될 통상국회에 한국과 타이완 한센인들을 대상으로 보상금을 지급하도록하는, 한센병 보상법 개정안을 제출할 것이라고 마이니치 신문이 오늘 보도했습니다.

이 신문은 일본 정부를 상대로 한 한국과 타이완 한센인들의 보상 청구 소송이 아직 끝나지 않았지만, 피해자들의 나이가 많다는 점을 감안해 초당파 의원들이 이같은 결정을 했다고 전했습니다.

신문은 보상법 개정안이 국회에서 통과될 경우 일본 정부는 예비비에서 보상금을 지급하게 될 것이라고 밝혔습니다. [국제] 양지우 기자
입력시간 : 2006.01.09 (06:13)

http://news.kbs.co.kr/article/world/200601/20060109/821835.html

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2006年1月 8日 (日)

1月22日~26日までの東京での滝尾の行動の諸連絡です

 滝尾英二より、徳田靖之さん(弁護士)にメールしました。

 1月22日(日曜日)のシンポには、滝尾も傍聴します。その後、午後6時から、関係者と23日の「国会議員室」回りや、座り込みに必要なものの準備の相談をします。1月23日の国会議員会館での国会議員回りには、共に依頼を兼ねて、「挨拶」に回ります。

 宿泊は、22日(日)と23日(月)の「座り込み」の前日、前々日は、「神田ステーション・ホテル」で宿泊します。ホテルの電話番号=03-3256-3221(代)、です。また、FAX=03-3256-4862です。

 滝尾の「携帯番号=090-6435-8135」です。よろしくお願いいたします。

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(参考資料)

 徳田靖之様へ

 1月21日(土曜日)の20:18に、広島バスセンターを発ち、東京八重洲南口へ7:30頃到着します。1月24~26日の衆議院第二議員会館前の路上で「謝罪と恨霊への祈り」の座り込み(「小鹿島更生園の写真等の「パネル」展示を同時に)を行いますので、前日に各党の責任者、及び「連絡・準備議員室」の依頼を兼ねて、小鹿島での現状の諸要望を伝えると共に、「謝罪と恨霊への祈り」の座り込みに、国会議員とその秘書たちに参加するよう責任者の何人かと、議員室を回ります。その日は、1月23日(月曜日)です。

 そして、1月24日(火)午前9時から、深夜も2夜を含めて、26日(木)11:00まで座り込み、その後、昼食会を共にしながら、総括会を行ない、その後、各関係機関・各政党責任者・国会議員などへの「要望書」を、午後2時頃には持参します。

「ハンセン病小鹿島更生園台湾楽生院補償請求弁護団では、韓国・台湾からハンセン病回復者および研究者を招いて、シンポジウムを行います。是非ご参加下しますようお願い申し上げます。」ということです。ありがとうございます。私も傍聴いたします。

 実は、ソウル大学校・歴史学部の鄭根埴(チョン・キョンシク)教授とは、鄭教授がま、国立全南大学校の社会科学部の教授時代であった1996年2月以来の学友であり、一緒のソロクトに宿泊して、『小鹿島八十年史』を編纂し、また、金子哲夫・川田悦子両衆議院議員(当時)が、2001年8月22~23日に、ソロクトを訪問した際も、ソロクトまで、光州から来てくれました。

 広島の滝尾宅のも、3日間、宿泊し、広島市内の大きな被差別部落や、平和公園内施設にも案内しました。なた、私も鄭根埴(チョン・キョンシク)教授のマンションの数回宿泊し、国立全南大学校の社会科学部などにも、訪ねています。

この2~3年前には、鄭根埴(チョン・キョンシク)教授は、京都大学に一年ほどいらっしゃった時、一緒に京都部落史研究所などを訪ね、滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮のハンセン病資料集成』不二出版も、著者割引で購入していただきました。

 昨年=2005年末、ソウルの鄭根埴(チョン・キョンシク)教授から、広島の自宅に電話があり、「韓国政府人権委員会」の依頼(人権政策局長は朴燦運さん=元・ソロクト弁護団長です)され、朴永立弁護士などと「ハンセン病調査の中間報告書」が出来たので、意見を聞きたいので滝尾さんと会いたい」ということでしたので、「それだは、滝尾が、1月10~18日に韓国を訪問する予定なので、ソウルで1月11日(水曜日)に会いましょう」ということにしております。

 小鹿島病院職員の呉成南さんも、『京郷新聞』の「日帝期、小鹿島に資料一つもなし」の記事に対する滝尾の意見メッセージに対して、『滝尾英二ウェブ』・『滝尾英二的こころ』ホームページに、滝尾の意見を書いたのを「インターネット」でみて、呉成南さんが、『滝尾英二ウェブ』の方へ意見を求めて来ています。呉成南さんは、キム・ホンホ自治会長が「政党代表」等の「要望書」作成に協力していただいた病院職員です。

 そこで、私は、1月13日の夕刻には、ソロクトを訪問し、キム・ヨンホ自治会長など自治委員たち、またチャンさん(ソロクト訴訟原告団長)、スーさんなどのハラボジ・ハルモニたちとも逢いたいとも、思っています。

 ソロクト訴訟判決に対する意見は、『滝尾英二的こころ』のメッセージなどや、『飛礫』49号の「ソロクト訴訟はなぜ敗訴したか―今後の闘いにむけて―」(148~160ページにも書いていますように、「東京地裁で敗訴」したのは、「国宗代表のソロクト弁護団」であって、ソロクトの原告たちは(滝尾たち研究者も含めて)「勝った」のだ、という認識を持っています。

 そのことを再度、ソロクトのハラボジ・ハルモニや自治会の方たちに言おうと思います。「ソロクトの原告の皆さんは、この裁判を通して、勝ったのです。敗訴したのは、『ソロクト弁護団(代表・国宗直子弁護士)』ですよ。」と‥‥。

 なぜなら、国は「悪いことをしたから」、この「通常国会」で、国はソロクトなどの日帝期のハンセン病患者に対して「金を出す」というからです。「敗訴」はしていないと思います。かつ、韓国政府も動き始めました。

 もちろん、補償範囲や補償金額などには、さまざまな問題はあります。その為には、「平等の原則にたち、国は、日帝期のハンセン病政策の被害者に対して謝罪とそれに基づく補償=賠償‥‥」ということを、私たちは国会議員や政府に対して要請します。しかし、補償金額などを決めるのは、弁護士でも、研究者でも、支援者たちでもありません。それは、紛れもなく「原告自身」です。弁護団は、原告の依頼者に過ぎません。

 すでに、事実上は、日本mの場合、「司法」関係者である弁護士の手から、立法府である国会(=国会議員、とりわけ「厚生労働委員会」)の手の移ったと、私は思っています。

 だから、国会に対して主権者である一民衆(市民)としての徳田靖之様には、大いに期待しております。しかし、弁護士主導の運動は、すでに「東京地裁で敗訴」して、「ソロクト弁護団」の訴訟は、破綻し且つ「終焉」したと私は、確信しています。このことを「ソロクト弁護団」は、正しく認識する必要があると考えています。

 1月22日に、東京の明治大学駿河台校舎リバティータワー1階ホールで、再会いたしましょう。

   2006年1月8日(日曜日)  1:55AM
             人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二より

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 鈴木敦士です。【台湾在です。=滝尾】

 市民学会のシンポジウムは1月21日ですが、22日にも弁護団の主催でシンポジウムを行います。
 海外ゲストの調整に手間取っており、詳細の連絡が遅くなり申し訳ありません。
台湾からのゲストについては、明日以降台湾に行って調整するので、変更があるかもしれません。
*****転送歓迎*****

ハンセン病小鹿島更生園台湾楽生院補償請求弁護団では、韓国・台湾からハンセン病回復者および研究者を招いて、シンポジウムを行います。是非ご参加下しますようお願い申し上げます。

名称 「ともに生きる」

【日韓台共同シンポジウム
~ハンセン病隔離政策からの被害回復をめざして~】

日 時 2006年1月22日 午後2時から6時

場 所 明治大学駿河台校舎リバティータワー1階ホール

主 催 ハンセン病小鹿島更生園台湾楽生院補償請求弁護団

参加費 無料

 趣旨 2005年10月25日、小鹿島更生園・台湾楽生院の戦前入所者がハンセン病補償法に基づく補償金の請求を求めて起こした訴訟について東京地裁で2つの対照的な判決が言い渡された。この判決を契機に、韓国・台湾においても、自国のハンセン病政策を見直す動きが進んでいる。

 韓国では、国家人権委員会がハンセン病問題について3月までに調査報告書を提出する予定であり、それをふまえた「ハンセン被害事件の真相究明および被害者生活支援法」の制定が検討されている。また、台湾では、判決当日、総統が台湾判決を歓迎すると共に国民党時代の誤った隔離措置による被害の補償を検討する旨表明した。その発言を受け、目下、台湾におけるハンセン病補償法について行政院・政党・運動体等の様々なレベルで議論がなされている。

 他方日本では、2判決を受けて、厚生労働大臣が、原告らに対する適正な補償のあり方について速やかに検討すると述べると共に、戦前の日本によるサイパン等の「南洋」における隔離の被害についても補償を検討すると表明した。

 このような3国における動きは、ハンセン病問題が日本にとどまるものではなく、隔離政策が講じられたどんな国においても共通する問題であると共に、ハンセン病回復者への差別や偏見がいまだに解消されていない現在の問題であることを如実に示すものである。

 私たちは、ハンセン病回復者とともに生きる者として、この問題を最終的に解決するために、自分自身がこれから何をすべきなのか、3国それぞれのハンセン病問題の現状を踏まえて、意見を交換したい。

*  1月25日が世界ハンセン病デーであること、韓国台湾での植民地下での隔離政策の被害者への補償立法が検討されているところ、通常国会招集が1月20日とされていることから、この問題への関心を高めるため、この時期に設定した。(以下、略=滝尾)

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2006年1月 5日 (木)

「検証会議最終報告書」のもつ基本的欠陥

 「ハンセン病問題に関する検証会議」は、何を検証しようとしたのか (第二回)
   ―「検証会議最終報告書」のもつ基本的欠陥は、どこにあるのか―

                    人権図書館・広島青丘文庫  滝 尾 英 二
                            (2006年1月5日、記す)

【はじめに】

(1)「ハンセン病問題に関する検証会議・報告書」を考える資料

 資料01、『2002年度ハンセン病問題検証会議・検討経過報告書』ハンセン病問題に関する検証会議(2003年3月)A4判・130-ジ

 資料02、『2003年度ハンセン病問題検証会議・報告書』ハンセン病問題に関する検証会議(2004年4月)A4判・342ペ-ジ

 資料03、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書(要約版)』ハンセン病問題に関する検証会議(2005年3月)A4判・114ペ-ジ

 資料04、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』ハンセン病問題に関する検証会議(2005年3月)【コピー版】A4判・888ペ-ジ

 資料05、『(別冊)ハンセン病問題に関する被害実態調査報告書』ハンセン病問題に関する検証会議(2003年3月)全ページ版(PDF5MB)

 資料06、『(別冊)胎児等標本調査報告』ハンセン病問題に関する検証会議(2005年3月)全ページ版(PDF334KB)

 資料07、滝尾英二著「ハンセン病問題検証会議への意見書――植民地下朝鮮でのハンセン病政策の被害と責任所在を明らかにせよ」(『飛礫』44号<秋季号>=2004年10月発行)100~118ページ

 資料08、滝尾英二著「日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任」(『飛礫』47号<夏季号>=2005年7月発行)41~55ページ

 資料09、藤野豊著「<連載>ハンセン病問題と天皇制(三)」(『飛礫』47号<夏季号>=2005年7月発行)153~160ページ

 資料10、滝尾英二著「藤野豊氏の『ハンセン病問題』に関する認識と行動への疑問――『ハンセン病問題と天皇制(三)』(『飛礫』47』)の記述と『富山シンポジウム』の問題性」(『飛礫』48号<秋季号>=2005年10月発行)136~148ページ

 資料11、滝尾英二著「ソロクト訴訟はなぜ敗訴したか――今後の闘いにむけて――」(『飛礫』49号<冬季号>=2006年1月発行)148~160ページ

 資料12、「ハンセン病療養所における胎児等標本に関する要望書」ハンセン病問題研究会・世話人代表 村岡潔(2005年12月20日)=(「滝尾英二ウェブ」、2005年12月21日)

 資料13、滝尾英二著「 『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』「13:日本におけるハンセン病政策と優生政策の結合」の記述の問題点とその批判【前編、中編、後編】」(『滝尾英二的こころ』2005年12月11日、15日、25日付け掲載)

 資料14、滝尾英二著「間違いだらけの『ハンセン病問題に関する検証会議・報告書』―旧植民地、占領地域におけるハンセン病政策―批判」(『滝尾英二的こころ』2005年11月28日付け掲載)

 資料15、滝尾英二著「『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』(2004年4月)への意見書・質問書」(2004年6月11日付け)

 資料16、滝尾英二著「ハンセン病問題検証会議の関係者は、『日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任』を明らかにせよ!――ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書批判――」人権図書館・広島青丘文庫(2005年3月3日発行)A4判10ページ

 資料17、「ハンセン病問題検証会議・検討会 開催日程・議事録・提言等」日本弁護士連合会法務研究財団(2005年12月)

 資料18、『ハンセン病問題に関する検証会議・資料編』日本弁護士連合会法務研究財団(2005年3月31日)

 資料19、『2005年10月25日、東京地方裁判所第3部「ハンセン病補償金不支給決定請事件」判決文』(裁判長・鶴岡稔彦、裁判官・古田孝夫、裁判官・進藤総一郎、下級裁主要判決情報、A4判46ページ

 20資料、川田悦子著・発行『えつこ通信・第5号――ストップ・ザ「なれ合い政治」』(2001年8月1日)

(2)「検証会議最終報告書」のもつ基本的欠陥の構造

 【問題点その一】、「アジア・太平洋地域」の「日本帝国」が侵略して植民地支配したハンセン病患者への被害責任の追及することを疎かにして、「自国内のハンセン病政策による被害実態」の調査・研究を中心に検証・調査していったという排外性をもっていたことである。

 【問題点その二】、ハンセン病患者の被害実態に検証の力点を置き、それをもたらした「責任」の追及が曖昧で、弱いことである。特に、「天皇制」支配に基づく権力構造の検証と追及がなされていないか、あるいは、極めて弱い。

 【問題点その三】、「検証会議最終報告書」を読むと、各章によって出来、不出来が目立っている。検証会議が、個々の検討会委員の研究者による個人的研究に依拠し、検証会議が全員で時間をかけた充分な検討・審議が不足している。また、行政権力=とりわけ、厚生官僚への配慮が強く、そのことが真相究明、責任追及を曖昧なものとしたことは否めない。そして部外者からの意見・研究を、ほとんど聞くことをしない「セクト」主義的傾向が強かったことである。

 【問題点その四】、結局、2001年5~6月の「補償法」の国会審議の延長線上に、「ハンセン病問題に関する検証会議」があったことが、「検証会議最終報告書」がもつ内容を視野の狭いものにしてしまった。

【第一章】「検証会議最終報告書」も亦、2001年6月成立した「ハンセン病補償法」の内容に引継がれ「国内だけのハンセン病政策」の検証を中心の書かれた「排外的内容」の色強いものであること。

(1)『2003年度ハンセン病問題検証会議・報告書』(2004年4月)の内容のスタンスは、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』(2005年3月)にも引継がれたこと。

〔その一〕私が、滝尾英二著「『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』(2004年4月)への意見書・質問書」(2004年6月11日付け(資料15)や、滝尾英二著「ハンセン病問題検証会議への意見書――植民地下朝鮮でのハンセン病政策の被害と責任所在を明らかにせよ」(『飛礫』44号<秋季号>=2004年10月発行)1(資料07)で批判したように「国内だけのハンセン病政策」の検証を中心に書かれていて、「排外的内容」の色強いものであることは、引継がれにも引継がれている。

 なるほど、「検証会議最終報告書」の「第十七 旧植民地、の本占領地域におけるハンセン病政策」の内「第1 韓国」(705~718ページ)は、『2003年度ハンセン病問題検証会議・報告書』の「第十 旧植民地、の本占領地域におけるハンセン病政策」の内の「一 韓国」(264~272ページ)に比較すれば、記述内容は改善された。しかし、同じ「第十七 旧植民地、の本占領地域におけるハンセン病政策」の内の「第3 日本占領地地域」(724~731ページ)、とりわけ「第4 太平洋地域」(726~727ページ)の記述は、まったく良くなっていない。特に、南洋庁が設置したミクロネシア四島の「ハンセン病療養所」の記述は間違っている。

 私は、「検証会議」が最終報告書を厚生労働大臣に提出した2005年3月1日の翌々日の3月3日に、滝尾英二著「ハンセン病問題検証会議の関係者は、『日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任』を明らかにせよ!――ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書批判――」人権図書館・広島青丘文庫(2005年3月3日発行)A4判10ページ(資料16)を送ったが、「ハンセン病問題検証会議」からは、何ら返答はなく同「検証会議」は、3月31日に解散した。

 さらに、私は滝尾英二著「日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任」(『飛礫』47号<夏季号>=2005年7月発行)(資料08)を掲載する。「植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任」に関しては、888ページに及ぶ『最終報告書』の「第4 太平洋地域」(726~727ページ)の記述は、つぎのように記述しているのみである。

「日本は、1919(大正八)年以降、マリアナ・マーシャル・パラオ・カロリン諸島を国際連盟の委任統治として事実上、植民地支配し、1928(昭和3)年にヤルート島に、1929(昭和4)年にサイパン島に、1930(昭和5)年にヤップ島に、1931(昭和6)年にパラオ島に、南洋庁がそれぞれ小規模なハンセン病療養所を設置していたが、1941(昭和16)年12月の米英開戦以降、太平洋地域の島嶼の占領を拡大した。」(726ページ)。

 この「南洋庁がそれぞれ小規模なハンセン病療養所を設置」の記述は、厚生省医務局療養所課内国立療養所史研究会編集・発行『国立療養所史(らい編)』1975年9月発行の「Ⅲ らい百年史年表」の間違いと一致する。『国立療養所史(らい編)』1975年9月発行には、「1928(昭和3)年**南洋庁、ヤクート癩療養所設立」「1929年**南洋庁、サイパン癩療養所設立」「1930(昭和5)年**南洋庁がヤップ癩療養所設立」「1931(昭和6)年**南洋庁がヤップ癩療養所設立」と書いている(17~19ページ)とよく似ている。

 或いは、清水寛埼玉大学教授著『植民地台湾におけるハンセン病政策とその実態』「植民地社会事業関係資料集・台湾編」別冊【解説】)近現代資料刊行会・2001年6月刊行)の「表14 日本とその旧植民地・占領地におけるハンセン病政策の沿革」(232ページ)により、間違った「南洋庁が設置したミクロネシア四島の「ハンセン病療養所」の記述を『検証会議最終報告』は記述したのかもしれない。

 正しくは、南洋庁編・発行『昭和八年版・南洋群島要覧』1933年12月28日発行の「大正十五年(1926年)サイパン島に、昭和二年(1927年)ヤルート島に、昭和六年(1931年)パラオ島に、昭和七年(1932年)ヤップ島に各療養所を設け患者を収容隔離する」(143ページ)が、南洋庁が設立したハンセン病療養所の設立年である。

 なぜ、「検証会議最終報告書」は事実に反することを書き、かつまた、検証会議の任期中の2005年3月3日には、そのことを滝尾に『日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任』を明らかにせよ!――ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書批判――」人権図書館・広島青丘文庫(2005年3月3日発行)として指摘されても、正さなかったのか。

(2)そして、9ヶ月余り経った12月12日になって、「ハンセン病問題に関する検証会議」2005年3月解散)の元委員が「見解・報告書」を書いた。もっと早く「報告書」なるものが出せなかったのか。

 2006年2月5日(日)14:00~18:00、場所 菊池恵楓園恵楓会館(熊本県菊池郡合志町)で内田博文検証会議元副代表、市民学会共同代表が、<基調報告(一)>として『検証会議元委員が全員で出した声明及び見解について』話し、また検証会議元委員・市民学会事務局長の藤野 豊氏が、<基調報告(二)>として、『日本の旧植民地・旧占領地のハンセン病政策』を報告するという。内田氏も藤野氏もともに元・検証委員である。

「検証会議最終報告書」の「第十七 旧植民地、の本占領地域におけるハンセン病政策」で、このような不様な内容を書いた反省・自己批判の上にはっきりした「総括」をした上で、前記のような「基調報告」をしなければ、この集会参加者に対する冒涜となるであろう。

〔その二〕しかし、問題の深刻さは「第十七 旧植民地、の本占領地域におけるハンセン病政策」のみにあるのではない。「検証会議最終報告書」の章の立て方自体が、もともと「日本の植民地・占領地域のハンセン病政策」を単に、「日本のハンセン病対策の全体像を明らかにする一助として、植民地時代における‥‥‥ハンセン病対策について現地調査と文献調査を行った」(「『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』(2004年4月)264ページ」ということであろう。

 『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』ハンセン病問題に関する検証会議(2005年3月)の各章をみてもそのことがいえよう。例えば、「国立療養所入所者を対象とした調査」にしても、日本国内の「「国立療養所入所者」を調査対象としているだけで、日本の「国立療養所」であった小鹿島更生園・台湾楽生院・ミクロネシア四島の収容所に日本統治期に収容した人たちへの「国立療養所入所者を対象とした調査」はなされていない。

 また、日本国内の13の国立療養所には2日間をかけて、検証会議委員・検討会委員をはじめとし、大勢の参加者が「聞き取り調査、意見交換、園内見学」などを行なっているのに対し、旧・植民地の国立療養所であった小鹿島更生園、台湾楽生院の二園に少数者が訪問調査を行なったにとどまり、ミクロネシア四島には、調査・訪問すら行なってはいない。日本占領地域の調査訪問も、検証会議としては、行なっていない。

 つぎに、『検証会議・最終報告書』の各章ごとに見ていくと、例えば、「宗教界の役割と責任」(413~452ページ)にしたも、植民地において「宗教界が果たした役割と責任」が大きいのであるが、そのことがまったく記述していない。

 また、「マスメィデアの役割と責任」(539~608ページ)をみると、つぎのような無責任な発言が記述されている。すなわち、ハンセン病に関するマスメィデアの役割を検証することは、‥‥本件については先行研究がほとんど存しない(539ページ)なんだそうである。

 滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』の第4巻・第5巻は、「新聞記事にみるハンセン病」を収集・発行している。(2002年7月発刊)。そして『朝日新聞』や『毎日新聞』の朝鮮版を収録し、報道機関による役割と責任の追及を解説にも書いているのだが、「ハンセン病問題に関する検証会議」が無知なのか、これは、先行研究だと思っていないようだ。

 つまり、かつての「ハンセン病補償法」の2001年5~6月の国会審議同様、植民地・日本占領地域のことは、課題意識にのぼっていない証拠である。

 それが今になって、「私たちは、旧植民地・旧占領地のハンセン病問題の解決なくして日本のハンセン病問題は終わらないとの認識に立ち、検証会議委員の方達と一緒に、このシンポジウムを通して、旧植民地・旧占領地におけるハンセン病隔離政策の被害の実態をさらに検証し、差別の連鎖を断つという視点を深めながら、被害救済において新たな差別を再生産しない責任を果たしたいと考えております。」だと市民学会は言い、また東京会場(2006年1月21日)のディスカッションには、検証会議元委員の検証会議元委員・朝日新聞編集委員 藤森 研氏、検証会議元委員・毎日新聞論説委員 三木賢治氏がなるという。どのようなディスカッションとなるのか、期待はしていないが、楽しみにしている。

                          (以下 次回に掲示する。)

   

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2006年1月 2日 (月)

2006年始めの「メッセージ」のテーマです【滝尾】

「ハンセン病問題に関する検証会議」は、何を検証しようとしたのか。(第一回・序文)
 ―「日本の植民地・占領地域」のハンセン病政策を究明しようとしなかった検証会議―

           人権図書館・広島青丘文庫  滝 尾 英 二
                        (2006年1月2日、記す)

 上記のテーマで、何回かの『滝尾英二的こころ』のメッセージを書こうと思う。

 【ハンセン病市民学会】【元・検証会議委員】に対する「批判・検討」を全体的・全面的にする必要があるように考える。その理由から書いていこうと思う。

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*:【ハンセン病市民学会 シンポジウムのご案内】

『旧植民地・旧占領地のハンセン病問題 ―検証会議元委員の発言―』

 ハンセン病問題に関する検証会議は、2005年3月、厚生労働大臣に『最終報告書』を提出し、植民地朝鮮・台湾のハンセン病患者は、隔離と民族差別の二重の被害を受けたことを明らかにしました。しかし、残念ながら、その趣旨は韓国ソロクト・台湾楽生院の原告による日本政府に対する補償請求訴訟のソロクト判決には反映されませんでした。これに対し、検証会議元委員全員が連名で、12月12日、厚生労働大臣に韓国・台湾をはじめとする旧植民地で隔離されたハンセン病患者に対し、日本国内と同等の補償を早急に実施するよう、要望書を提出致しました。
 最終報告書に対する様々な考え方はあり得るでしょうが、最終報告書を私たち国民の共有の検証の財産とし、つねにその出発点にしていかなければならないのは疑う余地のないことです。
 私たちは、旧植民地・旧占領地のハンセン病問題の解決なくして日本のハンセン病問題は終わらないとの認識に立ち、検証会議委員の方達と一緒に、このシンポジウムを通して、旧植民地・旧占領地におけるハンセン病隔離政策の被害の実態をさらに検証し、差別の連鎖を断つという視点を深めながら、被害救済において新たな差別を再生産しない責任を果たしたいと考えております。
 市民学会の会員だけでなく、広く皆様のご参加とご協力をお願い致します。

【東京会場】

日時 2006年1月21日(土)13:00~17:00
場所 多磨全生園公会堂(東京都東村山市)
 ※入場無料

問題提起……検証会議元座長 金平輝子氏

基調報告1 ソロクト・楽生院訴訟の現状と国の対応
           ・・・・小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団(予定)

基調報告2 日本の旧植民地・旧占領地のハンセン病政策
           ……検証会議元委員・市民学会事務局長 藤野 豊氏

ディスカッション……検証会議元委員・全療協事務局長 神 美知宏氏
            検証会議元委員・全原協会長    谺 雄二氏
             検証会議元委員・朝日新聞編集委員 藤森 研氏
             検証会議元委員・毎日新聞論説委員 三木賢治氏

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【熊本会場】

日時 2006年2月5日(日)14:00~18:00
場所 菊池恵楓園恵楓会館(熊本県菊池郡合志町)
 ※入場無料

基調報告1 検証会議元委員が全員で出した声明及び見解について
      ……検証会議元副座長・市民学会共同代表   内田 博文氏

基調報告2 日本の旧植民地・旧占領地のハンセン病政策
 …… 検証会議元委員・市民学会事務局長   藤野  豊氏

ディスカッション……
小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団事務局長
          市民学会運営委員 国宗 直子氏
菊池恵楓園自治会副会長・市民学会共同代表 志村 康氏
熊本大学教授・市民学会事務局 小松 裕氏

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 このことは、「自国民中心意識」に終始し、裁判の進行の粗末さもあって、ソロクト訴訟を敗訴させた「ソロクト(徳田=国宗)弁護団」の責任が大きい。また、「検証会議」「市民学会」の有りようも問うことをでもある。そこを曖昧にしたまま、ことをすすめることは、事実を「隠蔽させる」ことになり兼ねないと思うからである。しっかりとした総括の上に<ハンセン病市民学会 シンポジウム>は行われるべきである。

「ソロクト弁護団」は確かに敗訴した。裁判の進行がお粗末であり負けたのである。要因は滝尾は『飛礫』49号(2006年1月1日発刊)に「ソロクト訴訟はなぜ敗訴したか―今後の闘いにむけて―」(148~160ページ)に書いているので参照してもらいたい。

 しかし、「ソロクトのハラボジ・ハルモニ」の闘いは勝ったのだと私はかねてから思っている。だからこそ、政府はこの「通常国会」でソロクトの方がたにも、楽生院の方がたにも「補償金」を出すという。韓国政府も動き始めた。「勝ったのですよ!」と言うために、今回、1月10~18日の韓国訪問の際、ソロクトの自治会長や委員の方がた、ハラボジ・ハルモニに逢いに行こうと思う。力付けたい気持ちでいっぱいである。

 けれども、上記の「市民学会」「元・検証会議委員」たちは、つぎのことを銘記すべきである。そのことを明らかにして欲しい。

(その1)「ハンセン病問題に関する検証会議は、2005年3月、厚生労働大臣に『最終報告書』を提出し、植民地朝鮮・台湾のハンセン病患者は、隔離と民族差別の二重の被害を受けたことを明らかにしました。しかし、残念ながら、その趣旨は韓国ソロクト・台湾楽生院の原告による日本政府に対する補償請求訴訟のソロクト判決には反映されませんでした。」と冒頭で「市民学会」はいう。それは、なぜかを明白にすることが必要がある。なぜ、「ソロクト判決には反映」されなかったのか「元・検証会議委員」はその要因・理由を明らかにしていない。

(その2)「最終報告書に対する様々な考え方はあり得るでしょうが、最終報告書を私たち国民の共有の検証の財産とし、つねにその出発点にしていかなければならないのは疑う余地のないことです。」ともいう。『検証会議最終報告書』は、一資料としては認めるが、「最終報告書を私たち国民の共有の検証の財産とし、つねにその出発点にしていかなければならないのは疑う余地のないことです」とは、おぞましい限りである。それは、主観的な思いあがりに過ぎない。このような歴史認識や社会認識自体が、間違っている。そのことを「検証会議最終報告書」の具体的記述を通して、批判・検討していきたい。

(その3)「検証会議元委員が全員で出した声明及び見解」が、2005年12月12日に出され、同時に、「報告書」も提出された。しかし、これとて「日本の旧植民地・旧占領地のハンセン病政策」の歴史認識も正しいものとはいえない。しかも「ミクロネシア四島のハンセン病収容施設が、南洋庁という日本政府が設立した植民地施設」であったにも関わらず「最終報告書」は、それを「占領地域」とし、その「植民地施設」の内容も書かなかった。この自己反省と自己批判抜きに、検証会議が2005年3月に解散後、その年の12月のなった「元・検証委員」が書いた「報告書」などは、厚生労働大臣=厚生労働省には拘束力をもち得ない。なぜ、滝尾が2005年3月3日に「検証会議」に提議した際、「検証会議」は、それを取り上げなかったのか。「遅かりし内蔵助!」ではないか。

(1)~(3)までのことをどう考えるのかを『滝尾英二的こころ』のメッセージとして書いて行こうと思っている。

   2006年1月2日  13:10   滝尾英二より

   

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