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2006年1月19日 (木)

韓国訪問記【2006年1月10~17日】(その2)/「小鹿島の訪問記=日本の歴史研究者として気が重くて、また心踊る旅の道程(Ⅰ)」

『小鹿島の訪問記=日本の歴史研究者として気が重くて、また心踊る旅の道程(Ⅰ)』

              広島青丘文庫 滝尾英二 (2006年1月18日記す)

(1) 日本占領地域・フィリピン「クリオン」のハンセン病収容所の患者に対する大虐殺を知って

ソウルには、1月10日から12日までの3日のあいだ滞在し、13日の早朝にホテルを後に小鹿島を訪問した。前日に龍山駅が始発の特急「セマウル」の予約席をソウル駅の窓口で購入しておいた。龍山駅は地下鉄で「鐘路2街」から市庁、ソウル駅を経て行くことが出来る。龍山(yongsan)駅を07:50発で、順天(suncheon)駅には12:17到着する。特急「セマウル」の運賃は32,600Wである。通訳を依頼した天飛龍さんとは、一足はやく順天駅に到着した天さんとお逢いして、小鹿島を訪問することになっている。

午前6時に起床して、身支度をすませて朝食を食べにすぐ近くの「ヘイジャンク専門店」へ行く。たいてい毎朝は、食事はこの店で済ませることにしている。「ヘイジャンク」とは牛の内臓と野菜をお米に混ぜて炊き上げた雑炊と思っていただけばと思う。しかし、気の重い・反省することの多い一日だった。その要因は、前日・前前日にソウル大学教授である鄭根埴さんから教えていただいた日本占領軍によるフィリピン「クリオン」の1943年に起きたハンセン病収容患者の2,000人もの大虐殺の事実である。これをハンセン病問題の歴史研究者として、「不作為」とはいえ、この60余年年間も放置してきた責任の問題である。

「クリオン」のことは、光田健輔の著作でよく知っていた。例えば滝尾英二編・解説『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻には、光田健輔が1940年10月号の『愛生』に掲載した「小鹿島更生園参観」を収録している。そのなかで光田は「要するに世界第一と云はれた比律賓「クリオン」に比するに収容人員は相同じであるが彼等の患者住宅は粗末なる小屋掛けが多く大風一過すれば吹っ飛ぶが如き棕櫚萱屋根である、‥‥」と書いている。南方年鑑刊行会編『南方年鑑・昭和十八年版』(1943年9月発行)の1956ページには、疾病として「‥‥癩病に関してはフィリッピン政府の特に意を用ひるところで、癩重病者はパラワン島のクリオン島及びセブ島に収容してゐる」と書かれている。
米英開戦により、フィリピンは米日の激戦地として知られ、多くの「戦記物」が出版されてきた。その何冊かは、私も読んでいる。そして「クリオン」のハンセン病患者のことが私の頭を霞めたこともあった。しかし、私はこの日本占領地域フィリピン「クリオン」のことを調べようとはしなかった。

厚生労働省より委託事業ではじめられて、昨年=2005年3月に2年半あまりついやして出来上がった『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の「旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策(要約版)」の記述には、この「クリオン」のハンセン病患者収容施設のことをどのように書いているか、調べてみた。この最終報告書の総頁数は1,500に及ぶという。
「フィリピンでは、日米開戦時、アメリカは開放治療を採用し、フィリピン全土に五か所の療養所を開設し、重症者のみクリオン島の療養所に収容していた。‥‥」(91ページ)。本最終報告書の記述もまったく同じ内容である。前日・前前日にソウル大学教授である鄭根埴さんから教えていただいた日本占領軍によるフィリピン「クリオン」のことは、全然書かれていない。このように書く私自身、その『検証会議最終報告書』を批判・検討してきたが、私も「クリオン」のことを知ろうとしなくて、不問にしてしまったことでは、検証会議委員・検討委員と私は同罪である。いう言葉を失ってしまう。

鄭根埴さんから教えていただいた「クリオン」の大虐殺の歴史事実を以下、簡潔に書いてみたい。
3ヶ月前の10月、フィリピンの「クリオン」島のハンセン病療養所の関係者と鄭根埴さんはインタビューをしている。現在も小規模ながら「クリオン」のハンセン病の療養所は開設されている。日本占領軍がこの療養所を運営しはじめた1943年、患者に支給する食料を絶ち始めた。餓死者は続出し、この年に2,000人の餓死者を出した。ハンセン病患者を「虐殺」したのであるという。「クリオン」療養所には前述したように「重病者はパラワン島のクリオン島」に収容されていたことを考えると、自分で食糧を得ることは困難であったのだろう。

順天にむかう車中で、私は大岡昇平が書いた『捕虜記』『野火』などの戦記文学を思い出していた。もちもん、それはフィリピンで敗戦末期に、USA軍・現地ゲリラ軍に追われた日本軍兵士の餓えとの闘いを記した戦記である。日本占領地域でハンセン病療養所の患者たちの餓死者の続出の情況を思い浮かべる。そうして、順天に列車は到着した。そうだ !1月24日から26日までの「謝罪と恨霊への祈り」の座り込みには、「クリオン」のハンセン病患者の恨霊への祈りと謝罪が必要だと思った。外は小雨が降っていた。

順天駅頭まで、迎えにきていただいた天飛龍さんと駅前の食堂で昼食のうどんを啜る。小鹿島の桟橋には金明鎬自治会長に依頼しておいたので、車が待っていた。自治会室に直行して、次節のような話し合いを金明鎬自治会長や小鹿島病院職員らと行なった。

   

(2)小鹿島からの「陳情書」=「新・補償法」制定にむけての闘いについて

<1月13日午後に話し合った滝尾と自治会(・原告)代表、病院の方がたとの長い討議の末に作成された「陳情書」案、及びその案の補注>

「陳情書」(案)   自治会長 金明鎬、補償請求原告代表 蒋基鎭

「陳情趣旨」=1945年以来、日本政府によって運営された小鹿島更生園入所者など被害者たちに対する補償法を早急に制定し、すべての被害者たちが補償を受けることができる方策を用意してくださることを切に要請します。

「陳情理由」

(1) 日本国外ハンセン病療養所入所者補償のための法を早急に制定してください。【註1】

被害者である原告たちは、国会議員各位にこのたび「通常国会会期中」の早い時期の本年末(3月末日)までに、日本国外ハンセン病療養所入所者のための法律を議員立法で制定してくださることを要請します。

(2) 当法律には、ハンセン病患者本人だけではなく、小鹿島更生園に強制収容されたその家族に対する被害も補償対象に含まれることができるようにお願いします。【註2】
 強制収容政策は入所者だけではなく、その家族にもそのまま適用されました。今でも苦痛を受けています。日本国内と同様に、その家族も補償対象に含まれるように国会議員各位が立法してくださることを切に要請します。

(3) 当法律によって、すべての被害者が補償を受けることができる措置がとられることができることを希望します。
 本人と原告たちは、「原爆被爆者認定方法」と同様な方法で被害者認定を確認することができる方案が実現するのを希望します。【註3】

 1945年8月15日以後にも、日本人園長(=西亀三圭園長)がずっと療養所を運営していたし、その状況で日本政府によって雇用せられた療養所職員によって84人の入所者が虐殺される事件が発生しました。また、1950年朝鮮戦争当時、2が月間、北朝鮮軍によって小鹿島が占領されて行政の空白期が発生しました。

 このような混乱期に、1945年以前の入所者名簿の消失する事態が発生したし、60年が経った今、1945年以前に小鹿島更生園に入所した事実を記録で確認することができない対象者が存在しています。【註4】
 このような理由で、原爆被害者のような方式の補償対象者認定方法が必要です。

記録によってだけ入所者を確認する場合、すべての被害者を補償対象にする補償法の目的を実現することができないのみならず、また、他の被害者を発生させることになるでしょう。

高齢である被害者たちが、さっそく補償を受けることができるように人間の普遍的な原理である人権尊重される法案を用意してくださることを国会議員各位に切に希望します。

ありがとうございます。

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【註1】「原告の方」が、今年になって死亡され、小鹿島での「原告」の死亡者は、24人となった。滝尾の意見であるが、通常国会で「新・補償法案」が審議される際に、補償申請をした方で、その後、死亡された人は、「新・補償法案」でも相続人に「補償金」が支給されるよう厚生労働大臣は、「省令」の「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律施行規則」に明記するよう立法府である国会が、下位機関である行政府の担当大臣に確認をとる必要があろう。

【註2】滝尾英二著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫(2000年3月発行)123~144ページ参照。なお小鹿島更生園編・発行の『昭和十一年年報』には「未感児童保育所」の挿絵写真があり、長島愛生園書記の宮川量は、昭和十一年七月(1936年7月)「小鹿島更生園訪問記録」には、「未感児童について」述べている。滝尾英二編・解説『植民地朝鮮におけるハンセン病資料集成』不二出版、第1巻310ページ。第6巻249~251ページ参照。親とりわけ母親は、子供を伴って収容され、また、ハンセン病の夫とともに「ノン」の妻が来島し、病院側の使役に服することもある。

【註3】(二)申請にあたっての「認定」の問題については、「入所者名簿」等の書類が、消却されている場合も、現実にはあるであろう。その場合は、『原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行について』の各都道府県知事・広島・長崎市長あて厚生省公衆衛生局長通達を参考にして、ハンセン病患者収容の申請手続きで、処理されることが大切である。以下、厚生省事務次官より依命された標記の公衆衛生局長通達を記述しておく。

一、被爆者健康手帳交付の申請にあたつての添付書類について
 原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行規則(以下「規則」という。)第一条の規定による原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の施行第二条各号の一に該当することを認めることができる書類としては、おおむね次によること。
(一) 当時の罹災証明書その他公の機関が発行した証明書
(二) 前号のものがない場合は、当時の書簡、写真等の記録書類
(三) 前二号のものがない場合は、市町村長等の証明書
(四) 前三号のものがない場合は第三者(三親等内の親族を除く。)二人以上の証明書
(五) 前各号のいずれもない場合は、本人意外の者の証明書又は本人において当時の状況を記載した申術書及び誓約書

【註4】解放後、小鹿島病院では、各生里にそれぞれ残されていた「名簿」や「学校の卒業名簿」などや、入所者の証言をもとに、正確な日帝時代の入所者の名簿作りをしてきた。しかし、これらは正しいものだけれど、すべてを覆うということにはならず、覆いきれない部分が存在する。それは上記の【註3】にある「原爆被爆者認定方法」と同様な方法で被害者認定を確認することができるよう補償対象者認定方法が必要であると考える。 


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