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2005年12月29日 (木)

「胎児等標本」=「人体標本」を知った私の体験

                 人権図書館・広島青丘文庫  滝 尾 英 二
                            (2005年12月29日、記す)

(1)呉市の二河公園内にあった「衛生参考館」展示の「広口ビンにホルマリン漬」してあった「胎児標本」のこと

「胎児等標本」のことを知ったのは、小学校の4~5年生の私が未だ、児童だった頃のことだ。だから、もう六十数年以前ということになる。自宅は、1944年7月2日の「呉市内大空襲」で焼失してしまったが、小学生の時の4年生から転居して、二河公園から徒歩五分くらいのところに住んでいた。だから、小学校は呉市立二河小学校へ通っていた。

 自宅から二河公園へ行くには、呉市立図書館の方からよりも、やや細い道から公園に行った方が早道であった。公園に入ると大きな池のある桜の植え込みのある敷地の奥地に「衛生参考館」が建っていた。洋風の白っぽい建物で小さい建物であったが、ややモダンな鉄筋コンクリートつくりだったと思う。「衛生参考館」へは、公園の池にかかった石橋を渡って行くことが出来た。

 その正面の大きなガラスケースの展示に「広口ビン」に「胎児」がアルコール(ホルマリン)漬けにされて、受胎して3ヶ月、4ヶ月の「胎児」は小さい「広口ビン」にいれられ、それから順次大きくなって、最後は8ヶ月の「胎児」まで母体で成育されるにしたがいに大きくなっていく「胎児」状況が説明されて並べられていた。この陳列ガラス展示ケースのなかには、人骨の実物が吊るされて、展示されていた。

 五ヶ月ほどの「胎児」にもなると、生殖器が丸出しの状態なので、性器からはっきりと男女の性別が出来た。この広口ビンの母親は、どこで胎児を摘出され、「衛生資料館」の入館者の広口ビンに漬けられたまま、生を受けることなく人目をさらされて「展示」されるのであろうか。そのことを胎児の母親は、知らされているたのであろうか。

 小学生の頃は、性の好奇心でみたと思ってみた「胎児標本」だったけれど、「歴史」で人権問題を考えはじめてくると、近代医学は、こんなにも人間の尊厳を侵害しながら、進む道程だったのかが、気になり始めてきた。永遠の「生」を受けることなく「広口ビン」の中で裸のまま、さらされたままの胎児の尊厳は、いったい何だったのか。その母親の気持ちはいか様であったのだろうか。

 呉市史編纂委員会編『呉市史・第五巻』1977年3月発行、944ページには、「衛生参考館」に関することを記述している。

「‥‥呉市連合衛生組合会の経営する択善館は、大正天皇の即位を記念し衛生思想の普及を目的として大正五(1916)年四月に二河公園東南に開設されたものであり、昭和一四(1939)年当時、館内には七四〇余点の衛生参考品が展示ないし内所蔵されていた。また、四年二月六日には択善館に隣接した位置に、皇太子の行啓記念行事として、鉄筋コンクリート二階(一部三階)の行啓記念館別館が建設された。なお、この別館の開会式は、ご大典記念行事として計画された択善館前の園池に架設された御典橋(ルビ=みのりばし)の竣工をまって、五年四月六日に挙行されている。」

 この「四年(1929年=滝尾)二月六日には択善館に隣接した位置に、皇太子の行啓記念行事として、鉄筋コンクリート二階(一部三階)の行啓記念館別館が建設された」建物こそ、私が少年時代にみた「衛生資料館」(呉市史編さん室編集『呉・戦災と復興』呉市役所(1997年3月)発行の巻末に収録されている「付図・呉市街地復元図(昭和16年当時)」に書かれている「二河公園東南」に位置して書かれた「衛生資料館」にほかならない。戦後は、呉市市役所の諸資料保存資料倉庫として使用され、十数年前に撤去されたという。
「胎児標本」など「収集された多くの衛生参考品の処理も現在では、不明だという。

(2)私の通学していた旧制中学校の「生物教室」にあった「人骨標本」

 1944年4月に、私は旧制中学校・広島県立呉第一中学校へ入学した。その時に生物教室の準備室に等身大の人体の骨組みが一体、吊るされていた。上級生の先輩は、「あれはドイツの死刑囚の男の人体だ」と言っていた。肉を削がれて、骨がさらされて作られたものだと言う。触ってみるとさすがに、本物の人骨、内臓を奪われ、皮膚血肉を外され、骨だけの「骸骨」となって療養商人の手によって「人体標本」として売買されて、私の通学していた中学校の生物教材として、使用されたのではあるまいか。

 当時は、プラスチックなどない1944年のことである。生物の教師は、田中先生(=あだ名は「赤大根」とか、それを略して「アカダイ」と生徒たちは呼んでいた。)すでに故人であろう。この人骨を使っての授業を私は受けていない。生物教室は、1995年7月2日の呉大空襲から焼失を免れている。その後、敗戦後の「等身大」の人骨標本がどうなったか、いまだに不明である。

 これらは呉特有の「人体標本」というわけではあるまい。全国どこでも存在したと思われる。そして、近代医学・衛生行政の問題に違いない。日本の近代医学・衛生行政は、このような人間の尊厳の侵害、人権無視の<論理>に基づいて行われ、それが今なお「事実究明と責任追及」を曖昧にしたまま、現在に至っている。現在、「胎児等標本」の問題」が、ハンセン病療養所に未だに残された「胎児標本」の事実と責任が問われようとしている。曖昧な問題としてではなく、「責任の所在」を含めて、その真相の究明に当たってもらいたい。

(3)長島愛生園の「雑誌資料」=月間『愛生』誌にみる「嬰児殺し」

 この「嬰児殺し」の問題は、拙著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫(2000年3月)発行の「(B)嬰児とその母たち」(59~62ページ)に書いている。未読の方がたのため、その一部分をつぎに挙げておきたい。

 ‥‥戦後間もない一九五二年七月、国立療養所長島愛生園は同園の機関誌『愛生』に発表された作品の中から選んで、『小島に生きる』という詩文集を宝文館から出版する。その中に、患者の妊婦の産み落とした嬰児を膿盤に入れ、看護婦が自然死させる処置を描いた作品が二編ある。大海 誠「夜の潮」と双見美智子「女二人」である。

その1、【大海 誠著「夜の潮」の作品】

「‥‥妊婦は、今は産み落とした安堵と虚脱感からか、静かになっていたが、突然、何かにすがりつくような悲痛な絶叫を上げたと思うと、今まで固くとだざていた個室のドアがサアッと開き、一人の看護婦が現われた。‥‥‥看護婦は、手に白布の掛った膿盤(外科治療器具)を捧げるように持って、緊張にやや蒼白になった面持で、視線を二三歩に落して出て来た。私はとっさに、<子供だ>と直感して、膿盤に瞳を凝らした‥‥‥

 一瞬の間の厳粛な事態は私を緊張させた。と云うのは、その後、あの嬰児に加えられる運命を知っているからだ。いま看護婦の手で試験室に運ばれた嬰児の魂に、生は恵まれないのである。むろん、保温も給乳もなく、あの冷たい膿盤の中に暫し放置され、やがて亡骸となる、自然死を待たれるのである。

 嬰児は、束の間の生とともに死の宿命をもつて産まれて来たのだ。彼を孕んだ母体と、その父が癩なるが故に――。

 再び個室のドアが開き、小柄な中年の婦長が出て来た。
「‥‥‥見ないほうがいいのよ」という声が半部こちらの部屋にもれて(中略)私には、婦長のその後姿が、いま目のあたりに直面した同姓の悲哀と感傷に、ややもすれば崩れそうになる姿態を、看護婦という、婦長という職業の責務が、ようやく支えているように見えた。個室では、患者だけになつた気安さからか、産婦のどつと泣き崩れる声がした。

「見ないほうがよかつたのよ」
「そうよ、心残りがなくて」
「つらいけど我慢するのね」
 こもごもに慰める女達の声もまた、湿つていた。と、それに却つて刺激されて、産婦の慟哭は激しくなつた。」(大海 誠「夜の潮」より)。

その2【双見美智子「女二人」の作品】

「最後の痛みが由美の顔からタラタラと汗が流れ、飛び出しそうなほど見開いた目が、スタンドの余光にギラギラと輝いて、全身の神経が悉く足下に集つた。二分、三分、無限に長い時のようだつた。最後の痛みが由美の全身を貫いた。
 すべては終わつたのだ。

 子供は、胎盤とともに、膿盤に入れられた。それは男の子であることを、里子は知つた。上からガーゼがかぶせられた。ガーゼをつき抜けて、全身で訴える、子供の声だ。
「オワア、オワ」
 婦長は、膿盤をかかえるようにして、出口へ歩きながら、
「由美さん、見ないで置きましょうね。無事に済んでよかつたわ、お願いします」
と言つて、出て行つた。

 つむつた目から涙が溢れ、由美はガバと布団をかぶつてしまつた。
「オワア、オワア、ワア」
 子供の声が、廊下のコンクリートの壁に反響して、次第に遠ざかつて行つた。
「ウウツ」と、由美が、身をよじらせて、布団の外に出した両手が、空をつかんだ。里子は、そっと、由美の手を握つた。」(双見美智子「女二人」より)。

(4)小鹿島更生園の断種と堕胎手術のこと

 私は、1999年5月22日に脱稿した論考のなかで、つぎのように記述している。

  小鹿島更生園の収容患者総数は、一九三七年末には四七八三人であったが、三年後の一九四〇年末には六一三六人と、一三五三人増加した。一二八・三%の増加である。一方、「夫婦患者の同居数」は一九三七年末現在、四七一組が一九四〇年には八四〇組となる。その増加率は一七八・三%と増加した。

 朝鮮における植民地支配の強化、資源の収奪は朝鮮人のハンセン病の発病者を増大させた。ハンセン病の発病者は、朝鮮全土から全羅南道南端の小鹿島へ強制収容させられた。収容されたなかには、夫婦患者も数多くいたが、夫婦同居の条件として「隔離収容ノ意義ヲ没却スルニ至ルベキヲ以テ」(『小鹿島更生園年報』)男性患者には「断種」が強要・施術された。その数は、小鹿島更生園『年報』の公的数字だけでも、一九四〇年末には、八四〇人にも達している。

小鹿島更生園では、「断種」が夫婦患者の同居の条件にとどまらなかった。収容されたハンセン病の朝鮮人に対して、職員の命令に従わなかった、反抗てきであった、逃亡をくわだてた、反日的であった……といった理由で、療養所(収容所)内にある監禁室へ入れられ、処罰としての「断種」手術が強行された。そこには植民地支配をうけているが故の、朝鮮人ハンセン病者に対するさらなる残虐性と非人間性が加わったのである。

  日本統治期につくられた小鹿島の監禁所は、小鹿島病院治療本館から徒歩で三分ほどの木立のなかに、解剖室・屍体室の建物と並んで建っている。四方を高さ三・五メートルほどの赤煉瓦で囲まれた中に、煉瓦造りの二棟の監禁所がある。小さな窓には鉄格子がはめられ、二棟は渡廊下によって繋がれている。

 現在、その監禁所の前には、つぎのようなの詩が掲げられている。彼は、看護長から松の木の植え替えの命を受けたが、友人が急に倒れたため、友人を背負って治療室に運んだため、つい看護長の命令を忘れてしまった。李東はその罰として、監禁室に入れられた。それは、出監した日に「断種手術」受けた青年・李東の断腸の思いを込めた詩である。

その昔  思春期に夢見た
愛の夢は  破れたり
今、この二十五の若さを
破滅させゆく手術台の上で
わが青春を慟哭しつゝ横たわる
将来  孫が見たいといった母の姿……
手術台の上にちらつく
精管を絶つ冷たいメスが
わが局部に触れるとき……
砂粒のごと地に満ちてよとの
神の摂理に逆行するメスを見て
地上のヒポクラテス(古代ギリシアの医学者)は
きょうも慟哭する

  日本統治期におこなわれたハンセン病に対する「断種」は、一九四五年八月の解放後も、引きつづき小鹿島でおこなわれている。

  一九四九年(日本の敗戦・朝鮮の解放から四年後)の小鹿島更生園の収容患者総人数は六一一一人、夫婦同居数九五九人、精系手術(断種)数一八一人、出生児数は四五人である。それから十年後の五八年の収容患者総数五五八三人、夫婦同居数一〇六四組、精系手術四〇人、出生児数一三人となっている。夫婦同居者数を、一九五四年度の場合についてみると、つぎのようになる。

 一九四九年から五八年までの十年間で、小鹿島ハンセン病療養所で、一一九一人が精系手術を受けている。一九三六年の小鹿島更生園の大拡張以来、夫婦患者間の別居に対して「恕声」が起きたので、園は三六年四月、男子患者の断種手術を条件に夫婦の同居を許諾した。一九四五年の朝鮮解放後の園内外での混乱で、自由性生活は盛んにおこなわれ、一時「精系手術」は中断され、数ヶ年は毎年二十人内外(四九年は四五人)の出生児をみるようになった。ところが当時、韓国の国家財政の実情は、出生児の収容財源を捻出するのが、きわめてむつかしかった。一方、戦後の自由思想の発展は人権擁護上、法的な方法で「断種」によって産児を制限することは出来なかったので、同園は日本統治期にとっていた慣習に依拠して、一九五一年十月より夫婦同居者の未施術者および新規同居者に対し、いっせいに精系手術をおこなった。

 ハンセン病患者に対してとった「断種(精系手術)」(および「堕胎手術」も=後述)と言う日本の医師たちがとってきた「負」の遺産を、小鹿島の韓国の医師たちは「解放」後、引継いだのである。

(5)小鹿島の解剖室のガラスケースの「胎児標本」は何処(いずこ)へ

 小鹿島病院の入所者からの証言によると、小鹿島の中央公園入口に建てられている解剖室のガラス扉の戸棚には、かつては、「人工妊娠中絶手術」をした「胎児」が広口ビンに入れられて、並べられていたという。そして、これは「一種の見せしめだった」という言葉も聞いた。なぜなら、入所者に解剖台の広口ビンの「胎児標本」を見にくるように、また、時には手術している場面を見せられたともいう。

 妊娠すれば、みなこういう手術を受けるのだということを、知らせるためだったとも聞く。人間の尊厳の否定、人権の蹂躙の典型ではなかったか。

 現在は、解剖室のガラス扉の戸棚にはなにも置かれていない。「胎児等標本」は、どこへ移されたのだろうか。この真相の解明は、ぜひ小鹿島病院や韓国政府当局関係者たちの手でして欲しいと思う。と同時に、日本各地にあり、またあった「胎児等標本」=「人体標本」などの作成過程、管理、その後の措置なども具体的に調査し、また研究することが必要だと考える。私が「ハンセン病療養所における胎児等標本に関する要望書」の呼びかけ人のひとりになったのも、ひとつにはその為でもある。

   

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2005年12月25日 (日)

『らい予防法見直し検討会』「優生保護法記述」の検討 【後編】

 <『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』の「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」(「要約版」=「13:日本におけるハンセン病政策と優生政策の結合」)の記述の問題点とその批判【後 編】>

 『らい予防法見直し検討会・議事録』の「優生保護法に関する記述」の検討

                  人権図書館・広島青丘文庫  滝 尾 英 二
                         (2005年12月24日、記す)

【第二、『検証会議最終報告書』に書かれなかった優生政策の被害事実と責任の追及】(承継)

(1)厚生省保健医療局エイズ結核感染症課編集・発行『らい予防法見直し検討会・議事録』の優生保護法に関する記述の批判・検討

 ①〔大谷藤郎座長の発言を考える〕

「○大谷座長(大谷藤郎・財団法人藤楓協会理事長並びに国際医療福祉大学学長) これについてはどうですか。私も高瀬さんの言われた事は非常によく分かるんだけけれども、別の見解で別の点があるんですよ。というのは、優生保護法というのはらいだけではない訳なので、私もそれを大いに言いたい

 患者さんにとって、私が聞いているのでは、拘束ということもあったけれども、断種手術されたということと、うっかり妊娠すれば、すぐに妊娠中絶をさせられたという屈辱感、これは大変なものであることは私も知っているんですが、いまこれを取り上げたときに、世論として優生保護法全体の議論ということになってきますと、それを議論されると、らい予防法廃止の方の議論までが足を引っ張られちゃって、せっかくここまでやってきたのが大変なことになる心配もある訳です。

 ――というのは、優生保護法は、ハンセン病だけではなくてほかにもいろいろ問題を含んでおりました、これをもうちょっと人権侵害とは言わなくても何か書く方法はないかなという気が、私もこれでは物足りないんだけれども、さりとて優生保護法を本気で議論しだしますと、これでまたものすごい議論になってきて、らい予防法廃止が遅れちゃうという心配があるんですよ。これは事務当局はどうですか、何か御説明、あるいは中谷先生、どうでしょうか。」(下線は滝尾)

 大谷座長は下線でもいうように「優生保護法というのはらい(ハンセン病=滝尾)だけではない訳なので、‥‥優生保護法全体の議論ということになってきますと、それを議論されると、らい予防法廃止の方の議論までが足を引っ張られちゃって」、だから「人権侵害とは言わなくても何か書く方法はないかなという気が、私もこれでは物足りないんだけれども、さりとて優生保護法を本気で議論しだしますと、これでまたものすごい議論になってきて、らい予防法廃止が遅れちゃうという心配があるんですよ。」と発言していることである。

 周知のように大谷座長は、1959年厚生省入りし、各課長を経て、1981年に医務局長となり、83年退官いう厚生官僚としては最高の地位にあった人物である。そして医療行政の多方面にわたり法律・政策の立案、運営に従事している(大谷藤郎著『現在のスティグマ』勁草書房、1993年発行・奥付の経歴記述による)。

 長期にわたる厚生官僚時代に優生保護法がいかに人権を侵害し、1996年6月に女性運動団体もいうように「障害者(ハンセン病患者・病歴者を含む=滝尾)の心と身体に大きな痛手を与え、障害のあるなしに関わらず女性の性と生殖にも介入して、人権を侵してきました。‥‥政府・厚生省は、戦前の国民優生法の精神を受け継いだ長年の優生政策を、国民の前で反省し、きちんと謝罪すべきです」とのいうことを「らい予防法見直し検討会で「らい予防法廃止が遅れちゃうという心配がある」という理由で、大谷座長は、不問に付した。

 このことは、元・大谷藤郎厚生官僚の「自己の行政責任」を不問にしたことといえるだろう。そのことを元「らい予防法見直し検討会委員」であり、「ハンセン病問題に関する検証会議座長」の金平輝子氏は『検証会議最終報告書』の優生保護法に関する記述のなかで、触れなかった。

 こうした事実はいったいなぜなのだろうか。「優生保護法による大きな被害」は『検証会議最終報告書』の「17:ハンセン病療養所における精神医学・医療の問題」(要約版)の52~53ページや、『検証会議最終報告書』の全文の「第十一 ハンセン病強制隔離政策に果たした医学・医療界の役割と責任の解明」285~299ページにおいて、「優生保護法」のこと、とりわけ「責任論」が若干触れられているか、まったく触れられていない。もちろん、長期にわたり(1959~83年まで)上級の厚生官僚として在任した大谷藤郎氏のこの問題についての役割と責任の追及がまったくなされていない「ハンセン病問題に関する検証会議」に私は不信感を越えて、怒りすら禁じざるを得ない。

 医学・医療界、厚生行政担当者たちは、終生「優生思想」をもちつづけていた。『検証会議最終報告書』がいう「ハンセン病強制隔離政策」が、かくも長期につづいたことは、医学・医療界、厚生行政担当者たちがもつ優生思想・意識をもちつづけ、そしていまなお、持っていることではないかと私は考えている。だから、「人間の遺伝因子の組み換え」「出生前診断」「臓器移植」などが、安易に行なわれていく「新・優生主義・思想」が現代医学会や厚生行政のなかで、横行しまたは,横行しようとしているのではなかろうか。

  ②〔中谷委員の発言を考える〕

 この問題については、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史』未来社(2001年9月)の「『優生思想』とハンセン病」(198~212ページ)でも論じているので参考にされたい。
このメッセージの【中編】でも書いたように、つぎのような問題のある発言がなされている(1995年11月24日に行われた「第7回見直し検討会・議事録」42ページ)。

「○中谷委員(中谷瑾子・大東文化大学法学部教授) 優生保護法はほかの点で非常に問題がありまして、どっちみち全面的に検討し直さなければいけない問題をたくさん含んでいるんですけれども、それは精神保健課に随分前から何とか見直しといっても、とてもそこまでは手が回らないということで今日まできておりまして、妊娠中絶とか、その他の観点で随分問題が多いんです。ですから、たしから、それをやり始めたら大変だというふうには思います。
 <U>それと、優生保護法の規定では、優生手術もしなければならないんじゃなくて、たしかすることが出来るになっていますね。そうでしたね。</U>

○事務局 はい

○中谷委員 ですから、することが出来るのに強制的にしたという適用がおかしかったので、法自体は「することが出来る」だけですから完全に悪いというふうにも言えない問題もありますし、難しいんですよね。これはもうちょっと検討していただいて。

○大谷座長 「医学的根拠を欠いている」とだけ書いてある訳なんですね。そこが引っかかるところではあるのですが、さりとて‥‥‥。」(下線は滝尾)

 厚生省保健医療局エイズ結核感染症課編集・発行『第2回らい予防法見直し検討会・議事録』をみると1995年8月10日には、場所を国立多磨全生園ハンセン病資料舘で開催され、「全患協との意見交換、と討議」を行なっている。そのなかで「優生保護法に関する討議、意見交換」が行なわれているので、これを先ず紹介しておきたい。

「全患協事務局長 ‥‥、もう一点、優生保護法の中にらい(ハンセン病=滝尾)にかかわる問題が法律の中に現在もある訳ですが、かつて歴史的な経過として申し上げることが出来る訳ですけれども、優生手術、つまり断種手術を条件にして療養所の中で結婚が認められた。そういう歴史的な経過がある訳で、非常に私どもの立場から申しますと大きな問題になっております。

 全患協支部長 ‥‥ただいま局長の方が申し上げましたように、このことは予防法の改廃と、やはりこの優生保護法にハンセン氏の断種の問題を挿入してございますので、これを是非ともこの機会に廃止していただきたいということでございます。
 ちょっと歴史をたどってみますと大正4年(1915年=滝尾)、予防法が出来まして8年目にはもう既に他の伝染病の疾病を率先して、この前にハンセン病の患者に実施したというような歴史になっております。

 これは、ハンセン病患者を初めてモルモットにしたと言っても過言ではないと思います。そして、大正の末から昭和10年ごろまで、ほとんど結婚を進めながら、療養所において必ず結婚することを条件に手術を行った。断種を行ったということが明瞭に残っております。

 私の‥‥(療養所)でございますけれども、ほとんどの連中がこの手術を行って、12畳半に夫婦4組を同居させて夫婦生活を行わせた。これは、全く人間的な方法じゃないと考えられます。だから、この問題を是非とも今回の予防法の改廃の問題と同じように、この14名の見直しの先生方にお願いして、これだけはひとつ優生保護法からこの問題のこの法律を削除していただきたい。

 これは全くハンセン病の撲滅ということだけではなしに、患者そのものを完全に撲滅することで、両方の目的を持ってハンセン病を日本の世界から消してしまうというような政策であったことは明瞭ではないかと思います。昭和23年(1948年)にこれが公布されまして、優生保護法の中で断種は法律に載ってございます。その前に、大正4年ころから法律でもないものを実施された。これは何をか言わんやと私たちは全く、先生たちも誠に憤りを感じていらっしゃるんじゃないかと思います。

(中略)この問題で、若い連中が3日も4日モ、あるいは1週間も断種をしなければ夫婦寮に行けないということで、2人が本当に迷いながら、はっきりした例がございますが、3名、昭和17年と20年、そして24年の年に生命を断っております。これは事実でございますので‥‥‘(私のいる療養所に)おいでになって調べていただけたら明瞭に分かりますが、首をつって死んでおります。これはど残酷なことがございます。
 こういうことが早く法の下で平等になりますように、人間の本当の生き方を尊厳していただきますようにお願い申し上げて私の発言を終ります。」(「第2回見直し検討会・議事録」16~17ページ)。

 これに対して、中谷委員は「‥‥優生保護法がらい予防法の廃止とか何とかになりますと、当然にそれは見直しされますので、その点は大丈夫だと思います。断種だけではなくて人口(=人工)妊娠中絶の方にもかかわってまいりますので、当然見直されることだと思います」と発言している。

 優生保護法が人間の尊厳を侵害し、人権を無視していることは、全患協のいうように「優生手術、つまり断種手術を条件にして療養所の中で結婚が認められた。そういう歴史的な経過がある訳で、非常に私どもの立場から申しますと大きな問題」である。しかし、『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』の「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」の<【表―1】優生保護法に基づくハンセン病を理由とする不妊手術と中絶之届出件数>(207~758ページ)によると、不妊手術件数の1949~96年総数は、「男=301名」「女=1,174名」となり、女性の不妊手術=断種手術が男性のそれに較べて非常に多い。また、人工妊娠中絶件数(もちろん、これは女性に対する件数である)は、7,696名と極めて多いのである。

 高石伸人著「証言:『らい予防法』を生きて」九州龍谷短期大学紀要第45号(1999年3月25日発行)の中で菊池恵楓園の杉野芳武さん、杉野桂子さんのご夫妻は、つぎのように証言されている。

 桂子=中絶をする時に、避妊手術も一緒にしなさいって言われたですもんね。私の場合は、「いや先生、女として一生産めなくなるような手術を受けると淋しいから、いつかは産めるかも知れないという希望をもって生きていたいですから」って、拒否したんだけど。私は遅く結婚したから、そんなふうに言えたけど、友達なんかは20歳ぐらいで、言われるままにしたって。男の人も多いけど、女の人で避妊手術した人たち多いんですよ。

 芳武=前は、ほとんどが「ワゼクトミー」だったですけど、後からは女の方がするごとなったですよ。(『九州龍谷短期大学紀要第45号』109ページ)。

「断種手術(優生手術)」とは、「精管または卵管を一部切除または結紮(けっさく)して、生殖能力を失わせること」だと、『広辞苑』には述べられ、また、「堕胎」とは「胎児を自然の分娩期に先立って人為的に母体外に排出させること」だと、同辞典では書かれている。「全患協との意見交換、と討議」のなかで「優生保護法に関する討議、意見交換」が行なわれ、全患協関係者はすべて男性のみであったことによるのかと思慮するが、優生保護法による被害事実を、女性の立場で意見が述べられていないことは、問題であろう。

 また、優生保護法は、『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』の「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」の記述の問題点とその批判【前編】でも述べたように単に「ハンセン病患者(=「ハンセン病疾患」に罹った人)の人権を奪っただけの問題ではなく、精神病者・精神薄弱者・身体疾患者・精神病質者なども「本人又は配偶者の四親等以内の血族関係にある者」は、「優生保護法」第二章第三条(医師の認定による優生手術)が「官許」されたのである。第3章第十四条((医師の認定による人工妊娠中絶)の場合も同様に、精神病者・精神薄弱者・身体疾患者・精神病質者などが人工妊娠中絶の対象になったことが、人間の尊厳の侵害であり、それらの人たちへの人権の無視という問題でもある。この点が優生保護法を批判する際に考えなければならない課題である。

 第2回らい予防法見直し検討会が1995年8月10日に、国立多磨全生園ハンセン病資料舘で開催され「全患協との意見交換、と討議」を行なわれてから3ヶ月余の11月24日に、第7回らい予防法見直し検討会が開かれている。そのなかで中谷委員は、つぎのような発言をしている。(下線は滝尾)

「中谷委員 ‥‥優生保護法の規定では、優生手術もしなければならないんじゃなくて、たしかすることが出来るになっていますね。そうでしたね。

○事務局 はい

○中谷委員 ですから、することが出来るのに強制的にしたという適用がおかしかったので、法自体は「することが出来る」だけですから完全に悪いというふうにも言えない問題もありますし、難しいんですよね。

 中谷瑾子委員は、大東文化大学法学部教授である。「法学」を教えしかも国立多磨全生園ハンセン病資料舘で開催され「全患協との意見交換、と討議」にも出席している。このような意見を述べる中谷法学部教授のことを世上では、「論語読みの論語知らず」といっている。

 まだまだ、「優生保護法」やその「施行規則」の問題、『家庭の健康医学書』に記述されている優生思想・記述のことなど書きたいと思っていたが、『滝尾英二的こころ』のメッセージとしては長文になるので、後日述べたいと思う。要はこうした重要な「らい予防法見直し検討会」などのことを『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』は、なぜに書かないのかという問題であろう。

      

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2005年12月23日 (金)

『日帝時小鹿島資料一つもなし (京郷新聞)』(新聞記事提供は、福留範昭先生からです)。【滝尾】

 福留範昭先生から送信されたメールです。福留範昭先生、訳者の森川静子先生、ありがとうございます。

 昨日、写真のコメント内容が、現実のものになりそうです。しかし、たとえ、「名簿」などの「資料」がなくても、「原爆被爆者」の申請の場合のように、証人(2~3名)があれば、「補償法」申請は可能です。政府・厚生労働省の補償申請に日帝期に小鹿島更生園にいたか、どうかの複数の「証人」がおれば、事足りることです。

 小鹿島から引き揚げる時に小鹿島更生園長の西亀三圭ら日本職員により、証拠隠滅を目的に、資料の焼却をしたその責任は、日本にあるのですから。

 それで、「補償申請」そのものを、厚生労働省が拒んだり、遅らせたりする理由にはなりません。その点をしっかりと政府側に認識さす必要があります。

  12月23日(金曜日)14:55  人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二より

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 韓国の過去問題に関する記事を紹介します。

1) 日帝時小鹿島資料一つもなし (京郷新聞)
2) 盧武鉉大統領 「過去史の整理は、和解の前提、基準を作ること」 (聯合ニュース)

1) *************************
[京郷新聞 2005.12.22 18:15:57]

 【日帝時小鹿島資料一つもなし】

 日帝強占期に小鹿島(ソロクト)に強制収容されたハンセン者関連の資料すべてが消失した可能性が大きいと伝えられた。これにともない、日本政府のハンセン者補償作業に支障が不可避となる見込みだ。

 政府当局者は、22日「日本政府が韓国政府に要請した日帝強制支配期の韓国ハンセン者の国立小鹿島病院(過去の小鹿島更生院)の入院記録と入院者名簿などが病院に残っていないことが把握された」と明らかにした。

 彼は、「保健福祉部主管で、国立小鹿島病院が資料を探したが、日帝時代の資料はないようだ」と言い、「他の立証方法を模索しなければならない状況」だと話した。

 福祉部関係者も、「消失の有無は分からないが、小鹿島病院で日帝時代の時資料を発見できていない」と伝えた。

 日帝強占期のハンセン者補償に核心的根拠になる資料の消失が最終確認された場合、既に訴訟を起した117名の外に、1917~45年小鹿島を経て、現在国内各所の定着村に留まっているハンセン病歴者290名余りに対する補償問題は、難航を被るほかない。政府当局の資料管理の杜撰さも、問題提起されうる。

 日本政府は、今年10月韓国ハンセン者117名の補償訴訟が、自国の裁判所で棄却されたが、自国ハンセン者を補償したハンセン病補償法に根拠し、韓国と台湾のハンセン者も救済する方案を積極的に検討してきた。

 日本厚生労働省は、先月駐韓日本大使館を通して、小鹿島病院に解放以前に入所したハンセン病患者の入所履歴を確認する資料を提供するよう要請してきた。

     (朴ヨンファン記者)

2) ***************************
[聯合ニュース 2005/12/22 15:28]

 【「過去史の整理は、和解の前提、基準を作ること」】

 <盧大統領、「誰かを攻撃し、誰かのせいにすることが目的ではない」>

 (ソウル=聯合ニュース) ソン・ギホン、キム・ボップヒョン記者= 盧武鉉大統領は22日、過去史整理作業と関連し、「我々が共に生きていくために、正しいことと間違ったことの基準を再び整理し、また過去史について和解をするためのさまざまな手続きが必要だが、最も重要なのがこの作業」だと語った。

 盧大統領はこの日、大統領府で今月初めにスタートした「真実・和解のための過去史整理委員会」の委員たちに任命状を授ける席で、「極めて前のことを、葛藤を顧みず、なぜ再び引っ張り出そうとするのか、誰かを困らせようとしているのではではないかという見方があり、誰かを攻撃し、誰かのせいにしようとすることだけが目的であるかのようにしきりに心配する方々がいるが、決してそうではない」と言い、このように明らかにした。

 盧大統領は、「歴史が流れる過程で、常に葛藤があり、また葛藤が対立になり、この間双方の間に多くの傷が残る」とし、「この時点で、過去史に対する何らかの整理がなければ、和解が可能でないので、和解の前提として過去史の整理をし、必要ならば謝罪もし、苦痛を受けた人々に対して解冤[怨みを解くこと]もしなければならない」と語った。

 盧大統領は、過去史委の活動の方向と関連し、「真実を探す過程で、何か理想的な原則があるだろう」とし、「しかし、それが新しい葛藤を絶えず作り出すような方向に行くならば、それが客観的真実であっても、その効用性において社会統合にむしろ障害になる可能性もある」と指摘した。

 盧大統領は続けて、「我々の社会が、現実的な土台の上で互いに了解し、受け入れられる適切な基準、和解の基準、また子孫に伝える歴史としての何らかの価値基準としての準拠を作らなければならないだろう」とし、「また、妥協すればよいだけではなく、この妥協が次の世代も依拠し従うに値する一つの準拠にならなければならない」と強調した。

 盧大統領は特に、「我々の歴史は、もともと相手の存在や主張を受け入れたことのない歴史のようだ」と言い、「80年代の民主主義運動の時代のように容認しがたい価値観の対決は、今や時代的に越えるべきであり、その過程で一番決定的な手続き、過程が、まさに過去史の整理過程」だと語った。

 盧大統領はこの日、国会が選出した8名、大統領が指名した4名、大法院[最高裁]長が指名した3名など計15名の過去史整理委員に任命状を授けた。委員のうち1名は委員長、3名は常任委員を務めることになる。

 一方、過去史委の事務処長としては、ソル・ドンイル(49)元釜山民主公園館長が、事実上内定したことが判明した。過去史委の事務処長は、委員会の審議を経て、委員長の推薦で大統領が任命する。

 ソウル大農学部を卒業したソル・ドンイル元館長は、1981年のプリム事件で獄苦を体験するなど、釜山の民主化運動の中心人物として現政府のスタート以後、大統領府の秘書官への抜擢説が絶えずあった。

 次は、任命された過去史委の委員の名簿。

◇委員長
▲宋基寅(ソン・ギイン)神父

 ◇常任委員
▲キム・ガプペ弁護士 ▲金東椿(キム・ドンチュン)聖公会大教授 ▲イ・ヨンジョ慶煕大教授

 ◇委員
▲キム・ギョンナム韓国キリスト教社会問題研究院院長 ▲キム・ヨンボム大邱大社会学科教授 ▲キム・ヨンテク韓国歴史記録研究所長 ▲パク・ボヨン弁護士 ▲パク・ジュンソン弁護士 ▲シン・グァンス銀海寺住持
(ポプタ僧侶) ▲安京煥(アン・ギョンハン)ソウル大法大教授 ▲安炳旭(アン・ビョンウク)カトリック大国史学科教授 ▲オ・ジンファン弁護士 ▲崔一淑(チェ・イルスク)弁護士 ▲ハ・クァンニョン弁護士

                     <森川静子訳>

   

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2005年12月19日 (月)

【日本ハンセン病政策による被害事実と責任の追及、その謝罪と補償について】

                人権図書館・広島青丘文庫  滝 尾 英 二
                                (2005年12月19日、記す)

(1)リベルさんのホームページの「目次」の<イベント情報>を見ていたら、2005年12月18日(日曜日)23時25分現在であるが、つぎのような記事がでていた。

 「※開闢以来の閑古鳥です!こちら→からどうぞ情報をお寄せ下さい。よろしくお願いします。管理人
 ※「謝罪と恨霊への祈り」50 時間の座り込み
  2006年1月24日(火)9:00~1月26日(木)11:00/衆議院第二議員会館前(東京都千代  田区永田町2) #詳細」

 これには、私もびっくりした。インターネット情報に詳しいリベルさんが、「全国のハンセン病問題」に関する情報のうち、<イベント情報>が只ひとつだけ、それも【滝尾英二的こころ】=「滝尾英二ウェブ」からの情報である「謝罪と恨霊への祈り」50時間の座り込み(2006年1月24日~26日)のみとは‥‥。リベルさんの<イベント情報>は「開闢以来の閑古鳥」だということである。

 なぜ、通常国会で「日帝期の植民地支配下のハンセン病政策」による被害とそれに基づく「補償法」が審議されようとする大切な時期=まさに帝国日本の戦争責任・植民地支配の責任が国会の審議の場で明らかにされるか、否かの「正念場」にさしかかっている今日、それを前にして、この問題に関する「集会」が開催されず、「閑古鳥」が鳴いている現状を知る者として、その原因・要因をどのように考えたらよいのだろうか。

(2)その上、ハンセン病小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団からも、この40日間、声明も報告も、さらに、小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求をどのように「闘う」のかという情報が、私たち・民衆の耳もとに届いてこない状態である。「時代の時計」が止まってしまった感がする。

 「‥‥原告らの請求を認容した民事38部の判決はもとより、同3部の判決も現行の補償法下で告示に占領下の療養所を含めて規定することは可能であるとの解釈を示しているのであるから、適正な補償‥‥」と「弁護団」は述べている。現行「補償法」をそのままにして、厚生大臣告示に小鹿島更生園・台湾楽生院の施設を加えろという従来通りの運動を続けるのだろうか。

 11月8日、政府は、閣議後の会見において、東京地方裁判所民事第38部が言渡したハンセン病補償金不支給処分の取り消しを命じた判決について控訴する方針を明かにするとともに、「訴訟について控訴することとは別に、国外の療養所の元入所者に対する適正な補償のあり方について、速やかに検討することとしたい」としている。新聞報道によると、国外の療養所の元入所者に対する『救済策』を講じていくことも考えているようだ。「ソロクト・楽生院弁護団」は、この『救済策』にのって行こうとも考えているのかもしれない。

 あれほど各署名運動や「国民のみなさんへ!」裁判支援の要請と、首相と厚生労働大臣に向けて、「すみやかに告示を改正して、小鹿島更生園・台湾楽生院の入所者が補償法による支給の対象となることを明確にして下さい。」などの意見声明をメールやFAX,あるいは葉書で出して下さいと要請して下さいなどと訴えていた。しかし、「小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団」代表の国宗直子代表から声明が出されているが、それには、つぎのように述べている。

 「‥‥これからは、いかに早期に平等補償を実現するかに運動の重点が移ります。今後とも、みなさまのご支援を、心よりお願いします。」(11月10日付けの「皆様へのお礼と、早期平等解決要請のお願い」より)という。

 だから「運動の重点」が移り、今後は来年1月20日ころ開かれる「通常国会」の「補償法」見直し審議・成立へと運動の重点を移し、従来の運動の「変更」を打ちだしたのだろうか。または、11月8日の政府にいう閣議後での会見でいう「被害者への救済策」なるものを受け入れて、補償金額を減額された内容で、原告たちを納得させるつもりなのだろうか。
その後は「小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団」から出される情報が、最近・この40日間、止まっているようである。私が寡聞でそのことを知らない。弁護団は多くの「民衆」への情報を述べない。これは「怠慢だ」といえよう。

 しかも、断片的に聞こえてくる情報や前記の「声明」「お願い」から推察して「弁護団」は、依頼された小鹿島更生園・台湾楽生院2施設に入所した被害者に対して「早期平等保障の実現を要請」しているだけで、国会に対して「日帝期の植民地支配下のハンセン病政策によるすべての被害者に対して『補償法』の適用を主張しているようには思えない。つまり、2001年6月の『補償法』審議の二の舞を再度繰り返そうとしているかにみえる。つまり、「補償範囲」を云々としか言っていないのだ。職業柄として弁護士たちは依頼された人たちがけしか念頭にないのかも知れない。

(3)しかし、「国会」は弁護士流に、被害事実に立脚した「補償金額」だけでなく、被害実態に基づく「補償範囲」を十分に審議し、法案の成立をはかる責任がある。10月25日の【コメント】「ハンセン病補償法」に係わる東京地裁判決について、民主党『次の内閣』ネクスト厚労大臣 仙谷 由人衆議院議員は、つぎのようなコメントを出している。

 <○本日、東京地裁において旧植民地時代に日本政府が台湾、韓国に設置したハンセン病療養所入所者に係わる2つの判決が言い渡された。訴えの内容はほぼ同様であるにもかかわらず、「台湾訴訟」では補償金の支給が命じられ、「韓国訴訟」では請求が棄却されるという、全く正反対の結果となった。

 ○その理由は、政府の極めて不合理な法解釈にある。「ハンセン病補償法」は、その前文に「ハンセン病の患者であった者等のいやし難い心身の傷跡の回復と今後の生活の平穏に資することを希求して、ハンセン病療養所入所者等がこれまでに被った精神的苦痛を慰謝するとともに、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復及び福祉の増進を図り」とある。

 ○前文に掲げた法の精神を素直に受け止めれば、日本が施政権を有し、その下で設置された台湾、韓国の療養所の入所者も、当然に補償の対象となる。しかし、政府は法の「その他の厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所」という条文で授権された権利を行使するにあたって、この法の精神を蔑ろにした。政府はハンセン病療養所入所者に不合理な苦難と苦痛を与えたという責任に加え、この二重の責任を負わなければならない。(中略)

 ○「ハンセン病補償法」は議員立法であり、その意味で国会も責任無しとはしない。民主党として、速やかな方針転換を政府に国会で求めると共に、必要であれば、法改正に取り組んでいく。>(以上は、仙谷由人衆議院議員のコメント)

 「ハンセン病補償法」は議員立法であり、その意味で国会も責任無しとはしない」という文言は、適切とは思わないが、ともあれ「必要であれば、法改正に取り組んでいく」と書いている。ぜひ、来年の1月20日には、通常国会は開かれる。この衆参両議員の厚生労働委員会では、充分な「ハンセン病補償法」に関する審議を「自戒と謝罪」をこめながら、行なってもらいたい。もしも、この審議を怠るようなことになれば、国会の汚点として後世に残ることになるであろう。

 なぜなら、朝鮮=韓国だけみてもヨス(麗水)愛養園、テグ(大邱)愛楽園には、日帝期に収容されているハンセン病患者たちは、総督府は、各園長を1941年に国外追放し、両療養所は、朝鮮総督府の直属する朝鮮癩予防協会が運営に当たり、警察署長が園長となった。そして小鹿島更生園と同じくハンセン病患者への人権侵害を繰り返しているからである。また、プサン(釜山)相愛園の療養所で療養していたハンセン病患者たちは、釜山要塞が遠望できるということで、療養所が解散させられており、生業を奪われた上に療養所を追われて、全国を流浪せざるを得なかった。

 韓国では1960年初頭より、定着村の設立と同時に、故郷や韓国の各地へ家を建て、差別と偏見のなかで生活し、子孫を持つ「在宅」の方がたが多数おられるからである。この実態はいまだに明らかにする調査はなされていない。政府のいうミクロネシア4島の調査も実際にはなされていない。台湾の場合もほぼ同様である。

(4)これらを無視して、「救済策」だけで厚労大臣「告示」の追記を行ない、現在の原告(117名+25名)や補償申請している235名だけの「救済策」実施で「告示」それで可としたならば、再度、2001年6月に制定された「ハンセン病補償法」の「二の舞」となるだけに終わろう。
 第一、日本が植民地支配(=占領地域支配)としてハンセン病政策から被害をもたらした人たちに「救済策」とは、おぞましい限りである。いまだに植民者としての意識・認識が残っている「用語」であろう。戦前・戦中の「救い助ける」(『広辞苑』)という思い上がった内容をもったものの持つ「認識」にしか過ぎない。

 必要なのは、被害に対する「謝罪」を伴った「賠償=補償」でなければならないことを再度、この問題に関係する人たちにしておきたいと思う。

   

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2005年12月17日 (土)

 「謝罪と恨霊の祈り」の座り込みにむかって思うこと。および、解散した検証会議委員が集まって出した「見解・報告書」に対する意見

 【第一、私たちの「基軸」は、どなたが来られて「座り込み」に参加されても、いささかも変わりません。】

(1)思想・信条を越え、またいままでの経緯や意見の食い違いを超えて、坐り込みに加わって下さい。私は50時間の全時間、坐り込みをしますが、健康上のこと、お仕事や家庭のご事情などもおありでしょうから、たとえ、20分でも30分でも結構です。また、団体に「動員要請・依頼」だけはしないで欲しいと思います。旗も幟も不要です。

 スローガンは、「平等の原則の立場で、補償対象、補償金額」を要請するという一点にしようと思います。特別の場合以外は、マイクも使用しません。他者に対してではなく、自己に対して「日本帝国」が行なった「植民地、占領地域におけるハンセン病政策」のハンセン病の被害者たちを謝罪も補償(=賠償)もなく、放置させてしまった自己責任を問い、その罪過を問う「50時間の坐り込み」のひと時としたいと思います。
                <『「謝罪と恨霊への祈り」50時間』より>

(2)その成功は、他の「戦争責任」「戦後補償裁判」とも連動して、「小泉首相らの靖国参拝」に見られる「国粋・排外政策」と、「新自由主義」の名の下で「弱者切捨て」の政策に一打を与えることになるでしょう。「障害者切捨て」「高齢者切捨て」「日の丸・君が代強制教育」などを闘っておられる方がたとも、その怒りを共有できるはずです。

 そのような気持ちで闘いをすすめたいと思っています。
                 <2005年12月8日(米英開戦の日の朝)>

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 この2点が私のいう「基軸」です。「来る者を拒まず、去るものを追わず」の立場を堅持し、「同化か、排除か」という『天皇制の論理』とは、無縁の論理で闘いを進めます。

 したがって、私も年末に出す『年賀状』には、1月24~26日の「座り込み」のことを書きますが、それは「思想・信条を越え、またいままでの経緯や意見の食い違いを超えて」、意見や立場を異にしている方たちにも、その「年賀状」は投函します。

 だから、どなたがどなたに『1月24~26日の「座り込み」のことを書かれた文章を出されること』をお書きになられても全く、私は異存をもっておりません。ぜひ、お出しいただきたいと思います。「セクト」をつくることは、私たちの運動・闘いから、なくしていきたいと考えています。

 最初から「排除」するということは、1月24~26日の「座り込み」の趣旨からして、適当だとは、思っておりません。どなたが座り込みに来られようと、前述した(1)(2)の目的を思って来ていただければ、歓迎して、ともに「座り込み」をしたいと考えております。

「謝罪と恨霊の祈り」は、誰が加わろうが、誰一人来る人がなかろうが私だけでも、国会議員会館前の路上で座り込みをしようと思うと、考えていました。

 そのことを知人に話したら、「滝尾さんひとりに、坐り込みをさすわけにはいかん。私も一緒に坐り込みをしよう」という方がたが、関東からも、関西や九州からもありました。うれしいことです。

「謝罪と恨霊の祈り」のメッセージが伝わって、「それならば行って加わろう」と思う人が来て一緒に座り込みをいいだけば、とてもうれしいことだと、私は思うのです。「勝手にやるだけだ」と投げやりなわけではなく、かと言って大声で激を飛ばして参加を訴え、加わらない人を非難するというのでもなくて‥‥‥。

 だから、どこかのグループの方がたが、もしも同じ日に、同じ場所で座り込みをなったら、隣同士で、議論したり雑談したりしながらできたら、それはとても素晴らしいと思うし、どこかのグループが日を合わせて来て「一緒に座り込みに参加したいのですが」といわれれば、それもありがたいことだと思います。

 ともあれ、「同化か、排除か」という考えだけは、この「謝罪と恨霊の祈り」の座り込みには、持たれないようにしていただけたらと、願っています。

 日頃から親しくしている方から、昨日、たいへん示唆に富むメールをいただきました。その一部を掲示させていただきます。「座り込み」を行う場合、私たちの行動の意味・目的などを考える場合の、大切なご意見だと思います。このことも、座り込みの当日に論議できたらと思います。

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【第二、ハンセン病問題に関する検証会議」(2005年3月解散)の元委員が2005年12月12日の「見解・報告書」に対するご意見の紹介=滝尾】

 <‥‥‥「ハンセン病問題に関する検証会議」(2005年3月解散)の元委員が2005年12月12日に出した「日本統治時代の韓国、台湾など国外療養所の入所者の救済について」を読んでの感想ですが、「見解」のほうは、わかりにくい文章でした。

 最後の「日本国には、世界のハンセン病問題の解決に向けて、積極的な役割を発揮することが期待される」というくだりはまったく余計なことだと思いました。

 「ましてや、日本が負の関わりを持ったアジア等の国々や地域に関しては‥‥」という認識につづいていくのでしょうが、帝国日本の植民地・占領地問題とは、軍事力をもって戦争し侵略し植民地にして現地の人たちを蹂躙したことの責任をはたしていないことが、いま問われているのであって、帝国日本のハンセン病政策は、その植民地支配の重要なひとつの柱であったことを、実態においても思想においてもとらえかえして反省し謝罪し、被害にたいしては賠償するということではないかと私は思っているのですが‥‥‥。

 民衆同士の国境を越えた連帯はもっと積極的にやるべきですが、日本が国として「積極的に動く」とろくなことはないと、常々思っています。

 「報告書」のほうは、植民地下のハンセン病療養所が帝国日本の直接の管理下にあったことを、いろいろな資料から明らかにしていて、それなりに調べた結果がでているようですね。調べれば、これくらいはわかるのですね。

 侵略にたいする根本批判と天皇制批判がないということは一貫していますね。「遅いじゃないか」と言いたくなりますが、滝尾さんの提起がひとつ、広がったと考えていいのではないでしょうか。

 ‥‥‥解散した検証会議委員が集まって「見解」をだすということは、あまりないことで、それだけ滝尾さんの活動がプレッシャーになっているのだと思いますよ。悪いことではないと思います。ソロクト・楽生院裁判をつうじた植民地下ハンセン病政策への社会的関心を、もっともっと大きくしないといけないときですから‥‥‥。(中略)この「報告書」でお茶をにごして終わりにすることなく、ミクロネシアの隔離したパラオの島民のハンセン病患者を虐殺したこと(『飛礫』47号・2005年7月1日発行に掲載した滝尾英二の「論考」53ページを参照=滝尾)などの植民地政策批判を、さらに続けて深めてほしいと思います。それをしなかったら、「アリバイづくり」としか思えませんね。>

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      2005年12月17日(土曜日)   滝尾英二より

   

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2005年12月15日 (木)

『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』の「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」(「要約版」=「13:日本におけるハンセン病政策と優生政策の結合」)の記述の問題点とその批判【中 編】

『らい予防法見直し検討会・議事録』の「優生保護法に関する記述」の検討

                         人権図書館・広島青丘文庫  滝 尾 英 二
                           (2005年12月15日、記す) 

【第二、『検証会議最終報告書』に書かれなかった優生政策の被害事実と責任の追及】

(1)『検証会議最終報告書』が書かなかった厚生省保健医療局エイズ結核感染症課編集・発行『らい予防法見直し検討会・議事録』の優生保護法に関する記述

 厚生省保健医療局エイズ結核感染症課編集・発行『らい予防法見直し検討会・議事録』には、「優生保護法に関する記述」がどのように検討されていたのか、以下述べてみたい。

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 まず、1995年12月8日に開催の『第8回らい予防法見直し検討会・議事録』(以下「第○回見直し検討会・議事録」という)には、「優生保護法」について、宮武剛(毎日新聞社論説委員)委員から「‥‥これは質問ですけれども、優生保護法及びその他関連法規の見直しのところで、関連法規については合理性を欠くものがあるから合わせて整理すべきであると書いてございますが、代表的な関連法規はどれくらいあるのか教えていただけますか。

 その宮武委員の質問に答えて岩尾総一郎エイズ結核感染症課長は、「とりあえずは優生保護法と出入国管理法の2つです。あとは、らいという言葉をハンセン病に直すということで関連法規が幾つかございます。」と答弁している。

 事務局としては、「恐らく、‥‥優生保護法と入管法、それから国民保健法の問題はいろいろ御議論いただきましたので、その辺はいろいろ見方はあるけれども、結果的には従来どおりということとしていただい訳でございます。」という発言をしている。(以下、「第8回見直し検討会・議事録」、24ページ)。

 第8回らい予防法見直し検討会の主要な議事は「らい予防法見直し検討会報告書(案)の検討」であった(「見直し検討回議事次第」)。

 ところで、1995年11月24日に行われた「第7回見直し検討会・議事録」をみると、「優生保護法」なり「婚姻の条件としての優生手術」などに関してかなりな検討・議論が交わされている。長文になるが、その討議・検討内容を紹介しよう。

「○中谷委員(中谷瑾子・大東文化大学法学部教授)(「らい予防法見直し検討会報告書」(素案)にある)「優生手術を受けた入所者の場合など」とありますけれども、高瀬さん、これでよろしいんですか。どうして優生手術を受けざるを得なかったことを書く必要はないんですか。婚姻の条件として優生手術を受けざるを得なかったというふうな、そういう表現では。
○高瀬委員(高瀬重次郎・全国ハンセン病患者協議会会長) 私も指摘しまして、入れてもらった文章なんですけれども、そういうような表現のほうが、より私どもの考えに近い訳です。
○中谷委員 優生手術が婚姻の条件として優生手術というのは行われたんですか、それはない訳ですね。
高瀬委員 結婚の条件としてありましたけれども、結婚の条件がありまして、いわゆる園内の平和を保って以降。逃走を防止しよう。そのためには結婚させたらいいと、そういうことです。(22ページ)

(中 略)
○高瀬委員 五番の優生保護法の問題、やはり先生(=大谷藤郎座長)がおっしゃったように、これ見ますと「取り扱いは医学的根拠を欠いているから」とおさまっているんですが、それもそうでしょうけれども、これは私たちにしたら大変なことなので、このほかに人権侵害だったということをここでも認めてほしい。そうしないとおさまらないという気がするんですね。少し簡単にいき過ぎておりますので、医学的根拠を失ったということだけじゃなしに強行された訳ですから、この辺のところは反省も含めて書いてもらいたい。

○大谷座長(大谷藤郎・財団法人藤楓協会理事長並びに国際医療福祉大学学長) これについてはどうですか。私も高瀬さんの言われた事は非常によく分かるんだけけれども、別の見解で別の点があるんですよ。というのは、優生保護法というのはらいだけではない訳なので、私もそれを大いに言いたい。患者さんにとって、私が聞いているのでは、拘束ということもあったけれども、断種手術されたということと、うっかり妊娠すれば、すぐに妊娠中絶をさせられたという屈辱感、これは大変なものであることは私も知っているんですが、いまこれを取り上げたときに、世論として優生保護法全体の議論ということになってきますと、それを議論されると、らい予防法廃止の方の議論までが足を引っ張られちゃって、せっかくここまでやってきたのが大変なことになる心配もある訳です。

 というのは、優生保護法は、ハンセン病だけではなくてほかにもいろいろ問題を含んでおりました、これをもうちょっと人権侵害とは言わなくても何か書く方法はないかなという気が、私もこれでは物足りないんだけれども、さりとて優生保護法を本気で議論しだしますと、これでまたものすごい議論になってきて、らい予防法廃止が遅れちゃうという心配があるんですよ。これは事務当局はどうですか、何か御説明、あるいは中谷先生、どうでしょうか。

○中谷委員 優生保護法はほかの点で非常に問題がありまして、どっちみち全面的に検討し直さなければいけない問題をたくさん含んでいるんですけれども、それは精神保健課に随分前から何とか見直しといっても、とてもそこまでは手が回らないということで今日まできておりまして、妊娠中絶とか、その他の観点で随分問題が多いんです。ですから、たしから、それをやり始めたら大変だという封には思います。
 それと、優生保護法の規定では、優生手術もしなければならないんじゃなくて、たしかすることが出来るになっていますね。そうでしたね。
○事務局 はい

○中谷委員 ですから、することが出来るのに強制的にしたという適用がおかしかったので、法自体は「することが出来る」だけですから完全に悪いというふうにも言えない問題もありますし、難しいんですよね。これはもうちょっと検討していただいて。

○大谷座長 「医学的根拠を欠いている」とだけ書いてある訳なんですね。そこが引っかかるところではあるのですが、さりとて‥‥‥。

○村上委員(国立多磨全生園園長 実際には、法律条文上に運用上非常に問題が大きかった。本来なら本人が希望しなければやらんでもいいはずのものがほとんど無理やりに承諾させられた。形式的には承諾書みたいなものが書いてあるのかもしれないけれども、ほとんど無理やり書かされたというのは、そういう事情があったということを多分高瀬委員は言いたいんだ(と)思うんだけれども。

○高瀬委員 23年にらいが入った訳ですけれども、それ以前の大正4年ごろから優生手術というのはどんどんやった訳ですから、法律を抜いてもらえばいいんですが、それだけでは感情的におさまらない点があるんですね。感情論は別にしましても、「医学的根拠を欠く」ということだけじゃなしに、もう少し何かそこに表現を付け加えててもらえばということです。

○中谷委員 優生保護法が出来る前から断種というのはやっていた訳ですか。
○高瀬委員 どんどんそうですよ。

○村上委員 優生保護法が出来てからやっと合法的に出来るようになったので、それまでは違法行為としての断種が行われた訳です。だから、法律以前の問題だったので、それまでは違法行為としての断種手術が行われた訳です。だから、法律以前の問題だった訳です。

○中谷委員 優生保護法が出来てからも年間4件とか、6件とか、そういうものは計上されているんです。それが多分この人たちの‥‥‥。
○村上委員 合法的に出来るようになってからがそれぐらいというこtで、それ以前に非合法的の断種手術が非常にたくさんあった訳です。
○中谷委員 分からないことがたくさんありまして‥‥‥。
○大谷座長 お任せいただけますでしょうか。高瀬さんどうですか。
○高瀬委員 言いましたような趣旨を若干盛り込んでいただけば結構です。」(41~43ページ)。

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 厚生省保健医療局エイズ結核感染症課編集・発行『らい予防法見直し検討会・議事録』(第7~8回)には、「優生保護法に関する記述」を以上のように検討している。この検討内容についての滝尾の意見・批判を述べてみることにしよう。(以下は【後編】にて=滝尾)。

   

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2005年12月12日 (月)

「チャムギル」の2005年10月31日の「声明文」の正式日本語文です。【滝尾】

11月7日のメッセージにおいて、ホームページ『恨生』の作者・山口進一郎さんの仮訳で紹介させていただいた「チャムギル会」の「10月31日の声明書」の正式な日本語版が、金在浩事務局長から届きました。

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    『声明書  -これ以上小鹿島ハンセン者の「恨」を踏みにじるな!-』

 さる25日、日本東京地方裁判所民事3部は日帝強占期に小鹿島更生園に強制収容された117名の韓国ハンセン者が日本政府を相手に起こした、補償を拒否した行政決定の取り消しを求めた訴訟に対して原告敗訴の決定を下した。

 この判決の要点は裁判部が、“療養施設収容者が受けた偏見と差別の原因の一端が戦争前の日本の隔離政策によるものであることは否定しがたい”という原告側の主張を一部認定しつつも、“法の審議過程等で外地(外国)にある療養所収容者も補償対象であるという認識はなかった”ということだった。 同日、台湾のハンセン者の訴訟が勝訴したことと相反する結果のため、多くの言論がこの問題を積極的に報道している。

 チャンギル会は、基本的にこの問題が日本が韓国を差別しているという、多少は感情的な接近を警戒しつつ、次のような立場を明らかにする。

 まず、今回の裁判は人類の普遍的価値である人間の尊厳性を無視したものである。来年、開園90周年を向える小鹿島更生園は、日帝強占期に数千名のハンセン者が強制収用された所である。 収容されたハンセン者は、明け方から晩まで強制労役に動員され、傷や凍傷により指は切り取られ、足がだめになる場合もあり、神社の参拝を拒否した罪で強制的に精管(断種)手術を受けたこともあった。 断種、堕胎、手足の切断手術は日常的に行われ、監禁室を設置し身体を強制的に拘束したり、家族にもたやすくは会えなくし、一般社会とは徹底的に断絶させる等、今まで明らかになった人権侵害行為は計り知れない程である。それにも関わらず、日本の裁判部がこのような人権侵害行為に対する補償にそっぽを向けるということは、日帝強占期に強制収容されたハンセン者の尊厳性を徹底的に無視することである。

 第二に、日本政府は強占期のハンセン者に対する人権侵害行為に対し、心から謝罪し、補償しなければならない。日本の厚生労働省は「ハンセン病補償法」が日本国内のハンセン者の補償を趣旨とする法であると主張しているが、小鹿島の収容施設は日帝統治下で天皇の勅令により設立されたものであり、日本の国立ハンセン病療養所に該当する。国籍と居住地などを制限する規定のないこの法律は、施設入所者を幅広く救済するためのものであるという、台湾の判決を受け持った民事38部のように、積極的に、この法を解釈し補償することだけが、日本政府が国家の人道主義的な責任に関する国際基準を守ることになるだろう。

 第三に、この裁判を拱手傍観した韓国政府は反省し、この問題の解決のために、あらゆる外交的チャンネルを動員しなければならない。結果が報道されるや、韓国の保健福祉部は今度の裁判結果に対し、遺憾の意を表し、控訴審においては公正な判決を期待するという立場を明らかにした。

 これは、一言で言えば祭りが終わった後、太鼓を打つようなものである。韓国政府が、裁判の過程においてより積極的な支援を行ったならば、違う結果を引き出せたかも知れない。 問題は訴訟人の平均年齢が80歳を超えていて、その中の22名は既に亡くなられたことからもわかるように、控訴審まで、また、どれくらいの人たちが、「恨」を解けずして天国に召されねばならないのか知らないということである。

 特に日本の「ハンセン病補償法」が2006年6月までの時限立法であることを勘案すれば、裁判とは別に、韓国政府はあらゆる外交的手段を動員して、日本政府が積極的な姿勢で補償するように働きかけるべきである。

 チャンギル会は、韓国社会がまだハンセン者に対する誤解と偏見にとらわれていた1984年から小鹿島にいるハンセン者と縁を結び今日に至っている。その期間中、私たちの社会が数十年間、彼らを徹底的に無視して来たにも関わらず、彼らは私たちの社会を既に許しているということを知って、彼らの前で頭を上げることができなかった。

 しかし、侵害を被った彼らの人権は、彼らがこの地に生きておられる時に回復されなければならない。殊に、日帝強占期に強制的に隔離収容された状態での人権侵害行為に対しては、当然、日本政府は心から謝罪し補償しなければならないし、韓国政府と政界は、これを日本政府に強力に要求しなければならない。

 ここに、われわれは、次のような点を要求するとともに、これを実現するための必要な行動を展開する。

1.ハンセン者の数十年間の「恨」を踏みにじった日本司法部は覚醒しろ!

2.日本政府は日帝強占期、強制収容した小鹿島ハンセン者に対し即刻、謝罪し補償をしろ!

3.ハンセン者の訴訟に消極的に対処した韓国政府は反省し、小鹿島ハンセン者の人権回復のために積極的に行動しろ!

4.韓国政府と政界は日本の厚生労働省が、「ハンセン病補償法」告示を見直すよう、強力に要求しろ!

5.1962年までに日本のハンセン者に対する政策を維持し、その以後にも行なわれた人権侵害行為に対し、韓国政府はハンセン者に謝罪し、賠償しろ!

6.政界は今度の定期国会で既に発議された“ハンセン者被害事件の真相究明と被害者の生活支援等に関する法律案”を、必ず制定しろ!

 2005年10月31日
                 福祉社会を志向する市民の集い チャンギル会

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→原文(チャムギル公式ホームページ

    

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2005年12月11日 (日)

『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』の「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」(「要約版」=「13:日本におけるハンセン病政策と優生政策の結合」)の記述の問題点とその批判【前編】

                 人権図書館・広島青丘文庫  滝 尾 英 二
                            (2005年12月9日、記す)

【第一、『検証会議最終報告書』における優生政策の欠落部分と疑問点】

(1) なぜ、『検証会議最終報告書』は「ハンセン病政策と優生政策の結合」のみしか、書かないのか。

 1948年7月13日成立・公布された「優生保護法(法律第156号」は、同年9月11日から実施された。その第二章「優生手術」第三条第一項第三号には、「本人又は配偶者が、癩疾患に罹り、且つ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの」は「優生手術(=不妊手術)を行うことができる」と書かれている。

 また「人工妊娠中絶」として、「優生保護法」の第十四条第一項第三号には、「本人又は配偶者が癩疾患に罹つているもの」は、「本及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる」とし、その法律を1952年5月17日の法律141号を公布している。

 すなわち、「優生保護法」でハンセン病患者が、優生手術や人工妊娠中絶の「官許」の範囲と規定されたのである。「優生保護法」は成立後改正が行われたが、1952年5月17日法律第141号で「人工妊娠中絶に当って地方優生保護審査会(1949年5月31日の改正で、優生保護委員会が保護審査会となった)が廃止され、指定医師の判断だけで中絶を行なうことができるようにした。

 また、「二十四年(=1949年)改正の「経済的理由による母体健康障害」の項が自由になり、これが周知のように中絶の爆発的増加をもたらし、出生がそれだけ減少をみせている。‥‥その他の他の法律改正に伴っての字句の改正などが主なものである。」(太田典礼著『堕胎禁止と優生保護法』経営者科学協会、1967年発行、175~180ページ)

 この「優生保護法」が基本的には改正されることなく、1996年4月1日に「らい予防法の廃止に関する法律の公布」まで存続されていた。また、「優生保護法」は1996年6月26日・法律105号で大幅に改正され法律の名称も「母体保護法」となり、「優生手術」の字句は「不妊手術」となったのは、1996年6月6月26日公布、同年9月26日施行である。

 これに対して、女性運動団体等からは、1996年6月20日につぎのような「優生保護法改正、母体保護法に関する声明文」が出されている。その「声明文」の一部を紹介する。この「声明」に、私は同感し、賛意を表したいと思う。「優生保護法」を批判するのは、単に「ハンセン病患者(=「ハンセン病疾患」に罹った人)の人権を奪っただけの問題ではなく、精神病者・精神薄弱者・身体疾患者・精神病質者なども「本人又は配偶者の四親等以内の血族関係にある者」は、「優生保護法」第二章第三条(医師の認定による優生手術)が「官許」されたのである。第3章第十四条((医師の認定による人工妊娠中絶)の場合も同様に、精神病者・精神薄弱者・身体疾患者・精神病質者などが人工妊娠中絶の対象になった。

 「優生保護法から優生思想を削除したことは当然です。謝罪を求めます。優生思想は障害者(ハンセン病患者・病歴者を含む=滝尾)の心と身体に大きな痛手を与え、障害のあるなしに関わらず女性の性と生殖にも介入して、人権を侵してきました。にもかかわらず、今回の改正はまったくの審議がないままに国会で成立しました。政府・厚生省が何の見解も示していないことに私たちは怒りを禁じえません。

 政府・厚生省は、戦前の国民優生法の精神を受け継いだ長年の優生政策を、国民の前で反省し、きちんと謝罪すべきです。今後、優生思想をなくするために、どのような具体的な政策、キャンペーン等をとるか、明らかにすべきです。」

 かくも長きにわたり、「優生保護法」を存続させた要因と、その責任追及が、『検証会議最終報告書』には、書かれていないのはなぜか。これは、『検証会議最終報告書』の重要な問題点であろうと思う。

(2)厚生省保健医療局長の私的検討会「らい予防法見直し検討会」は、1995年7月6日に第一回の「検討会」を開き、(財)藤楓協会理事長の大谷藤郎を座長として選び、委員総数14名で、「らい予防法の改正」を検討した。

 第八回の「らい予防法見直し検討会」は同年12月8日まで続けられている。委員の中には、後の『ハンセン病問題に関する検証会議委員』の金平輝子座長、牧野正直委員(国立療養所邑久光明園 園長)も、1995年の「らい予防法見直し検討会」の委員のひとりである(厚生省保健医療局エイズ結核感染課編集・発行『第1回~第8回らい予防法見直し検討会・議事録』より)。1995年12月8日に厚生省、らい予防法見直し検討会は報告書を取りまとめて、それを報道記者に伝えている。

 その時の厚生省保健医療局エイズ感染結核課長・岩尾総一郎は、1999年3月発行『公衆衛生』第3号に「らい予防法の廃止」の中で、つぎのように書いている。

 「厚生省らい予防法見直し検討会の設置」の項で、「‥‥平成3年(=1991年)になって全患協は、らい予防法の隔離関連条項を削除し、福祉的な措置に関する条項を残すことを主とする、3回目のらい予防法改正の要望書を厚生省に提出した。これを受けて厚生省は翌平成4年(=1992年)、今後のハンセン病対策のあり方を検討するため、(財)藤楓協会に委託して、全患協代表も含めて12人からなる「ハンセン病予防事業対策調査検討委員会」(座長:大谷藤郎藤楓協会理事長)を設置した。

 その後、平成5年(=1993年)になって、大谷座長が、これまでの「改正」を基本とした全患協の「らい予防法」見直し運動方針と一線を画する私的見解を公表した。これは「らい予防法」廃止と療養所入所者の処遇を確保するための新法制定を内容とするものであり、この見解の表明は各方面に大きな影響を与えた。全患協は、翌7年1月24日に開かれた第45回臨時支部長会議において、厚生省に対し9項目からなる新たな らい予防法改正を求める要求書を提出した。また、大部分の患者が入所している国立ハンセン病療養所の所長連盟や、日本らい学会からも相次いで声明が出された。

 特に、「らい予防法は医学的には当然廃止されなければならない。‥‥これほどの無惨さを黙視したことに対し、日本らい学会には、厳しい反省が求められるであろう」という日本らい学会の反省表明は大きな反響を呼んだ。‥‥

 これら一連の動きを経て、同年(=1995年)7月6日、厚生省は、保健医療局長の私的諮問機関として、患者団体代表、療養所所長、法律学者、マスコミ関係者その他学識経験者14名からなる「らい予防法見直し検討会」(座長:大谷藤郎)を発足させた。医学関係者の小委員会を含め、10回にわたる検討を重ねた。特に、第2回目の検討会は多磨全生園で開かれ、全患協の各支部長(各療養所の自治会長)との直接の意見交換を行うとともに、ハンセン病資料館を見学した。」

 この厚生省保健医療局エイズ結核感染課編集・発行『第1回~第8回らい予防法見直し検討会・議事録』には、「優生保護法」についての問題も検討されている。この検討内容は後述するが、問題の多い検討内容である。ところが、この『第1回~第8回らい予防法見直し検討会・議事録』の内容が『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』には、ほとんど紹介され、また、書かれていない。

 「資料1 近現代日本ハンセン病関係年表及びハンセン病文書等」として、「第一 近現代日本ハンセン病関係年表」の1995年の「国の政策に関する項目」として、「厚生省保健医療局長の私的検討会『らい予防法見直し検討会』が『報告書』にらい予防法廃止を明記」としか、書かれていないのではないか。

 この厚生省保健医療局エイズ結核感染課編集・発行『第1回~第8回らい予防法見直し検討会・議事録』は、研究者としての私は、日本のハンセン病政策及び「ハンセン病政策と優生政策」を知る上で基本的資料であると考える。なぜ、これを欠落させたのかが、元・検証会議委員と同検証会委員にたずねたい問題である。

 『第1回~第8回らい予防法見直し検討会・議事録』の資料を紹介・検討して、「日本におけるハンセン病政策」の真相究明をしないのであろうか。『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』の記述全体にもいえることだが、この「ハンセン病政策と優生政策」についてのことの記述についてもいえることである。

(3)『検証会議最終報告書』の「近現代日本ハンセン病関係年表」(853~863ページ)の1995年の「国の政策に関する項目」に、「優生保護法のハンセン病を理由とした最後の断種実施」と書かれている。

 ここで書かれた「断種」とは、男性に対する「精管切除・結紮手術」をいうのだろう。この事実を資料に基づいて説明する必要があろう。また、1996年の「近現代日本ハンセン病関係年表」には、「優生保護法のハンセン病を理由とした最後の堕胎実施」と書かれている。「堕胎」とは「優生保護法」でいう「人工妊娠中絶」のことであろう(ともに862ページに記述されている)。

 『検証会議最終報告書』の「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」には、「【表Ⅶ-1】優生保護法に基づくハンセン病を理由とする不妊手術と中絶の届出件数」され、不妊手術件数は、1949年~1996年までの総数=844,939、「癩疾患」総数=1,551、人工妊娠中絶件数は、総数=33,864,055、「癩疾患」7,696と表記されている。しかし、「優生保護法に基づくハンセン病を理由とする不妊手術と中絶の届出件数」以外の優生手術(不妊手術)と人工妊娠中絶手術は、未届けが数多くあったと思われる。

 しかも「不妊手術件数の「癩疾患」の男性の表では、1975年以降は「0(ゼロ)」である。したがって、1995年の「年表」にある「優生保護法のハンセン病を理由とした最後の断種実施」は、どのようなことを理由として「断種実施」が行なわれたのであろうか。(1996年の不妊手術件数の「癩疾患」は、5名と記述してある。)

 いずれにしても、『検証会議最終報告書』には、「近現代日本ハンセン病関係年表」にしか、具体的な内容として、「優生保護法」の下でどのような不妊手術と人工妊娠中絶が、優生政策として実施されたのか明らかでない。また、「優生保護法」に対する国家謝罪も正式になされていない。それに対する『検証会議最終報告書』が積極的に責任を追及しているのかどうかが、明らかでない。

 この問題について、以下【第二、『検証会議最終報告書』に書かれなかった優生政策の被害事実と責任の追及】で、後日、詳細に書いていこうと思う。

(4)「日本におけるハンセン病政策」としての優生政策が、「旧植民地、日本占領地域における優生政策・優生思想」として、どのような影響を与え、且つまた被害をもたらしたかの事実究明が疎かになっている。

 たしかに、小鹿島更生園や台湾楽生院に収容されたハンセン病患者に「断種」や「堕胎」をしたという被害事実のことは「第十七 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」(705~731ページ)で書かれている。しかし、大和民族の優生優位を唱える「民族優生思想・政策」が朝鮮をはじめミクロネシア四島の植民地や、「中国大陸や東南アジア」のハンセン病政策に大きな問題を起しているのではないか。

 私は『滝尾英二的こころ』の10月14日に、南洋庁が設立したミクロネシア四島の国立ハンセン病収容所のことについてメッセージを書いた。また、その南洋庁が設立したミクロネシア四島の国立ハンセン病収容所ことに関しては、「日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任」を明らかにせよ!(2005.3.3)として本年3月3日にハンセン病問題に関する検証会議へ意見として提出している。(『滝尾英二的こころ』掲載の滝尾英二文庫を参照)。

 しかし、この問題は『飛礫』47号(2005年7月1日発行)が「日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任」41~55ページに掲載していただい他は、『熊本日日新聞』が、『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』発表時に滝尾の意見として、小さな記事ではあるが「ミクロネシアのハンセン病患者被害の記述が欠落しているというコメントを掲載したにとどまった。

 しかも『検証会議最終報告書』のミクロネシア四島のことは、『各年板・南洋群島要覧』南洋庁編・発行にも、『南方年鑑』南方年鑑刊行会編にも、大蔵省管理局が敗戦直後に「極秘」として発刊した『日本人海外活動に関する歴史的調査』南方編も見ることなく書かれてもので、設立年も間違えているし、また収容したハンセン病患者の内容のまったく書かれていない粗雑極まりないものである。

 このミクロネシアにおける島民のハンセン病患者に対する隔離政策と国家による被害事実はまさに、「ハンセン病政策の優生思想に基づく優生政策そのものである。そして、『検証会議最終報告書』がその事実を欠落したには、検証会議委員が、ミクロネシアの人たちを未だに、無視しつづける「優生意識」そのものであろう。

 「南洋の未開の土人」としてか認識していない、優生思想・認識しか持ち合わせしかもち得ない『検証会議最終報告書』ではなかったか。だから、検証会議委員も検証会員も、2年半にわたる調査・研究と八百数ページにも及ぶ『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』に書かれていない。
 この南洋庁が設立し「慈恵救済の資に充てしむる聖旨を以て御下賜金相成りたる内帑金壱千円を基金」(『昭和八年・南洋群島要覧』181ページ)として設立した恩賜財団「慈恵会」が、ミクロネシア四島のハンセン病収容施設の運営にあたるのである。
 これは、明らかに、かつては国内の日本人を「第一国民」とし、沖縄県民と朝鮮人を「第二国民」、そしてミクロネシアの人たちを「第三国民」としてみていた戦前の「優生政策」そのものではないか。ハンセン病政策も同じく、この「優生思想」に立脚している。

 【第二、『検証会議最終報告書』に書かれなかった優生政策の被害事実と責任の追及】については、『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』の「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」(「要約版」=「13:日本におけるハンセン病政策と優生政策の結合」)の記述の問題点とその批判【後編】で、後日に【滝尾英二的こころ】ニメッセージとして掲示したいと思っている。
                      (2005年12月11日  滝尾英二より)

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2005年12月 8日 (木)

現在、ソロクト訴訟の敗訴で思うこと、(64年前の米英開戦の日に) 【滝尾英二】

 まだ、「口内炎」は治らず、お粥に卵、それに「ヨーグルト」の食生活です。耳鼻咽喉科の医師に、「なぜ、口内炎に罹るのか」と聞くと、「ビールス(他人には伝染しないそうですが~)が,口内に広がるが、要因は100種類ほどあり、あなたが何が原因で口内炎になったのか、分からない。発病するのは、一晩だが、治るのは長くかかる。抵抗力が低下している為でしょうか~」という、頼りない返事でした。

 現代の医学は、そのくらいの程度で、殆んど発病・罹患の要因は、分かっていないようです。ただ、個々人の素質の違いはあるにも関わらず、「臨床的」に見て、多数がきく治療をしているに過ぎません。劇薬は、ある人には「良薬」になっても、別の人には副作用がひどく「毒薬」になることもあるのです。だから、気質的にみて、或る薬品や治療方法が、多数の人たちには良くても、少数者にとっては、害になっている場合もあるのです。

 医療者が治療方法を独善的に決定するのではなく、病者自身が自己決定する必要があるのです。少数者切捨ての医学論理があってはならないように思います。司法の場でも同様なことが、言えると思います。「ひまわりバッチ」をつけた弁護士が「中心」で、訴訟内容・方法が決められてはならないのです。

 「ハンセン病市民学会」ホームページ『インドネシア便り』の「歴史は繰り返す」の中で、和泉真蔵さんが、最近ハンセン病に関して、同じような内容のことが、書いてありました。共感しました。やはり、和泉さんは優れた医者だと思いました。

 和泉さんは、こう書いておられます。「‥‥ハンセン病対策における科学的思考の大切さです。分子疫学によるらい菌の感染源や感染様式の精密な解析はまだ始まったばかりであり、ハンセン病の将来を楽観できる科学的根拠はまだないのです。私たちは自分たちの知識や技術がハンセン病の制圧のためにはまだ不十分であることを自覚するところから出発し、先入観や固定観念に囚われないようにしなければなりません」と。

 同じようなことが、歴史の研究にもいえると思います。つまり、和泉さん流にいうと「私たちは自分たちの知識や認識が、『社会の差別と偏見』をなくするためには、まだ不十分であることを自覚するところから出発し、先入観や固定観念に囚われないようにしなければなりません‥‥」ということです。

 その「インドネシア便り⑦」によると、「‥‥私も一時帰国して10月25日には東京地裁の法廷であの判決を聞いていたのですが、気持ちは皆様と同じように大変複雑でした。市民学会の皆様も各地で活発な活動を展開されましたし、私も含めて検証会議の元委員の有志も12月12日に見解を表明することになっています。」だそうです。

 その「検証会議の元委員の有志も12月12日に見解を表明」が、どんな内容であるか、また「有志」ということですので、全員ではないようです。しかし、遅過ぎた感は否めません。なぜ、判決前=「検証会議最終報告書」を厚生労働大臣に提出した今年の春に、出さなかったのかと思います。ソロクト訴訟の「鶴岡判決」も、変わっていたかもしれません。残念です。

 「遅かりし内蔵助!」のそしりを受けるでしょう。これも「~弁護団」の例の「大本営発表」の一環だと思えば、理解できます。しかし、なぜ、「~弁護団」が自ら、「ソロクト訴訟の敗訴」の意見表明と「敗訴した要因」を公式に表明せず、他者に頼るようなことをするのか、もう「憤り」を越えて「おかしさ」すら感じます。

 国宗代表兼事務局長の判決前の「敗訴したら仕切り直し」という10月16日(日曜日)の「回答というわけではありませんが」=(投稿者:naoko)の「HITASURA」の掲示の意見と、現在のソロクト訴訟の敗訴を受けて、「ソロクト訴訟弁護団」は、どのような「仕切り直し」をしようとしているのか、それと「国宗代表の仕切り直し」の見解と、どのように「整合性」があるのか、今後の「弁護団」の行動の具現化を図るのでしょうか。通常国会での「補償法」の再審議と、拙速主義でない、しかも早急に審議した内容の法制化と告示の改訂が、一番の「早道」ではありませんか。世情では、「急がは回れ」(危険な近道よりも、安全な本道をまわった方が結局早く目的地につく意。成果を急ぐなら、身近道でも着実な方法をとった方がよい。=『広辞苑』)という言葉がありますよ。

「弁護団」の代表として、敗訴後の「仕切り直し」の具体的内容を「国民」=民衆にいち早く知らせることが、必要だと、私は感じるのですが。そのことは、「90パーセントは勝訴」と原告に言い、「敗訴したが、なぜ?」と問う(11月13~14日に小鹿島訪問した滝尾の聞き書き)原告に答えることが、「ソロクト訴訟弁護団」代表としての責務だと思いますが、違いますか。

 今は「弁護団」は、ひたすら「ソロクト訴訟」の敗訴要因のついて、沈黙をし続け、「人の噂も~」を決め込んでいるようです。そして、折をみて「大本営発表」まがいの「敵の戦艦数隻、航空母艦多数轟沈。わが軍の損害、軽微なり」という情報を流し、人びとを惑わすことでしょう。しかし、そうは、問屋がおろしません。
 なぜなら、この問題は国内問題だけでなく、日本の「植民地・占領地域」の人たちの注目を集めています。また、『滝尾英二的こころ』に結集した力が、『飛礫』『未来』『世界』などを動かしていて、協力していただいていることです。

 川瀬さんや福留さん、さらには韓国から天飛龍さんやソウルのハンセン病問題関係者=ソウル大学の鄭根埴(チョン・キョンシク)教授など研究者などとの連帯があるからです。そんなに誤魔化しは、ききません。国内関係者とだけでは、動かないことです。その点を徳田=国宗氏ら「弁護団」は、認識しなくてはいけないと思います。

 ともあれ、私たちは『滝尾英二的こころ』の充実と、当面は「1月下旬(1月24日~26日を予定)」の「50時間の国会議員会館前の座り込み」を成功させることだと思います。日が決定次第、『滝尾英二的こころ』などでお知らせします。宿泊予約やお仕事の関係もあるとは思いますが、12月15日過ぎには決定したいと思います。厚生労働委員会へ政府が提出する案が出される以前に、第一次の「座り込み」を行ないと考えています。

 その成功は、他の「戦争責任」「戦後補償裁判」とも連動して、「小泉首相らの靖国参拝」に見られる「国粋・排外政策」と、「新自由主義」の名の下で「弱者切捨て」の政策に一打を与えることになるでしょう。「障害者切捨て」「高齢者切捨て」「日の丸・君が代強制教育」などを闘っておられる方がたとも、その怒りを共有できるはずです。

 そのような気持ちで闘いをすすめたいと思っています。

   2005年12月8日(米英開戦の日の朝)  8:00  滝尾英二より

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2005年12月 6日 (火)

 「弁護団の裁判活動」と「行政の責任」と「国会の責務」を明確することの必要性

                   人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二
                        (2005年12月6日、記す)

【はじめに】

 10月25日の東京地裁での「判決」において、ソロクト訴訟は東京地裁民事3部の鶴岡裁判長が原告敗訴、台湾楽生院訴訟は同民事38部の菅野裁判長が原告勝訴という異なった判決がくだされた。 台湾楽生院訴訟の菅野裁判長は、「補償法の精神にもとづいて平等の原則により」と司法判断をしたけれども、ソロクト訴訟の鶴岡裁判長は、「補償法の審議過程でこの点の審議は何らされていないので、告示に日本統治下のソロクト更生園が書かれていないことは違法とはいえない(だから補償請求却下は違法ではない)」とし、その責任を立法府と行政府に丸投げした。この判決をうけ、ソロクト訴訟原告団と弁護団は控訴し、台湾楽生院訴訟は十一月八日に負けた方の厚生労働省(以下、厚労省)が控訴した。そして、どちらも東京高裁に移ったわけである。高裁では、原告側には非常に厳しい裁判になると思う。

 昨夜、ある雑誌関係者から滝尾宛てにメールがきて、「‥‥その後、国会あたりで何か動きがあるのではないかと思っていましたが、表面では見られませんね。そのような報道もあったと思いますが。ただ、どんな動きであっても、早くても来年の通常国会ということになるでしょう。判決の批判はしなければならないと思います。それを、どういうふうに扱っていくか、まだ迷っているところです‥‥」といった内容のものだった。小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求訴訟弁護団の公式ホームページ(責任者は、国宗直子代表兼事務局長)の「ダイアリー」をみると、「11月8日=弁護団声明、11月23日=弁護団会議、12月17~19日=小鹿島訪問予定」とのみ述べられているにすぎない(12月6日現在)。

 つまり、この一ヶ月間は、11月8日を最後として、「ソロクト・楽生院弁護団」が何を考え、この一ヶ月間にどんな活動や取り組みをし、今後どのような活動するから支援をお願いするということが、まったく不明である。「国民」=多くの民衆に対してどんな支援を要請しているか、不明である。このことは、「弁護団」、とりわけ、小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求訴訟弁護団の公式ホームページ(責任者は、国宗直子代表兼事務局長)の怠慢ではないか。「国民の皆さまのご協力」という日頃の「弁護団」の訴えは、いったい何だったのかと私は思う。

【第一.私の小鹿島訪問と自治会長から依頼された国会への『陳情書』の手渡し】

 私は、ソロクト訴訟の「敗訴判決」が出された20日後には、小鹿島を訪問しました。
 原告の方がたにお逢いして、一様に言われることは、「ソロクト訴訟で敗訴した。これは何故なんだ。弁護団からは90パーセントは勝訴すると言われていた。私もそのように考えていた。それが敗訴した。理由が分からない。」「我々は、天皇陛下の赤子だと教育され、そのようになれと強制された。だけど、10月25日の裁判では私たちは、敗訴した。これはとうてい、納得かない」と、「くやし涙」を流されていた。

 私は日本人のひとりとして、また長いこと「不作為」を恥じ入るばかりであった。また、2003年8月9日の午前、私たちは二人のハラボジを尋ねて、「被害補償の訴訟の原告になっていただけませんか」と言い、その了解を得たもののひとりとして、そのハラボジにも、お詫びするだけだった。

 いま、私として出来ることは何か。直接的・間接的という違いはあれ、小鹿島の「納骨堂(萬霊堂)」とその裏にある小墳墓に、2005年10月14日までに、小鹿島で亡くなり納められた方は、10,409位にも及んでいる。私はその前に額ずきながら「恨霊」に謝罪の祈りをするだけだった。

 各政党の責任者にソロクト自治会長の「陳情書」を手渡すため国会議員会館をおとずれたとき、多数の諸団体や関係者が国会議員会館の前の路上で座り込みをしていました。私が今からできることは、国会議員会館前の長い壁に、小鹿島更生園に隔離収容され人間としてとうてい耐えることのできない苦痛をあたえられた証拠となる数々の写真パネルを展示し、一人で静かに座り込みをしようと思いたった。

 一年中で一番しばれる時期の路上での五〇時間連続の座り込みではあるが、キリスト教徒の蒋さんは神社参拝を拒否してソロクトの監禁室に入れられている。厳寒の国会前の座り込みは、六十数年前に監禁室にいれられた人たちの百分の一にもならないけれども、自分の一つの償いだと考え、いままで何もしなかった私たちの謝罪とたくさんの死んでいった恨みの霊にたいする鎮魂と祈りの静かな座り込みである。「滝尾さんひとりに、座り込みをさすわけにはいかん。私もいっしょに座り込みをしましょう」という方もでてきた。小声で歌をうたいながら、また、語り合いながらの五〇時間の座り込みにしたい。

【第二.弁護団は訴訟を依頼された原告のために、行政は「検証会議最終報告書」の提言実現にむけての施策を、国会は日本のハンセン病政策の被害者への補償が責務の政治的実現である】

 今日は改正されているが、2005年10月26日付けの「QアンドA」には、「4.Q」として、「新聞報道によれば厚生労働省幹部が『韓国と台湾の療養所は入所者の名簿がはっきりしていない。施設の定員を上回る人が名乗り出る可能性もあり、補償対象となるか判断するのが手続的にむずかしい』と述べているようですが、そうなのでしょうか?」の「A(=答え)」は、「‥‥また、韓国について10月25日追加請求を行った274人を超える補償請求がでることはほとんど考えられないのです。なぜなら、これは2年をかけて定着村の調査をとりまとめたものだからです。」と小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求訴訟弁護団の公式ホームページ(責任者は、国宗直子代表兼事務局長)は述べていた。

 これは、韓国のハンセン病患者が、日帝期にハンセン病政策により被害事実の歴史、および現実をまったく知らない小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求訴訟弁護団の言い分に過ぎない。
 なぜなら、【滝尾英二的こころ】の12月2日の「検証会議報告書」の記述の「批判」のメッセージで書いたように、日帝期に小鹿島に強制収容されたハンセン病患者は、その後、小鹿島病院、定着村だけでなく私立の医療宣教師の療養所に収容され、1941年になると医療宣教師の園長は、国外に追放され、その後に朝鮮総督府(=朝鮮癩予防協会)が運営し、園長は日本人の警察署長らが着任し、小鹿島更生園と同様な患者差別・迫害がされているからある。また、釜山相愛園は、釜山要塞が展望されるという理由で患者は生業を奪われて、解散させられている。
 
 私は、現にその私設療養所の日帝期に収容された方がたと交流を持っていた。
 また、「登録管理患者」の半数以上は「在宅の治療者」であり、北部朝鮮のハンセン病被害者も考慮しなければならない。したがって、この「これは2年をかけて定着村の調査をとりまとめたものだからです。」と小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求訴訟弁護団の公式ホームページ(責任者は国宗直子代表兼事務局長)に述べていることは、まったく事実に反して、人びとを惑わすこととなり、人びとの「歴史認識」を誤らせることになる。この点は、「弁護団」も銘記して欲しい。

 したがって、「小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求訴訟弁護団」に多くを望まない。依頼を受けた小鹿島の原告と台湾楽生院の原告のために、早期に補償の実現の諸活動を行なうだけを期待する。

 厚生労働省は、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』(2005年3月発行)の日本ハンセン病政策による被害者にたいする補償を「平等の原則」に立って施行してもらいたい。

 しかし、「弁護団」や「厚生労働省」とは、国会は違う。国権の最高機関として、また立法府として「ハンセン病訴訟小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求訴訟弁護団」としての原告のみの補償でもなく、誤り多い『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』に頼ることなく、科学的な調査に基づく独自の見解・見識をもって補償法のことを審議し、立法してもらいたい。そして、2001年5月~6月の『補償法』審議の拙速であった法案審議と採決の轍を再度踏まないように、慎重の上に早急に、『補償法』の審議・成立をはかってもらいたいと思う。そのために必要ならば、ご援助を惜しまないつもりでいることを明言しておきたい。

  2005年12月6日(火曜日)  19:00  人権図書館・広島青丘文庫
                              滝 尾 英 二

   

      

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2005年12月 2日 (金)

『ハンセン病問題に関する検証会議・報告書』の記述の「批判」(その2) 【滝尾英二】

【はじめに】

 11月28日(月)の『滝尾英二的こころ』のメッセージの続編です。『ハンセン病問題に関する検証会議・報告書』の記述のうち、「旧占領地、日本占領地域におけるハンセン病政策」の「第1の韓国」の節の問題点を述べてみたいと思う。

 この「旧占領地、日本占領地域におけるハンセン病政策」の「第1の韓国」のうち、日本の植民支配治下(以下「日帝期」という)で小鹿島慈恵医院・小鹿島更生園が設立され、そこで朝鮮のハンセン病患者が受けた人権侵害は、植民地支配下での民族差別の上にハンセン病患者への差別が加わり、二重の人権侵害があり、被害事実を日本国内のそれをはるかに上回った、とする記述する『検証会議最終報告書』の内容は、他の『最終報告書』の記述内容と較べて、際立って適切であり、賛意したいと思う。しかし、この「第1の韓国」も、つぎの三点において、問題点があると言わざるを得ない。

(一)キリスト教医療宣教師が設立した釜山の相愛園、光州・後に麗水(ヨス)愛養園、大邱(テグ)愛楽園の三園に対する日帝期において収容患者が受けた日本政府(朝鮮総督府)による被害実態とその責任とがまったく触れられていないことである。
とりわけ、麗水愛養園のウイルソン園長、大邱愛楽園のフレッチャー園長は、1941年のアジア・太平洋戦争が、米英開戦の年に、相次いで国外に追放され、帰国し、同年に二園は朝鮮癩予防協会(朝鮮総督府)の直接支配下に入り、当時、日本人の警察署長が園長として着任し、小鹿島更生園に収容されたハンセン病患者と同様な差別と被害が行われている。

 また、釜山の相愛園は、設置場所が釜山港軍要塞の展望でいる高台にあったため、朝鮮総督府と軍部当局により解散させられた。そのため、相愛園の患者は、生業を奪われた上に、居住場所からも追放され、多くは浮浪し、行き倒れざるを得なかったという事実である。このことがまったく『最終報告書』には書かれていない。

(二)朝鮮のハンセン病患者が受けた人権侵害は(日本国内も同様であるが)、ハンセン病療養所に収容された患者にとどまらず、収容されていない患者にも深刻な差別被害を与えている。戦前、ハンセン病患者が集落をつくり、総督府に医薬・医療費を要求しているが、総督府はそれを無視した。
 そればかりか、それら集落を焼き払い、生きながら患者たちは焼き殺されている。1938年の新聞報道は、ハンセン病集落が「焼却」されたことを報じている。差別のあるところは、戦いがあった。そのことを『最終報告書』は、正当に書くべきではなかったか。

(三)『最終報告書』の「まとめ」(717ページ)で「‥‥その人権侵害に植民地支配下の民族的感情が加わり、被害の程度は日本国内のそれをはるかに上回るものであった」と書いている。この「民族的感情が加わり」という「感情」の表記は適切でない。「差別支配実態」もあった上で、「感情」が加わるのである。

 「朝鮮総督府癩療養所患者懲罰検束規定」を国内の療養所と小鹿島更生園を比較すると小鹿島更生園の「患者懲罰検束規定」がきびしい。処罰としての断種も信仰の自由を奪う・神社参拝の強制とそれへの拒否者への懲罰も、「植民地支配下の民族的感情」だけでは説明できない。この「民族的感情が加わり」ということの主語は誰を指すのかが、明らかでない。必要なのは「責任の追及」である。

 以上の諸問題について、具体的に『検証会議・報告書』の内容の検討をしていきたい。また、『2003年度・ハンセン病問題検証会議報告書』(2004年4月発行)が、どのような経緯を経て、『最終報告書』の「旧占領地、日本占領地域におけるハンセン病政策」の第1の韓国の記述内容となって行ったかも書いてみたいと思う。

【第一 『中間報告』から『最終報告書』へ】

 『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』(2004年3月31日発行)は、B5判342ページの冊子である。「旧植民地におけるハンセン病患者の処遇と対策」の「一 韓国」の項は264~272ページに書かれている。しかし、内容は研究者の書いたものとは言えない粗雑で、「歴史認識」「植民地認識」をかいた記述内容であった。

 『飛礫』49号(2005年12月下旬に発刊・予定)の拙著「ソロクト訴訟はなぜ敗訴したか―今後の闘いにむけて―」のなかでも書いておいた。同論考で私は、
「‥‥ハンセン病問題に関する検証会議が出した『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』(2004年3月31日発行)です。そのなかで韓国は<日本のハンセン病対策の全体像を明らかにする一助>ですよ。私は検証会議に二度にわたり意見書を提出しましたし『飛礫44』にも中間報告への批判書を書きました。5月には『小鹿島更生園強制収容の被害事実とその責任所在』(人権図書館・広島青丘文庫)を出版し、また検証会議を傍聴し、個々の検証委員や検討委員にも会い、ようやく不十分ではあるけれども、05年3月1日付け『検証会議最終報告書』には、ソロクト問題が正しく書かれました‥‥」と述べておいた。

 『2003年度ハンセン病問題検証会議報告書』を書いた当時=2004年3月における検証会議委員・検討会委員の「植民地認識」「朝鮮ハンセン病問題の認識」は、お粗末の一語に尽きる。検証会議委員の中には、かつて1995年当時の「らい予防法見直し検討会」委員(座長は大谷藤郎)がいた。金平輝子、牧野正直両氏である。余談に成るが、私は10年余のハンセン病問題の歴史を「予断と偏見」を抜いて、また、科学的な立場を堅持して今一度、再度検証し、その事実のすべてを究明すべきであろうと考えている。未だにそれはなされていない。

 「特定された立場からの資料の氾濫」はあっても、客観的な科学的な同時代史は、書かれていないと思う。とりわけ、日本ハンセン病問題やその政策の推移や実態の究明の中で「日本の植民地・占領地域におけるハンセン病政策やその実態」は、とりわけ調査・研究がなされていないと思う。その資料さえ、ほとんど収集されていないのだ。『検証会議の報告書』は事実の砂粒程度のことしか書かれていないと思う。

 ともあれ、05年3月1日付け『検証会議最終報告書』は出された。その批判的検討が早急になされなければならない。

 【第二 釜山の相愛園、光州・後に麗水(ヨス)愛養園、大邱(テグ)愛楽園の三園に対する日帝期において収容患者が受けた日本政府(朝鮮総督府)による被害実態とその責任】

 これも『飛礫』49号のなかで述べたことであるが、国宗弁護団代表兼事務局長の「(補償法の)告示改正ならば国会審議を経ることなく厚生労働大臣の一存で支給できる」「たとえば2施設(=小鹿島更生園と台湾楽生院)を加えればいい」という発言が「2施設だけでいい」と受け取られ、国内の元原告たちや支援者はそれを支持したということである。
 「一日も早くソロクトと楽生院を「告示」に付け加えてください」という趣旨の発言が、原告から依頼されて裁判をしている弁護団からの意見ならまだ分かるが、すべてのハンセン病被害者に対する謝罪とそれにともなう補償・賠償を要求し、その実現を願う人たちであるならば、「補償範囲」「補償金額」を「平等の原則」に立った補償法であって欲しいし、それに基づく告示の改正要求でなければならないだろう。

 国会での厚生労働委員会の議員の質問のなかでも、厚生労働大臣の告示に「2施設を書き加えるだけでいい」ともとれる発言がなされていた。要するに、『検証会議最終報告書』が、まったく日本のハンセン病政策で、被害事実を受けたハンセン病患者の実態を、ひろく日本の在住する人たちに分かってもらう記述をしていないからである。

 それを端的に示すのが、『最終報告書』に、釜山の相愛園、光州・後に麗水(ヨス)愛養園、大邱(テグ)愛楽園の三園に対する日帝期において収容患者が受けた日本政府(朝鮮総督府)による被害実態とその責任の問題が「1.韓国」の項で抜け落ちていることである。

 『飛礫』49号の予定原稿に述べたことを紹介しておく。

 「第二に、‥‥韓国には小鹿島更生園ができる前からキリスト教の医療宣教師による私立のハンセン病療養所が三カ所ありました。釜山の相愛園は日本の要塞が見える場所に建っていたので1935年にマッケンジーという当時の園長が「要塞法」で逮捕されるという事件もありました。イギリスの管轄だったので一九四一年には朝鮮総督府が強制廃園させて、患者たちは流浪せざるをえなくなった。大邱愛楽園と麗水愛養園は1942年に朝鮮癩予防協会などの管轄となり日本の警官が園長になっています。ここでも小鹿島更生園と同じように断種や強制労働をやらせています。

 第三に釜山の相愛園が閉鎖となり患者たちは流浪せざるをえなくなったと言いましたが、ハンセン病患者は仕事につくことを総督府によってきびしく制限されていたため仕事につくこともできず療養所に入ることも許されず流浪して、市場でのたれ死にしたり橋の下で凍死したり、木に首をくくって亡くなるといった行路死亡者がたいへん多かった。これらは『朝鮮ハンセン病史――日本植民地下の小鹿島』(未来社)にくわしく書きました。戦前戦中の日本の新聞の朝鮮版や総督府の雑誌には「伝染するから恐ろしい」とか「生き肝を食べるから怖い」などとまことしやかに報道され、あとで「あれは誤報だった」とちょっと訂正文をだしたりしていますが、大きく書き立てて差別をあおった。こういった総督府の責任はまったく問われていない。

 1935年4月20日に交付され6月1日から施行された朝鮮癩予防令は、解放後も李承晩(イ・スマン)時代の1954年1月まで9年間つづくのです。日本の衛生観念は残ったまま隔離されているのです」と述べておいた

 これでも分かるように、「補償法」に基づく厚生労働大臣の告示の範囲は、「韓国の場合」でも、告示に「2施設を書き加えるだけでいい」というわけにはいかないのである。また、日本政府が被害者に金を払い、「救済する」というものではなかろう。生存中の日帝期に被害を受けた方がたへの「こころからの謝罪」を伴なった補償であり、名誉回復を切望しておられる願いに副うものでなくてはならないものである。また、怨嗟のなかで亡くなった「恨霊」に対する謝罪も必要であろう。

 【第三に、「意識」と「実態」の問題である】

 これを述べるに際し、その実態を知るためにも、私は、翌年1月10日(火)広島空港発~仁川(ソウル)空港着のチケットの往復を購入した。17日(火)まで韓国を訪問する。ソウル大学の鄭根埴教授が、政府の「人権政策委員会の朴燦運局長に依頼されて、「チーム・リーダー」となり、ソロクト弁護団の朴永立団長らと韓国のハンセン病歴者の全国調査中だそうで、ソウルから滝尾の自宅へ鄭根埴教授から「ぜひお会いしたい」という電話があった。鄭根埴教授たちと会った後に、小鹿島を訪問しておきたいと思う。その「訪問記」は、『滝尾英二的こころ』に掲示したいと思う。

 2月の適当な日を選んで「謝罪と恨霊への祈り」の50時間座り込みを国会議員会館前の路上で行なう。そのことについて、『飛礫』49号に私はつぎのように書いています。

 「‥‥アジア・太平洋戦争後60年たっても、いまだに国家謝罪も賠償もなされていないことについて、日本国の主権者である私たちが政府や国会にそれを許している責任があると思います。なぜ、こんにちまで未解決のまま残したか。私のことでいうと、研究者として国家権力者あるいは民衆にたいして、「大日本帝国」がおこなった「植民地・占領地域におけるハンセン病政策」の被害の事実とその責任の所在を明らかにし、広く知らせることを怠った責任があります。楽生院訴訟で国が控訴したことに抗議して「恥を知れ!」という叫びがあったが、その叫びは、政府につきつけるだけでなく、不作為であった自分自身にもつきつける言葉であったはずです。

 各政党の責任者にソロクト自治会長の「陳情書」を手渡すため国会議員会館をおとずれたとき、数多くの団体や関係者が国会議員会館の前の路上で座り込みをしていました。私も人生において何度か座り込みや徹夜の闘争をした経験があります。私が今からできることは、国会議員会館前の長い壁に、小鹿島更生園に隔離収容され人間としてとうてい耐えることのできない苦痛をあたえた証拠となる数々の写真パネルを展示し、その前で静かに一人で座り込みをしようと思いたちました。

 一年中で一番しばれる時期の路上での50時間連続すわりこみです。キリスト教徒の蒋(ヂャン)さんは神社参拝を拒否してソロクトの監禁室に入れられましたが、厳寒の国会前の座り込みは60数年前に監禁室にいれられた人の百分の一にもならないけれども体験的にそれを理解できる自分の一つの償いだと考えて、いままで何もしなかった私たちの謝罪とたくさんの死んでいった恨みの霊にたいする鎮魂と祈りの静かな座り込みです」。

 「実態」によって「意識」が変わり、その「意識」が「実態」を変えてくると、私は過去の経験から確信している。
                          (2005年12月2日、記す)

   

 

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