「胎児等標本」=「人体標本」を知った私の体験
人権図書館・広島青丘文庫 滝 尾 英 二
(2005年12月29日、記す)
(1)呉市の二河公園内にあった「衛生参考館」展示の「広口ビンにホルマリン漬」してあった「胎児標本」のこと
「胎児等標本」のことを知ったのは、小学校の4~5年生の私が未だ、児童だった頃のことだ。だから、もう六十数年以前ということになる。自宅は、1944年7月2日の「呉市内大空襲」で焼失してしまったが、小学生の時の4年生から転居して、二河公園から徒歩五分くらいのところに住んでいた。だから、小学校は呉市立二河小学校へ通っていた。
自宅から二河公園へ行くには、呉市立図書館の方からよりも、やや細い道から公園に行った方が早道であった。公園に入ると大きな池のある桜の植え込みのある敷地の奥地に「衛生参考館」が建っていた。洋風の白っぽい建物で小さい建物であったが、ややモダンな鉄筋コンクリートつくりだったと思う。「衛生参考館」へは、公園の池にかかった石橋を渡って行くことが出来た。
その正面の大きなガラスケースの展示に「広口ビン」に「胎児」がアルコール(ホルマリン)漬けにされて、受胎して3ヶ月、4ヶ月の「胎児」は小さい「広口ビン」にいれられ、それから順次大きくなって、最後は8ヶ月の「胎児」まで母体で成育されるにしたがいに大きくなっていく「胎児」状況が説明されて並べられていた。この陳列ガラス展示ケースのなかには、人骨の実物が吊るされて、展示されていた。
五ヶ月ほどの「胎児」にもなると、生殖器が丸出しの状態なので、性器からはっきりと男女の性別が出来た。この広口ビンの母親は、どこで胎児を摘出され、「衛生資料館」の入館者の広口ビンに漬けられたまま、生を受けることなく人目をさらされて「展示」されるのであろうか。そのことを胎児の母親は、知らされているたのであろうか。
小学生の頃は、性の好奇心でみたと思ってみた「胎児標本」だったけれど、「歴史」で人権問題を考えはじめてくると、近代医学は、こんなにも人間の尊厳を侵害しながら、進む道程だったのかが、気になり始めてきた。永遠の「生」を受けることなく「広口ビン」の中で裸のまま、さらされたままの胎児の尊厳は、いったい何だったのか。その母親の気持ちはいか様であったのだろうか。
呉市史編纂委員会編『呉市史・第五巻』1977年3月発行、944ページには、「衛生参考館」に関することを記述している。
「‥‥呉市連合衛生組合会の経営する択善館は、大正天皇の即位を記念し衛生思想の普及を目的として大正五(1916)年四月に二河公園東南に開設されたものであり、昭和一四(1939)年当時、館内には七四〇余点の衛生参考品が展示ないし内所蔵されていた。また、四年二月六日には択善館に隣接した位置に、皇太子の行啓記念行事として、鉄筋コンクリート二階(一部三階)の行啓記念館別館が建設された。なお、この別館の開会式は、ご大典記念行事として計画された択善館前の園池に架設された御典橋(ルビ=みのりばし)の竣工をまって、五年四月六日に挙行されている。」
この「四年(1929年=滝尾)二月六日には択善館に隣接した位置に、皇太子の行啓記念行事として、鉄筋コンクリート二階(一部三階)の行啓記念館別館が建設された」建物こそ、私が少年時代にみた「衛生資料館」(呉市史編さん室編集『呉・戦災と復興』呉市役所(1997年3月)発行の巻末に収録されている「付図・呉市街地復元図(昭和16年当時)」に書かれている「二河公園東南」に位置して書かれた「衛生資料館」にほかならない。戦後は、呉市市役所の諸資料保存資料倉庫として使用され、十数年前に撤去されたという。
「胎児標本」など「収集された多くの衛生参考品の処理も現在では、不明だという。
(2)私の通学していた旧制中学校の「生物教室」にあった「人骨標本」
1944年4月に、私は旧制中学校・広島県立呉第一中学校へ入学した。その時に生物教室の準備室に等身大の人体の骨組みが一体、吊るされていた。上級生の先輩は、「あれはドイツの死刑囚の男の人体だ」と言っていた。肉を削がれて、骨がさらされて作られたものだと言う。触ってみるとさすがに、本物の人骨、内臓を奪われ、皮膚血肉を外され、骨だけの「骸骨」となって療養商人の手によって「人体標本」として売買されて、私の通学していた中学校の生物教材として、使用されたのではあるまいか。
当時は、プラスチックなどない1944年のことである。生物の教師は、田中先生(=あだ名は「赤大根」とか、それを略して「アカダイ」と生徒たちは呼んでいた。)すでに故人であろう。この人骨を使っての授業を私は受けていない。生物教室は、1995年7月2日の呉大空襲から焼失を免れている。その後、敗戦後の「等身大」の人骨標本がどうなったか、いまだに不明である。
これらは呉特有の「人体標本」というわけではあるまい。全国どこでも存在したと思われる。そして、近代医学・衛生行政の問題に違いない。日本の近代医学・衛生行政は、このような人間の尊厳の侵害、人権無視の<論理>に基づいて行われ、それが今なお「事実究明と責任追及」を曖昧にしたまま、現在に至っている。現在、「胎児等標本」の問題」が、ハンセン病療養所に未だに残された「胎児標本」の事実と責任が問われようとしている。曖昧な問題としてではなく、「責任の所在」を含めて、その真相の究明に当たってもらいたい。
(3)長島愛生園の「雑誌資料」=月間『愛生』誌にみる「嬰児殺し」
この「嬰児殺し」の問題は、拙著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』広島青丘文庫(2000年3月)発行の「(B)嬰児とその母たち」(59~62ページ)に書いている。未読の方がたのため、その一部分をつぎに挙げておきたい。
‥‥戦後間もない一九五二年七月、国立療養所長島愛生園は同園の機関誌『愛生』に発表された作品の中から選んで、『小島に生きる』という詩文集を宝文館から出版する。その中に、患者の妊婦の産み落とした嬰児を膿盤に入れ、看護婦が自然死させる処置を描いた作品が二編ある。大海 誠「夜の潮」と双見美智子「女二人」である。
その1、【大海 誠著「夜の潮」の作品】
「‥‥妊婦は、今は産み落とした安堵と虚脱感からか、静かになっていたが、突然、何かにすがりつくような悲痛な絶叫を上げたと思うと、今まで固くとだざていた個室のドアがサアッと開き、一人の看護婦が現われた。‥‥‥看護婦は、手に白布の掛った膿盤(外科治療器具)を捧げるように持って、緊張にやや蒼白になった面持で、視線を二三歩に落して出て来た。私はとっさに、<子供だ>と直感して、膿盤に瞳を凝らした‥‥‥
一瞬の間の厳粛な事態は私を緊張させた。と云うのは、その後、あの嬰児に加えられる運命を知っているからだ。いま看護婦の手で試験室に運ばれた嬰児の魂に、生は恵まれないのである。むろん、保温も給乳もなく、あの冷たい膿盤の中に暫し放置され、やがて亡骸となる、自然死を待たれるのである。
嬰児は、束の間の生とともに死の宿命をもつて産まれて来たのだ。彼を孕んだ母体と、その父が癩なるが故に――。
再び個室のドアが開き、小柄な中年の婦長が出て来た。
「‥‥‥見ないほうがいいのよ」という声が半部こちらの部屋にもれて(中略)私には、婦長のその後姿が、いま目のあたりに直面した同姓の悲哀と感傷に、ややもすれば崩れそうになる姿態を、看護婦という、婦長という職業の責務が、ようやく支えているように見えた。個室では、患者だけになつた気安さからか、産婦のどつと泣き崩れる声がした。
「見ないほうがよかつたのよ」
「そうよ、心残りがなくて」
「つらいけど我慢するのね」
こもごもに慰める女達の声もまた、湿つていた。と、それに却つて刺激されて、産婦の慟哭は激しくなつた。」(大海 誠「夜の潮」より)。
その2【双見美智子「女二人」の作品】
「最後の痛みが由美の顔からタラタラと汗が流れ、飛び出しそうなほど見開いた目が、スタンドの余光にギラギラと輝いて、全身の神経が悉く足下に集つた。二分、三分、無限に長い時のようだつた。最後の痛みが由美の全身を貫いた。
すべては終わつたのだ。
子供は、胎盤とともに、膿盤に入れられた。それは男の子であることを、里子は知つた。上からガーゼがかぶせられた。ガーゼをつき抜けて、全身で訴える、子供の声だ。
「オワア、オワ」
婦長は、膿盤をかかえるようにして、出口へ歩きながら、
「由美さん、見ないで置きましょうね。無事に済んでよかつたわ、お願いします」
と言つて、出て行つた。
つむつた目から涙が溢れ、由美はガバと布団をかぶつてしまつた。
「オワア、オワア、ワア」
子供の声が、廊下のコンクリートの壁に反響して、次第に遠ざかつて行つた。
「ウウツ」と、由美が、身をよじらせて、布団の外に出した両手が、空をつかんだ。里子は、そっと、由美の手を握つた。」(双見美智子「女二人」より)。
(4)小鹿島更生園の断種と堕胎手術のこと
私は、1999年5月22日に脱稿した論考のなかで、つぎのように記述している。
小鹿島更生園の収容患者総数は、一九三七年末には四七八三人であったが、三年後の一九四〇年末には六一三六人と、一三五三人増加した。一二八・三%の増加である。一方、「夫婦患者の同居数」は一九三七年末現在、四七一組が一九四〇年には八四〇組となる。その増加率は一七八・三%と増加した。
朝鮮における植民地支配の強化、資源の収奪は朝鮮人のハンセン病の発病者を増大させた。ハンセン病の発病者は、朝鮮全土から全羅南道南端の小鹿島へ強制収容させられた。収容されたなかには、夫婦患者も数多くいたが、夫婦同居の条件として「隔離収容ノ意義ヲ没却スルニ至ルベキヲ以テ」(『小鹿島更生園年報』)男性患者には「断種」が強要・施術された。その数は、小鹿島更生園『年報』の公的数字だけでも、一九四〇年末には、八四〇人にも達している。
小鹿島更生園では、「断種」が夫婦患者の同居の条件にとどまらなかった。収容されたハンセン病の朝鮮人に対して、職員の命令に従わなかった、反抗てきであった、逃亡をくわだてた、反日的であった……といった理由で、療養所(収容所)内にある監禁室へ入れられ、処罰としての「断種」手術が強行された。そこには植民地支配をうけているが故の、朝鮮人ハンセン病者に対するさらなる残虐性と非人間性が加わったのである。
日本統治期につくられた小鹿島の監禁所は、小鹿島病院治療本館から徒歩で三分ほどの木立のなかに、解剖室・屍体室の建物と並んで建っている。四方を高さ三・五メートルほどの赤煉瓦で囲まれた中に、煉瓦造りの二棟の監禁所がある。小さな窓には鉄格子がはめられ、二棟は渡廊下によって繋がれている。
現在、その監禁所の前には、つぎのようなの詩が掲げられている。彼は、看護長から松の木の植え替えの命を受けたが、友人が急に倒れたため、友人を背負って治療室に運んだため、つい看護長の命令を忘れてしまった。李東はその罰として、監禁室に入れられた。それは、出監した日に「断種手術」受けた青年・李東の断腸の思いを込めた詩である。
その昔 思春期に夢見た
愛の夢は 破れたり
今、この二十五の若さを
破滅させゆく手術台の上で
わが青春を慟哭しつゝ横たわる
将来 孫が見たいといった母の姿……
手術台の上にちらつく
精管を絶つ冷たいメスが
わが局部に触れるとき……
砂粒のごと地に満ちてよとの
神の摂理に逆行するメスを見て
地上のヒポクラテス(古代ギリシアの医学者)は
きょうも慟哭する
日本統治期におこなわれたハンセン病に対する「断種」は、一九四五年八月の解放後も、引きつづき小鹿島でおこなわれている。
一九四九年(日本の敗戦・朝鮮の解放から四年後)の小鹿島更生園の収容患者総人数は六一一一人、夫婦同居数九五九人、精系手術(断種)数一八一人、出生児数は四五人である。それから十年後の五八年の収容患者総数五五八三人、夫婦同居数一〇六四組、精系手術四〇人、出生児数一三人となっている。夫婦同居者数を、一九五四年度の場合についてみると、つぎのようになる。
一九四九年から五八年までの十年間で、小鹿島ハンセン病療養所で、一一九一人が精系手術を受けている。一九三六年の小鹿島更生園の大拡張以来、夫婦患者間の別居に対して「恕声」が起きたので、園は三六年四月、男子患者の断種手術を条件に夫婦の同居を許諾した。一九四五年の朝鮮解放後の園内外での混乱で、自由性生活は盛んにおこなわれ、一時「精系手術」は中断され、数ヶ年は毎年二十人内外(四九年は四五人)の出生児をみるようになった。ところが当時、韓国の国家財政の実情は、出生児の収容財源を捻出するのが、きわめてむつかしかった。一方、戦後の自由思想の発展は人権擁護上、法的な方法で「断種」によって産児を制限することは出来なかったので、同園は日本統治期にとっていた慣習に依拠して、一九五一年十月より夫婦同居者の未施術者および新規同居者に対し、いっせいに精系手術をおこなった。
ハンセン病患者に対してとった「断種(精系手術)」(および「堕胎手術」も=後述)と言う日本の医師たちがとってきた「負」の遺産を、小鹿島の韓国の医師たちは「解放」後、引継いだのである。
(5)小鹿島の解剖室のガラスケースの「胎児標本」は何処(いずこ)へ
小鹿島病院の入所者からの証言によると、小鹿島の中央公園入口に建てられている解剖室のガラス扉の戸棚には、かつては、「人工妊娠中絶手術」をした「胎児」が広口ビンに入れられて、並べられていたという。そして、これは「一種の見せしめだった」という言葉も聞いた。なぜなら、入所者に解剖台の広口ビンの「胎児標本」を見にくるように、また、時には手術している場面を見せられたともいう。
妊娠すれば、みなこういう手術を受けるのだということを、知らせるためだったとも聞く。人間の尊厳の否定、人権の蹂躙の典型ではなかったか。
現在は、解剖室のガラス扉の戸棚にはなにも置かれていない。「胎児等標本」は、どこへ移されたのだろうか。この真相の解明は、ぜひ小鹿島病院や韓国政府当局関係者たちの手でして欲しいと思う。と同時に、日本各地にあり、またあった「胎児等標本」=「人体標本」などの作成過程、管理、その後の措置なども具体的に調査し、また研究することが必要だと考える。私が「ハンセン病療養所における胎児等標本に関する要望書」の呼びかけ人のひとりになったのも、ひとつにはその為でもある。
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