間違いだらけの 『ハンセン病問題に関する検証会議・報告書』の記述の「批判」 【滝尾】
間違いだらけの『ハンセン病問題に関する検証会議・報告書』―旧植民地、占領地域におけるハンセン病政策―批判(その1)
人権図書館・広島青丘文庫 滝尾英二
(2005年11月27日・記す)
【その1】「満州」は「旧植民地~」の節で、「南洋庁」統治下の「ミクロネシア四島」を「占領地域」の節で記述していることは適当でない。また、「旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策」の章の記述には、誤った記述や不十分な書き方が目立つ。
(1)まず、「パラオ共和国とサイパン(米国自治領)、ヤップ(ミクロネシア連邦)、ヤルート(マーシャル諸島共和国)」の『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』の記述からみていこう。
1922年3月31日に「勅令」で南洋庁官制を公布し、4月1日それを施行し、初代長官に手塚敏郎を任命している(『官報』)。したがって、これら四島は「日本帝国」の植民地であった。こうした認識がないので『検証会議最終報告書』は、「日本占領地域」のなかの「3.太平洋地域」として、「ミクロネシア四島」で記述した。そのことは、『検証会議最終報告書』の関係者が、こうした歴史事実を知らないことの左証といえよう。
検証会議委員・検討会委員は、南洋庁編・発行の『各年版・南洋群島要覧』を見ずに、検証会議報告書を書いている。おそらく「第二次資料」の孫引きをしているから、ハンセン病収容所設置のことを間違って記述し、かつ、そこではどのような「隔離収容」と「ハンセン病患者やその家族」が受けた被害事実とその責任の内容の記述がなされていない。これに関して、「検証会議」に対して私は、本年3月の始め、検証会議に「ミクロネシア四島のハンセン病患者の被害実態」を述べるとともに、検証会議としても「追加報告書」でも書かないかと思い、3項目の「意見書」を提出した。しかし、返答なく検証会議は3月末日に解散した。(拙稿「日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任」41~55ページ、『飛礫』47号・2005年7月発行を参照)。
では、人びとのあいだに普及している『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書(要約版)』には、ミクロネシア四島の「ハンセン病患者の処遇と政策」をどのように書いているか、省略しないで、つぎに示しておこう。
「日本は、1919(大正8)年以降、マリアナ・マーシャル・パラオ・カロリン諸島を国際連盟の委任統治として事実上、植民地支配し、1928(昭和3)年にヤルート島に、1929(昭和4)年にサイパン島に、1930(昭和5)年にヤップ島に、1931(昭和6)年にパラオ島に、南洋庁がそれぞれ小規模なハンセン病療養所を設置していたが、1941(昭和16)年の対米英開戦以降、太平洋地域の島嶼の占領を拡大した」(「要約版」91ページ)、と書かれているだけである。
このミクロネシア四島の設置年からして間違っている。歴史資料としては、当時発刊された南洋庁編・発行の『各年版・南洋群島要覧』が基本的資料(第1次資料)といえる。それには各年版の『南洋群島要覧』とも、つぎのように書かれている。(『同・要覧』は、いずれも、国立国会図書館で閲覧できる。)
「四 癩療養所 癩は群島各地に之を見る、未だ其数明かならざるも、由来島民は其の伝染性を信ぜず、従つて適当の方策を講ずるの要ありと認め、大正十五年(1926年=滝尾、以下同じ)「サイパン」島に昭和二年(1927年)「ヤルート」島に昭和六年(1931年)「パラオ」島に、昭和七年(1932年)「ヤップ」島に各療養所を設け患者を収容隔離することゝせり。而して之が療養は恩賜財団慈恵会其の任に当たりつゝあり。」(『昭和八年版・南洋群島要覧』南洋庁、142ページ)。
(2)「小規模なハンセン病療養所」というだけで、そこに何人のハンセン病患者が収容され、また、その被害も責任も書かれていない。設置年の違いは、南洋庁編集・発行『各年版・南洋群島要覧』という基本(第一次)資料を見ずに、第二次資料=それも「出典」を明らかにしない参考書類からの引用で安易に書いたものであろう。
埼玉大学教授の清水寛氏「植民地台湾におけるハンセン病政策とその実態」(『植民地社会事業関係資料集・台湾編』近現代資料刊行会・2001年6月発行)の232~233ページの「表14 日本とその旧植民地・占領地におけるハンセン病政策の沿革」が、南洋群島を「占領地」としてあげて、「1928(昭和3)年にヤルート島に、1929(昭和4)年にサイパン島に、1930(昭和5)年にヤップ島に、1931(昭和6)年にパラオ島に、南洋庁がハンセン病療養所を設置」といった「年表」の記述をしている。そのことから、「検証会議最終報告書(要約版)」は、清水寛氏とまったく同じ誤記を書いている。また、『検証会議最終報告書』の「第2 台湾」を記述した「一、はじめに」とする冒頭の部分の719ページで、「‥‥以下、こうした清水の研究を基本に、台湾におけるハンセン病政策について検証を進めたい」と書いている。
だから、『検証会議最終報告書』が、この清水寛氏の「年表」に依ったか、あるいは、同じ「出典」の明らかにしていない「第二次資料」の他の資料に基づいて書いたのかは不明であるが、少なくとも、南洋庁編・発行『各年版・南洋群島要覧』も、「昭和16(1941)年3月3・4日、官公立癩療養所長会議」の諸資料(『藤野豊編・解説・〈編集復刻版〉・近現代ハンセン病問題資料集成<戦前編> 第7巻』不二出版、2002年12月発行の182ページ)も見ないままで、『検証会議最終報告書』は、この箇所についていうならば、書いたものと思われる。
清水寛氏に「年表」の出典を聞き合わせしたところ、『南洋庁』による『癩療養所』の『設立』については、厚生省医務局『国立療養所(らい編)』一九七五年の『らい百年年表』から転載した、とのことであった。
現在、『藤野豊編・解説・<編集復刻版>・近現代ハンセン病問題資料集成<戦前編>』不二出版の「補巻」として「台湾編」の解説は、滝尾が指摘した誤記のまま、最終校正を出しているということだった。再度、同じ「誤記」を出版させてはならないと考えて、即刻、11月26日(土曜日)ではあったが、不二出版の編集部に電話とFAXを入れて、「誤記」の訂正を伝えておいた。
来年の初頭に通常国会が開かれて、ハンセン病患者の『補償範囲』を「植民地」だけにするか、「占領地」も含めるかが、審議されるという情況を考えると、この「ミクロネシア四島のハンセン病患者の被害者」を未調査として政府は「補償」を先送りしようというだけに、『飛礫』47号の滝尾の「ミクロネシア」の被害実態を書いた「論考」をすでに知っているはずの関係者は、この「補巻」として「台湾編」の解説の誤った記述の訂正を不二出版編集部に提議しなかったのはなぜなのだろうか。
これらの『検証会議最終報告書』の問題点は、本年11月17日付け『朝日新聞』社説の記述の問題点のところで、後述する。
(3)つぎに『検証会議最終報告書』の問題点である「3.満州同康院の開設」に関する項の記述について述べてみたい。『検証会議最終報告書(要約版』89ページには、つぎのような記述がある。
「‥‥同康院は、同年(=1940年)5月に『慈光』という冊子を発行している。現在、同康院について残された資料は、この『慈光』のみである」という。
これはおそらく、間違いであると思う。私は『植民地下 朝鮮におけるハンセン病資料集成』全8巻を不二出版を発刊した経験から、『官報』、当時発行された『新聞』などを丹念に調べれば、必ず「同康院」に関する資料があると確信している。「ない」のではなくて、「検証会議」委員や「検討会」委員が知らないだけではないか。たとえば、満州国史編纂刊行会編纂『満州国史』各論、満蒙同砲援護会、1971年1月発行には、同康院について、つぎのように書いている。
「慢性伝染病とその予防」の「 3) 癩――患者数は少なかったが、蔓延のおそれがあったので、一九三九年二月二三日癩療養所官制を公布、次いで国立癩療養所同康院を鉄嶺県(=「奉天省」)に設けて、患者の収容治療に努めた」(1199ページ)。
したがって、『官報』を含めて行政資料を徹底的に調べ、同時に当時の「新聞・雑誌」類、さらには「医学雑誌」の論文を丹念に調べ上げることが必要であう。「検証会議」はこうした基礎作業をしているのだろうか。疑問である。
「検証会議」は、「現在、同康院について残された資料は、この『慈光』のみである」と書いている。「ない」のではなく、「調査・研究していないから『検証会議』は知らない」だけで、「‥‥現在、同康院について残された資料は、この『慈光』のみである」と書いているのは、間違であろう。
【その2】 検証会議の最終報告書を根拠に、被害が「明らかである」・「明らかでない」で、明らかになっていることを理由に補償を優先せよということは誤りである。「明らかになっていない」ことの責任追及をしなくて、「明らかになっている」ものを優先させよという主張は間違ってはいないか。
リベルさんのホーム・ページ「ハンセン病のリンク集」にはつぎのような記述がある。
「韓台先行の「2段階方式」で補償 厚労省方針! 『毎日新聞』(11.17)
#一瞬、何のことだか分かりませんでした!勝手に4地域を増やして、イヤ待てよと反省して・・・こういう事に、無駄に時間を費やして・・・何をやっているのだか・・・まったくもう・・・何が「2段階方式」だっ!」という「リベルさん」の主張である。こういう意見・感想を持たれている方は、現在、一般的になっているだけに、危険な意見・認識だといえよう。
そのことを報じた『毎日新聞』の記事というのは、「国が戦前の統治下で開設した海外のハンセン病療養所の入所者に補償を検討している問題で、厚生労働省は、対象となっている韓国など6国・地域のうち、韓国と台湾を先行させる「2段階方式」で補償する方針を固めた。残りのパラオ共和国とサイパン(米国自治領)、ヤップ(ミクロネシア連邦)、ヤルート(マーシャル諸島共和国)と比べて実情を把握しているうえ、韓国と台湾の療養所を巡る訴訟で81歳を超える原告の高齢化が問題になった点も考慮した。しかし、年内の結論は微妙で、越年する可能性が強い。‥‥」という記事内容に対してのもつ考えである。
「パラオ・サイパン・ヤップ・ヤルートに、1922年に日本政府によってつくられた「南洋庁」によって、日本植民地下のこれら4箇所の島々にハンセン病収容所がつくられたこと。その収容所に強制収容されたハンセン病患者は「‥‥由来島民は其の伝染性を信じないので当局は常に適当なる方策を講じ隔離治療を行う要あるを痛感し大正一五年(=1926年)サイパン島に癩療養所を設け、之に患者を収容して‥‥糧食等は夫々親族縁故者の負担とした‥‥」(『南洋群島要覧=南洋庁』より)。
また、パラオの元挺身隊員であったヤノ・マリウスさんが1991年に日本のアジア・太平洋地域戦後補償国際フォーラムで証言されたなかで「(パラオでは)ハンセン病患者四名は銃殺、あるいは剣で刺し殺されました」と発言されています(国際フォーラム実行委員会編『戦後補償を考える』29ページ、東方出版)。このようなことが、ミクロネシア四島の各地であったのではないでしょうか。(『飛礫』47号・2005年7月発行の滝尾英二著「ミクロネシアのハンセン病政策」を参照)。
11月17日付け『朝日新聞』社説「ハンセン病補償・内と外との隔てなく」の記述になにかすっきりしないものを感じるのはなぜでしょうか。同「社説」は、つぎのように書いている
――「‥‥ハンセン病問題検証会議が設けられた。検証会議の報告書は、1941年に厚生省が開いた国立療養所長会議に、朝鮮半島と台湾の療養所の日本人所長も出席していたことを指摘し、両療養所は「日本国内の国立療養所と同等に扱われていた」と認定し。‥‥救済策づくりには、補償額のほかにも課題がある。韓国や台湾だけでなく、戦前に日本の統治下にあった太平洋の島などの療養所も対象にするかどうかだ。事情が同じならば、対象にすべきだが、そのための実態調査が終わるのを待つべきではない」云々。
この「昭和十六年(=1941年)七月十五・六日の国立癩療養所所長会議出席者」の読みかたが間違っているといわざるを得ない。そして、「朝鮮半島と台湾の療養所の日本人所長も出席していたことを指摘し、両療養所は「日本国内の国立療養所と同等に扱われていた」と認定した」ということには、決してならないのである。
それは、『藤野豊編・解説(編集復刻版)・近現代ハンセン病問題資料集成<戦前編>第7巻』不二出版、2002年12月発行の197~202ページ、資料126〈国立癩療養所所長会議〉をみても明白である。その出席者名簿をみれば、それが歴然とする。「長島愛生園所長・光田健輔、栗生楽泉園所長・古見嘉一、東北新生園所長・鈴木立春、国頭愛楽園長・塩谷英之助、宮古南静園所長・多田景義、多磨全生園所長・林芳信、松丘保養園所長・中条資俊、邑久光明園所長・新宮良一、大島青松園所長・野島泰治、菊池恵楓園所長・宮崎松記」と書かれている。
しかし、これと異なり、「小鹿島更生園(朝鮮総督府)園長・周防正季、楽生院長(台湾総督府)院長・上川豊」は、正式にこの会に出席した国立癩療養所長としてはなく、「岡山県 属・赤松仁、群馬県衛生課長・杉野為治、宮崎県衛生課長・大島金光、同県巡査部長・菅野幸策、東京都衛生課長・草間弘司、同府衛生主事・潮口謹二、青森県警部・斉藤貞吉、熊本県警部・大橋唯喜」らと共に出席者名簿に書かれてはいるが、「国立癩療養所長出席者名簿」からは別記されているのである。
その議題も「植民地(当時は「外地」といっていた)」もない。1941年7月当時の厚生省の「国立癩療養所」の認識は、このようなものであり、同年(1941年3月3~4両日に、厚生省が召集した「官公立癩療養所所長会議」とは、異なった認識をしているといわざるを得ない。むしろ、1941年7月の時点で、かつては「官公立」として、小鹿島更生園、台湾楽生院は、「国内(「内地」といわれていた)の道府県聯合立療養所」が国立療養所となるなかで、小鹿島更生園も台湾楽生院も「国立療養所」がら外されたのではないか、と思われる。したがって、「検証会議報告文」の資料の扱い方には、同意できない。
つまり、「検証会議」の報告書は、1941年7月に厚生省が開いた国立療養所長会議に、朝鮮半島と台湾の療養所の日本人所長も出席していたことを指摘し、だから、両療養所は「日本国内の国立療養所と同等に扱われていいたと認定した」という。出席したことは事実であるが、その出席した事実だけで、その内容を検討せずに、「1941年に厚生省が開いた国立療養所長会議に、朝鮮半島と台湾の療養所の日本人所長も出席していた」ことを指摘し、両療養所は「日本国内の国立療養所と同等に扱われていた」と認定した「検証会議の報告書」は、事実誤認をしている。
たしかに、『検証会議最終報告書』の「台湾」の節の「五 まとめ」として、「なお、日本国内の公立療養所がすべて国立に移管された後の1941(昭和16)年7月15・16日、厚生省が国立癩療養所所長会議を開催するが、これには小鹿島更生園長周防正季、楽泉院(ママ、正しくは「楽生院」である=滝尾)長上川豊も出席している(「国立癩療養所所長会議」、『近現代日本ハンセン病問題資料集成・戦前編』七巻、2002年)。すなわち、小鹿島更生園、楽泉院(ママ)も日本国内の国立療養所と同等に扱われている。日本国内と植民地における政策の一貫性をあらためて指摘しておく」(724ページ)と述べられている。
しかし、1936年10月1~2日の「官公立癩療養所所長会議」の出席者である南洋(ミクロネシア)の療養所長はこの「国立癩療養所所長会議」には出席していない。検証会議は、これをどう説明しようとするのかは、明らかにしていない。「国立癩療養所所長会議」への出席の有無ではなく、その「国立癩療養所所長会議」でどのような扱いを受け、また位置ついていたかが、問われなければならなかったかが、問題なのである。
その「検証会議委員」には、藤森研氏(朝日新聞編集委員)が選ばれている。また、『藤野豊編・解説(編集復刻版)・近現代ハンセン病問題資料集成<戦前編> 第7巻』不二出版、2002年12月発行の「「昭和十六年(=1941年)七月十五・六日の国立癩療養所所長会議出席者」をみることもできたはずである。「検証会議の報告書」の記述を鵜呑みにして、原典を調べることなく、上記のような「社説」を書くことは、如何なものであろうか。
これは、『朝日新聞』編集委員の藤森氏に尋ねたい。
2005年3月13日に『朝日新聞』朝刊に掲載された姜尚中東大教授(政治思想)の「時流自論」=「わしゃ、生きるけんね」の原典を見ずに書いた問題と同根の『朝日新聞』の体質・態勢がこのような問題を惹き起こしてきた。
姜尚中(カン・サンジュン)氏は、『朝日新聞』の「時流自論」のなかで、つぎのように書き、それが、同紙に掲載された。「‥‥先の最終報告書は『大日本帝国』の版図だった植民地朝鮮に触れていないが、ハンセン病をめぐる国家政策の誤りは、日本本土に限定されるわけではないのだ」と。この「事実にもとる内容」は、今回の11月17日の『朝日新聞』社説の記述にも、いえるのではないかと思う。「姜尚中東大教授」というカリスマ的権威が、『検証会議最終報告書』というこれまたカリスマ的権威に寄りかかり、それを疑おうとしない報道機関たる『朝日新聞』の在りようを垣間見る。違いますか。
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