滝尾の「東京通信」及び福留様から送信していただいたハンセン病訴訟に関する記事
10月24日の20:18に広島バスセンター発、東京八重洲口行き深夜高速バスで、翌朝07:00の八重洲口南に着いた。
08:20、東京地方裁判所へ入り、10時00分から両「判決」の言い渡しを傍聴席の一番前中央の席で傍聴しました。その後、「ソロクトなど弁護団」の報告会を30間聞きました。なぜ、両判決は日帝期に同じハンセン病被害を受けながら、韓国のソロクトは「原告敗訴」し、台湾楽生院は「勝訴」するのか。理解が出来ませんでした。
その後、11:30から約2時間ほど、厚生労働省前の道路で、秋晴れのしかし強い日差しを受けながら「抗議と控訴断念」の集会に参加。 また、16:00過ぎから、第二衆議院議員会館で、説明会や「議員懇談会」傍聴しました。
18:30から星陵会館での「報告集会」に参加。『飛礫』48号(秋季号)=最新号がかなり、会場前ロビーで売れていたようで、少し良い気分でした。21:00の深夜バスで東京八重洲口南から、広島行きに乗車しなければなりませんので、「報告集会」は、20:10までしか参加出来ませんでした。
やはり、小鹿島からおいでになったチャン・ギジンさん(ソロクト原告団長)を始めとする5名の原告や、キム・ヨンホ自治会長の発言には、胸打たれ、こころが痛み、さらに自責の念にかられました。しかし、発言者の中には、「自国民中心意識」丸出しの「この集会」に相応しくない発言もあり、日本人としての、この問題のもつ底深さ・深刻さを感じました。
東京高裁で、やがて「控訴審」が始まるようになると思います。それを「原告側の勝訴」とする道は険しいものです。今度の「判決」は、2001年6月の『補償法』自体のもつ「日本在住者のみしか視野のなかった」ありようが問われ、そのことを、司法の場で指摘されています。『補償法』成立に関わった者たちが判決で「指弾」されたのです。
もちろん、厚生労働大臣が定める「告示」に小鹿島更生園・台湾楽生院・それにミクロネシア「らい療養所」や「満州同康院」の入所者の項を加えればよいのです。しかし、今の「小泉政権」がこれに応じるかは、どうかは非常に容易ではないものと思います。そのためには、何よりも「国際世論(とりわけ、韓国の世論)」、また「国内世論」の高揚が必要です。
こうした視点から、下記の「聯合ニュース」を読んで下さい。ソロクトのハラボジ・ハルモニに再び、あの「かなしみ」をあじあわさないで、笑顔で東京からソロクトに帰れるよう「控訴審」を勝訴判決にするために、闘って行きたいと思います。
その為にも、日本人に染みついる「自国民中心意識」の脱却が望まれます。
(文末になりましたが、福留さん、森川さん。この記事を発表させていただき、本当にありがとうございした。)
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ハンセン病訴訟に関する記事を、森川静子さんが「聯合ニュース」から丁寧に拾い、訳出してくれましたので、紹介します。なお、[051025-2]は都合により、後でお送りします。
1) 東京地裁、ハンセン者訴訟に正反対の判決 (聯合ニュース、以下も同じ)
2) 小鹿島に隔離されたハンセン者たちの「悲惨な一生」
3) 韓国のハンセン者、「差別的な判決に怒り」
4) 小鹿島のハンセン者、沈痛と怒り
5) <焦点>日本の裁判所のハンセン者訴訟棄却の背景と展望
6) 韓国・台湾のハンセン者、訴訟関連日誌
1) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 17:02]
東京地裁、ハンセン者※訴訟に正反対の判決
韓国人の請求は棄却、台湾人には勝訴判決
(東京=聯合ニュース) イ・ヘヨン、シン・ジホン特派員= 日帝の植民地時代に療養施設に強制的に収容された韓国のハンセン者と台湾のハンセン者が、日本政府を相手に起した訴訟に対して、同じ裁判所で正反対の判決が下された。
日本の東京地方裁判所民事3部は、25日、小鹿島の更生院に強制収容された韓国のハンセン病罹患者117名が、日本政府を相手に、補償を拒否した行政決定を取り消せと提起した訴訟で、原告側の請求を棄却した。
他方、同じ裁判所の民事38部は、現地の収容施設である楽生院に収容された台湾のハンセン者25人が提起した同じ請求を受け入れ、原告勝訴の判決を出した。
民事3部は、判決で、「療養施設の収容者が受けた偏見と差別の原因の一端が、戦争前の日本の隔離政策から始まったことは否定しがたい」と、原告側の主張を一部認定した。裁判所は、しかし、「法の審議過程などで、外地にある療養所の収容者も補償対象だという認識はなかった」と指摘し、原告の請求を棄却した。
これに対して、同じ裁判所の民事38部は、「ハンセン氏病補償法は、療養施設の収容者を幅広く救済するために特別に立法したもので、対象施設を制限しようとする趣旨があるとは見られない」として、原告側の請求を受け入れた。
裁判所は台湾のハンセン者の請求に対して、「当時日本の統治権が及んだ地域の施設で、他の要件は満たされるのに、台湾にあったという理由だけで、収容者を補償対象から除外するのは平等の原則上望ましくない」と強調した。
韓国の原告側弁護人の朴永立(パク・ヨンニプ)弁護士は、「残念だが、食い違う判断がなされたので、裁判所の良識を信じて控訴し、必ず勝訴する」と語った。朴弁護士は「台湾の楽生院については、裁判所が正義と平等の立場で、ハンセン病補償法を積極的に解釈した反面、小鹿島の裁判所は立法当時の行政府が、外国の施設を含めたり排除しなかったという理由で、法を消極的に解釈した」と指摘した。
韓国のハンセン者は裁判で、「収容施設は日帝統治下で天皇の勅令で設立されたのだから、日本の国立ハンセン氏病療養所に該当する」とし、「ハンセン病補償法には国籍と居住地などを制限する規定がない」と強調した。
日本政府側は、「ハンセン病補償法は、2次大戦後に国内での隔離政策の救済を念頭に置いたもので、戦後に主権が及ばなくなった外国の施設収容者は、補償の対象でない」と主張した。
日本政府は、2001年熊本地方裁判所がらい病予防法(1996年廃止)に伴う強制隔離の規定は違憲だと判決すると、その年に制定されたハンセン病補償法によって、収容期間などにより、1人当り800万~1,400万円を補償した。
韓国人の小鹿島のハンセン者は、この判決後に日本の厚生労働省に補償を申請したが、棄却されるや、韓国と日本弁護士が連帯して、不支給取消請求訴訟を起こした。
一方、厚生労働省はこの日の判決に対して、「小鹿島の更生院に対しては、海外の療養所は補償の対象に含まれないという、国の主張が受け入れられたと考えるが、台湾関連の判決は、国の主張が認められなかった」とし、「判決の内容を十分に検討する」という原則的な立場を明らかにした。
反面、日本のマスコミは、韓国と台湾のハンセン者が、高齢者である点を挙げ、国会と政府が直接取組み、速やかな救済方法を求めるよう促した。
朝日新聞は、法制定当時の不十分な国会審議と以後の対処が、食い違う判決が下された原因だと指摘し、「敗訴した側がそれぞれ控訴する場合、解決が長引く可能性がある上、原告が平均82才の高齢者なので、韓国と台湾の療養所を補償対象に含められるよう国会は速やかに結論を出すべきだ」と促した。
毎日新聞は、「ハンセン病の問題に関する検証会議」が整理した報告書によれば、戦争前の韓国と台湾の施設では、職員による暴力など、日本ではなかった人権侵害が反復された」として、「国家は法解釈が争点だとして、このような被害の実態に対して最後まで避けているが、そのような対処は非難を避けがたい」と指摘した。
[※ 注 : 原文では「ハンセン人」とありますが、「ハンセン者」と訳しています。正確には「ハンセン病罹患者」の意です。]
2) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 16:18]
小鹿島に隔離されたハンセン者たちの「悲惨な一生」
(東京=聯合ニュース) シン・ジホン特派員= 日帝の強制隔離政策によって小鹿島に連行されたハンセン者が体験した苦痛は、筆舌に尽くせないほどであった。
25日、東京地裁が韓国のハンセン者たちの請求を棄却した後、記者会見場に姿を見せたハンセン者のチャン・ギジン(85)氏。彼の両足は義足で、指は一つも残っていなかった。彼の症状がこのように厳しいのは、小鹿島で体験した極限の苦痛のためだった。
チャン氏は、日帝強占期の19才の時に小鹿島に引っ張られていかれた。更生院というので、あるいは治療してもらえるかも知れないという希望がないわけではなかった。しかし、現実は正反対だった。明け方から夜まで強制労役に苦しめられた。労役中にけがをした傷と凍傷が悪化して、指が1つ、2つ切られていき、両足も使えなくなった。
23才の時は強制的に精管(断種)手術を受けた。更生院の中で神社参拝を拒否すると、下された罰だった。彼は「断種と堕胎、手足の切断手術が更生院で横行し、収容者たちは土木作業などで毎日負傷に苦しめられた」と語った。
ハンセン者のイ・ヘンシム(76)氏の場合も、大きな違いはなかった。「刀を差した日本の巡査が家に来て、ハンセン病に罹った母と弟(妹?)と私を一緒にトラックに乗せました。」彼は、更生院に強制収容される当時のことを、はっきりと記憶している。トラックは更生院へ向かった。
イ氏は、朝日新聞との会見で、更生院でよくなれるかもしれないという希望を抱いたけれども、「実際は残酷な労働を強要され、地獄と同じだった」、「私の人生は私のものでなく、日本に捧げられたもの。補償を受けたい」と訴えた。
この日、裁判を見守った在日同胞の元ハンセン者の金泰九(キム・テグ・79)氏は、湧き上がってくる怒りを隠し切れなかった。彼は日帝強占期に韓国で生まれた。11才の時に父親について日本に渡り、戦争直後の22才の時に発病した。日本の国立ハンセン病療養所に入所、治療を受けることができた。
彼は自分と似た境遇にある韓国のハンセン者に会うために、2001年に小鹿島を訪問した。しかし、彼らの症状は自身よりはるかに深刻だった。金氏は、強制労働と不十分な治療が韓国のハンセン者の症状を悪化させたと指摘した。
東京地裁のこの日の判決は、悲惨な一生を送った高齢の韓国のハンセン者たちに、さらに大きな苦痛を抱かせた。
3) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 13:47]
韓国のハンセン者、「差別的な判決に怒り」
(東京=聯合ニュース) イ・ヘヨン、シン・ジホン特派員= 「とても悔して残念です。どうして、裁判長はこのような差別的な判決が出せるのですか。」
車椅子に乗って東京弁護士会館の記者会見場に現れたハンセン者のチャン・ギジン(85)氏は、25日、縮んだ手で流れる涙をずっとぬぐいながら、怒りを隠すことができなかった。
東京地裁民事3部が25日、日帝によって小鹿島の更生院に強制収容された韓国のハンセン者が、日本政府を相手に提起した訴訟を電撃棄却した。訴訟は、2001年に制定された日本ハンセン病補償法により、韓国のハンセン者が厚生労働省に補償を申請したが、拒否されるや、これを取り消すように要請したものだった。
「棄却!」
しかし裁判所は、「法の審議過程などで、外地にある療養所の収容者も補償対象だという認識はなかった」として退けた。
しかし、30分後に同じ裁判所の民事38部は、台湾のハンセン者が提起した同じ内容の請求を、受け入れた。完全に正反対の判決が下され、補償を主張して、不便な体で海峡を渡ってきた韓国のハンセン病罹患者の失望は、より一層大きかった。
「今日まで勝利の希望を持って、証言に証言を繰り返し、日本の地に渡ってきたのに、心を込めて積み上げた塔が崩れてしまったようです。気が抜けて力がなく、言葉も出ません。」
虚脱感を隠せないチャン氏は、一方で笑い、他方では泣いている。こういう差別がどこあるのか」、「再び控訴しなければならないだろうが、時間がどれくらいかかるのか分からず、ハンセン者はすでに80~90歳の老人」だと訴えた。
彼は、「この人たちの恨が積もり、死んでも解けないだろう」、「裁判官に面談を要請して、なぜこういう判決をしたのか尋ねたい」と涙声で語った。
訴訟の過程で、ハンセン者たちの弁護を主導した朴永立弁護士は、「台湾ハンセン者の訴訟の裁判部とは異なり、小鹿島の裁判部は形式的な判断に偏り、正義と平等に目を閉ざした」とし、「日本の司法府の良識を疑わざるを得ない」と非難した。
朴弁護士は、「しかし、控訴して必ず勝利を勝ち取るだろうし、同時に厚生労働省の告示を改正して補償対象に小鹿島を含めるよう最善を尽くす」と強調した。
今回の訴訟を担当した韓・日・台湾の弁護人たちは、声明を出し、「ハンセン病補償法の補償の対象は、過去に一度でも日本の療養所に入所した経験がある者全員に及ぶ」とし、「立法の趣旨を明らかにすれば、同じ日本の絶対隔離政策によって、療養所に入所しなければならなかった朝鮮と台湾のハンセン病罹患者を、補償の対象から除外する理由は全くない」と指摘した。
この日、判決が下された東京地裁の前では、ハンセン病補償請求訴訟支援連絡会の会員100人余りが、小鹿島ハンセン者に対する棄却の決定を糾弾しながら、デモを繰り広げた。この日午後にも、国会の近くで判決報告集会を開催する。
4) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 11:58]
小鹿島のハンセン者、沈痛と怒り
「日本の司法府の正義が崩れた」
(高興=聯合ニュース) ソン・ヒョンイル記者= 25日、全南高興(コフン)の小鹿島のハンセン者が日本政府を相手にした訴訟に敗訴した、という便りが伝えられた小鹿島現地は、一日中沈痛と怒りが続いた。
国立小鹿島病院に用意された休憩室で、この日の午前再判の結果をいらだって見守っていた150余名のハンセン者は、今回の訴訟団の弁護士であるの李ジョンイル弁護士から敗訴の結果を聞き、沈痛な表情を隠すことができなかった。李弁護士は、日本の現地に行っている同僚から、電話で裁判の結果について連絡を受けた後、休憩室に集まった住民に沈痛な表情でこの事実を伝えた。
住民たちは、「日本の司法府の正義を信じたのに、理不尽な論理で敗訴の判決を下したのは、有り得ないことだ」と怒った。大部分は車椅子などに依存した70~80代の高齢者である彼らは、報告大会を終えて中央公園に移り、日本政府と司法府を糾弾するスローガンを叫ぶなど、強い怒りを表現した。
国立小鹿島病院のキム・ハンモ庶務係長は、「訴訟を起した方々がいつ亡くなるかも分からない高齢者であり、数十年間の恨(ハン)が積もった方たちなのに、日本の司法府が彼らの恨を無惨に踏みにじった」と語った。
日本の東京地方裁判所は、小鹿島の更生院は、日本のハンセン病補償法上、国立ハンセン病療養所ではないので、補償ができないという趣旨の判決をしたと伝えられた。
今回の訴訟は、韓国の小鹿島のハンセン者117名が、日本人ハンセン者に1人当り1千万円ずつ報償金が支給されたことを契機に、日本の厚生省に申請した補償が棄却されるや起された。
日本政府は、1907年に制定されたハンセン病予防法[らい病予防法]で強制収容された日本人患者に対して、2001年に特別法を制定し、補償をしながらも、小鹿島などがこの法に明示されている13の施設に該当しなかったという理由で、補償を拒否した。
5) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 14:33]
<焦点>日本の裁判所のハンセン者訴訟棄却の背景と展望
(東京=聯合ニュース) イ・ヘヨン・シン・ジホン特派員= 25日、東京地裁の小鹿島のハンセン者の訴訟棄却判決は、日本政府と国会、裁判所の「無関心」と韓国政府の「外交力不在」を余すところなく再確認した事件だ。
日本政府は2001年、熊本地裁がらい病予防法(1996年廃止)による強制隔離規定を違憲と判決するや、その年にハンセン病補償法を制定し、自国のハンセン病罹患者に1人当たり800万~1,400万円ずつを補償した。
しかし、植民地の強占期間に、それぞれ小鹿島と楽生院に強制隔離された韓国と台湾のハンセン者は、対象から除外された。違憲判決の後、わずか1カ月余りで議員立法によってハンセン病補償法が制定されたが、審議過程で「海外」の療養所に対する補償の可否は、ほとんど争点にならなかった。
審議で、当時の坂口力厚生労働相は、「戦争前の韓国におけるハンセン病対策については、具体的な内容を十分に把握できないでいる」とし、「今後検討する」として論点から除外した。
厚生労働省は、立法に基づいて日本内の国立・私立の療養所と米軍占領期間に沖縄に設置された療養所など、自国の施設だけを補償の対象に列挙する告示を公表し、補償の対象を自国のハンセン者に限定した。
韓国政府は、ハンセン病補償法の国会審議と厚生労働省の告示の過程などで、これといった外交力を行使できず、また事実上韓国と日本の良識ある民間人たちの訴訟を見守る立場に留まった。
今回の判決の争点は、この日の小鹿島の裁判が棄却の理由として明らかにした、「法の審議過程などで、外地にある療養所の収容者も補償対象という認識はなかった」という部分だと言える。
原告側は、「日帝治下の施設は日本の天皇の勅令で設立されたのだから、日本の国立ハンセン病療養所に該当する」として、「法は国籍と住居地などの制限規定がない」という主張を展開しながら、普遍的人権に訴えた。
これに対して日本政府は、「ハンセン病補償法は、戦後の日本内の隔離政策の救済を念頭に置いたもの」とし、「戦争後に主権が及ばなかった外国の施設入所者は、補償の対象でない」と反論した。小鹿島の裁判も、このような政府側の主張が立法の趣旨に近いと判断したわけだ。
原告側は、直ちに控訴するという意向を明らかにした。原告側は、小鹿島の裁判とは異なり、補償要求を受け入れた台湾の楽生院の裁判が、「ハンセン病補償法は、施設入所者を幅広く救済するための特別な立法」と解釈したことに注目し、控訴を通じて判決をくつがえすことができると自信を持っている。
しかし、今回の台湾の楽生院の裁判長の場合、異例的な法務省人権擁護局長出身なのに加えて、過去のハンセン氏病関連の訴訟に明るかった人物なので、結果的に台湾側のハンセン病罹患者に有利な判決が下されたという分析もある。
言い換えると、日本政府が楽生院の裁判に抗告し、法の形式論理を重視する2審の裁判官に出会う場合、事態は原点に戻ることもあり得るということだ。韓国側の抗告の展望が必ず明るいだけではないという意味だ。
韓国政府が日本を相手に外交力を発揮しなければならないという声が出てきている。原告の弁護を主導した朴永立弁護士は、「厚生労働省の告示を直せるよう最善を尽くす」と語った。小鹿島の関係者たちは、「政府が積極的に取り組め」と要求した。
6) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 12:12]
韓国・台湾のハンセン者、訴訟関連日誌
(東京=聯合ニュース) イ・ヘヨン、シン・ジホン特派員= 東京地方裁判所は25日、日帝の植民地時代に韓国の小鹿島と台湾の楽生院に強制収容されたハンセン者たちが、日本政府を相手に提起した訴訟に対して、対立する判決を下した。
次は関連日誌。
▲1907 =日本、「らい病予防に関する件」を制定、患者の隔離政策開始。
▲1916 =朝鮮総督府、小鹿島に慈恵医院を開設。
▲1930 =らい病予防法制定。
▲1934 =小鹿島慈恵医院を小鹿島更生院に改称。
▲1943 =米国で治療薬「プロミン」の効果を発表。
▲2001 = 5月、熊本地方裁判所、「ハンセン病患者の隔離政策は違憲」と判決。
▲2001 = 6月、ハンセン病補償法施行。
▲2003.12~2005.1 =小鹿島更生院、楽生院の前患者、日本の厚生労働省に補償請求。日本政府、棄却。
▲2004.8~2005.2 =小鹿島更生院訴訟提起。
▲2004.12 =台湾の楽生院、訴訟を提起。
▲2005.7.19 =小鹿島更生院訴訟、結審。
▲2005.8.29 =台湾の楽生院訴訟、結審。
▲2005.10.25 =東京地裁の判決。小鹿島更生院、敗訴。台湾楽生院、勝訴。


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