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2005年10月22日 (土)

「被差別問題」を記述する場合の基本的視点=差別の現実から学ぶということ

 「小鹿島更生園・台湾楽生院の日帝期に隔離収容され、現在もこの施設に居住しておられる方々が、日本政府に対して「補償法」に基づく申請を却下したことに対して、それを不服とする行政訴訟を起こし、その判決が10月25日の東京地裁で裁判長から言い渡される。それに伴って新聞・雑誌・テレビなどのマスメディアの報道記事、さらに「日本植民地下のハンセン病患者の被害事実やその責任」をテーマにした集会が各地で開かれている。そういう私たちも「インターネット」を使用して、「被差別問題」の解決に向けた『滝尾英二的こころ』という「ブログ(Blog)」をつくっている。
そこで、自戒をこめながら「被差別問題」を記述する場合の基本的視点=差別の現実から学ぶということとは何かを考えてみたい。この問題は、「被差別問題」を論じてきた研究生活50年の経験をふり返り、また、この問題を『滝尾英二的こころ』という「ブログ」をつくる者として、避けて通れぬテーマであるからである。

 私は、この50年にわたる研究生活として、念頭に離れられない差別事件として1952年6月に起きた「吉和事件」がある。この事件については、『滝尾英二的こころ』の「滝尾英二・書庫」のなかで「主な著書・論考一覧」として、『戦後における広島県同和教育のあゆみ』(広島県教育研究所、1965年3月)と、『〈人権からみた日本の社会〉と戦後研究者の責任』(人権図書館・広島青丘文庫、1996年8月)をあげることができよう。後著はこの問題を「ハンセン病問題」との関連としても論じてきたし、同著は、金在浩さんの韓国語訳としてその「冊子」がある。
  自著の『戦後における広島県同和教育のあゆみ』は、40年も以前の1965年に書いたものであり、「吉和事件」の項はB5判で8~13ページとわずか6ページしか書いていない。私はそのなかで、つぎのようなことを述べている。

 「‥‥差別者である本人自身は、部落差別をなんとかしてなくようとした行為が、逆に「差別」だとして部落側から、はげしく糾弾されたのである。つまり、同和教育を知らないでやった教師の部落に対する「善意」の種は、とてつもない「差別」として刈り取らなければならなくという教訓を、人びとに示した。吉和事件は、一教師の差別行為が発端になったとしても、その本質は民主主義を具体的に考えず、民主主義という概念のとりことなり、概念に流されていた広島県の教育についての警鐘であったということができる。それは、とりもなおさず、占領下の与えられた民主主義教育に対する、するどい批判でもあった。」(8~9ペ-ジ)。

 この教訓を「小鹿島の問題」として考えると、この問題の記述のなかで考えなければならぬ課題は、つぎの三点ではなかろうかと考えている。
第一は、「歴史認識」、とりわけ「日本植民地統治期の小鹿島の問題」に関わる場合は、「アジア認識」とくに「日本の侵略戦争と植民地支配」に関する正確な認識・知識を持たなくてはならぬという問題である。

 第二は、小鹿島更生園に収容されたハンセン病患者の「被害事実」を強調するだけでなく、それと同時に、その被害の要因と責任は何であったのかを究明し、その責任者を明確にすることである。

 第三は、日本植民地統治期の小鹿島に収容され、非人間的な残虐な仕打ちを受けながらも、収容された人びとは、「誇りうる人間の血は、涸れずにあった」(全国水平社創立「宣言」)ということへの認識である。迫害のあるところには、抵抗があるのだ。それは典型的には、つぎの三つの歴史事実のなかにみることができよう。

 その一は、小鹿島更生園での支配者やその手先に対する積極的な抵抗である。
 1941年6月1日の患者顧問である朴順周を患者・李吉龍が刺殺し、李吉龍は小鹿島の島内にある刑務所で自死している。また、1942年6月20日には、第4代園長・周防正季が、入園患者李春相によって刺殺され、翌年2月19日に李春相はテグ刑務所において死刑が執行された事件である。

 その二は、無教会派の内村鑑三の高弟である金教臣(キムギョシン)は「世の中で一番良いものは聖書と朝鮮」と説き、「朝鮮的キリスト教」を追求した。彼が創刊した『聖書朝鮮』を小鹿島に収容されたハンセン病患者たちは愛読した。そして、1942年3月1日に金教臣が書いた「弔蛙」を契機に、小鹿島のキリスト教徒は警察署に拘留された。こうしたの「信仰の自由」を守り抜いた患者たちもある。

 小鹿島の82歳の男性はいう。「当時入園者には毎日神社の参拝に出ることが強制されていましたが、私はそれがいやで出なかったのです。私はクリスチャンでしたから神社参拝は私の信条に反していました。それがわかって1週間監禁されました。そのとき私はまだ若かったので打たれたけれどあまりひどくはありませんでした。監禁室での食事は、何もくれなかった日もあるし1食だけのときもありました。床はセメントで冬は寒かったです。それ以後は参拝に行くようになりましたがおじぎはしませんでした。見張られていたので、もし見つかればまたやられたと思いますが、見つからないようにしていました」(小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団のホームページ所収)。これも「信仰の自由」を守り抜いたクリスチャンの患者あると考える。

 その三は、小鹿島更生園から、禁を破って「逃走」したおびただしい患者たちである。『昭和十六年小鹿島更生園年報』の「開園以来収容患者ノ転帰及移動別表」の「逃走」数は、官庁統計だけでも、男292名、女20名の計312名に及ぶ(1941年末現在)。これは、室町・戦国時代から江戸時代に至る農民たちの「逃散(ちょうさん)」を思わせる。戦争末期ともなれば、「島から逃走する」患者数は、更に激増する。

 こうした支配者にたいする抵抗・闘争の数々を「被害実態」と共に考えないと慈恵的な対応記事におわってしまうと考える。すでに私は自著のなかに、これらの歴史事実を述べてきた。しかし、自家本である場合が多く、まだ一般には普及されていない。以下、これらに自著を引用しながら、これらの問題について述べててみたいと思う。

 周防正季を刺殺した李春相(イ・スンサン)のことは、拙著『日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集、第3輯(下)―小鹿島「癩」療養所と周防正季、〈研究・資料解説編〉』人権図書館・広島青丘文庫、(1996年3月)で詳しく論じてきた(83~90ページ)。その時かいた一節は、いま、韓国ではさかんに唱えられている。

 「‥‥光田の論旨も同じく、周防を『愛の精神をもつ救癩者』、李春相を『凶暴な不良の徒』として記している。
 『伊藤公(伊藤博文)は朝鮮人の為めによく計られたがが、終に「ハルピン」駅頭無知の凶漢安重根の為めに倒れた。周防園長も朝鮮の同胞を善処せしむる為めに渾身の努力を惜しまなかったが、遂に園長の愛の精神を酌む事の出来なかつた一凶漢の為に一命を落とした。』と光田はいう。
 周防正季が伊藤博文なら、朝鮮人「癩」患者にとって安重根である。光田のいう「朝鮮人の為めによく計られた」伊藤博文、「無知の凶漢」安重根という「  」書きの形容詞は許し難いが、「周防正季=伊藤博文」・「李春相=安重根」の対比・構図の光田の意見には、私も同意し賛成である。』(『小鹿島「癩」療養所と周防正季、〈研究・資料解説編〉』、87ページ)」。

 『朝鮮ハンセン病史-日本植民地下の小鹿島(ソロクト)』(未来社、2001年9月)の「Ⅳ『皇室の御仁慈』の意味するもの」の「5、小鹿島更生園長周防正季の刺殺」(266~277ページ)のも、また、『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻、不二出版、(2003年7月)の「資料98~資料104 」(302~421 ページ)にも周防正季を刺殺した李春相のことを解説・資料の掲載をしている。また、韓国のSBS(ソウル放送)は、2003年10月27日の午後7:00~8:00まで、「李春相(イ・スンサン)について」放映し、私もソウルの汝矣島洞(ヨイドン)にあるSBS本社に行き、番組に出演した。

 患者顧問である朴順周を患者・李吉龍については、韓国国内でも余り知られていない。李吉龍のことについては、拙稿『小鹿島「癩」療養所と周防正季、〈研究・資料解説編〉』、82~83ページ)には、つぎのように記述した。

 「(3)『癩』の総親分・朴順周の利用=第三点は、周防が大邱(テグ)の「癩」者の総親分で侠客的人物の朴順周を手なずけ、彼を顧問に据えて利用し、収容患者の、園当局による管理・統制を強化したことである。このことを、中川浩三の記事からみていく。

 『‥‥その一人といふのが昭和十一年(1936年)収容した大邱の男で、その頃大邱にあった癩者の大きなグループの総支配人なのであつた。(中略)『今、朝鮮にどれ位の癩者がゐるだろうか?』と問うと‥‥全鮮の癩者の社会組織と人物とを一々挙げるのであつた。』(注193=中川浩三「更生園の生態」、47ページ、本「資料集」第三輯(上)98ページ参照。『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻、不二出版、(2003年7月)379ページ所収)

 「園長(周防正季=滝尾)はさう語りながら尚つづけた。『大邱の総親分といふのは、前々院長(花井善吉)のとき騒動をやつて一度出された男ですが、これは本当の親分であつた。歳は四十七でしたが、その男がこゝの気分を今日のやうな気風にかへて呉れたともいつてもよい。(中略)実にいゝ男だつたが、去年(1941年)他愛もないことで殺されたのです。(中略)
 その男はもう失明してゐたのです。或る朝のこと、皆の患者が神社参拝に出かけてゐた留守中に、突殺されたゐたのです。調査してみると、或る男の誤解からでしたが――」と園長は愛惜に堪へないといつた表情で、しづかに目を閉じた。」(注194=中川浩三「更生園の生態」、46ページ、本「資料集」第三輯(上)99ページ参照。『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻、不二出版、(2003年7月)380ページ所収)

 「周防のいう「或る男」とは患者・李吉龍のことで、患者代表で顧問・朴順周が看護長佐藤三代次におもねって食糧から一日一人五勺づつの献納、周防園長之像(銅像)の献金等を提唱して患者を苦しめた朴を刺殺した。匕首を手首に包帯で括りつけ、朴順周を刺殺した。六千名の療友の恨みをはらすため、死を賭して決行し、小鹿島に収監され自殺して果てた。(注195=シム・チョンファン著『あゝ、70年』1993年、前掲書、76~77ページ。本「資料集」第三輯(下)36ページ参照。原文は韓国語である。)

 一九四一年六月一日の朴順周刺殺事件である。

 金教臣と小鹿島のハンセン病患者との交流については、最近の諸研究をふまえ、また金教臣全集刊行会編『金教臣全集』全六巻、ソウル図書出版(1975年)発行や、申汀植編『金教臣と「小鹿島」』Plasma Center 1989年4月)などがあるが、「メッセージ」一回分の字数も越えているので、その他の問題を含めて、後日のことにしたい。そのことをお断りしておきたい。
         人権図書館・広島青丘文庫 滝尾英二  (05年10月22日記す)

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