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2005年10月30日 (日)

10月25日における「小鹿島訴訟判決」抗議闘争の経緯についての「不安」と「期待」

           人権図書館・広島青丘文庫 主宰 滝尾 英二                       (2005年10月30日、記す)

 10月29日も日を越し、10月30日(日曜日)を迎えた。しかし、原告らは昨29日昼過ぎ、成田空港から帰国した。原告自身がいま現在、どのような気持ちでいるのかは分からない。そして、小鹿島へ帰った原告たちは、どのような帰国報告をし、それを聞いたハラボジ・ハルモニたちは、その帰国報告をどのように感じるだろうか。私は、いま、「小鹿島訴訟判決」抗議闘争について「不安」と「期待」がこころの中を渦巻いている。このことを率直に『滝尾英二的こころ』の訪問者・読者に書いてみたいと思う。

「不安」は何か。

 第一は、後記するように「小泉純一郎首相は28日、日本の植民地時代に開設された韓国と台湾のハンセン病療養所の入所者への補償を巡る訴訟で、韓国の原告が敗訴したことについて「同情すべき点が多々あるから、よく検討していかなければならない」と述べ、特別な救済措置を講じる可能性を示唆した」という新聞報道があるが、私は小泉純一郎首相の言葉を信用していない。また、期待もしていない。
 何故ならば、Keep the Red Flagが『滝尾英二的こころ』のトラックバックに届けられた内容と同じように、「小泉首相の発言が前向きであることは確かだ。しかし、冷静に考えてみると、首相の発言には具体的な内容は何もなく、実は何も語っていないに等しい。彼は、被告・日本政府を代表する立場にあって、厚生労働大臣をも指導監督する立場にあり、彼が決断すれば一朝にして問題は解決するはずなのだが、「期待している」とは、いかにも傍観者的ではないか! むろん「変人」「奇人」と呼ばれてきた彼のことだ。表向き傍観者然として振る舞いながら、原告の要求を受け入れた場合のメリットを着々と計算しているということは十分ありうるし、むろんその逆もまた十分にありうる」ということである。

 第二の「不安」とは何か。

 昨29日に私たちに届けられた「ソロクト・楽生院 NEWS」のつぎのような尾辻厚生労働大臣が10月28日に行なった「厚労記者クラブの懇談会」での発言である。なぜ、それを「ソロクト・楽生院の原告と原告弁護団」にしなかったのかの疑問も残るが、厚生労働官僚とりわけ、法務官僚たちの人権感覚がなく、10月29日つけ『東京新聞』で早稲田大学の大浜敬吾教授がいう「告示に象徴される日本の官僚支配の現状」である。

 <厚労記者クラブの懇談会での尾辻さんの発言>
「告示改正では対応できないというのが事務方の統一見解。=自分としても在任中にやりたかったが、こういう統一見解が出てしまった以上、これ以上勝手なことはできない。控訴した上で法改正するしかない。解決するのはいいが、法改正するしかないというのが事務方の結論。告示改正だけで早期解決するのは難しい」と。その上、明日の31日は、内閣改造で、だれが大臣になるか不明である。

 早稲田大学の大浜敬吾教授は、さらに、つぎのように述べている。「告示は百パーセント、官僚の裁量で決められる。非常に大きな問題だ。隠れた官僚支配の技術だと言える。日本の行政法は長い間、こういうことに光を当ててこなかった。国民、国会から遠く離れたところで重要なことが決められる可能性があることは疑いない」。
 私は、『補償法』が成立して以来、幾人もの国会議員やその政策秘書とも話し、『補償法』を改正するか「付帯決議」は出来ないものかを質問した。その答えは「5年間の時限立法だから、その延長はできる。しかし、一たん成立した法律を改正・修正することはむずかしい」ということであった。

 しかし、これは「期待」のほうであるが、厚生労働省より委託された事業である『ハンセン病問題に関する検証会議』の「最終報告書」が尾辻秀久厚生労働大臣に2005年3月に提出されたが、そのなかで、「小鹿島慈恵医院・小鹿島更生園に代表される植民地下の韓国のハンセン病政策は、日本国内の絶対隔離政策の一環であり、すくなくとも韓国のハンセン病患者は日本のハンセン病患者が受けた人権侵害と同様の被害を受けている。
 しかし、その人権侵害に植民地支配下の民族差別感情が加わり、被害の程度は日本国内のそれをはるかに上回るものであった。処罰としての断種、笞を使った入所者の殴打などは、それを象徴するものである。ハンセン病患者への差別、植民地民族への差別により韓国のハンセン病患者に対しては、二重の人権侵害があったという事実を認めざるを得ない。」(『~最終報告書(要約版)』87ページ)。

 したがって、この『~最終報告書』は、厚生労働省が委託した事業であり、且つまた、2001年5月29日の衆議院厚生労働委員会で、瀬古由紀子(共産党)の質問にこたえ、坂口厚生労働大臣は「戦前の韓国におけるハンセン病対策につきましたは、現在その具体的内容を十分に把握しておりません。今後、ハンセン病問題の歴史を検証していくなかで、御指摘の点につきましても取り扱いを検討してまいりたいと思います」と答えている。(滝尾英二著「『ハンセン病問題』は、いまだ終わらず」、『飛礫』第34号・2002年4月発行を参照)。

 だから、『補償法』の見直しを国会審議することは、厚生労働省より委託された事業である『ハンセン病問題に関する検証会議』の「最終報告書」が尾辻秀久厚生労働大臣に2005年3月に提出されたことを受けて、当然しなければならなかったのである。それが、今日までなされなかった事実こそ、問題にしなければならないことである。10月25日の午前11時半から、厚生労働省前の道上で行なわれた抗議集会に私は参加しながら「恥を知れ!」という垂れ幕や演説を聞きながら、「原告弁護団」やその支援者たちが、なぜもっと早くこの「恥を知れ!」という言葉を叫ばなかったのか、と思い悔しい思いがしてならなかった。

 第三の「不安」は、10月26日に、知人が送ってくれた一つのメール内容に私は、未だその答えを持ち得ないでいることである。そのメールは、つぎのような内容である。

 『滝尾さん 昨日はお疲れになったことでしょう。

 ソロクトと楽生院の判決は明暗を分けましたが、毎日新聞朝刊にのった判決要旨を読みますと、どちらも「もっとも」と思いました。台湾訴訟の判決は、当たり前といえば当たり前の判決です。昨今の「新自由主義時代」からみると「平等取り扱いの原則上好ましくない」という言葉がとてもフレッシュな印象を受けたのがくやしくもあり‥‥。韓国訴訟の判決はやはり「補償法」の排他性が根拠となっており、「外地療養所の入所者への対応は、将来の課題にとどめられていたと解する」と、他の戦後補償訴訟と同じく、立法・行政府に責任を転嫁しました。両判決には政治的判断も働いていると思いますが、それはさておき、いずれの訴訟も控訴審にもちこまれるでしょうから、よりいっそう、多くの人たちに「植民地下で何がおこなわれたのか。ハンセン病歴者にたいしてどんな仕打ちをしたのか」を一般的にではなく具体的に訴えていくことが必要ですね。とりあえず、今の感想です。』

 このメールは、いままで「ソロクト訴訟に関わってきた」自分として胸刺される内容である。そして、これから私は、何をすればよいのか分からない「心情」となっている。だけども、今後、自問自答しながら歩んでいかなければ、ならないことだと思う。

 しかし、「期待」も大きい。その第一は、韓国では「燎原の火」のように、広がり闘われている「不当判決」の抗議の集会であり、日本大使館への抗議デモであり、抗議文提出である。さきに書いた「ソロクト・楽生院 NEWS」によると、「<27日 ソウルでの大集会> ソウルでの大集会の様子は、一部の報道でも流れました。ソウルの朴永立弁護団長から次のような報告が届きました。

 『10. 27. 12:00 ~ 15:00 ソウル集會の報告
 ソウル集会には、既にご案内のとおり小鹿島並びに各定着村から集まりましたハンセン人、市民團體の會員、一般市民等、1,000余名が参加して沸き立つ熱気の中進行されました。各マスコミの取材競争も加熱し、市民達の反応にも大きな手ごたえを感じました。
 集会の順序に沿って、第1部の韓国伝統の儀式「セキッ厶ゴッ」、第2部の不當判決糾彈並びに補償促求決議大會、第3部の徒歩行進の順序で進行致しました。徒歩行進は、集会会場の公園から駐韓日本大使館前まで行われ、その場で決議文の朗読を行い抗議の叫びを上げた後、日本大使館にその決議文を渡してきました。
 ソウル集会後、MBC 9時のニュース、KBS 時事トゥナイト、YTN(韓国版CNN)の毎時間ごとに流されるニュースにて報道、各日刊紙並びにインターネット新聞等の媒体にて報道される等、マスコミでも好意的に取り上げてくれました』という。
今後、私たちはこの韓国の闘いと、どのように「連鎖」「連帯」しながら、不当差別判決と『補償法』の原点に立ち返らせる取り組みをしていくかが、問われると思う。

 第二の「期待」は、『民団新聞』にみられる在日朝鮮・韓国人のこの不当裁判闘争への積極的参加が期待できることである。この裁判で弱かったのは、在日韓国人の参与であった。今後、「ソロクト弁護団」の「自国民中心意識」が克服されるならば、こうした問題が大いに期待できるものと期待している。

 第三の「期待」は、日本の報道機関(マスコミ)の積極的支持の報道が期待できそうなことである。10月25日の「判決」後の報道=新聞記事や放送は、原告に好意的内容が、際立って多い。それに今週には『週刊誌』のこの不当な判決の記事も出るだろう。『雑誌』もこの問題を掲載すると思う。現に私もある『雑誌』社からインタビュー記事を書くよう依頼されている。支援者の広がり・深まりも「期待」できる。

 このメッセージのトラックバックにも、つぎのような訴えと文が届けられている。紹介しよう。『先日の記事を、「朝鮮ハンセン病史 日本植民地下の小鹿島」などの著者・滝尾英二氏のブログにトラックバックしたところ、紹介記事を書いていただきました。どうもありがとうございます』と。今回も、このメッセージに寄せられたKeep the Red Flagのトラックバックに届けられた文を紹介する。

 <旧植民地ハンセン病訴訟 原告をこのまま帰していいのか(2005年10月28日)>

 28日、韓国ソロクト・台湾楽泉院ハンセン病訴訟原告らの長い一日は終わった。
 事前に、「ハンセン病訴訟の控訴、28日にも結論…厚労相が意向」(読売新聞)との報道があったことから、原告・弁護団には「今日こそ結論が出るのでは」という期待があった。
 原告らは午前十一時からの厚生労働省前(※他の市民団体と場所が重なったため、当初の予定場所から変更)での宣伝を短時間で切り上げ、午後からは弁護士会館五階フロアで待機していた。午後三時からの小泉首相と潘基文・韓国外交通商相との会談を前後し、「会談後に首相との面談も実現するのでは」という話を、弁護団、原告から何度も聞いた。多くのマスコミ関係者も弁護士会館で原告らとともに、会談の結果を待っていた。
 だが、会談の終了予定時刻がとっくに過ぎ去り、一時間まっても、二時間まっても、その知らせがついに来ることはなかった。
 原告に同行している韓国側関係者によると、韓国側は潘外相に小泉首相との会見の場で日本政府に一刻も早い解決を促すよう要求。実際に潘外相は会談の席でこの問題をとりあげたが、小泉首相は「同情すべきことが多い。お互いに良いと思える解決が見いだされることを期待している」と述べるにとどまったという。
 会談の模様が伝えられたのち、弁護士会館で原告・弁護団の会見が行われた。残念ながら、私は所用のため、その会見を見ることはできなかったので詳細は不明だが、弁護団は、前向きな回答として評価しているとのことだ。
   ◇
 原告らは明日29日昼過ぎ、成田空港から帰国する。原告自身がいま現在、どのような気持ちでいるのかは分からない。だが、彼らをこのまま帰してしまって本当にいいのだろうか。
 小泉首相の発言が前向きであることは確かだ。しかし、冷静に考えてみると、首相の発言には具体的な内容は何もなく、実は何も語っていないに等しい。彼は、被告・日本政府を代表する立場にあって、厚生労働大臣をも指導監督する立場にあり、彼が決断すれば一朝にして問題は解決するはずなのだが、「期待している」とは、いかにも傍観者的ではないか!
 むろん「変人」「奇人」と呼ばれてきた彼のことだ。表向き傍観者然として振る舞いながら、原告の要求を受け入れた場合のメリットを着々と計算しているということは十分ありうるし、むろんその逆もまた十分にありうる。だが、少なくとも現段階では、政府が台湾訴訟で控訴する可能性はまったく消えていないのだ。
 仮に政府が控訴すれば、原告はまた長い長い裁判をたたかわなくてはいけない。早くて半年、長引けば数年かかる。来年06年6月には時限立法として制定されたハンセン病補償法の請求期限が切れてしまう。新聞各紙が地裁判決の翌日、そろって社説で指摘したように「残された時間はあまりに短い」のだ。
 なんとかして、帰国する彼らに、喜ばしいニュースを伝えられないものだろうか。個人でできることは限られているし、時間もあまりない。だが、このまま手ぶらで帰してしまっては、あまりにも情けなく、やるせないではないか。どれだけの人に、読んでいただいているかわからないが、どうか諸君、力を貸してほしい。最後の最後まで各界、各方面の尽力を期待して、この文を結ぶ。
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 先日の記事を、「朝鮮ハンセン病史 日本植民地下の小鹿島」などの著者・滝尾英二氏のブログにトラックバックしたところ、紹介記事を書いていただきました。どうもありがとうございます。

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2005年10月28日 (金)

『中国新聞』 等の10月28日つけ「不当判決と日本に抗議」などの新聞記事紹介と、研究者としての私の誓い

 下記のような記事が、10月28日つけ朝刊の『中国新聞』は第32面の社会欄で「判決に憤り 300人集会、ソウル 韓国のハンセン病患者ら」の見出し(一段抜き)で、また『山陽新聞』も第5面(国際欄)で(共同通信配信)として掲載されています。
 『中国新聞』も『山陽新聞』にも、「車椅子のハンセン病歴者」数名を先頭に、プラカードや幟(旗)を持って、ソウル市内の鐘街(チョンロ)の街路をデモっている写真が(二段抜きで)掲載されています。

 この『滝尾英二的こころ』には、写真は張り付いていませんが、ぜひ、韓国ではハンセン病問題=「不当判決」を撤回しろというソウルでは最初の大規模な集会をもち、日本大使館までデモをしている情景をご覧下さい。
 こうした韓国の運動に、今後、私ら支援者たちが、どのように繋がっていくかが、問われているように思います。

   10月28日(金) 11:40AM   人権図書館・広島青丘文庫 滝尾 英二より

2005102701003210

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 『中国新聞』も『山陽新聞』も(朝刊)05年10月28日の記事の内容同じでした。

 『山陽新聞』の【見出し】は、「不当判決と日本に抗議、韓国のハンセン病患者」(一段抜き)で、つぎのように書かれています。
  【写真】 <説明文>27日午後、ソウルの日本大使館前で抗議する韓国のハンセン病患者ら(共同)

 【ソウル27日共同】日本植民地下に開設された韓国のハンセン病療養所「小鹿島更生園」(現在の韓国国立小鹿島病院)入所者らが日本政府への補償請求訴訟で敗訴したこと受け、原告や韓国のハンセン病患者ら約300人が27日、ソウルの日本大使館前などで抗議集会を行い「不当判決」と訴え、日本政府に補償を要求した。
 「更生園」があった韓国南部小鹿島のほか、ソウルを中心に各地からハンセン病患者が集合。原告団の張喆雨弁護士によると、ハンセン病患者の抗議集会としては最大規模で、判決への憤りを反映した形となった。
 原告は既に判決を不服として東京高裁に控訴しており、市内の公園での集会で参加者らは「最後まで闘おう」と確認。集会後、参加者は日本大使館前まで練り歩き「謝罪しろ」と声を張り上げ、大使館に近づこうとする一部参加者が警官隊ともみ合う場面もあった。

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 先に、下記のような「聯合ニュース」を掲示しましたが、今朝の『中国新聞』や『山陽新聞』の共同通信配信の記事を見るにつけ、韓国でのハンセン病問題の「当事者」がおかれている差別の現実とその闘いに学びながら、これからの「小鹿島行政訴訟」の闘いを、研究者の立場から、すすめていくことを痛感しています。(滝尾)

(再掲します)
 [聯合ニュース 2005/10/25 11:58]

 小鹿島のハンセン者、沈痛と怒り 「日本の司法府の正義が崩れた」

 『(高興=聯合ニュース) ソン・ヒョンイル記者= 25日、全南高興(コフン)の小鹿島のハンセン者が日本政府を相手にした訴訟に敗訴した、という便りが伝えられた小鹿島現地は、一日中沈痛と怒りが続いた。

 国立小鹿島病院に用意された休憩室で、この日の午前再判の結果をいらだって見守っていた150余名のハンセン者は、今回の訴訟団の弁護士である李ジョンイル弁護士から敗訴の結果を聞き、沈痛な表情を隠すことができなかった。李弁護士は、日本の現地に行っている同僚から、電話で裁判の結果について連絡を受けた後、休憩室に集まった住民に沈痛な表情でこの事実を伝えた。

 住民たちは、「日本の司法府の正義を信じたのに、理不尽な論理で敗訴の判決を下したのは、有り得ないことだ」と怒った。大部分は車椅子などに依存した70~80代の高齢者である彼らは、報告大会を終えて中央公園に移り、日本政府と司法府を糾弾するスローガンを叫ぶなど、強い怒りを表現した。

 国立小鹿島病院のキム・ハンモ庶務係長は、「訴訟を起した方々がいつ亡くなるかも分からない高齢者であり、数十年間の恨(ハン)が積もった方たちなのに、日本の司法府が彼らの恨を無惨に踏みにじった」と語った、云々と。

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 なお、10月26日の『民団新聞』は「ハンセン病 旧植民地訴訟…韓国人に不当判決、東京地裁、補償請求認めず」と題して、つぎのような記事を掲載しています。

 『韓国の入所者について審理した民事3部(鶴岡稔彦裁判長)は「該当しない」として請求を棄却。台湾の入所者については民事38部(菅野博之裁判長)が「対象に含まれる」と判断し、補償金を支給しないとした厚労相の決定を取り消した。同質の訴訟であるにもかかわらず結論は分かれ、韓国人原告団(国立小鹿島病院の117人)には「不当判決」、台湾原告団(楽生療養院の25人)には「勝訴」となった。

 韓国人入所者の判決結果を受けて、民団中央の李鐘太民生局長は抗議の談話を発表した。要旨は次の通り。

民生局長 抗議談話「立法の精神貶めた」

 日本が植民地統治下の韓国と台湾に設置した療養所に入所させられていた元患者が、「ハンセン病補償法に基づく補償の請求を日本政府が棄却したのは違法だ」として、厚生労働相に処分の取り消しを求めていた二つの行政訴訟の判決が25日、東京地裁であり、韓国原告団に不当判決が下った。

 ハンセン病補償法の目的は、絶対隔離という日本の施策が患者であった人々に想像を絶する恥辱と苦痛を与えた歴史を反省し、その精神的損害を慰謝するところにある。補償の対象は当然、過去に一度でも日本の同施策が及んだ地域の人々すべてでなければならない。民事38部の判決が当然であり、同3部の判決は補償法の精神を貶める不当極まるものである。韓国人原告団は38部判決に意を強くし、控訴を通じて正当な判決を勝ち取るまで一歩も引かない決意であると確信する。

 日本国が司法判断が分かれたことをもって、解決を引き延ばすようであれば、原告らの平均年齢が80歳を超えていることからも、言語道断と言わざるを得ない。国会は補償法の立法原点に返り、韓国、台湾の両施設入所者が補償の対象に含まれるよう明示すべきであり、厚労省は民事38部の判決に対する控訴を断念し、確定させなければならない。           (2005.10.26 民団新聞) 』

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「韓国ソロクト(小鹿島)訴訟  原告は今日も訴える 」

 「韓国ソロクト(小鹿島)訴訟  原告は今日も訴える (Keep the Red Flag) 」という文が、『滝尾英二的こころ』のトラックバックに届けられています。発信者は、(Keep the Red Flag) となっています。こうした方がたとも「連鎖」しながら、日帝期の日本政府が行なった残虐で非道きわまる「ハンセン病政策とその施行」の事実を明らかにし、その責任を具体的に追及しましょう。

 厚生労働大臣の告示には、小鹿島更生園、台湾楽生院とともに、天皇制日本国家によって1922年つくられた「南洋庁」。その「南洋庁」が1926年に「サイパン」島、1927年に「ヤクート」島、1931年に「パラオ」島、1932年に「ヤップ」島にそれぞれ、島民のハンセン病患者を収容隔離し、この管理・運営は恩賜財団「慈恵会」が行なっています。(『南洋群島要覧』各年度、南洋庁発行より)
 詳しくは、『飛礫』47号(2005年7月)つぶて書房発行に、滝尾英二が書いた「論考」を参照して下さい。また、「満州同康院」の同施設のことも、ハンセン病問題に関する検証会議の『~最終報告書』(2005年3月発行)には書かれ、厚生労働大臣に提出されています。
 しかし、それらの詳細な調査はなされておりません。厚生労働大臣の告示には、小鹿島更生園、台湾楽生院と同時に、ミクロネシアで日本国家の隔離・収容したハンセン病患者のことも、忘れずに詳細な調査と、厚生労働大臣の告示に明記さす必要があります。虐殺(ミクロネシア)や集団自決(「満州同康院」)が行われ、その遺族も、現存されといると思います。

 それらの方がたに対する「国家謝罪」と「補償(賠償)」が必要です。国内のみならず植民地統治期のハンセン病患者とその家族・遺族への「国家謝罪」と「補償」を日本政府に要求し、それを闘いとることが、絶対必要です。ともに「連鎖」「連帯」して闘い抜きましょう。

   2005年10月28日(金曜日)  午前4時45分  人権図書館・広島青丘文庫
                             主宰 滝尾 英二より

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2005年 10月 27日
『韓国ソロクト(小鹿島)訴訟  原告は今日も訴える』
 「いい結果を得るまでは、帰れない」

 27日、 南野知恵子・法相、尾辻秀久・厚生労働相と面談した、韓国・ソロクト(小鹿島)ハンセン病訴訟の原告、蒋基鎭さん(84)の言葉だ。
 ◇
 日本政府が戦前、植民地にした韓国と台湾でつくったハンセン病「療養所」(韓国・小鹿島更生園、台湾・楽泉院)の元入所者が補償を求めた旧植民地ハンセン病訴訟。25日、東京地裁は、台湾の原告には補償を認め、韓国の原告の請求は棄却するという、まったく正反対の判決を出した。判決は、原告らの望んだ全被害者の救済には程遠く、「一勝一敗」という結果が、逆に日本の司法の後進性をいっそう浮き彫りにすることになった。25日以降、原告らは連日、霞ヶ関の厚生労働省前で集会を開き、元患者に平等な補償を行うよう求めている。

 原告を支援するのは、4年前、歴史的な熊本地裁判決を勝ち取り、「ハンセン病補償法」を実現した日本のハンセン病元患者らだ。
 「療友の差別を許さない」「日本の植民地下の犯罪 許すな」・・・。元原告らが手にもつ布の寄せ書きには、日本各地の療養所退所者の会の名前とともに、台湾、韓国の元患者の請求を棄却した政府への批判が、書き連ねられていた。

 「療友」。まさしく彼らは、同じ病に苦しみ、日本政府の強制隔離政策により「療養所」に押し込められ、労役を課せられ、些細なことを理由に重監房に閉じ込められ、さらには堕胎、断種させられた「友」だ。戦後も、ハンセン病への誤解と偏見により、差別され、社会から無視されてきた同じ苦しみを分かちあってきた仲間だ。
 そこには、国籍も入所した療養所の所在地の違いもなく、ただただ、日本政府の政策によって奪われた人間としての尊厳を、人生の最後の瞬間において取り戻したいという思いがあるだけだ。
 ◇

 だが、ソロクト訴訟で東京地裁は、原告の被害と日本政府の強制隔離政策の因果関係について「外地療養所入所者もわが国が隔離政策を実施して身柄の収容を行ったものと指摘できる」「その後受け続けたと推測される偏見と差別も、原因の一端が戦前のわが国の隔離政策などにあったことは否定し難い」と認定しながら、厚生労働省のただ一片の告示に、海外療養所が含まれていないことをもって、原告の請求を棄却してしまった。
 韓国の保健福祉省は27日、スポークスマン論評を発表し、「(日本政府のもう一つの差別を正当化する裁判所の決定は、人間の尊厳性を差別し、過去の日本政府が犯した人権侵害行為を、再び再現した)」と東京地裁判決を非難したが、まさにその通りではないか。
 韓国の原告117人、台湾の原告25人、総勢142人の原告の平均年齢は80歳を超えている。老齢の元患者が、それも病と不十分な治療、過酷な労役による重い障害に苦しむ人たちが遠路はるばる日本までやってきて、冷たい風が吹きすさぶ霞ヶ関のど真ん中で、朝から夕方まで、ハンドマイクを握って訴えなければならないか。それも三日間も!!。
 ◇
 これは司法だけの問題ではない。4年前、熊本判決のときも、原告らは首相官邸前に詰めかけ、政府に「控訴するな」と訴えなければならなかった。明日28日午前十一時から、原告らは衆院第一議員会館に集まり、首相に面会を求める計画だ。どうして四年もたったのに、同じような光景が繰り返されてしまうのか。
 すでにハンセン病補償法という法律はある。
 日本の元患者と台湾、韓国の元患者を分かつものは、補償法の対象施設を列挙した厚生労働省の告示だけだ。告示に海外につくった療養所が含まれていないというなら、大臣の権限で告示に一行いや二言、ソロクト更生園、台湾楽泉院と書き加えれば、すぐにでも解決する話だ。

 台湾の原告の訴えを認めた判決に接し、南野法相は「厳しい判決だ」と言った。だが原告らに対し「厳しい」態度をとってきたのは日本政府なのだ。さいわいにして、原告らの訴えがとどいたのか、4年前の反省かはわからないが、現在のところ日本政府は原告らの訴えを頭から拒絶するという態度はとっていない。
 尾辻厚労相は27日、原告との面談で「関係各方面に相談して答えを出す。長く時間をかけるつもりはない」と回答した。同日、行われた日韓外相会談でも町村信孝外相が、韓国のパン・ギムン外交通商相に「基本的には法務省の判断だが、政府としての対応を検討する。韓国側に良い回答を伝えられたらと考えている」と述べたという。
 政府がこれまでの方針を改め、韓国、台湾の原告の訴えを受け入れるかどうか。予断を許さぬ状況が続いている。

 原告らは今のところ29日に出発する予定で、明日が最後のチャンスだ。うれしい結果を持って、韓国に、そして台湾に帰ってもらいたい。どうか心ある諸君は、明日の朝、衆院議員会館前に集まってほしい。それが無理ならば、心の中でエールを送ってほしい。

 最後に、原告の一人、南相鉄さんの言葉でしめくくろう。
 「明日の新聞に、私たちが笑って帰れるような、いい記事がでるようにと、日本の大臣にお願いしました。私たちは同じように被害を受けたのに、どうして補償が受けられないんでしょうか。どうか補償が受けられるようにお願いします。必ず、勝利することを、私は信じています」

>弁護団ウェブサイト

 *この文章はCreative Commonsでライセンスされています。金儲けに使わず、再配布禁止にしなかったら、ここの文章を何に使ってもかまいません 。

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2005年10月27日 (木)

韓国の報道からハンセン病訴訟判決に関する、社説等を紹介

 韓国の報道からハンセン病訴訟判決に関する、社説等を紹介します。

1) 【社説】 ハンセン者の被害補償、韓国政府は傍観するのか (ハンギョレ)
2) 【社説】日本は韓国の元ハンセン病患者に補償すべき (朝鮮日報 日本語版)
3) 【社説】 「ハンセン者訴訟」控訴審判決を注目する (世界日報)
4) 日本のマスコミ、「ハンセン者の補償を急げ」と声をそろえる (聯合ニュース)

● 韓国のマスコミは、「ハンセン病罹患者」を「ハンセン人」と表現していますが、これを「ハンセン者」と訳しています。

1) ******************************
〔ハンギョレ 2005-10-26午後08:50:56〕

【社説】 ハンセン者の被害補償、政府は傍観するのか

日本の東京地方裁判所が、一昨日日帝時強制収容された小鹿島(ソロクト)のハンセン者が起こした補償金支給訴訟を棄却した。他方、台湾の楽先園のハンセン者には補償償金支給を命令した。いくら裁判部が異なるともは言え、同じ懸案をめぐり同じ裁判所で正反対の判決が下されたことは、理解し難い。

日本政府は、2001年ハンセン病補償法を制定したが、韓国の小鹿島と台湾の楽生園は自国の施設ないという理由で、補償金支給を拒否してきた。小鹿島の裁判部が、ハンセン者が受けた偏見と差別の責任が日帝の隔離政策にあることを認めながらも、立法趣旨よりは法文解釈に縛られて、訴えを棄却したことは遺憾だ。

ハンセン病被害補償問題が日本法廷にまでは及んだのは、韓国政府の無関心も大きな理由だ。

今回の棄却判決の決定的理由は、「自国収容施設」に制限した補償法規定のためだ。裁判所は、法制定時に補償対象に関連し、日本外で隔離された人々を含めるかに関する議論がなかったという点を指摘した。

韓国政府が関心を喚起させるいかなる努力もしなかったことを示しているわけだ。日本のマスコミさえ、「被害者たちが高齢であるので、旧植民地のハンセン者に対する補償の道を開かなければならない」と訴えているのだ。恥ずかしいことだ。

ハンセン者に対する差別と人権蹂躙は、政府樹立以後も続いた。農地を開墾していて住民たちに虐殺されたり、軍事政権時に追い払われたりもした。この際、政府はハンセン者の実態を徹底的に調査し、補償と自活支援策を提出しなければならない。国家機関の人権侵害があったとすれば、国家次元の謝罪も検討しなければならない。

6名の国会議員が発議した「ハンセン者特別法」(仮称)も今年の定期国会で是非通過することを願う。政府は、病魔より恐ろしい天刑を背負って生きてきたハンセン者の絶叫に真剣に耳を傾けなければならない。

2) ********************************
[朝鮮日報 日本語版 2005/10/27 07:03]

【社説】日本は韓国の元ハンセン病患者に補償すべき

日本の東京地方裁判所は、日本の植民地時代に全羅(チョルラ)南道の小鹿島(ソロクト)に収容された韓国人元ハンセン病患者117人が、強制隔離収容によって被った被害に対する補償を求めた訴訟で、原告の訴えを退けた。

しかし、同日同じ東京地方裁判所の他の裁判官は、台湾の元ハンセン病患者25人が同じ趣旨で起こした訴訟で、「入所時期がいくら古いものでも支給に妨げはなく、その限りでは時効、除斥の問題は生じず、かつ国籍や居住地による制限もないと解すべきだ」と原告の訴えを受け入れた。

同じ日に、同じ裁判所の裁判官が食い違う判決を言い渡したことになる。

日本による植民地時代に収容所に強制隔離された韓国と台湾の元ハンセン病患者は、日本国会が、日本政府から強制収容と差別、虐待などの不当な処遇を受けた元ハンセン病患者の被害を補償するため2001年制定した「ハンセン病補償法」による補償を要求する訴訟を起こした。

同法によって日本国内の療養所に収容された日本人の元収容者は1人当り800万円から1400万円の補償を受けている。

日本政府の諮問機関である「ハンセン病問題検証会議」は、今年3月まとめた報告書で「…韓国のハンセン病患者は日本のハンセン病患者が受けた人権侵害と同様の被害を受けている。しかし、その人権侵害に植民地支配下の民族差別感情が加わり、被害の程度は日本国内のそれをはるかに上回るものであった」と結論付けた。

今回の訴訟の原告の一人、80歳のカン・ウソクさんは訴状で、「小鹿島である人は落ち葉を拾ってご飯を炊いた。断種を強制された人もいる」と証言した。カンさん自身は、暴行を受けてできた足の傷がこじれると、痲酔もせず、足を切断する手術を受けたという。訴訟を起こした韓国人被害者117人の平均年齢は、81.6歳だ。

韓国側の元ハンセン病患者の訴えを退けた裁判官は、「(ハンセン病補償法の立法過程で)外地療養所に関しては、入所者を補償対象とすることを前提とした質疑応答は存在しない…外地療養所入所者への対応は将来の課題にとどめられていたと解するのが素直である」と却下の理由を説明した。

しかし、台湾の元患者らの訴えを受け入れた他の裁判官は、「日本国内(戦前の内地)の療養所に入所した者に限る旨の規定や…そのような規定は設けられていない…彼らを補償から除外させることは平等取り扱いの原則上望ましくない」との見解を示した。

日本は、国会で立法を急いで法律を修正するか、それとも日本政府が法律を積極的に解釈して韓国のハンセン病患者が補償を受けるようにすべきである。

3) ***************************
[世界日報 2005.10.26(水)19:14]

【社説】 「ハンセン者訴訟」控訴審判決を注目する

日帝強占期に強制隔離収容された韓国のハンセン者と台湾のハンセン者が日本政府を相手に起した損害賠償訴訟に対して、日本の同じ裁判所で正反対の判決が出たたことは、納得しがたい。

日本の熊本地方裁判所は、2001年5月過去に日本政府が行ったハンセン病患者強制隔離政策に関する被害補償請求訴訟で、「らい病予防法」が違憲であることを認め、賠償を請求した患者127名に18億余円を支給するように判決した。

日本政府は、この判決後発効されたハンセン者補償法により、自国のハンセン病隔離者に対しては800万~1400万円ずつを補償しながら、小鹿島(ソロクト)更生院と台湾の楽先園の収容者は対象ではないという理由で、賠償請求を棄却した。

韓国と台湾のハンセン者が、これに反発して、「日帝治下の施設は日王[天皇]の勅令で設立されたので、日本の国立ハンセン病療養所」だとして、損害賠償請求訴訟を起こしたが、台湾のハンセン者の裁判部は、「補償法趣旨は総体的救済」だとし、原告勝訴判決を下したが、一方韓国のハンセン者の裁判部は、「国外入所者は補償対象でない」とし、原告敗訴判決を下したのだ。まことに残念だ。

韓国ハンセン者側弁護人は、「裁判所が形式的判断に偏り、正義と平等に目をつむった」とし、控訴する意向を明らかにした。

政府は、より積極的な外交的努力を傾けなければならない。被害者の大部分が80~90才であることを考慮すれば、生前に控訴審宣告がなされるか疑問だ。日本控訴審裁判所の正しい判断を求める。

4) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/26 09:15]

日本のマスコミ、「ハンセン者の補償を急げ」と声をそろえる

小鹿島(ソロクト)のハンセン者274名、追加して補償を請求

(東京=聯合ニュース) シン・ジホン特派員= 日本の主要各紙が、26日に一斉に社説を通し、日本政府がハンセン者の補償に積極的に取り組むことを強く求めた。

読売新聞は社説で、「2つの判決が食い違ったことは、ハンセン病補償法それ自体に問題があるためではないか。立法過程で、旧統治下の療養所の実態調査もしなかった」とし、「今はこれ以上司法の判断に任せてはならず、補償対象を国内施設の過去の患者に限定せず、旧統治下の入所者まで幅広く救済することを望む」と要求した。

朝日新聞は、「日本によって耐え難い苦痛に被った人たちが、せめて平等な補償を受けるのは当然のことだろう」とし、「原告の大部分はすでに80歳に達しているので、政府はこれ以上裁判所で争うのでなく、速やかに補償すべきだ。厚生労働省の告示を変え、補償対象に過去の植民地の療養所を追加すればすむことだ」と提案した。

日本経済(日経)新聞は、「補償法の制定過程とその理念を見れば、補償金の支給対象と関連した訴訟が発生したのは、遺憾な事態」とし、「厚生労働省は、今年3月に提出された『ハンセン病問題検証会議』の最終報告書により、平等な補償を実施すべきだ」と指摘した。

産経新聞は、「2つの正反対の判決がほとんど同時に出てきた以上、控訴して争う道ももちろんあるが、原告たちはすでに高齢なので、控訴審を待っては救済の機会さえ失ってしまうだろう」、「今や政治の判断を明確に公表し、救済の道を開くべき時ではないか」と問うた。

一方、ハンセン者訴訟の原告と弁護団は、25日厚生労働省を訪問し、迅速に厚生労働省告示を改正し、韓国と台湾の療養所がハンセン病補償法の支給対象になるように措置するよう要請した。また、小鹿島弁護団の原告117名とは別に、274名の小鹿島のハンセン者が、追加で厚生労働省に補償を請求した。

<森川静子訳>

 *福留様、翻訳された森川様に、こころから感謝いたします。
    【人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二】  05年10月27日(木)13:05

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2005年10月26日 (水)

滝尾の「東京通信」及び福留様から送信していただいたハンセン病訴訟に関する記事

 10月24日の20:18に広島バスセンター発、東京八重洲口行き深夜高速バスで、翌朝07:00の八重洲口南に着いた。
 08:20、東京地方裁判所へ入り、10時00分から両「判決」の言い渡しを傍聴席の一番前中央の席で傍聴しました。その後、「ソロクトなど弁護団」の報告会を30間聞きました。なぜ、両判決は日帝期に同じハンセン病被害を受けながら、韓国のソロクトは「原告敗訴」し、台湾楽生院は「勝訴」するのか。理解が出来ませんでした。

 その後、11:30から約2時間ほど、厚生労働省前の道路で、秋晴れのしかし強い日差しを受けながら「抗議と控訴断念」の集会に参加。 また、16:00過ぎから、第二衆議院議員会館で、説明会や「議員懇談会」傍聴しました。

 18:30から星陵会館での「報告集会」に参加。『飛礫』48号(秋季号)=最新号がかなり、会場前ロビーで売れていたようで、少し良い気分でした。21:00の深夜バスで東京八重洲口南から、広島行きに乗車しなければなりませんので、「報告集会」は、20:10までしか参加出来ませんでした。

 やはり、小鹿島からおいでになったチャン・ギジンさん(ソロクト原告団長)を始めとする5名の原告や、キム・ヨンホ自治会長の発言には、胸打たれ、こころが痛み、さらに自責の念にかられました。しかし、発言者の中には、「自国民中心意識」丸出しの「この集会」に相応しくない発言もあり、日本人としての、この問題のもつ底深さ・深刻さを感じました。

 東京高裁で、やがて「控訴審」が始まるようになると思います。それを「原告側の勝訴」とする道は険しいものです。今度の「判決」は、2001年6月の『補償法』自体のもつ「日本在住者のみしか視野のなかった」ありようが問われ、そのことを、司法の場で指摘されています。『補償法』成立に関わった者たちが判決で「指弾」されたのです。

 もちろん、厚生労働大臣が定める「告示」に小鹿島更生園・台湾楽生院・それにミクロネシア「らい療養所」や「満州同康院」の入所者の項を加えればよいのです。しかし、今の「小泉政権」がこれに応じるかは、どうかは非常に容易ではないものと思います。そのためには、何よりも「国際世論(とりわけ、韓国の世論)」、また「国内世論」の高揚が必要です。

 こうした視点から、下記の「聯合ニュース」を読んで下さい。ソロクトのハラボジ・ハルモニに再び、あの「かなしみ」をあじあわさないで、笑顔で東京からソロクトに帰れるよう「控訴審」を勝訴判決にするために、闘って行きたいと思います。

 その為にも、日本人に染みついる「自国民中心意識」の脱却が望まれます。

 (文末になりましたが、福留さん、森川さん。この記事を発表させていただき、本当にありがとうございした。)

================================

 ハンセン病訴訟に関する記事を、森川静子さんが「聯合ニュース」から丁寧に拾い、訳出してくれましたので、紹介します。なお、[051025-2]は都合により、後でお送りします。

1) 東京地裁、ハンセン者訴訟に正反対の判決 (聯合ニュース、以下も同じ)
2) 小鹿島に隔離されたハンセン者たちの「悲惨な一生」
3) 韓国のハンセン者、「差別的な判決に怒り」
4) 小鹿島のハンセン者、沈痛と怒り
5) <焦点>日本の裁判所のハンセン者訴訟棄却の背景と展望
6) 韓国・台湾のハンセン者、訴訟関連日誌

1) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 17:02]

東京地裁、ハンセン者※訴訟に正反対の判決

韓国人の請求は棄却、台湾人には勝訴判決

(東京=聯合ニュース) イ・ヘヨン、シン・ジホン特派員= 日帝の植民地時代に療養施設に強制的に収容された韓国のハンセン者と台湾のハンセン者が、日本政府を相手に起した訴訟に対して、同じ裁判所で正反対の判決が下された。

日本の東京地方裁判所民事3部は、25日、小鹿島の更生院に強制収容された韓国のハンセン病罹患者117名が、日本政府を相手に、補償を拒否した行政決定を取り消せと提起した訴訟で、原告側の請求を棄却した。

他方、同じ裁判所の民事38部は、現地の収容施設である楽生院に収容された台湾のハンセン者25人が提起した同じ請求を受け入れ、原告勝訴の判決を出した。

民事3部は、判決で、「療養施設の収容者が受けた偏見と差別の原因の一端が、戦争前の日本の隔離政策から始まったことは否定しがたい」と、原告側の主張を一部認定した。裁判所は、しかし、「法の審議過程などで、外地にある療養所の収容者も補償対象だという認識はなかった」と指摘し、原告の請求を棄却した。

これに対して、同じ裁判所の民事38部は、「ハンセン氏病補償法は、療養施設の収容者を幅広く救済するために特別に立法したもので、対象施設を制限しようとする趣旨があるとは見られない」として、原告側の請求を受け入れた。

裁判所は台湾のハンセン者の請求に対して、「当時日本の統治権が及んだ地域の施設で、他の要件は満たされるのに、台湾にあったという理由だけで、収容者を補償対象から除外するのは平等の原則上望ましくない」と強調した。

韓国の原告側弁護人の朴永立(パク・ヨンニプ)弁護士は、「残念だが、食い違う判断がなされたので、裁判所の良識を信じて控訴し、必ず勝訴する」と語った。朴弁護士は「台湾の楽生院については、裁判所が正義と平等の立場で、ハンセン病補償法を積極的に解釈した反面、小鹿島の裁判所は立法当時の行政府が、外国の施設を含めたり排除しなかったという理由で、法を消極的に解釈した」と指摘した。

韓国のハンセン者は裁判で、「収容施設は日帝統治下で天皇の勅令で設立されたのだから、日本の国立ハンセン氏病療養所に該当する」とし、「ハンセン病補償法には国籍と居住地などを制限する規定がない」と強調した。

日本政府側は、「ハンセン病補償法は、2次大戦後に国内での隔離政策の救済を念頭に置いたもので、戦後に主権が及ばなくなった外国の施設収容者は、補償の対象でない」と主張した。

日本政府は、2001年熊本地方裁判所がらい病予防法(1996年廃止)に伴う強制隔離の規定は違憲だと判決すると、その年に制定されたハンセン病補償法によって、収容期間などにより、1人当り800万~1,400万円を補償した。

韓国人の小鹿島のハンセン者は、この判決後に日本の厚生労働省に補償を申請したが、棄却されるや、韓国と日本弁護士が連帯して、不支給取消請求訴訟を起こした。

一方、厚生労働省はこの日の判決に対して、「小鹿島の更生院に対しては、海外の療養所は補償の対象に含まれないという、国の主張が受け入れられたと考えるが、台湾関連の判決は、国の主張が認められなかった」とし、「判決の内容を十分に検討する」という原則的な立場を明らかにした。

反面、日本のマスコミは、韓国と台湾のハンセン者が、高齢者である点を挙げ、国会と政府が直接取組み、速やかな救済方法を求めるよう促した。

朝日新聞は、法制定当時の不十分な国会審議と以後の対処が、食い違う判決が下された原因だと指摘し、「敗訴した側がそれぞれ控訴する場合、解決が長引く可能性がある上、原告が平均82才の高齢者なので、韓国と台湾の療養所を補償対象に含められるよう国会は速やかに結論を出すべきだ」と促した。

毎日新聞は、「ハンセン病の問題に関する検証会議」が整理した報告書によれば、戦争前の韓国と台湾の施設では、職員による暴力など、日本ではなかった人権侵害が反復された」として、「国家は法解釈が争点だとして、このような被害の実態に対して最後まで避けているが、そのような対処は非難を避けがたい」と指摘した。

[※ 注 :  原文では「ハンセン人」とありますが、「ハンセン者」と訳しています。正確には「ハンセン病罹患者」の意です。]

2) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 16:18]

小鹿島に隔離されたハンセン者たちの「悲惨な一生」

(東京=聯合ニュース) シン・ジホン特派員= 日帝の強制隔離政策によって小鹿島に連行されたハンセン者が体験した苦痛は、筆舌に尽くせないほどであった。

25日、東京地裁が韓国のハンセン者たちの請求を棄却した後、記者会見場に姿を見せたハンセン者のチャン・ギジン(85)氏。彼の両足は義足で、指は一つも残っていなかった。彼の症状がこのように厳しいのは、小鹿島で体験した極限の苦痛のためだった。

チャン氏は、日帝強占期の19才の時に小鹿島に引っ張られていかれた。更生院というので、あるいは治療してもらえるかも知れないという希望がないわけではなかった。しかし、現実は正反対だった。明け方から夜まで強制労役に苦しめられた。労役中にけがをした傷と凍傷が悪化して、指が1つ、2つ切られていき、両足も使えなくなった。

23才の時は強制的に精管(断種)手術を受けた。更生院の中で神社参拝を拒否すると、下された罰だった。彼は「断種と堕胎、手足の切断手術が更生院で横行し、収容者たちは土木作業などで毎日負傷に苦しめられた」と語った。

ハンセン者のイ・ヘンシム(76)氏の場合も、大きな違いはなかった。「刀を差した日本の巡査が家に来て、ハンセン病に罹った母と弟(妹?)と私を一緒にトラックに乗せました。」彼は、更生院に強制収容される当時のことを、はっきりと記憶している。トラックは更生院へ向かった。

イ氏は、朝日新聞との会見で、更生院でよくなれるかもしれないという希望を抱いたけれども、「実際は残酷な労働を強要され、地獄と同じだった」、「私の人生は私のものでなく、日本に捧げられたもの。補償を受けたい」と訴えた。

この日、裁判を見守った在日同胞の元ハンセン者の金泰九(キム・テグ・79)氏は、湧き上がってくる怒りを隠し切れなかった。彼は日帝強占期に韓国で生まれた。11才の時に父親について日本に渡り、戦争直後の22才の時に発病した。日本の国立ハンセン病療養所に入所、治療を受けることができた。

彼は自分と似た境遇にある韓国のハンセン者に会うために、2001年に小鹿島を訪問した。しかし、彼らの症状は自身よりはるかに深刻だった。金氏は、強制労働と不十分な治療が韓国のハンセン者の症状を悪化させたと指摘した。

東京地裁のこの日の判決は、悲惨な一生を送った高齢の韓国のハンセン者たちに、さらに大きな苦痛を抱かせた。

3) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 13:47]

韓国のハンセン者、「差別的な判決に怒り」

(東京=聯合ニュース) イ・ヘヨン、シン・ジホン特派員= 「とても悔して残念です。どうして、裁判長はこのような差別的な判決が出せるのですか。」

車椅子に乗って東京弁護士会館の記者会見場に現れたハンセン者のチャン・ギジン(85)氏は、25日、縮んだ手で流れる涙をずっとぬぐいながら、怒りを隠すことができなかった。

東京地裁民事3部が25日、日帝によって小鹿島の更生院に強制収容された韓国のハンセン者が、日本政府を相手に提起した訴訟を電撃棄却した。訴訟は、2001年に制定された日本ハンセン病補償法により、韓国のハンセン者が厚生労働省に補償を申請したが、拒否されるや、これを取り消すように要請したものだった。

「棄却!」

しかし裁判所は、「法の審議過程などで、外地にある療養所の収容者も補償対象だという認識はなかった」として退けた。

しかし、30分後に同じ裁判所の民事38部は、台湾のハンセン者が提起した同じ内容の請求を、受け入れた。完全に正反対の判決が下され、補償を主張して、不便な体で海峡を渡ってきた韓国のハンセン病罹患者の失望は、より一層大きかった。

「今日まで勝利の希望を持って、証言に証言を繰り返し、日本の地に渡ってきたのに、心を込めて積み上げた塔が崩れてしまったようです。気が抜けて力がなく、言葉も出ません。」

虚脱感を隠せないチャン氏は、一方で笑い、他方では泣いている。こういう差別がどこあるのか」、「再び控訴しなければならないだろうが、時間がどれくらいかかるのか分からず、ハンセン者はすでに80~90歳の老人」だと訴えた。

彼は、「この人たちの恨が積もり、死んでも解けないだろう」、「裁判官に面談を要請して、なぜこういう判決をしたのか尋ねたい」と涙声で語った。

訴訟の過程で、ハンセン者たちの弁護を主導した朴永立弁護士は、「台湾ハンセン者の訴訟の裁判部とは異なり、小鹿島の裁判部は形式的な判断に偏り、正義と平等に目を閉ざした」とし、「日本の司法府の良識を疑わざるを得ない」と非難した。

朴弁護士は、「しかし、控訴して必ず勝利を勝ち取るだろうし、同時に厚生労働省の告示を改正して補償対象に小鹿島を含めるよう最善を尽くす」と強調した。

今回の訴訟を担当した韓・日・台湾の弁護人たちは、声明を出し、「ハンセン病補償法の補償の対象は、過去に一度でも日本の療養所に入所した経験がある者全員に及ぶ」とし、「立法の趣旨を明らかにすれば、同じ日本の絶対隔離政策によって、療養所に入所しなければならなかった朝鮮と台湾のハンセン病罹患者を、補償の対象から除外する理由は全くない」と指摘した。

この日、判決が下された東京地裁の前では、ハンセン病補償請求訴訟支援連絡会の会員100人余りが、小鹿島ハンセン者に対する棄却の決定を糾弾しながら、デモを繰り広げた。この日午後にも、国会の近くで判決報告集会を開催する。

4) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 11:58]

小鹿島のハンセン者、沈痛と怒り

「日本の司法府の正義が崩れた」

(高興=聯合ニュース) ソン・ヒョンイル記者= 25日、全南高興(コフン)の小鹿島のハンセン者が日本政府を相手にした訴訟に敗訴した、という便りが伝えられた小鹿島現地は、一日中沈痛と怒りが続いた。

国立小鹿島病院に用意された休憩室で、この日の午前再判の結果をいらだって見守っていた150余名のハンセン者は、今回の訴訟団の弁護士であるの李ジョンイル弁護士から敗訴の結果を聞き、沈痛な表情を隠すことができなかった。李弁護士は、日本の現地に行っている同僚から、電話で裁判の結果について連絡を受けた後、休憩室に集まった住民に沈痛な表情でこの事実を伝えた。

住民たちは、「日本の司法府の正義を信じたのに、理不尽な論理で敗訴の判決を下したのは、有り得ないことだ」と怒った。大部分は車椅子などに依存した70~80代の高齢者である彼らは、報告大会を終えて中央公園に移り、日本政府と司法府を糾弾するスローガンを叫ぶなど、強い怒りを表現した。

国立小鹿島病院のキム・ハンモ庶務係長は、「訴訟を起した方々がいつ亡くなるかも分からない高齢者であり、数十年間の恨(ハン)が積もった方たちなのに、日本の司法府が彼らの恨を無惨に踏みにじった」と語った。

日本の東京地方裁判所は、小鹿島の更生院は、日本のハンセン病補償法上、国立ハンセン病療養所ではないので、補償ができないという趣旨の判決をしたと伝えられた。

今回の訴訟は、韓国の小鹿島のハンセン者117名が、日本人ハンセン者に1人当り1千万円ずつ報償金が支給されたことを契機に、日本の厚生省に申請した補償が棄却されるや起された。

日本政府は、1907年に制定されたハンセン病予防法[らい病予防法]で強制収容された日本人患者に対して、2001年に特別法を制定し、補償をしながらも、小鹿島などがこの法に明示されている13の施設に該当しなかったという理由で、補償を拒否した。

5) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 14:33]

<焦点>日本の裁判所のハンセン者訴訟棄却の背景と展望

(東京=聯合ニュース) イ・ヘヨン・シン・ジホン特派員= 25日、東京地裁の小鹿島のハンセン者の訴訟棄却判決は、日本政府と国会、裁判所の「無関心」と韓国政府の「外交力不在」を余すところなく再確認した事件だ。

日本政府は2001年、熊本地裁がらい病予防法(1996年廃止)による強制隔離規定を違憲と判決するや、その年にハンセン病補償法を制定し、自国のハンセン病罹患者に1人当たり800万~1,400万円ずつを補償した。

しかし、植民地の強占期間に、それぞれ小鹿島と楽生院に強制隔離された韓国と台湾のハンセン者は、対象から除外された。違憲判決の後、わずか1カ月余りで議員立法によってハンセン病補償法が制定されたが、審議過程で「海外」の療養所に対する補償の可否は、ほとんど争点にならなかった。

審議で、当時の坂口力厚生労働相は、「戦争前の韓国におけるハンセン病対策については、具体的な内容を十分に把握できないでいる」とし、「今後検討する」として論点から除外した。

厚生労働省は、立法に基づいて日本内の国立・私立の療養所と米軍占領期間に沖縄に設置された療養所など、自国の施設だけを補償の対象に列挙する告示を公表し、補償の対象を自国のハンセン者に限定した。

韓国政府は、ハンセン病補償法の国会審議と厚生労働省の告示の過程などで、これといった外交力を行使できず、また事実上韓国と日本の良識ある民間人たちの訴訟を見守る立場に留まった。

今回の判決の争点は、この日の小鹿島の裁判が棄却の理由として明らかにした、「法の審議過程などで、外地にある療養所の収容者も補償対象という認識はなかった」という部分だと言える。

原告側は、「日帝治下の施設は日本の天皇の勅令で設立されたのだから、日本の国立ハンセン病療養所に該当する」として、「法は国籍と住居地などの制限規定がない」という主張を展開しながら、普遍的人権に訴えた。
これに対して日本政府は、「ハンセン病補償法は、戦後の日本内の隔離政策の救済を念頭に置いたもの」とし、「戦争後に主権が及ばなかった外国の施設入所者は、補償の対象でない」と反論した。小鹿島の裁判も、このような政府側の主張が立法の趣旨に近いと判断したわけだ。

原告側は、直ちに控訴するという意向を明らかにした。原告側は、小鹿島の裁判とは異なり、補償要求を受け入れた台湾の楽生院の裁判が、「ハンセン病補償法は、施設入所者を幅広く救済するための特別な立法」と解釈したことに注目し、控訴を通じて判決をくつがえすことができると自信を持っている。

しかし、今回の台湾の楽生院の裁判長の場合、異例的な法務省人権擁護局長出身なのに加えて、過去のハンセン氏病関連の訴訟に明るかった人物なので、結果的に台湾側のハンセン病罹患者に有利な判決が下されたという分析もある。

言い換えると、日本政府が楽生院の裁判に抗告し、法の形式論理を重視する2審の裁判官に出会う場合、事態は原点に戻ることもあり得るということだ。韓国側の抗告の展望が必ず明るいだけではないという意味だ。

韓国政府が日本を相手に外交力を発揮しなければならないという声が出てきている。原告の弁護を主導した朴永立弁護士は、「厚生労働省の告示を直せるよう最善を尽くす」と語った。小鹿島の関係者たちは、「政府が積極的に取り組め」と要求した。

6) ***************************
[聯合ニュース 2005/10/25 12:12]

韓国・台湾のハンセン者、訴訟関連日誌

(東京=聯合ニュース) イ・ヘヨン、シン・ジホン特派員= 東京地方裁判所は25日、日帝の植民地時代に韓国の小鹿島と台湾の楽生院に強制収容されたハンセン者たちが、日本政府を相手に提起した訴訟に対して、対立する判決を下した。

次は関連日誌。

▲1907 =日本、「らい病予防に関する件」を制定、患者の隔離政策開始。
▲1916 =朝鮮総督府、小鹿島に慈恵医院を開設。
▲1930 =らい病予防法制定。
▲1934 =小鹿島慈恵医院を小鹿島更生院に改称。
▲1943 =米国で治療薬「プロミン」の効果を発表。
▲2001 = 5月、熊本地方裁判所、「ハンセン病患者の隔離政策は違憲」と判決。
▲2001 = 6月、ハンセン病補償法施行。
▲2003.12~2005.1 =小鹿島更生院、楽生院の前患者、日本の厚生労働省に補償請求。日本政府、棄却。

▲2004.8~2005.2 =小鹿島更生院訴訟提起。
▲2004.12 =台湾の楽生院、訴訟を提起。
▲2005.7.19 =小鹿島更生院訴訟、結審。
▲2005.8.29 =台湾の楽生院訴訟、結審。
▲2005.10.25 =東京地裁の判決。小鹿島更生院、敗訴。台湾楽生院、勝訴。

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2005年10月22日 (土)

「被差別問題」を記述する場合の基本的視点=差別の現実から学ぶということ

 「小鹿島更生園・台湾楽生院の日帝期に隔離収容され、現在もこの施設に居住しておられる方々が、日本政府に対して「補償法」に基づく申請を却下したことに対して、それを不服とする行政訴訟を起こし、その判決が10月25日の東京地裁で裁判長から言い渡される。それに伴って新聞・雑誌・テレビなどのマスメディアの報道記事、さらに「日本植民地下のハンセン病患者の被害事実やその責任」をテーマにした集会が各地で開かれている。そういう私たちも「インターネット」を使用して、「被差別問題」の解決に向けた『滝尾英二的こころ』という「ブログ(Blog)」をつくっている。
そこで、自戒をこめながら「被差別問題」を記述する場合の基本的視点=差別の現実から学ぶということとは何かを考えてみたい。この問題は、「被差別問題」を論じてきた研究生活50年の経験をふり返り、また、この問題を『滝尾英二的こころ』という「ブログ」をつくる者として、避けて通れぬテーマであるからである。

 私は、この50年にわたる研究生活として、念頭に離れられない差別事件として1952年6月に起きた「吉和事件」がある。この事件については、『滝尾英二的こころ』の「滝尾英二・書庫」のなかで「主な著書・論考一覧」として、『戦後における広島県同和教育のあゆみ』(広島県教育研究所、1965年3月)と、『〈人権からみた日本の社会〉と戦後研究者の責任』(人権図書館・広島青丘文庫、1996年8月)をあげることができよう。後著はこの問題を「ハンセン病問題」との関連としても論じてきたし、同著は、金在浩さんの韓国語訳としてその「冊子」がある。
  自著の『戦後における広島県同和教育のあゆみ』は、40年も以前の1965年に書いたものであり、「吉和事件」の項はB5判で8~13ページとわずか6ページしか書いていない。私はそのなかで、つぎのようなことを述べている。

 「‥‥差別者である本人自身は、部落差別をなんとかしてなくようとした行為が、逆に「差別」だとして部落側から、はげしく糾弾されたのである。つまり、同和教育を知らないでやった教師の部落に対する「善意」の種は、とてつもない「差別」として刈り取らなければならなくという教訓を、人びとに示した。吉和事件は、一教師の差別行為が発端になったとしても、その本質は民主主義を具体的に考えず、民主主義という概念のとりことなり、概念に流されていた広島県の教育についての警鐘であったということができる。それは、とりもなおさず、占領下の与えられた民主主義教育に対する、するどい批判でもあった。」(8~9ペ-ジ)。

 この教訓を「小鹿島の問題」として考えると、この問題の記述のなかで考えなければならぬ課題は、つぎの三点ではなかろうかと考えている。
第一は、「歴史認識」、とりわけ「日本植民地統治期の小鹿島の問題」に関わる場合は、「アジア認識」とくに「日本の侵略戦争と植民地支配」に関する正確な認識・知識を持たなくてはならぬという問題である。

 第二は、小鹿島更生園に収容されたハンセン病患者の「被害事実」を強調するだけでなく、それと同時に、その被害の要因と責任は何であったのかを究明し、その責任者を明確にすることである。

 第三は、日本植民地統治期の小鹿島に収容され、非人間的な残虐な仕打ちを受けながらも、収容された人びとは、「誇りうる人間の血は、涸れずにあった」(全国水平社創立「宣言」)ということへの認識である。迫害のあるところには、抵抗があるのだ。それは典型的には、つぎの三つの歴史事実のなかにみることができよう。

 その一は、小鹿島更生園での支配者やその手先に対する積極的な抵抗である。
 1941年6月1日の患者顧問である朴順周を患者・李吉龍が刺殺し、李吉龍は小鹿島の島内にある刑務所で自死している。また、1942年6月20日には、第4代園長・周防正季が、入園患者李春相によって刺殺され、翌年2月19日に李春相はテグ刑務所において死刑が執行された事件である。

 その二は、無教会派の内村鑑三の高弟である金教臣(キムギョシン)は「世の中で一番良いものは聖書と朝鮮」と説き、「朝鮮的キリスト教」を追求した。彼が創刊した『聖書朝鮮』を小鹿島に収容されたハンセン病患者たちは愛読した。そして、1942年3月1日に金教臣が書いた「弔蛙」を契機に、小鹿島のキリスト教徒は警察署に拘留された。こうしたの「信仰の自由」を守り抜いた患者たちもある。

 小鹿島の82歳の男性はいう。「当時入園者には毎日神社の参拝に出ることが強制されていましたが、私はそれがいやで出なかったのです。私はクリスチャンでしたから神社参拝は私の信条に反していました。それがわかって1週間監禁されました。そのとき私はまだ若かったので打たれたけれどあまりひどくはありませんでした。監禁室での食事は、何もくれなかった日もあるし1食だけのときもありました。床はセメントで冬は寒かったです。それ以後は参拝に行くようになりましたがおじぎはしませんでした。見張られていたので、もし見つかればまたやられたと思いますが、見つからないようにしていました」(小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団のホームページ所収)。これも「信仰の自由」を守り抜いたクリスチャンの患者あると考える。

 その三は、小鹿島更生園から、禁を破って「逃走」したおびただしい患者たちである。『昭和十六年小鹿島更生園年報』の「開園以来収容患者ノ転帰及移動別表」の「逃走」数は、官庁統計だけでも、男292名、女20名の計312名に及ぶ(1941年末現在)。これは、室町・戦国時代から江戸時代に至る農民たちの「逃散(ちょうさん)」を思わせる。戦争末期ともなれば、「島から逃走する」患者数は、更に激増する。

 こうした支配者にたいする抵抗・闘争の数々を「被害実態」と共に考えないと慈恵的な対応記事におわってしまうと考える。すでに私は自著のなかに、これらの歴史事実を述べてきた。しかし、自家本である場合が多く、まだ一般には普及されていない。以下、これらに自著を引用しながら、これらの問題について述べててみたいと思う。

 周防正季を刺殺した李春相(イ・スンサン)のことは、拙著『日帝下朝鮮の「癩」に関する資料集、第3輯(下)―小鹿島「癩」療養所と周防正季、〈研究・資料解説編〉』人権図書館・広島青丘文庫、(1996年3月)で詳しく論じてきた(83~90ページ)。その時かいた一節は、いま、韓国ではさかんに唱えられている。

 「‥‥光田の論旨も同じく、周防を『愛の精神をもつ救癩者』、李春相を『凶暴な不良の徒』として記している。
 『伊藤公(伊藤博文)は朝鮮人の為めによく計られたがが、終に「ハルピン」駅頭無知の凶漢安重根の為めに倒れた。周防園長も朝鮮の同胞を善処せしむる為めに渾身の努力を惜しまなかったが、遂に園長の愛の精神を酌む事の出来なかつた一凶漢の為に一命を落とした。』と光田はいう。
 周防正季が伊藤博文なら、朝鮮人「癩」患者にとって安重根である。光田のいう「朝鮮人の為めによく計られた」伊藤博文、「無知の凶漢」安重根という「  」書きの形容詞は許し難いが、「周防正季=伊藤博文」・「李春相=安重根」の対比・構図の光田の意見には、私も同意し賛成である。』(『小鹿島「癩」療養所と周防正季、〈研究・資料解説編〉』、87ページ)」。

 『朝鮮ハンセン病史-日本植民地下の小鹿島(ソロクト)』(未来社、2001年9月)の「Ⅳ『皇室の御仁慈』の意味するもの」の「5、小鹿島更生園長周防正季の刺殺」(266~277ページ)のも、また、『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻、不二出版、(2003年7月)の「資料98~資料104 」(302~421 ページ)にも周防正季を刺殺した李春相のことを解説・資料の掲載をしている。また、韓国のSBS(ソウル放送)は、2003年10月27日の午後7:00~8:00まで、「李春相(イ・スンサン)について」放映し、私もソウルの汝矣島洞(ヨイドン)にあるSBS本社に行き、番組に出演した。

 患者顧問である朴順周を患者・李吉龍については、韓国国内でも余り知られていない。李吉龍のことについては、拙稿『小鹿島「癩」療養所と周防正季、〈研究・資料解説編〉』、82~83ページ)には、つぎのように記述した。

 「(3)『癩』の総親分・朴順周の利用=第三点は、周防が大邱(テグ)の「癩」者の総親分で侠客的人物の朴順周を手なずけ、彼を顧問に据えて利用し、収容患者の、園当局による管理・統制を強化したことである。このことを、中川浩三の記事からみていく。

 『‥‥その一人といふのが昭和十一年(1936年)収容した大邱の男で、その頃大邱にあった癩者の大きなグループの総支配人なのであつた。(中略)『今、朝鮮にどれ位の癩者がゐるだろうか?』と問うと‥‥全鮮の癩者の社会組織と人物とを一々挙げるのであつた。』(注193=中川浩三「更生園の生態」、47ページ、本「資料集」第三輯(上)98ページ参照。『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻、不二出版、(2003年7月)379ページ所収)

 「園長(周防正季=滝尾)はさう語りながら尚つづけた。『大邱の総親分といふのは、前々院長(花井善吉)のとき騒動をやつて一度出された男ですが、これは本当の親分であつた。歳は四十七でしたが、その男がこゝの気分を今日のやうな気風にかへて呉れたともいつてもよい。(中略)実にいゝ男だつたが、去年(1941年)他愛もないことで殺されたのです。(中略)
 その男はもう失明してゐたのです。或る朝のこと、皆の患者が神社参拝に出かけてゐた留守中に、突殺されたゐたのです。調査してみると、或る男の誤解からでしたが――」と園長は愛惜に堪へないといつた表情で、しづかに目を閉じた。」(注194=中川浩三「更生園の生態」、46ページ、本「資料集」第三輯(上)99ページ参照。『植民地下朝鮮におけるハンセン病資料集成』第6巻、不二出版、(2003年7月)380ページ所収)

 「周防のいう「或る男」とは患者・李吉龍のことで、患者代表で顧問・朴順周が看護長佐藤三代次におもねって食糧から一日一人五勺づつの献納、周防園長之像(銅像)の献金等を提唱して患者を苦しめた朴を刺殺した。匕首を手首に包帯で括りつけ、朴順周を刺殺した。六千名の療友の恨みをはらすため、死を賭して決行し、小鹿島に収監され自殺して果てた。(注195=シム・チョンファン著『あゝ、70年』1993年、前掲書、76~77ページ。本「資料集」第三輯(下)36ページ参照。原文は韓国語である。)

 一九四一年六月一日の朴順周刺殺事件である。

 金教臣と小鹿島のハンセン病患者との交流については、最近の諸研究をふまえ、また金教臣全集刊行会編『金教臣全集』全六巻、ソウル図書出版(1975年)発行や、申汀植編『金教臣と「小鹿島」』Plasma Center 1989年4月)などがあるが、「メッセージ」一回分の字数も越えているので、その他の問題を含めて、後日のことにしたい。そのことをお断りしておきたい。
         人権図書館・広島青丘文庫 滝尾英二  (05年10月22日記す)

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2005年10月19日 (水)

『優生保護法』成立・施行・廃止の経緯を考えながらも~

 滝尾英二著『「らい予防法」国賠請求事件の考察』第四集、広島青丘文庫(2000年12月)』発行の冒頭において、原告ら代理人「訴状」に内包する「差別性」について、原告ら訴訟代理人弁護士 徳田靖之 外136名が、1998年7月31日に熊本地方裁判所に提出した「訴状」を批判して、つぎのように論述しました。(拙著の引用文は、長文にわたるので適宜一部語句を省略している。=滝尾、2005年10月)
 原告に依頼された弁護士は「勝訴」するために、あらゆる手段を使うことは認めるが、けれど、そのことが多くの人たちの意識・認識に強い影響をもつことに関しては、慎重であって欲しいと思う。「裁判」だけでなく「政治」「運動」もまた同様である。「小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求訴訟」の進行にあたって、この「訴訟」に当初から関わっていた研究者の私として、いま「優生保護法」の経緯を「滝尾英二的こころ」へのメッセージを書くにあたり、そのことを痛感している。

「優生手術」についての1998年7月に提出された原告弁護団の「訴状」には、つぎのような障害者差別(遺伝病差別)を内包する記述が繰り返し主張されている(傍線は筆者)。

 「1948(昭和23)年、被告国は、ハンセン病が遺伝病でないことを知りながら、ハンセン病患者に対する優生手術を明文で認める『優生保護法』を制定した。
  法制定以前より、施設内において夫婦が子を産み育てることは禁じられており、結婚を許す条件として、事実上の強制的な断種手術が行われ子供を産めなくし、また妊娠した女性には人工妊娠中絶が行われてきた。遺伝ではなく伝染病であるとしながら優生手術を認めることは、明らかな論理矛盾である。収容者は逃げ出さないように療養所に囲い込まれたうえに、人間の『いのち』の精管まで絶たれたのである」。

 「被告国は、ハンセン病は伝染病であり、断種、堕胎が正当化される根拠を欠くことを知悉しながら、女性が妊娠すれば堕胎を実施し、療養所内で結婚を許す条件として、男子の精子管切断手術、女子の卵管結索手術を強制した。医師ではなく看護士や看護婦によってこれら手術を受けた収容者も多数存在する。これにより収容者は自由のみならず、『いのち』をも奪われた」。

 「そもそもハンセン病は遺伝病ではなく、優生政策を合理化し得る合法的根拠を欠いていたのであり、被告国(国会)はこれを知悉していたのである。したがって、非合法下における優生政策を直ちに廃止し、(中略)ハンセン病患者に対する優生保護条項を直ちに廃止すべき義務が(国会の責任として―滝尾)あった」。

 すなわち、「被告国は、ハンセン病が遺伝病でないことを知りながら、ハンセン病患者に対する優生手術を明文で認める『優生保護法』を制定した」とか、「被告国は、ハンセン病は伝染病であり、断種、堕胎が正当化される根拠を欠くことを知悉しながら」優生手術をおこなったとか、「ハンセン病患者対する優生保護条項を直ちに廃止すべき義務があった」とか、さらに、「そもそもハンセン病は遺伝病ではなく、優生政策を合理化し得る合理的根拠を欠いているのであり」などと訴状で主張している。これは、遺伝的疾患による「障害者」を差別する内容を内包した記述である。

 原告ら弁護団が、熊本地裁に提出した「甲第一四号証」の中に和泉真蔵さんの「らいの歴史に学ぶ」がある。その中で和泉さんは、つぎのように発言している(下線は筆者)。世界中に「障害者差別」をばら撒いてはならない。
「全患協のらい予防法問題小委員会が1988年3月に出した改正案では、優生保護法も改正すべきであるとし、『他の遺伝病を対象とした優生保護法にハンセン病を含めることは不当であり削除されたい』と述べられていますが、これは遺伝病患者に対する差別を肯定する考えで危険だと思います。その意味でその後に出てきた案の中では、この要求が抜けているのは好ましいことです。くり返しになりますが、優生保護法のらい条項(前述)ではなく、優生保護法そのものが問題なのであって、らい条項だけを外してくれというかたちで優生保護法の本体を肯定することになるような考えは、とらないほうがいい。らい条項そのものは非常に不合理ですが、むしろ、不良な子孫を残さないために優生手術をするという優生保護法第一条そのものを、問題にすべきだからです」(『エイズに学ぶ』日本評論社89ページ)。

  私はかつて、月刊雑誌『未来』第393号(1999年6月号)で、次のように書いた。
  「戦後の民主主義態勢を標榜する社会のなかで、優生思想が『婦人倶楽部』により、どのような内容をもって国民の中に浸透したかを見ていきたい。戦後間もない1950年12月、『婦人倶楽部』12月号(第30巻・第4号)附録として、『わかり易い問答式・婦人衛生医典』が発刊される。発行所は大日本講談社、100ページばかりの冊子である。そのなかに「優生手術」の項目があり、次のような記述がされている。(『婦人倶楽部』附録の内容は、さきのホームページのメッせージ参照)。

 上記の「和泉発言」と『婦人倶楽部』の附録『わかり易い問答式・婦人衛生医典』の優生手術の記述を思い出した。また、この問題に関連して『生と死の先端医療』(生命操作を考える市民の会編、解放出版社)という本の中での「座談会・先端医療技術と人権」で矢野恵子さん(優生思想を問うネットワーク)の発言の一節を思い浮かべた。それは、次のような内容である。

 「‥‥97年秋、スウェーデンで強制不妊手術がされていたと報道され問題になりましたが、日本でも同じことが優生保護法に基づいて、ついこの間までされていました。厚生省に出された報告だけでも本人の同意によらない強制的な優生手術が16,520件(1949年~94年)にのぼっています。周囲のさまざまなプレッシャーから同意せざるをえなかった遺伝性疾患やハンセン病の人たちの数字はこの中に入っておらず、実際はもっと多いはず。優生保護法にのらない女性障害者への子宮摘出の問題もあります」(184ページ)。

  こう書きながら30余年前、ひとりの在日朝鮮人高校生の怒りのことばを回想する。それは、高校生たちの部落解放集会に生徒とともに出席した時のことであった。被差別部落の生徒のひとりが、部落差別の実態を話し、つづけて、部落起源説のことにふれ、「部落民は帰化人の子孫という説があるが、歴史事実に反している。われわれは、同じ日本人であって差別される理由がないのだ」と発言した。そのとき、在日朝鮮人高校生のひとりが、立ち上って、怒鳴った。「朝鮮人の子孫だったら、差別されてもよいというのか!」。

 それでは、1998年7月時点の「~弁護団」の「優生思想」の意識は、現在、克服されているのか。また、「「ハンセン病問題」は、いまだ終わらず」と題して『飛礫』34号(2002年4月)で書いた緒方直人さんのことは、栗原彬編『証言 水俣病』岩波新書などで、読んで知っていたが、この度、『チッソは私であった』という書名で、葦書房から単行本で発刊され(2001年10月)、大いに考えさせられた。緒方直人さんは、著書のなかで次のように書いている。

 「加害責任」に対して被害者の側から「救済」が要求され、それを支える「支援運動」があり、どうも「救済の権利」という捉え方(中略)が当事者、本人である被害者・患者たちより、ひまわりのバッチをつけた弁護士という人たちが幅をきかして、‥‥当事者同士が顔を合わせて思いをぶつけるとか訴えるというより、裁判や認定制度、行政不服審査請求、(中略)そうした仕組みの中の水俣病になってしまったのではないかという危惧を強く持ちました。(46ページ)」という。「水俣病」を「小鹿島補償請求訴訟」と置き換えて考えると、そのことを具体的に現わしていると思う。

 「ハンセン病の国賠訴訟の判決を聞き、政府による控訴断念の知らせを支援者らと勝ち取った瞬間から、在日としての戦いが始まった。優生思想を問うたハンセン病回復者への差別問題は、旧植民地を排除し、日本国内にいて声を上げたものだけを救済するという新たな自民族的優生思想を作り出した。日本人だから助けるのではなく、日本の国家犯罪による被害者を救う思想と政治体制にしていかなくてはならない」と辛淑玉さんはいう。

 なぜ、「今度は、ソロクトと楽生院の裁判で勝利して、この勝利の喜びをみんなと共有したいと思います。この裁判に勝てばすべてが解決するわけではありません。ひとりひとりの原告の補償を勝ち取る課題、定着村からの補償請求を成功させる課題、韓国や台湾でも人権回復を進めていく課題。課題は山積しています。しかし、この裁判に勝利しなければ出発はありません。」と「ソロクト訴訟弁護団」代表兼事務局長・国宗直子弁護士はいう。他方で、「けれど、残念ながら裁判には負けることもあります。そのときには、またその時点で仕切り直しをするしかありません。それはとても困難な出発になるでしょう」とも国宗弁護士は書いている。

 ハンセン病歴者、およびその子孫は韓国各地に散在し、おそらく小鹿島在住の「原告」117名は日帝時代に隔離された人たちで、その後の小鹿島に隔離された患者の方で、いまも小鹿島にいらっしゃる病歴者の方がたが数百名もおられる。しかし、これは解放後に小鹿島に収容された方がたである。また、ハンセン病歴者中、小鹿島に在住されているのは推定であるが、数パーセントであり、大多数の方がたは在宅して保健所や小鹿島病院以外の病院などで外来治療を受けている。しかも、韓国政府も大韓弁護士協会も、さらにはハンセン病差別を受けている当事者もその支援団体も報道機関も、韓国の「ハンセン病問題」をなくする取り組み、闘いがすでに始まっている。
 それなのに、「この裁判勝利しなければ出発はありません」と国宗弁護士(「ソロクト訴訟」弁護団代表兼事務局長)はいう。なぜ「日本の裁判所の判決が勝利しなければ出発」ができないのか、私にはその意味することが、理解できない。
 しかも「その判決の前夜集会」に2001年5月の旧・植民地の人たちを排除した日本在住者だけの情況・心持ちをモチーフとする「控訴断念」のうたである『五月の街』を宮里新一氏が歌うという。それを「小鹿島更生園・台湾楽生院判決の前夜集会」のイベントとするのは不適切である。
 この『五月の街』のどこに、例えば「ソロクト原告」とどう関わりがあるのかというのだろう。まさに「日本の植民地支配下のハンセン病問題」を忘却して「美酒に酔う」日本人の「不マジメさ」のあらわれに過ぎない。またそれは、思い上がった「謝罪」を忘れた「日本人の民族優生思想」に他ならない。
 「小鹿島更生園・台湾楽生院判決の前夜集会」に各地から多くの人たちが参加していただきたいと私は思う。私も健康が許せば、この集会に参加したい。しかし、このイベント内容の持ち方には、「異議」がある。私は、イベントの持ち方に異議を述べているに過ぎない。「前夜集会」は成功裏に終り、翌日の「判決」を待ちたいと思う。

 或る「滝尾英二的こころ」の読者から、つぎのようなメールをいただいた。それを紹介したいと思う。

 『‥‥「優生思想」は医学の分野だけの問題にとどまらず「優勝劣敗」「弱肉強食」の思想であり人種差別の根幹であり侵略の根本思想だと思います。現在、それが「新自由主義」というかたちで、もてはやされているように思います。「新自由主義」にもとづく典型的な法制が、この臨時国家で成立しそうな「障害者自立支援法」で、「働けず金のない障害者は社会のお荷物だ」、また改悪された「介護保険法」も「高齢者は早くいなくなってしまえ」という国家権力の意図がみえみえです。法律にとどまらず、この思想はわたしたちの社会に「あたりまえ」のように浸透してきていて、これがとても怖いのです。ですから、差別構造を打ち固める「優生思想」がいかに反人民的思想であるかについて無関心、無頓着であってはいけないと思っています。「優生思想」批判のない人民連帯はありえないでしょう‥‥。』

 「歴史は、現在と過去との対話である。」とE.H.カーは、『歴史とは何か』(岩波新書)の中で幾度も繰り返している。
 司法の場でも、「たとえ小さきものでも、弱くても、多くなくても、声を大きくしなくとも、正しい主張であれば勝てるという裁判は出来ないものか」と、いましきりに思っている。「原告勝訴」後の現在の小泉政権のもとで、控訴断念を勝ち取ることは容易でないと思う。「優生思想」を論じるにあたり、あと6日ごに迫る「東京地裁」判決を前に、「原告の勝訴」判決が出されることをせつに祈り、また、「勝訴」して政府が控訴断念することをせつに思う。しかし、いまの「小泉政権のもと」では、このことは容易ではなかろう。
 「優生思想の今について」「滝尾英二的こころ」のメッセージに書いている私としての「所感」の一端を書いてみた。読者の方がたのご意見・ご批判をお待ちしている。

   人権図書館・広島青丘文庫 主宰 滝 尾 英 二 (2005年10月19日・記す)

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2005年10月17日 (月)

『婦人倶楽部』にみられる優生思想、ハンセン病に関する記述について

 大衆女性雑誌である『婦人倶楽部』や大衆綜合雑誌である『キング』が、優生思想、ハンセン病をどのように記述しているかは、毎日発刊される各『新聞』の記事と同じく、民衆の意識形成の上で果たす役割りは多い。ところが、国立国会図書館にも『婦人倶楽部』の附録は破棄されて、蒐集されていない。

 『婦人倶楽部(くらぶ)』(講談社)の創刊は、1920年1月である。はじめに、1948年7月13日に優生保護法が公布され、人工妊娠中絶等の条件が緩和されるのであるが、そこが問題点である。まず、優生保護法公布直後に講談社から発刊された1949年12月号『婦人倶楽部』臨時増刊・附録「わかり易い問答式・婦人衛生医学」(医学博士・安井修□編)に掲載されている「優生法」、「避妊手術」、「優生手術」の3項目の記述うち、それに関する私の見解を述べてみたい。

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 「優 生 法」=資料①
 問 私は五人の子供があります。これ以上子供ができては経済的にやつていけません。二ヶ月ほど月経が滞つて妊娠したらしいのです。どうしたら流産して貰えましょうか。
 答 まずあなたが実際に妊娠しているかどうかを診察して貰つて決定せねばなりません。その上で人工妊娠中絶の問題が考えられるのであります。先年制定せらました優生保護法の第十三条に次のような項があります。
 「現に数人の子を有している者が更に妊娠し、かつ分娩によつて母体の健康を著しく害する虞れのあるもの、という場合に指定医師は人工妊娠中絶を行うことが母性保護上必要であると認めた時は、本人および配偶の同意を得て地区優生保護委員会に対し、人工妊娠 中絶を行うことの適否に関する審査を申請することができろ」というのであります。
 実際にあなたの家計が苦しく、これ以上子供がふえては健康に害があるということは地区の民生委員に、収入と支出、家族の状態の証明をして貰い、これを参考として医師が母体の健康を害すると認めた時には指定医から人工妊娠中絶の可否の審査を願い出ます。大抵は七日間ぐらいで可否の決定があります。もし許可されれば直ちに中絶ができます。また不起訴の時にはふたたゝび審査を願うこともできます。

 「避 妊 手 術」 =資料②
 問 私は子供が三人あるのです。これ以上子供ができては生活も困るし、子供の教育もできません。絶対に子供のできないようにして貰いたいのですが、簡単にできるでしょうか。また後になって悪い結果となることはないでしょうか。手術をすゝめる方ととめる方とがあつて迷つています。お教えを乞います。
 答 あなたの質問は、すでに三人の子供があるから、害がなければ絶対不妊になる手術を希望しておられるということにあります。これに対するお答えは、不妊手術の危険性の有無と不妊手術をして後の故障の有無とであります。
 不妊手術には開腹手術と、膣から腹腔を開く手術と二通りあります。近頃は手術の危険性は非常に少なくなつており、ことに膣式の手術では生命に対する危険は甚だ少ないには明らかでありますが、私は、手術というものはどうしても行わねばならぬ場合にはけつして躊躇なく行うべきもので、勇気もなければなりませんが、絶対に必要という場合でないかぎり手術はなるべくさけるべきものと信じます。手術には極めてまれとはいえ麻酔の危険性もあり、また特異体質として突発死を来すこともあり、手術後の肺炎、心臓衰弱、感染、皮膚粘膜などの瘢痕など、けっして無障碍ということはできないのであります。
したがつて稀有とはいえ不妊手術には危険を伴なうことがあり得るといえるのであります。
 また不妊手術はあなたの場合絶対に必要かと申しますと、けつしてそうではありません。
 不妊手術をしなくとも受胎調節は完全にでき得るのであります。
また、すでに三人の子供があるといわれますが、将来何かの機会に子供を生む必要ができた時に、もし不妊手術をしておれば絶対に子供を得ることは望めないのであります。
更に不妊手術をして癒着のため下腹痛を訴えたり、性交時の苦痛を訴えたりする人を沢山見ております。ことにこの障碍は膣式に手術を受けた人に多いと思われます。この点は不妊手術を受ける人は勿論、手術をする医師も十分考えねばならぬ問題だと思います。
最後に私の知つている患者の中には、不妊手術をした直後は安心感で性的感覚がよいが、一年二年とたつうちに性的不感症に傾き、かえつてヒステリーのようになつたり、あるいはむしろ精神障碍と思われる人があつて、ふたゝび妊娠のできるようにしてくれと望むなど、種々(いろいろ=ルビ)の精神的の故障を認めるのであります。
以上述べましたことを要約すれば、子供があつて最早妊娠を欲しないという人は、進んで受胎調節すなわち種々の方法で避妊を行うべきと(20字、読めず=滝尾)します。

 「優 生 手 術」=資料③
 問 私の夫は結婚後軽い精神分裂症という病気にかゝりましたが、治療して現在はすつかり全快しています。この病気は子孫に遺伝するそうですから、私は妊娠して子供を作りたくありません。どうすればよいでしようか。
 答 精神分裂症という病気は遺伝性の病気の一つであります。一国の文化を向上させ、立派な国民が出来上つていくためには悪質の遺伝性疾患は消滅させることが国家にとつても社会にとつても、また各家庭にとつても最も大切であります。しかしなかなかその理屈を理解して、自から進んでその子孫を残したくないという人はまれであります。あなたのお考えは尊敬すべきお考えであると存知ます。
あなたの場合は、御主人が精神病でありますから、必ずしもあなたが不妊手術を受けなくとも御主人の不妊手術で十分であり、むしろその方が望ましいのであります。
 男子の不妊手術は女子の場合よりもはるかに簡単であり、危険性も少なく、かつ後遺症も少ないのであります。それは両側の鼠蹊部をの皮膚を少し切開して鼠蹊部を通つている輸精管を結紮すればよいのであつて、開腹術でみなく、局所麻酔で容易にできるものであります。
 こうすることによつて御主人は最早あなたに対しても、また他のいかなる女性に対しても妊娠させることはないのであつて、全く優生法の精神に合致するのであります。
 参考までに優生保護法の中の第二章、優生手術の一部を適録してみます。
第三条  医師は左の各号の一に該当する者に対して本人の同意並びに配偶者(届出をしないが事実上婚姻関係と同様な事情にある者を含む以下同じ)があるときはその同意を得て、任意に優生手術を行うことができる。ただし未成年者、精神病者又は精神薄弱者については、この限りでない。
 一、 本人または配偶者が遺伝性精神変質症、遺伝性病的性格、遺伝性身体疾患または遺伝性畸形を有するもの。
 二、 本人または配偶者の四親等以内の血族関係にある者が遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱、遺伝性精神変質症、遺伝性病的性格、遺伝性身体疾患または遺伝性畸形を有し、かつ子孫にこれが遺伝する虞れのあるもの。
 三、本人または配偶者が癩疾患にかゝり、かつ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの。
 四、妊娠または分娩が母体の生命に危険をおよぼす虞れのあるもの。
 五、現に数人の子を有し、かつ分娩ことに母体の健康を著しく低下する虞れのあるもの。
 前項の同意は配偶者が知れないとき、またはその意思を表示することができない時は本人の同意だけでたりる。
 以上のように優生保護法では、優生上の見地から不良な子孫の出生するのを防ぐとともに母体の生命、健康を保護することを目的としているのであります。

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 これが、講談社から発刊された1949年12月号『婦人倶楽部』臨時増刊・附録「わかり易い問答式・婦人衛生医学」(医学博士・安井修□編)に掲載されている「優生法」、「避妊手術」、「優生手術」の3項目の記述である。
 講談社発行『婦人倶楽部』1936年7月号、附録『診断・療法 家庭大医典』が発行され、その中で、東京帝国大学医学部長・医学博士永井 潜が「遺伝と優生結」を担当し、執筆している。そのことは、拙著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社(2001年9月)の「『優生思想』とハンセン病」198~212ページに書いている。
さらに、『婦人倶楽部』から私が収集したものから「優生思想」に感する記事を通して、民衆のなかに「優生思想」がどのようにして浸透していったかを今後とも明らかにしていきたい。「滝尾的こころ」の1回の「メッセージ」の紙数には制約があるので、取りあえず第1回分として、これを訪問者に届けようと思う。

 法学博士・小泉英一は『堕胎罪の研究』敬文堂(1965年12月再版)発行の229~230ページのなかで述べられているように、参議院厚生委員会における「優生保護法」の提案理由として、提案者・谷口弥三郎はつぎのように説明している。
 「‥‥第三の対象として考えられることは、産児制限問題であります。併しこれは余程注意せんと、子供の将来を考えるような比較的優秀な階級の人々が普通産児制限を行い、無自覚者や低脳者などはこれを行わぬために、国民の素質低下即ち民族の逆淘汰が現われて来る虞れがあります。現に我国においては既に逆淘汰の傾向が現われ始めておるのであります。(中略)従ってかかる先天性の遺伝病者の出生を抑制することが、国民の急速なる増加を防ぐ上からも、亦民族の逆淘汰を防止する点からいっても、極めて必要であると思いますので、ここに優生保護法を提出した次第であります云々」(1948年6月19日、第2回国会参議院厚生委員会会議録第13号『官報』参照)。

 私は、「優生保護法」の提案者である谷口弥三郎の提案理由説明を読んで慄然とせざるを得なかった。
 この1948年7月13日、法律第156号を以って公布され、同年9月11日から実施となった「優生保護法」は、その後、「成立後数回の改正が行われたが、人工中絶に関して重要なのは、
昭和24年6月24日(1929年)法律第216号(第1次改正)
昭和27年5月17日(1952年)法律第141号(第2次改正)
で、その他の法律改正に伴っての字句の改正などが主なものである。」(太田典礼著『堕胎禁止と優生保護法』経営者科学協会(1967年5月)発行、175ページ)。

 私は、「優生保護法」が公布された1948年7月から廃止された1996年6月までの経緯を追おうと思う。そのなかで「らい予防法見直し検討会」議事録(厚生省保健医療局エイズ結核感染症課・発行)で、この「優生保護法」のことがどのように検討されたのか。またさらに、はたして『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』日弁連法務研究財団、2005年3月発行の「日本におけるハンセン病政策と優生政策」について記述に問題はなかったかについての考察も行ないたい。
 「滝尾英二的こころ」のメッセージ欄において、引き続きこの「優生思想・『優生保護法』の問題」を論じていきたいと考えている。

          (人権図書館・広島青丘文庫 滝尾英二、05年10月16日記す)

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2005年10月14日 (金)

「ミクロネシアの四箇所のハンセン病収容所」へハンセン病患者を隔離収容した日本政府の責任とその謝罪を求める!

 「ミクロネシアのハンセン病療養所(4箇所)」の南洋庁=国立ハンセン病収容所の設立と「ハンセン病に関する問題の検証会議の最終報告文」に対する批判文と「滝尾の提言」を一万二千字に纏めました。今年3月初旬に「ハンセン病問題の検証会議」へ、送信しました。

 日本人の「ミクロネシアの認識」が、ハンセン病問題=隔離収容の植民地支配の責任を、最底辺に置かれたミクロネシアの島民をまたもや無視・軽視した日本人の社会認識・歴史認識の問題です。すなわち、侵略戦争の全体像が、日本人の「人権問題を主張する」関係者の間にも、このミクロネシアの問題を無視し、また軽視している現実が存在している以上、日本国内、台湾、朝鮮の人たちの人権も、同じく無視され、軽視されるでしょう。

 『飛礫』47号(夏季号)=2005年7月発刊は、この問題を重要な課題として取り上げてくれ私の原稿=「日本の植民地支配下にあったミクロネシアのハンセン病隔離政策の被害と国家責任」を掲載しましたが、他の新聞や放送などマスコミ関係者は、ほとんどそのことに関心を示しませんでした。
 この問題を「~検証会議最終報告書」も無視同様に軽視・無視した扱いに終始しました。そして8月に、戦後60年として、内閣官房や宮内庁がミクロネシアなどへの天皇・皇后の太平洋の戦没者の「慰霊の旅」を計画し、それを実行しました。もちろん、天皇・皇后のミクロネシア住民のハンセン病患者への隔離政策の被害者への謝罪もありませんでした。

 「戦死者への慰霊」の前にしなければならないことは、日本の植民地統治下のあり、かつ、最底辺に置かれ、「第3国民」の名の下に置かれたミクロネシアの島民への謝罪ではないでしょうか。ハンセン病問題の提議も、我々研究者も含めて、市民(=民衆)運動をすすめている方がたにしても、「ミクロネシアの認識」に欠き、きわめて無関心で、それは差別的だと思います。また、「無行為」の罪が「サイパン」島を始めとする「南洋庁」という日本国家の犯罪的行為が、いま無視されようとしています。
 私たち歴史研究者を含めて、報道機関、法曹界、国会、行政関係者などは、この問題に取り組む必要があると確信しています。
 皆さん、この問題をどのようにお考えでしょうか。参考までに、「ソロクト弁護団」のT弁護士に宛てた私の、本年3月3日の「書簡」を付記しておきます。  10月14日(金)  滝尾 英二

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T弁護士さま

 わたしの父親も(潜水艦に乗っていて)、1944年に太平洋のトラック諸島で、T弁護士さんのお父上同様、戦死しました。わたしの父親の戦死は、わたしが小学校6年生の時でした。
 だから、心情的には、戦争死亡者の「慰霊のこと」は、わたしも充分に分かっているつもりです。
 しかし、まず日本人がしなければならないことは、太平洋の諸島を植民地化し、軍事基地(特に、海軍の)化してミクロネシアの住民を植民地支配し、また、鉱産資源や漁業資源をとるために、日本人(沖縄県民が多かったと書かれています)が、それに、朝鮮人が「第2国民」として、数多く「南洋に移民」します。

 そして、ミクロネシアの島々の住民は、「第3国民」として、最底辺の生活と蔑視のなかで、生活を余儀しなければなりませんでした。
 ミクロネシアの四箇所のハンセン病収容所を「南洋庁」が、1922年につくり、ハンセン病は「伝染しない」とするミクロネシアの人々から、「近代医学」と「皇室の御仁慈」のもとに、諸島のハンセン病患者を強制収容したというは、極めて重要な事実です。

 その「典型」が、ミクロネシアのハンセン病患者に対する日本国家権力=「南洋庁」です。「南洋庁」は、1922年3月の「勅令」を以って公布された官制で、南洋庁長官が、政府の指揮監督をうけて、島民を管理し、ハンセン病政策も行なわれ、「ハンセン病を伝染病」だと信じていないミクロネシア諸島のハンセン病のひとたちをハンセン病収容所に強制隔離したのです。
 その点、1922年3月に起きた別府的ケ浜事件のあった「サンカ」の人たちがハンセン病患者と生活を共にした集落を形成し、また、熊本県のある村では、同集落の自宅の別棟に住むことを、集落の皆が黙認していました。

 ハンセン病は、そんなに伝染しないものということを経験上知っていたからです。それが、近代医学の名の下で、ハンセン病は「強烈な伝染病」だとして、ミクロネシアでも、「南洋庁」は粗末な収容所に隔離し、その上に食糧代まで、本人やその縁故者まで請求しているという事実です。
 この「南洋庁」のハンセン病「療養所」も、まぎれもない日本の国が設立した施設です。ここでも、「皇室の御仁慈」を強調して、恩賜法人慈恵会が活躍している事実です。戦争死亡者の「慰霊」の前に、ミクロネシアの人々への国としての「謝罪」がなくては、なりません。

 弁護団がこのミクロネシアのハンセン病問題を、取り上げるには、重たすぎます。この問題は、日本政府自身が調査すべき内容だと思います。しかし、日本のハンセン病政策が及ぼした犯罪的行為を一日本人=「人権を考え」また、ハンセン病問題を考えていった研究者、法曹界、医師会、マスコミなどのみんなで、共同責任として、考えること、そのことが、T弁護士さんがおっしゃるように、わたしも絶対に必要だと思います。それは、まさにストレートに、日本のハンセン病政策が、非人間的で残忍であった左証であるからです。

 サイパン島のハンセン病収容所に強制収容されたハンセン病患者は、日本軍か、USA軍かによって、すべて殺戮されていると思います。
 この戦闘も、日本もUSAも、ミクロネシアを軍事基地として、要塞化し、また、USA軍は航空基地として、日本の各都市を空爆したB29爆撃機の施設をつくるための戦いであり、その犠牲者でした。この事実を日本政府は調査し、ミクロネシアには、生き残り証人がまだ、いる可能性があり、また、USAの資料施設などで、サイパン島を含むハンセン病患者やその施設のことが、書き残されている資料が保存されている可能性があるからです。

 わたしと違い、人権問題では知り合いの多いT弁護士さんです。
 ぜひ、この問題を植民地支配と戦争の悲惨さを知っているわたしたち世代が未だ生存しているうちに、明らかにしておきたいと思います。繰り返しますが、この4箇所の「南洋庁」=日本国家権力が国策として、国立のハンセン病患者を収容し、最底辺の仕打ちをした事実を知っている島の人たちが、きっと生存されているはずです。
 USAの資料の中に、あるいは記録として、残されていることも想像されます。草の根を分けても、この事実を明らかにすることが、後少ないわたしたちの義務であり、日本人の謝罪の行為をしなければならないはずです。

 日本国内、それから沖縄、朝鮮、台湾とだんだん国の非道な政策が人々に知られつつあり、韓国まで拡がりつつあります。
 日本による植民地支配に抵抗した人々の3・1独立記念式典で、韓国のノムヒョン(盧武鉉)大統領は、「日本政府は、植民地支配への謝罪と賠償検討を」という内容の演説をしています。これは、朴燦運弁護士(最近、韓国のハンセン病問題を担当する人権政策局の局長になられました)ら大韓弁護士協会の活動も寄与していると思います。こうして、国のワクや思想信条、職業などのワクを越えて、この「人権の問題」を共に考え、行動することが大切だと考えています。

 今後とも、よろしくお願いいたします。

    2005年3月3日     人権図書館・広島青丘文庫  滝尾英二より

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2005年10月11日 (火)

「滝尾英二的こころ」の愛読者の皆さまへ

 今度のソロクト訴訟裁判は、1998年7月31日の熊本地裁提訴と基本的に異なる点は、どうして韓国政府を動かし、それを通して「韓国」の人たちに「ハンセン病問題」=解放後以後もつづいた、そして今なおハンセン病歴者とその家族・縁族が受けている差別と偏見を除去するかの問題です。

 日本の場合と、韓国の場合と事情が異なるのは、韓国の場合は1960年代の初めに「定着村」が出来、また軍事政権下で「ソロクト」のハンセン病歴者の面倒を国家がよう見切れないとして、結婚したければ「定着村」か、故郷・縁者のところで生活せよという政策を実施しました。ハンセン病政策を基本的に持たないまま、軍事政権は、ソロクトの島からハンセン病患者や病歴者を放り出したわけです。

 したがって、日本と異なり外に放り出され差別と偏見に苦しめられながら、結婚して子供を産み育て、その子供がまた子供を産み育てています。日本の大谷藤郎らがやった「経済的隔離収容政策」は、韓国では取りませんでした。ここが日本と違う点です。日本では今なお13のハンセン病療養所に、「社会復帰」する条件がとられないまま、施設内に「隔離」して行ったのですが、韓国ではそれをしなかった。しかし、施設外の社会では今でも「定着村」の子供たちの中には、一般の学校に入れないという深刻な社会差別にあっています。日本でいえば、「黒髪小学校入学拒否事件」のよなことが頻発しているわけです。
 そのことは、『飛礫』45号の朴燦運弁護士(現・人権政策局長)や、『飛礫』48号の林斗成ハンピッ福祉協会会長の報告をご覧になれば分かります。

 だから、ソロクト裁判は日帝期のソロクトの117名の補償の問題で、それは植民地支配と侵略戦争の国家謝罪とその償いを日本政府に迫る「戦後責任」を抜いてしまえば、意味の少ないものとなってきます。したがって日本国内にある自国民中心意識=「歴史認識」の変革が重要となってきます。

 「ハンセン病問題の最終解決を進める国会議員懇談会」に、本年5月23日に出席した朴永立(パク・ヨンリップ)大韓弁護士会「ソロクト弁護団長」の挨拶は、「この訴訟によって、それまで陰のハンセン病人権問題に光が当たった。国会も国家人権委員会も、ハンセン病人権問題の調査を開始した。ソロクト訴訟は、高齢者にとって生き甲斐であり、生きる目的でもある。熊本判決が、日本のハンセン病問題解決の糸口となったように、ソロクト判決が韓国の同問題解決につながるはずだ」と述べています。

 だから私は訴えている。――「同情ではなく、事実が何か、だれに責任があるかが重要だ。補償にはきちんとした謝罪が伴うべきだ」と。(『朝日新聞』2004.9.3夕刊「ぴーぷる」より)。

 日本国がソロクトの原告には法の適用がされないと決定したが、日本本国とソロクトを区別する正当な理由があるのかどうか。同じ政策をとっていたのだから、同じ補償をすべきではないか。正当な理由、根拠なしに区別するのは差別である。

 日本の場合は、現在の「ハンセン病問題」=生活保障や医療保障など、また教育・「啓発」の問題は日本政府の課題ですが、韓国の場合は、韓国政府の課題となります。

 「ハンセン病問題」は、ハンセン病歴者の子孫がたくさん現存する韓国と、「断種・人工妊娠中絶=堕胎」、さらには「13の療養所への経済的隔離」の結果、ハンセン病歴者は、殆んど子孫がいない日本と異なり、韓国の場合、その子孫がたくさん各地に在住し、韓国社会のなかに依然としてハンセン病差別・偏見があり、その差別・偏見を直接に受けています。だから、このままだと現実のハンセン病問題の解決は、長期化します。このことを日本の私たちは関心をもたなくてはならないと思っています。

 「滝尾英二的こころ」が、日本に止まらず韓国・台湾(中国)にも影響して始めて、本質的な作成目的が達成されます。韓国語で「滝尾英二的こころ」を掲示している意味も、大きな目的は、韓国政府や韓国(朝鮮民主主義人民共和国を含めて)に影響を与えるかどうかが、問われており、日本で完結とはいかないのです。

 そこのところが、ソロクト弁護団や日本の支援者は分かっていないようです。アジア認識、歴史認識がぬけおちているのです。だから、「小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求裁判」代表兼事務局長・国宗弁護士にみられるような「自国民中心意識」ばかりがの目立つ行為になってきます。結局、朝鮮など旧・日本の植民地統治下での「ハンセン病裁判」が、何を目的にしているかが分からず、「ソロクト弁護団」の弁護士が、補償金の1割の弁護料が入るかどうかが、弁護団の「正義」の価値評価だといわれている裁判となってしまっているように思います。だから「被害論」だけが先行する訴訟・裁判となり、その「責任の所在」の追及が疎かになってきています。

 「ソロクト弁護団」は、当初の「事始(ことはじめ)」のことを忘れてきています。そこが、はやくからソロクトに関わった「チャムギル」などの考えと、「日本のソロクト弁護団」と間に亀裂が出来てきた要因だと思います。 皆さまからのご意見をお聞かせ下さい。

 再度、10月9日の私のメッセージも併せてお読みいただければ幸いです。

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2005年10月 9日 (日)

人民、民衆という言葉(=内容)の「復権」を願う。―「国民」「住民」という概念で民衆たちを捉えることの問題点について

 昨日(10月8日9の『朝日新聞(大阪本社版)』の朝刊をみて愕然とした。その一面には4段抜きで「憲法前文に『愛国心』自民草案」の見出しで、「自民党新憲法起草委員会(委員長・森喜朗前首相)が今月末にまとめる党新憲法草案のうち、前文原案の骨格が7日、明らかになった。『国を愛する国民の努力によって国の独立を守る』との文言で、愛国心や自主防衛の考えをにじませた」云々という記事が書かれている。
 最近、送られてきた『飛礫』48号・秋季号(最新号)は、「国民保護法態勢とは何か」を特集とし、その中で4編の論文を掲載している。「滝尾英二的こころ」の読者はこの『飛礫』48号を読んでいただきたいと思う。
 昨年6月公布、9月施行の国民保護法(「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に基づいて、その後、朝鮮民主主義人民共和国を仮想敵国とした軍・官・民一体の軍事訓練が全国各地の自治体で行なわれようとしていることである。この場合、「国民保護」というが、「国民」とはだれを指すのか、そして「国民」に政府・各自治体は何を要求するのかという疑問がわいてくる。
 「私たちはふたたび朝鮮への侵略者、加害者にされるのだ」と吉田宗弘さんは、『飛礫』48号で述べ、さらに「‥‥民族排外主義が、侵略戦争と植民地支配の反省のない日本人をとらえるにちがいない。そしてそれは、日本の官憲と民衆が6000人もの朝鮮人を虐殺した関東大震災(1923年9月)の再現に行き着くかもしれない」と警告している(『飛礫』48号、8ページ)。

 吉田宗弘さんの問いに私たちはどう答えたか。今年9月11日の総選挙で自民党を大勝させ、その自民党の「新憲法起草委員会」は、「憲法前文に『愛国心』」をうち出した。支配階級と基本的に対立するはずの「国民」は、その自民党を大勝さすことを選んでしまったのだ。

 そこで、「国民」とは何かを基本に立ち返り考え直す必要があるように思えてくる。私は敗戦直後の学校教育で、「民主主義政治」とは、A・リンカーンアメリカ合衆国第16代大統領が「人民の人民による人民のための政治」という民主主義の理念を教わってきた。「国民」ではなく「人民」である。また、学生時代は、好んで「人民」とか「民衆」という言葉を口にするようになった。
 「V NARODO」(人民のなかへ!)とか、「民衆の旗赤旗は 戦死の屍を包む」(赤旗の歌)とか、「人民解放戦線の 前衛 われら労働者」(晴れた五月)、「踏みにじられし民衆に 命を君は捧げぬ」(同志はたおれぬ)などの歌を好むようになった。
 しかし、こうした「人民」とか「民衆」とかの言葉は次第に聞かれなくなり、革新政党まで「国民政党」と自党を呼ぶようになってきた。もはや「人民」「民衆」は使わず、「国民」「住民」「市民」という言葉が氾濫していくようになった。

 昨日(10月8日)にも書いた「菜の花法律事務所」の『菜の花だより』第3号(本年4月1日発行)で発行者の国宗直子弁護士は「ハンセン病『韓国=ソロクト』『台湾=楽生院』問題特集」の記事のなかで、つぎのように書いている。

 「皆さんへのお願い」として、「この裁判は、ハンセン病の補償から取り残されている人たちへの補償を実現しようとするものです。国賠訴訟のときに広範な国民の声が国を動かしたように、再度たくさんの方がこの裁判を支援してくださることが、解決への道を開きます。」

という「広範な国民の声が国を動かした」という「国民」とは何を指すのか聞きたいと思う。私は高校の教員時代に在日朝鮮人の生徒たちが、大学進学(特に国公立大学の受験資格)や就職の際、その条件として「日本国籍を有する者」という差別に悩まされ、それと闘ってきた経験をもつ。さらに国は「朝鮮民族学校」を学校教育法でいう一条校として、認めていない。また、日本に居住し、国や都道府県や市町村に税金を払っていても、選挙権は与えられていない。

 そして国宗弁護士がいうことに「国民」を「人たち」と置き換えれば、「国賠訴訟のときに広範な人たちの声が国を動かした」ことを私はよく知っている。だから国宗弁護士に問いたい。
 あなたのいう「国民」とは、国賠訴訟のとき闘った「日本国籍を有しない」人びと、例えば「国賠訴訟を闘った」在日朝鮮人で「日本国籍を有しない人たち」を「国民」としているのか、または、「日本国籍を有しない人たち」は国賠訴訟を闘わなかったというのか。しかし、それは歴史的事実に反する。
 だから、国宗弁護士に問うのであるが、「国民」という概念をどのように捉えているのかと。これは「歴史認識」を問う基本的な問題である。

 本年4月13日、ソロクト第4回口頭弁論が東京地裁で開かれ、その後、夕方18時から「その報告集会」が弁護士会館で開かれた。席上、徳田靖之弁護士は、つぎのように述べたという。

 「自国民中心主義からの脱却を」として徳田弁護士が今回の訴訟を通して考えていく必要があることとして次の3点を述べられました。「まず第1にこの裁判を通じて歴史的事実を明らかにしなくてはならないということ。第2にこの裁判を通して,私たちの国や,私たちの中にある,自国民中心主義を問い直さなくてはならないということ。第3にこの訴訟を韓国・台湾・日本のハンセン病に対する偏見・差別を一掃する第1歩としなくてはならない,ということです。この訴訟は私たちに人権とは何なのかという問いを私たちに突きつけています。私たちは熱意と信念をもってこの問いに取り組んでいかなくてはならないのです。」

 それなら徳田弁護士に問いたい。
 「菜の花法律事務所」の『菜の花だより』第3号(本年4月1日発行)でいう「平成17年4月1日」発行と「天皇暦の元号」を書き、「~国賠訴訟のときに広範な国民の声が国を動かした」と「国民」との表記をし、小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団の公式ホームページに、日本政府が、植民地の人たちに改名を強制した事実を現在もなお「日本名=政子」「日本名=菊子」「日本名=玄二」と書いていることも、それは弁護団のなかにある「自国民中心主義」の意識ではないのかということである。
 このように考えると、「国民」中心意識からの脱却のため、もう一度、かつての「人民」「民衆」という言葉(=内容)の「復権」を考えなければならない時期に来ているように思えてくる。

 「自国民中心主義」の意識は言葉の問題ではないと言われれば、それまでだが、私には良い考えがうかばない。「始めに言葉ありき」と『聖書』には書かれているという。私は無神教徒ではあるが、この『聖書』の言葉を信じて、これから生きつづけたいと思う。これは「愚考」だろうか。

                   (05年10月9日、滝尾英二記す)

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2005年10月 8日 (土)

続・冬敏之さんから滝尾宛てにきた「封書」(2000年5月20日付け)――「断種」は生の根源を失わされることである

DSCF1176  自宅の資料を整理していたら、また冬敏之さんからの「封書」が出てきた。便箋で6枚に書かれたもので、切手の消印は「平成12年(2000年)5月20日~18時」となっている。内容は多岐にわたっているので、このメッセージの読者は直接、冬さんの書かれた内容から読み取ってほしい。
 ただ、「やはり裁判は『勝ち抜く』ことが第一と思ってます。味方は一人でも多く欲しいのです。大谷、和泉、成田、犀川その他の医師は、強い味方にしておきたい人々です」(冬さんの書簡)が、この冬さんの提起が今日的視点からみて果たして正しいか、どうかという問題があります。人びとの歴史認識を変えず、歴史的真相を曖昧にした裁判によって「勝利」するということの意味です。
 2001年5月11日の「熊本地裁判決」から4年有余か月経緯した今、小鹿島更生園・台湾楽生院の日帝支配化に苦しめられた人たちは、立ち上がって闘っています。それに「定着村」に居住している日帝期のハンセン病歴者たちも、立ち上がっています。

 昨日(=10月6日に)韓国から韓国在住日本人から、つぎのような意見が「滝尾英二的こころ」の掲示板に届けられました。「(「熊本判決から一年が経過して、勝訴一周年の美酒に依っていた2002年5月22日‥‥」)を批判して、拙稿の提議した「勝利の美酒に酔う」とは……何を以て勝利とするのか一度おうかがいしたいものですと、藤野豊氏のハンセン病問題に関する認識と行動への疑問を韓国在住のその人は、藤野氏に問うています。藤野氏は、この韓国在住者の方の問いに答える必要がある。

 ソロクト裁判を体験せずに、彼岸に旅立たれた冬さんがご存命なら、いまはこの書簡を書かれた内容より異なったご意見をお持ちになられたと私は確信しています。また、こうして私に送っていただいた私信を公表することをお許しいただきたい。

 それにしてもだ。小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団代表兼事務局長・国宗直子弁護士の「不可解な」言動である。2005年5月9日の自ら管理者となっている「HITASURA~宮里新一のページ」の「新ちゃんの掲示板」に、naokoの名前でつぎのような「掲示」を書いている。

 「‥‥‥ところで、新ちゃんは、5月23日のソロクト・楽生院裁判の支援の集会で歌ってくれます。だって、何と言っても5月23日(ハンセン病国賠訴訟の控訴断念の日)ですもの。「五月の街」を歌わなくっちゃ。それに会場は、新ちゃんが2001年9月に裁判後初めて人前で歌った場所、星陵会館なのです。東京近郊の方は是非お越しください」。

 小鹿島更生園第5回口頭弁論があった夜の星陵会館での「報告集会」で一日本人として宮里新一氏に「控訴断念」のことを歌う「五月の街」を歌う。そのことに国宗直子同弁護団代表兼事務局長は、全く違和感を持っていない。この宮里氏の「五月の街」のどこに小鹿島のハンセン病被害者=ハラボジ・ハルモニへの思いがあったというのだろうか。

 1974年8月に美空ひばりは、第一回広島平和音楽祭のとき「一本の鉛筆」(松山善三作詞、佐藤勝作曲)を歌い、ひばりの持ち歌の「リンゴ追分」(小沢不二夫作詞、米山正夫作曲)などはうたわなかった。だから、宮里新一氏の「五月の街」のうた(私はその歌のできの良し悪しをいっているのではない)は、まったく5月23日のあの集会では「場違い」な歌であることくらいは、小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団代表兼事務局長・国宗直子弁護士は分からなかったのだろうか。この「集会の持つ意味」はいったい何だったのだろう。この植民地支配下のハンセン病被害者に対する「歴史認識」も「社会認識」も欠く国宗直子弁護士や宮里新一氏などに対して、当時の私は、「怒り」すら感じざるを得なかった。

 今ひとつ言おう。菜の花法律事務所「菜の花だより・第3号」(発行責任者・国宗直子)は「平成17年4月1日」発行と天皇暦を使っている。「人権弁護士と称する」人が、このトンチンカンな「歴史認識」をもって元号(=天皇暦)を使用している。「ハンセン病『韓国=ソロクト』『台湾=楽生院』問題特集」(発行責任者・国宗直子)と名うっただけに、これは罪深い。

 話は少々横道に逸れてしまったが、地下の冬さんはこの現状をどのようにご覧になっているだろう。そう思いながら以下、冬敏之さんから届いた書簡内容を紹介したい。

****************************

 前略、昨日5月19日は、お電話ありがとうございました。又「国賠請求事件資料の考察」をお送り下さって、たいへんありがたく存じております。一読し、よく調査され、すばらしい内容と思いました。とくに断種についての記述には教えられる点、多くありました。一つは、断種しても日本だけでなく、韓国小鹿島での状況も記述され、たいへん参考になります。ただ、全体として断種が何千人に行なわれ、その効果と弊害についてはどうだったかという点など、(例えば性欲の減退、勃起不足など)調査したのでしょうか。

 そうした点も重要であって、光田は全く影響なしと言ってますが、療養所では「喉切り三年」と同じく「すじ切り三年」の言葉があって、三年たつともう勃起しなくなると言われていた時代がありました。栗下もワゼクトミーで減退し、睾丸を一つ光田に差出してダメになったというようなことを言っていたと、何かで読んだように思います。私は断種の罪悪は子孫を残せなくしたこととか、その屈辱感もさることながら、性の快楽を奪ったことにも大きな問題があると考えますが、あなたはどうお考えでしょうか。昔は、寝取られる男が、かなり多かったようです。

 たとえば、ハンセン病療養所に、性犯罪の少ないことに驚く外部の人の記事が「多磨」その他の機関誌にのったことがあります。男二人に女一人で、バランスがくずれていて、しかも、少数の選ばれた男だけが、女房を持っている世界で、強姦事件等がごく僅かしかない、ということです。
 一つは、ハンセン病が、男性器を冒すということもあろうと思われますが、そこでいわば「幽閉、抑圧」され続けたことで、人間としての意思、欲望、愛、怒りその他、さまざまな生の根源を、失わされたのではないかと考えます。無表情、無感動、お人良し、厚いカラ等々、その特徴はカッコでくくれそうです。訴訟への積極的な参加も、また支援さえしないのは、そうした長い間の隔離による深い傷であろうと、私は思っています。そして、その底には、自分たちだけ平穏な人生を送れたらそれでよい、という利己主義と、わがままと、他への無関心があります。

 一般外部の人々(あなたも含めて)は、高いヒューマニズムの精神と、広い心を持って、入園者を実に辛抱強く、深い思いやりの心で接しておられます。それは尊いことでありがたいのですが、私は、やはり、ほんの少しだけクールな目で見てほしいと思います。(以下、17行カット=滝尾)
 こうしたものはどこから来るか、私は島田等のいう「隔離」の与えた害毒で、人間性喪失に近いものかもしれないと思いました。人間は意識的に生きない限り保守化し、感覚も鈍化し、世界の流れや人類の進歩を知らず逆行するのでしょうね。

 さいごに、キリスト教についてですが、リデルとリーとでは考え方が全くちがってます。同じ聖公会であり、また、お互いに交流もあったのですが、やはり二人の育ち方の相違でしょうか。
 リデルは余りにもストイックです。現在、神山復生病院では、やはり男女交際も結婚も認めてないようです。こちらはカトリックです。そして、たいへん驚くことは、聖公会もカトリックも依然として、ハンセン病患者への過去の功罪を、はっきりとはさせていないことです。いろいろ出てくるのは、あなたの引用されたものでも、新教のみです。この辺のところを、今後追求して頂きたく思います。

 お電話でお気に障ることを申上げたかもしれませんが、私は、やはり裁判は「勝ち抜く」ことが第一と思ってます。味方は一人でも多く欲しいのです。大谷、和泉、成田、犀川その他の医師は、強い味方にしておきたい人々です。
 「敵」は数限りなく多い。療養所の入所者の中にもいます。公然と裁判を非難し、原告を敵視する者たちです。熊本の由布園長も敵です。(中略=滝尾)由布の発言など、あきれてものが言えません。
 こうした「敵」はいずれ裁かれるでしょうが、現在、味方になってくれる人は瞳のように守っていきたいと思います。心中お察し下さるようお願い申上げます。

  五月二十日                           冬 敏之
   滝 尾 英 二 様

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2005年10月 7日 (金)

「ハンセン病問題の今」を知るために、東京へ行ってきました。そのご報告をします。

 「滝尾英二的こころ」へのメッセージをお休みして、東京へ行ってきました。
 10月3日の広島バスセンターを18:18発の深夜高速バス・東京八重洲口行きに乗り、帰路は10月5日21:00に東京八重洲口発の広島行きに乗車して、6日の8:18に広島バスセンター着のバスで帰ってきました。深夜高速バスの車内にはトイレもあり、リクラインイング・ シートとなっていて、乗客が睡眠できるように車内は電灯が消されている。
 片道、11時間ほど同じ姿勢であるので、年寄りには少々疲れる。しかし、私は「身体障害者手帳」があるので(=「腰部脊柱管狭窄症による両下肢機能障害」という障害があり)、バス代は半額になる。

 そんなわけで、東京までの片道運賃は、5,800円である。その上、早朝に東京に着き、終日、東京で動けるという利点がある。つまり、深夜高速バスをホテル代わりにすることできるというメリットがある。老人で少々の体の困難は覚悟して、高くつくJR新幹線を使用せず、往復とも深夜高速バスにしたという次第である。

 帰路のバスでは、美輪明宏ご本人が歌う「<愛>を歌う美輪明宏」のアルバムのCD(神田神保町のCD店で購入し)、もうひとつは、日本シャンソンコンクールに優勝した経歴を持つ「神のわざ」と「人の様子(さま)」を歌い続ける竹下ユキさんのCD2枚を東京で入手できた。それをポータブルCDプレヤーにイヤホーンで接続しCDの歌を聞きながら、楽しく帰路につけた。美輪明宏ご本が歌うCDも、竹下ユキさんのCDにも、「ヨイトマケの唄」が歌われている。
 私は、この歌を五木ひろしの歌うDVDで習ってきつづけ、「カラオケ・スタジオ」で歌っていた。五木ひろしは「五木ひろし55才ハッピーバースデォンサートin横浜アリーナ」でも、「芸能生活35周年特別企画・ジョイントコンサート」でも、「ヨイトマケの唄」を歌っている。小学校5年生のとき、父親が失踪した後、母親が4名の子供を抱え、その末っ子として育った五木ひろしが、自分の母親の思い出と重ねながら歌っているのだ。私自身「ヨイトマケの唄」を「カラオケ・スタジオ」で唄うときも、「母ちゃんの働くとこを見た」私。そして「苦労 苦労で死んでった」けれど「僕をはげまし慰めた」敗戦の時期の母親の姿を瞼に浮かべながら、この歌を唄っている。
 「歌うことはこころで唄うこと」だと、私はたえず思う。誰を考え、どういう風景をイメージしながら、歌をうたうことだと私は信じている。美輪明宏ご本人が、竹下ユキさんが、五木ひろしさんが、「こころを込めて唄う」歌。それを、こころにえがきながら広島へ帰る深夜高速バスの車中の私はとてもハッピーであり、幸せなひと時であった。

 歌談義はそれくらいにして、東京での2日間のことを語ろう。4日の午前中は「滝尾英二的こころ」のホームページの「管理者」と会い、いっしょに未来社編集部を訪ねた。月刊『未来』11月号に「植民地下 小鹿島更生園での「人体実験」―KBS(韓国放送)の取材に答えて―」と題する報告文を書いたが、その後、韓国極東社会文化研究院・許 由院長が「日本帝国主義下でのハンセン病の人体実験」と題する報告がなされ、「人体実験の証拠」として最近、国家人権委員会が小鹿島に現地調査を行い、詳しい確認作業を行なった結果、小鹿島で思うがまゝに行なわれた人体実験が具体的に証拠が出てきたことを論じている。そのことを『未来』11月号の報告文の「後記」として記述してもらいたいという提案をし、未来社編集部の了解を得た。
 未来社編集部のハンセン病担当者は、「滝尾英二的こころ」の愛読者である。「滝尾さんが、なぜハンセン病問題に関わるようになったのかが、「滝尾英二的こころ」を通して読めば分かる」と最近は言っていた。未来社編集部を去るに際して、私は厚かましくも「‥‥『未来』、『飛礫』、『世界』などの雑誌記事や「滝尾英二的こころ」のメッセージに書いた新稿のなかで適当なものを編集部で見てもらい、単行本として出版出来るようだったら、未来社で考えてもらえないでしょうか」と言っておいた。未来社は、『朝鮮ハンセン病史』の他にも、名著・朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』、「朝鮮近代史研究双書」全15巻、コリア研究所訳『消された「言論―日本統治下の東亜日報・朝鮮日報(政治編・社会編)押収記事集』、また、鈴木裕子著『「従軍慰安婦」問題と性暴力』、『戦争責任とジェンダー』など数多くの朝鮮問題の歴史の本を出版している書店である。
 インターネットに詳しい西谷能英代表取締役は外出中でお会いできなかったのが、こころ残りであった。2時間近く未来社への訪問だった。

 その後、ホームページの「管理者」と「滝尾英二的こころ」に掲載する何百枚の戦前から現在までの写真・画像をどのようにホームページに掲載するかを討議した。どのような項目をたてて、どの写真・画像をどの順番に配列して掲載したらよいか、CDに接写した映像をもとに、具体的の論議した。
 適当な部屋がないし、私の声は大きいしというわけで、部屋はホテルの近くの「カラオケ喫茶」の部屋を利用した。昼間だったので部屋はかなり大きな部屋を提供してくれた。3時間のフリータイムで、180円のドリンクは飲み放題で代金はふたりで1,600ほどだった。論議してくたびれると、カラオケで森山良子や加藤登紀子などのフォークソングを「管理者」と一緒に斉唱した。私が島津亜矢の歌う「おさん」を余興で唄ったら、近松門左衛門の浄瑠璃の義太夫のものまねなのだけど、セリフも部分が「なかなか良い」とお褒めの言葉を「管理者」さんからいただいた。
 私は調子のって「だったら、『滝尾英二的こころ』の訪問者総数が10,000名となったら記念のカラオケ集会でもしまようか」と提案。夕方から翌朝まで、1975年8月2~3日、かの有名な「かぐや姫」と「吉田拓郎」が「コンサート・イン・つま恋75」をまねて、朝までカラオケでもやりますかということにした。「つま恋75」のように5万の観客はなく、精々数人が集ってくれるかどうかであるが、その時私は、「ヨイトマケの唄」と「おさん」を私は独唱しようと思う。「訪問者」が10,000名となるよう「滝尾英二的こころ」のメッセージ書きに専念しようと思う。

 午後5時半からは、関東の支援者たちが、滝尾との懇談するため、池袋まで3名も来て下さった。それが大いに盛り上がり、途中まで「管理者」さんも加わり、喫茶店から2次会は夕食を食べながら「旧交を温めた」。水道橋のホテルに帰ったには午後10時ころだった。
翌日は岩波書店で、『世界』の岡本厚編集長と30分ばかりハンセン病訴訟裁判のことなど話した。岡本編集長はお忙しいなかの時間を割いて私に会って下さった。帰る際、ハンセン病訴訟裁判を語る「座談会」をしませんか、と提案しておいた。

 その後、永田町の国会議員会館に行き、国会議員やその秘書の方がたと会ってハンセン病問題を話してみたが、9月11日の総選挙で自民党が大勝し、新しい衆議院議員の多くは、「ソロクトなどの東京地裁の判決がある」ということすら知らない国の立法府を担う国会議員が多数いるようである。時限立法であり、来年は期限が切れる「補償法」を立法府である国会がどうするのか、暗澹たる思いで、国会議員会館を後にした。このことは、メッセージを改めて書いてゆきたいと思っている。
 神田神保町の古書店やCD店になにか、貴重な本やCDはないかを探して、夜の高速バス発車まで時間潰をした。それにしても有意義な東京での2日間であった。

                          (05年10月7日、滝尾英二書く)

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2005年10月 1日 (土)

藤野豊氏の「ハンセン病問題」に関する認識と行動への疑問(『飛礫』48号・秋季号へ掲載)の要旨

 私は、このたび発刊された『飛礫』48号・秋季号へ「藤野豊氏の「ハンセン病問題」に関する認識と行動への疑問」と題する論文を発表した。この小論は3項目から構成されている。藤野豊氏を含めてこの小論へのご意見・ご批判を伺いたいと思っている。
 「滝尾英二的こころ」に掲載した文は、『飛礫』48号掲載した小論(1,0000余字)の「要旨」である。ぜひ、『飛礫』48号・秋季号をお読みの上、小論へのご意見・ご批判をお願いしたい。

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 藤野豊氏の「ハンセン病問題」に関する認識と行動への疑問 (要旨)
  ―『飛礫』四七号「ハンセン病問題と天皇制」の記述と「富山シンポ」の問題性―

 一、藤野豊氏『飛礫』四七号掲載「ハンセン病問題と天皇制(三)」の認識の疑問

 藤野豊氏と私が「ハンセン病問題と天皇制」の認識について、相違しているその諸点を以下述べてみたい。藤野氏は、『飛礫』四七号(夏季号)〇五年七月発刊の「ハンセン病問題と天皇制」の論考の中で、次のように、書いている。

 「‥‥私は、天皇制はどのような形態をとろうと平等に反する差別制度であると考え、その存在を否定する。天皇制の階級的性格がどうあるかとか、そのような理論で反対するのではない。人間平等の考えに反するから反対する。‥‥‥さらに、歴史研究者として昭和天皇裕仁の侵略戦争に対する重大な責任を認めている。(中略)天皇制という国家機構上の責任はもちろん、裕仁個人としても重大な責任を負う。それが私の結論である。したがって、その点においても、裕仁とそれに連なるひとびとに敬意を表することはできない。」(『飛礫』四七号、一五四~一五五ページ、下線派滝尾、以下同じ)。

 「天皇制の本質は弾圧ではなく、「ご仁慈」による懐柔にある。それゆえ、天皇制は、戦後、象徴性として生き抜けたのである」(一五五ページ)

 (ハンセン病問題に関する検証会議の=滝尾)「報告書には過去の検証だけではなく、これからのハンセン病政策への提言も含まれているので、「報告書の内容は偏向しているので、採用しない」などと、厚生労働省に報告書無視の口実を与えてはならない。そこで、皇族の個人の責任を追及するのではなく、隔離政策に皇室がどのように利用されたかという点の解明を主とすることにし、一切の憶測や推測、あるいは政治的主張は排し、資料に基づく客観的事実のみを記すことにした」(一五七ページ)。

 「検証会議に対し、皇族の個人個人の責任を追及せず、皇族への批判が弱いという意見があったことは承知しているが、解明するべきことは、誤った隔離政策を推進した国家とそれに関わった関係各界の責任であり、個々人の責任ではないのである。(中略)皇室への批判が弱いと言う方には、この点を御理解いただきたい」(一五七~一五八ページ)。

 「~熊本判決から一年が経過して、勝訴一周年の美酒に酔っていた二〇〇二年五月二二日‥‥」(一五五ページ)。

 こうした『飛礫』四七号(夏季号)に書かれた藤野氏の記述は、私はとうてい承服しがたい。私は、日本ハンセン病患者強制隔離政策およびその施策実行の個人責任を問う場合、どうしても皇太后節子の行為の責任を問うことが、絶対に必要であると信じているからである。
 また、藤野氏のいうように「『報告書の内容は偏向しているので、採用しない』などと、厚生労働省に報告書無視の口実を与えてはならない。そこで、皇族の個人の責任を追及するのではなく、隔離政策に皇族がどのように利用されたかという点の解明を主とする」とする考えは、「検証会議ではタブーをつくらず、隔離政策に関する皇室の役割を追及することも確認された」と公言していること(『飛礫』四七号、一五七ページ)とも矛盾している。その藤野氏の『飛礫』四七号の記述は虚言となるだろう。

 「天皇制の本質は弾圧ではなく、「ご仁慈」による懐柔にある。それゆえ、天皇制は、戦後、象徴性として生き抜けたのである」(一五五ページ)というのも、歴史事実に反する。皇室の「ご仁慈」による懐柔は、天皇制のもつ一側面に過ぎない。日本国内・植民地ともども天皇制の本質は、天皇の国家支配下で、軍隊、警察、官僚など国家権力による凶暴な民衆に対する絶えざる弾圧の歴史であった。
 また、天皇制は、戦後、象徴性として生き抜けたのは、「ご仁慈」による懐柔だ、ととらえるのも歴史事実の一面的把握である。天皇制が戦後も生き抜かれたのは、連合国最高司令官マッカーサーが、ようやくきざしはじめた冷戦構造をタテにとって、天皇制をもって占領政策をおしすすめた結果であり、「白馬に乗ったおそれ多い天皇」といったコワオモテ天皇像に替えて、天皇の言葉「ア、ソー」を流行語とした「親しみのある民主天皇」像を国民のなかに定着させていった(横田耕一著『憲法と天皇制』岩波新書、一九九一年)ことが主原因である。藤野氏の「天皇戦後史観」に異議を申立てしたい。
 節子皇太后が大宮御所に、療養所長を呼んで「ハンセン病患者の隔離収容を激励は、「ご仁慈による懐柔」とは全く異質の政治的・社会的ことがらである。

 「天皇制の階級的性格がどうあるかとか、そのような理論で反対するのではない。人間平等の考えに反するから反対する」という主張にも、私は組みするわけにはいかない。  「天皇制の階級的性格」こそ、日本のハンセン病問題を考える上に、必要だと考えているからである。

 「熊本判決から一年が経過して、勝訴一周年の美酒に酔っていた二〇〇二年五月二二日‥‥」と藤野氏は『飛礫』四七号に書いている。二〇〇二年五月になっても、朝鮮・台湾・ミクロネシアのハンセン病患者・病歴者たち、国内においても、ハンセン病患者・病歴者の家族への謝罪も補償もない熊本判決から一年が経過していた。勝訴一周年になったとして美酒に酔える藤野氏のハンセン病問題に対する意識・社会認識を、私は問題としないわけにはいかない。

 ―貞明皇后、したがって、「神聖ニシテ侵スヘカラ」ざる天皇は権力の隠れ蓑としては最も効果的であった事の是非善悪を問わず、たとえ人権が蹂躙されても、生命にかかわることであっても、その名の下に行なわれることに対しては抗弁できなかったからである」と森 幹郎さんは一九五五年九月六日に書いている。(『差別としてのライ』京都・法政出版、一九九三年一二月出版、四二ページ)

 二、最高級の日本酒と高価な肴を「ある人物」と飲み食いした藤野氏に、その責任はないのか

 「‥‥ある人物から『電話では話せない重要なことがある。会って話そう』と、金沢に呼び出された。(中略)私は、夕方の五時四〇分、金沢駅に降り立った。駅で待っていた彼はタクシーである割烹小料理屋に私を連れていった。なぜか、彼は始終、上機嫌であった。
 小料理屋に着くと、彼は、最高級の日本酒と高価な肴を次々と注文し出した。まずは「飲もう」と飲み始める。(中略)「彼は、厚生労働省の現職の官僚二人の名前をあげ、これはその二人の意向であると明言した。二人の官僚が金沢を訪れ、私に委員を辞退するよう説得せよと彼に依頼したそうだ」という。『私の進退は原告・弁護団に預けてありますから、この場でお答えはできません』、そう答え、富山に戻った(ただ、悔やまれるのは、そのときの飲食代である。高級酒や高価な肴が振る舞われたので、私は飲食代の半分を払うと彼に言ったが、彼は『私が払う』とこれを拒み、結局、彼が全額支払った。そのときの費用が彼のポケットマネーなのか、厚生労働省の裏金なのかは分からない)とする記述です。
 なぜ、このような不当な「ある人物」の発言を、藤野氏自身の口から、その場ではっきりと拒否し、抗議できなかったのだろうか。「ある人物」として、その名前を伏せ、かつ、「そのときの費用が彼のポケットマネーなのか、厚生労働省の裏金なのかは分からない」と、「ある人物」から最高級の日本酒と高価な肴の費用の出所を質さず、そのことは未だに、明らかなっていないのも大問題である。

 藤野氏は自ら居住している富山から金沢まで出向き、金沢駅前で「ある人物」と会い、ただちに割烹小料理屋に連れていかれている。そして「ある人物」から話も聞かないで、最高級の日本酒と高価な肴を次々と注文し出された酒・肴を飲食している。なぜ、藤野氏はそうする以前の諸段階で、席を立たなかったのだろうか。
 「ある人物」から話も聞かないで酒をお互いに飲み合うことを未だに反省せずに、そのときの飲食代を「ある人物」に未だに全額払わせたことのみ、悔やんでいる。こうした一連のことをしでかした藤野氏自身の行為は、いったい何だったのか、という反省まったくみられない。

 藤野氏は、〇四年一〇月発刊された『飛礫』四四号(秋季号)にも、「‥‥途端に及び腰になり、自らの意見を語らず、敵を作らないようにいわゆる「八方美人」の言動に走る。ハンセン病問題に取り組み、全療協の前では支援の激を飛ばし、一方で、厚生労働省の官僚と密会し、裏取引にのめりこむ。私はこれまで、そのような研究者たちともつきあってきた。しかし、もう決別しよう」(一三四~一三五ページ)とも書いている。
 そのことは、研究者間に「分裂・分断」をもたらす。藤野氏の口から具体的にそれらの人物の名前を聞きたい。「検証会議」の性格・内容にもかかわることだから。

 三、本年六月二四日(金)夕刻行なわれた「富山シンポ」の問題性

 「ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山」が主催して、「ハンセン病訴訟勝訴四周年記念シンポジウム・今こそ考えようハンセン病」が六月二四日に富山市で開かれ、多くの若者を含む約二二〇名が参加した。この「富山シンポ」を主催したのは「ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山」(代表は藤野豊富山国際大助教授)である。藤野氏の著書のなかには、「‥‥一九三二(昭和七)年より皇后の誕生日である六月二五日を「癩予防デー」と定め、講演会などの行事を開いてきたこと」を書いている。
 現在も行なわれている「ハンセン病を正しく理解する週間」が六月二五日の皇太后節子の「皇恩」=「貞明皇后のご仁慈」を国民に訴えたものという点をよく存知のはずである。

 ところで、『熊本日日の二〇〇二年五月一三日の朝刊記事は、「ハンセン病国賠訴訟原告・弁護団と全療協が、厚労省への統一要求で謝罪・名誉回復の項目で、毎年六月実施の「ハンセン病を正しく理解する週間」を、熊本地裁判決があった五月一一日から国が控訴断念した同二三日までに移すよう求めることを決めている。これを決めた徳田靖之西日本国賠訴訟代表(現・小鹿島更生園・台湾楽生院訴訟原告ら弁護団員)もまた、皇太后節子の誕生日である六月二五日前後実施の「ハンセン病を正しく理解する週間」が不適当であることをしっている。だから、その変更を求めているハンセン病国賠訴訟原告・弁護団代表として「厚労省」へ要求したのである。
 ところが、「富山シンポ」の集会に参加した富山国際大学学生は、「ハンセン病市民学会ホームページ」の「告知板」によると「富山シンポ(六月二四日)の報告」をしている。六月二四日午後六時三〇分から二時間、富山市で行われた「富山シンポ」は、『北国新聞』、『朝日新聞(富山版)』ほか、『毎日新聞(北陸版)』にも掲載された。六月三〇日に掲載された『毎日新聞(北陸版)』(朝刊)には、青山郁子の記名入りで、この「富山シンポ」集会について、報じている。(毎日新聞富山支局など後援している。)

 六月二四日夕刻に行なわれたこの富山シンポのパネラーからは、いま、政府が「貞明皇后のご仁慈悲」を讃えた通牒で行なわれた「ハンセン病を正しく理解する週間」の期間に開催されたことへの発言がこうした報道記事をみるかぎり報じられていない。恐らく当日は、「ハンセン病を正しく理解する週間」の期間であるとは、パネラーである藤野・徳田両氏は「富山シンポ」の二二〇名の集会者には明かしていないと思われる。
 史実からしても、藤野氏のこれまでの主張からしても、六月二四日に「富山でシンポジウムを開く」のであれば、当然、その日が「ハンセン病を正しく理解する週間」の期間であり、それが「貞明皇后のご仁慈」を讃える政府通達によって行なわれていることの問題が指摘されて然るべきだった。にもかかわらず、おそらく藤野氏は、このことをまったくそれに触れなかったし、統一交渉団を率いるはずの徳田弁護士も、原告らの要望を無きものにしてしまった。日程を決める時点で考えなかったということはあり得ないことである。

 藤野豊氏は、「貞明皇后のご仁慈」を書きながら、実際行動では、これを容認する「富山シンポ」をもった。また、徳田靖之西日本国賠訴訟代表は、厚労省への統一要求で謝罪・名誉回復の項目で、毎年六月実施の「ハンセン病を正しく理解する週間」を、熊本地裁判決があった五月一一日から国が控訴断念した同二三日までに移すよう求めながら、この決定を放棄した。
 このような「歴史認識」に基づく「国賠訴訟」であり、「ソロクト~行政訴訟裁判」であり、且つ両人が行なった富山での「ハンセン病問題啓発集会」であった。藤野豊氏は、今年の三月まで「ハンセン病問題に関する検証会議委員・検討会委員」であった。また現在は「ハンセン病市民学会事務局長」として、ハンセン病問題研究を仕切ろうとしている。そのことは、空恐ろしいことである。
ついでにいっておくが、「富山のシンポ」は、二〇〇二年から毎年「六月二五日の皇太后節子誕生日前後に行なうという流れがあるように思われる。

 私は、かつて、二〇〇二年六月五日に、今は「~市民学会」事務局次長となっている熊本学園大学商学部の遠藤隆久教授から依頼されて、同大学の「ハンセン病講座」で、「日本植民地支配期における朝鮮ハンセン病政策」の「被害実態とその責任」について、同講座で学生に話をしたことがある。
 その前日に、熊本市在住の学友から、〇二年六月一日の『熊本日日新聞』をみせてもらった。紙上には、熊本県の名で、大きな紙面を割いて「六月二五日前後の一週間を『正しくハンセン病を理解する週間』とし、その諸行事を行なう」という広告記事であった。

 この六月二五日こそ、ハンセン病患者の絶対隔離収容を推奨し、光田健輔長島愛生園長はじめハンセン病収容所施設長らを毎年、皇太后の住まいである「大宮御所」に集めて「絶対隔離収容」激励した当時皇室の第一人者である皇太后節子(さだこ=死後、貞明皇后と追号)の誕生日であった。
 〇二年六月五日の夜、私は菊池恵楓園で入所者であった方の結婚披露宴があるというので、菊池恵楓園に行った。そして、この結婚披露宴へ参加した。席上、ハンセン病国賠西日本訴訟弁護団員の国宗直子弁護士に会った。特に、国宗弁護士には、「熊本県が『熊日新聞』に掲載の『ハンセン病を正しく理解する週間』の新聞広告の件。その問題をハンセン病問題講座でも、学生にもそれへの問題指摘をしたこと。『ハンセン病を正しく理解する週間』を六月二五日の皇太后節子の誕生日前後にすることの「否」とすること」などを話し、また、国宗弁護士は「来年=二〇〇三年からは、『ハンセン病を正しく理解する週間』は、熊本地裁判決のあった五月一一日前後、一週間とするよう県に働きかけます」ということであった。

 翌日(六月六日)の午前中、私は熊本県庁に行き、ハンセン病問題を担当する県職員二人と会い、熊本県が「六月二五日の皇太后節子の誕生日前後を『ハンセン病を正しく理解する週間』とする不当性」を述べた。二時間ほど話し合ったように思う。すると、熊本県のハンセン病問題担当者(その一人は「審議官」という職名だったが~)、厚生省通達なるものを見せ、「どの都道府県も、厚生省のこの通達で『ハンセン病を正しく理解する週間』を貞明皇后様のご誕生日である六月二五日前後、一週間にしています。横並びにやっているので、熊本県だけが、五月一一日の熊本地裁判決日前後に『ハンセン病を正しく理解する週間』とするわけには、行きません」という。私は、これを聞いて腹をたてて、「国の通達で、無批判に、横並びのハンセン病施策が、そのまま無らい県運動へと繋がったのではないか。熊本県は、国に追随して無らい県運動をしたことの反省をした。熊本県のハンセン病隔離政策をしたこの反省とは一体なんだったのか。そのような返答はないでしょう」と大声で怒鳴った体験をもっている。

 ソロクトの方たちは、日本政府が今なお、「貞明皇后」の誕生日に由来したハンセン病啓発キャンペーンを展開しているという事実を、どう感じるのでしょうか。おそらく自分たちの理解者であると信じている人たちが、それに乗っかって平気でいることを、どう思うのか。胸が痛みます。この「ハンセン病を正しく理解する週間」にハンセン病問題の諸行事を行なうということは、絶対隔離政策を容認していることである。
 だから「ハンセン病市民学会」の事務局長となっている藤野氏が、このような「富山シンポ」を六月二四日にやるようでは、私は市民学会の会員ではないけれども、ハンセン病問題にかかわっている者として「市民学会」が今後、どのような道を歩もうとしているのか案じているし、また、危惧もしている。

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