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2005年9月30日 (金)

「人間扱いされなかった私たちの時代が来ました。皆さん、長生きして下さい。今、死んではいけません。」(『ソウル新聞』2005年9月26日)

 「人間扱いされなかった私たちの時代が来ました。皆さん、長生きして下さい。今、死んではいけません。」(ハンセン者人権団体「ハンビット福祉協会」の林ドゥソン会長の声)

 これは、2005年9月26日の『ソウル新聞』に載ったハンセン者人権団体「ハンビット福祉協会」の林ドゥソン会長の声である。林ドゥソン会長といえば、明日(10月1日)発売される『飛礫』48号、(秋季号)に「ハンセン病歴者たちにたいする基本的差別の実態」林ドゥソン(ハンビット福祉協会会長)が掲載される。訳者は私の小学校・高校の同期生である井下春子さん(井下さんも1997年1月のチャムギル主催のボランティアに5名の広島県からの参加者であった)である。
 2005年9月26日の『ソウル新聞』に「日帝ハンセン者抑圧、光復後も偏見変わらず」を見出しの記事で、「強制動員真相究明ネットワークの福留範昭さんが紹介されたソウル新聞の記事(翻訳も福留さん)」が出ているということを、昨日(9月29日)に、神戸の秋山さんから知らされた。この記事を「滝尾英二的こころ」の訪問者にぜひ知らせたい、こういう思いが私の頭に去来した。福留範昭さんと連絡をとって「滝尾英二的こころ」のホームページに掲載したい、こういう思いがつのってくる。幸い福岡におられる福留さんと連絡がとれ、「滝尾英二的こころ」に掲載することを了承していただいた。

 『ソウル新聞』のこの記事は、『飛礫』45号(2005年冬期号)に滝尾が「解説・朴燦運弁護士『ハンセン病をとりまく人権問題とその解決のための方策提示』について」に掲載したように、2004年10月11日、大韓弁護士協会の主催で「ハンセン病人権報告会」か韓国の国会議員会館で開かれ、朴永立(パク・ヨンリップ)弁護士の司会でハンセン病関連の主要団体からの発言があり、「ハンビット福祉協会」の林ドゥソン会長も報告されている。
 この記事に出てくる漆谷(チルゴク)農園は、2001年8月、河龍馬先生に導かれて私は、金子哲夫・川田悦子の両国会議員を案内した「定着村」であり、2003年8月には、小鹿島での「国際人権シンポジウム」などに参加した人たちの一部が河龍馬先生に案内されて行ったところでもあった。
 そのことは、国宗直子さんのホームページの「ソロクト通信5>テグから(抜粋)のなかで、つぎのように述べている。
 「‥‥次に同じく河先生の案内で、テグ近郊の定着村に行きました。漆谷(シッコク)農場といいます。斜面に貼りついたような集落でした。ここでは養鶏を主要産業にして元療養所にいた患者のみなさんの自活に成功したところです。河先生はここの初期の園長をなされており、皆さんの自活のサポートに尽力されました。
 村では、丁度教会で礼拝が行われており、大人の人の大半は教会にいらっしゃったようです。代わりに元気な子どもたちが歓声をあげて遊んでいました。日本の療養所とはここが一番違いますね。
 ただ、いくつか疑問も感じました。人里離れたこの村は確かに患者の自活には成功したけれど、ここが新たな被差別部落になっているのではないかということ。他の定着村も、主要には養鶏が生活の糧となっており、実質的には職業選択の自由が保障されているわけではないように感じたこと。などなどです。定着村は各村で経緯も実態も異なるということでしたので、ここだけを見て何かを言うのは早計だとも思いました。これからも勉強を重ねていきたいと思いました。」

 『ソウル新聞』が書いている「益山農園でも、初日に78名に対する相談が終わった」という益山農園も私にとって思い出の深い「定着村」である。この村のことは、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史』未来社(2001年9月)発行のなかの291~2ページで書いているように親しくしていた故・シム・ジョファンがいらっしゃった「定着村」である。今はソウル大学校歴史学部の鄭教授や、写真家の大石芳野さんと一緒に訪ねたところでもある。私がひとりで、この益山農園を訪問したこともある。
こうした地域で、いまハンセン病歴者の闘いが始まっているのである。そう思いながら、この『ソウル新聞』を私は読んだのである。
 この新聞に出てくるハンセン病歴者の皆さん。「長生きして下さい。今、死んではいけません。まもなく新しい夜明けを迎えますよ!」。
 この「滝尾英二的こころ」に掲載を許していただいた強制動員真相究明ネットワークで、この記事の翻訳者である福留範昭先生! ありがとうございました。  (滝尾、2005年9月30日・記す)

               ○

[ソウル新聞 2005-09-26 08:36] 

「日帝ハンセン者抑圧、光復後も偏見変わらず」

 「人間扱いされなかった私たちの時代が来ました。皆さん、長生きして下さい。今、死んではいけません。」

 今月24日の午後:ハンセン病療養施設の慶尚北道安東(アンドン)市聖者院聖堂。近隣の漆谷(チルゴク)農場とサメ農園(金泉 キムチョン)等からやって来たハンセン者※50名余りが見守る中、マイクを手にしたハンセン者人権団体「ハンビット福祉協会」の林ドゥソン会長の声が本堂内部を揺るがせた。
 [※ 訳注 : 原文ではハンセン人となっているが、便宜的にハンセン者の訳を当てた]

 彼らは、1917年から1945年まで日帝によって小鹿島(ソロクド)に強制的に收容された人たち。この日の会は、今後彼らが日本政府を相手に提起するハンセン者第2次補償訴訟を説明するために大韓弁護士協会(弁協)の主幹で行われた。

 ●「今、死んではいけません。」、「そうだ、あそこが監禁室だった。冬にあそこ閉じ込められて死んだ人々が多かったな。」 納骨堂・中央公園など小鹿島を撮った映像が放映されると、あちこちで苦痛の記憶が、感嘆の声となった。」

 昨年10月25日ハンセン者117名は、日帝の小鹿島の隔離収容に対する補償を要求して、日本政府に初めて訴訟を起こした。日本政府が、2001年制定された特別法によって過去に強制収容されていた自国のハンセン者には補償をしたが、小鹿島の被害者には補償を拒否したことに応じたものだった。

 その宣告裁判が、丁度1年後の来月25日開かれる。

 ●小鹿島の生活を証明しなければ…1次訴訟より難しいもよう

 昨年の1次訴訟の原告は光復後も続いて小鹿島に残っていた人々だった。一方、提起される第2次訴訟の原告は光復後小鹿島を離れ、全国各地に散って生きてきた280名余りだ。

 弁護士協会は訴訟原告の募集のために、この日の聖者院や益山(イクサン)農園(全羅北道益山)をはじめ、週末ごとに全国巡回説明会を開く。益山農園でも、初日に78名に対する相談が終わった。弁護士協会は来月17日までに訴訟準備を終える計画だ。

 第2次訴訟は、被害者たちが日帝強制支配期に小鹿島に收容された事実を証明する文書がほとんどなく、第1次の時よりさらに困難な闘いになる見込みだ。だが、陰に隠れて暮らしてきたハンセン者は、訴訟を通して声を出せるということ自体がうれしいという。

 ハンビット福祉協会の林会長は、「歳月と苦痛の末、老いたハンセン者が訴訟を起こし、より元気になった」と言い、「今回の訴訟が、ハンセン者に対する偏見と社会的差別をなくすのに寄与したらと思う」と話した。

 弁護団団長を務める朴ヨンニプ弁護士は、「1次訴訟宣告と2次訴訟の提起は始まりに過ぎない」とし、「日本政府に対する訴訟に続き、国内ハンセン病患者の人権侵害に対する実態調査等を通して、補償特別法制定を推進するだろう」と明らかにした。

 ●小鹿島を出ても困難な生活…関心、光復以後も続かなければ

 1次訴訟で社会的関心が集められ、ハンセン者は一層自信を得た。

 人目を避けてひっそりと暮らしてきた彼らが、自分の権利のために発言し始めた。サメ農場で住んでいる朴某(81)氏が代表的だ。23才で爪と眉毛が抜けて、ハンセン病発病の事実を知るようになった朴氏は警察署倉庫に3日間閉じ込められた後、小鹿島(ソロクド)に行った。

 光復になり、故郷の慶尚北道金泉(キムチョン)に戻ったが、近所の人の横暴のため、再び流浪の生活をしなければならなかった。村のはずれまで追いかけてきて、他の場所に行き、天幕に火を灯し、暴力を加えた村の人々を避け、同じ境遇の人々と一緒に郡守に請願して国有地にやっと居を定めた。

 しかし、「正常人」の村から子供でも1人いなくなれば、村には間違いなく警察がやってきた。ハンセン病患者が、子供たちを捕まえて食べ、埋めたというぶっそうなうわさのためだった。

 朴氏は、「その時も、私たちの村にはハンセン病を体験した病歴者だけがいただけで、患者はなかった」と言い、「二の句が継げない私たちに、警察は『申告があったので、捜索せざるをえない」と言った」と回想した。

 特に、慶尚道地域のハンセン者にとって、1991年の「大邱(テグ)カエル少年失踪事件」は、人知れぬ傷とて残っている。少年らを拉致し、薬を使って埋葬したと見なされた漆谷(チルゴク)農園は、公権力とマスコミによって、やたらとあばき立てられた。

 朴氏は、「今になって、私たちの無罪が明らかになったので、それでも幸い」と言った。

    (滝尾・注=原文では「ハンセン人」となっているが、訳者は「ハンセン者」と訳し、「ハンセン病歴者」と直していただいていい、といわれたが、そのまま、訳文通り「ハンセン者」として「滝尾英二的こころ」は掲示したことをお断りしておく。)

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2005年9月29日 (木)

「ソロクト裁判」事始(ことはじめ)=裁判を始めた経緯について

  人権図書館・広島青丘文庫 主宰 滝尾英二の名で、2005年9月27日に、小鹿島更生園補償請求弁護団宛てに「2005年10月24日の判決前夜集会および判決報告集会のお知らせ」文の撤回要求(抗議)を出した。このような経緯となろうとは、2年前まではまったく予想もできなかった。どうして、なぜそうなったのか、そのことを明らかにする為に、あしかけ3年間のあゆみをふり返ってみることにしたい。「滝尾英二的こころ」の訪問者の中にも、そのことを知りたがっている方も多かろうと思う。しかし、これはあくまで私のみた「小鹿島更生園補償請求裁判」のあゆみである。立場を変えれば、別の書き方もあるということを了知していただきたい。

 わたしは、2003年2月18日午前10時過ぎ、韓国大邱(テグ)の地下鉄「人災」火災事故で200名を越す死者を出したその「弔意」をあらわすために、3月2日に大邱(テグ)を訪れた。その日の夜、わたしの属する市民運動・研究組織であるチャムギル事務局を訪ねた。わたしが大邱を訪れるというので、チャムギル(この会については、拙著『朝鮮ハンセン病史』未来社、2001年9月発行、56~27ページ参照)の幹部が10名ほど集ってくれた。その席上、同会の代表である鄭鶴(チョンハク)理事長から、わたしに、つぎのような話があった。
  「チャムギルはこれまで夏期と冬期の年2回、小鹿島へのボランティアを行なってきた。今年でちょうど、20年目に当たる。これを記念して今年の8月の夏期ボランティアに際しては、大規模な記念集会を行ない、国際人権シンポジウムの開催を企画している。ついては、日本から人権問題に関わっている方々をこのシンポジウムに参加していただきたいと考えている。この場合、ハンセン病問題にとり組んでいる人だけにとらわれず、ひろく人権問題に関わっている方で実践的な人を希望している。その人選は、滝尾さんに一任する。日本からの参加者は10名程度を考えている。」

  わたしはそれまで、何度となく小鹿島でのボランティアに参加している。この提案を受けて帰国後、親友の割石忠典さん(地域史研究者)に相談して、この問題に対してどう処していくかの意見を求めた。割石さんとは20年来の学友であり、1997年1月のチャムギルの冬期ボランティアに4日間、小鹿島へわたしと一緒に参加している。彼は日本の植民地統治期の朝鮮でのハンセン病施策の患者に対する苛酷な行為を、小鹿島へ行って知っている日本では数少ない人である。割石さんは即座にこう言った。
  「いまの日本では、日本国家権力が行なった小鹿島のハンセン病患者の行為を殆んどの人が知っていない。この際、裁判を行なうことで、それを機会として、多くの人びとにこのことを知ってもらい、植民地支配期におかした日本国家の歴史の犯罪的行為と、その責任の所在を明確にする必要があるのではないだろうか。だから、国賠訴訟を闘った弁護士たちをこの際、この国際人権シンポジウムに参加の要請をしたらどうか。」

  ハンセン病国賠西日本訴訟弁護団代表の徳田靖之弁護士は、「残された課題の大きさにたじろいでいます。年内に必らず小鹿島へ行きたいと思います。」(2002年の滝尾宛て「賀状」)と書き、また、熊本の国宗直子弁護士は、2002年3月に、「麗水(ヨス)の友人の結婚式に仲間たち5名が参列するので、この際、式参加の前日に近くにある小鹿島を訪問したい」のでわたしに案内を求めて半日ほど小鹿島を訪問している。わたしは2003年8月の国際人権シンポジウムの参加者として、この徳田、国宗両弁護士に小鹿島行きを要請しておいた。
  折り返し徳田弁護士から連絡があり、「弁護士のワクを5名にしてもらえないか」という。わたしはこの小鹿島の訪問と「人権シンポジウム」の参加要請を弁護士のほかに、報道機関関係者、研究者、市民運動をしている活動家などに要請し、その参加希望者は約20数名にも及んでいた。弁護士の5名を入れると30にも達する。日本からの参加者のワクは、10名程度である。チャムギル事務局長の金在浩さん(東京工業大学で博士課程卒。日本語は堪能)に電話し日本からの参加者数を30名にしてもらえないかを折衝し、金在浩さんから「なんとかしましょう」の返事を得ることが出来た。

  5月になって、8月の小鹿島訪問と「人権シンポジウム」のことでの打ち合わせのため、わたしは再度、大邱(テグ)のチャムギルの鄭鶴理事長などに会い、最後のつめを行なった。その時、「人権シンポジウム」の日本からの提案者をだれにするかが問題となった。ひとりは水俣病の被害や啓発・教育に取り組んでいる提案者については、異議がなかった。いまひとりの弁護士としての提案者を、わたしは「半日だけど2002年3月に小鹿島の訪問を経験したことのある熊本の弁護士・国宗直子さんを推薦」したが、鄭鶴理事長は「それは徳田弁護士だ」と言って、首をたてに振らない。何度言っても駄目である。帰国後、そのチャムギルの鄭鶴代表のことばを徳田弁護士に伝えた。
  「小鹿島訪問の目的と日程など」と書いた文を2003年5月に、わたしは参加者全員に送った。つぎに、その「チラシ」の内容をあげておく。
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 小鹿島訪問の目的と日程など             (二〇〇三年五月)

                   人権図書館・広島青丘文庫   滝尾 英二

  歌謡スタジオで、私がよく歌う歌謡曲に「一本の鉛筆(美空ひばり)」、「さとうきび畑(森山良子)」や「若者たち(ザ・ブロードサイド・フォー)」と共に、「竹田の子守唄(赤い鳥)」がある。いうまでもなくこの唄は、京都の被差別部落である竹田に伝わる民謡をフォークグループ「赤い鳥」が歌った名曲である。

  守もいやがる 盆から先にゃ
  雪もちらつくし 子も泣くし

  盆が来たとて なにうれしかろ
  かたびらはなし 帯はなし

  この子よう泣く 守をばいじる
  守も一日 やせるやら

  はよも行きたゃ この在所こえて
  向うに見えるは 親のうち

「竹田の子守唄」を歌いながら、ふと思うことは、今度行く小鹿島にいる八百名のハラボジ・ハルモニのことである。今年の八月に、韓国の市民運動団体である「チャムギル」主催のボランティア活動と「チャムギル創立二十周記念」参加するのだが、私たち「ソロクト訪問団」がソロクトへ行くことが、小鹿島(ソロクト)にいる八百名のハラボジ・ハルモニにとって、「盆が来たとて なにうれしかろ かたびらはなし 帯はなし」とは、ならないかということである。つまり、八百名のハラボジ・ハルモニのいのちと生活・医療にどのように役立つことになるか、ということである。これを今回のソロクト訪問の最大の目的としたいと思う。訪問する人たちは、それぞれの分野で活躍している方々である。なんらかのかたちで人権問題に取り組んできた人たちである。その愛と知恵を、この度の訪問に生かしていただけたらと考えている。

 さて、同封したような「名簿」にあるような方々とともに、八月七日の午後の便で、関西空港(13:50発)と福岡空港(14:00発)からプサン(釜山)空港へ行き、そこから、貸切大型バスで小鹿島(ソロクト)の対岸の鹿洞(ノクトン)へ行くことにしている。二~三箇所トイレ休憩と夕食を食べに休憩時間があるが、五時間ほどかかって、ソロクトの対岸にある人口2万数千の港町・鹿洞(ノクトン)へ着く。鹿洞からは、定期連絡フュェリーが夜遅いので運行していない。したがって、特別に水上タクシーで対岸のソロクトへ渡る。その間十分乗船すれば、ソロクト桟橋に着く。桟橋には、前もって連絡してあるので、チャムギルか自治会の出迎えの車が来ているので、それに乗り、宿泊場所であるボランティア専用の宿舎へ行く。そこで二泊する。既に八月六日には韓国各地から約三百名の若者たちが集まっているはず。私たちの食事は、ボランティアに参加した韓国の人たちと同じく大がまと大鍋で共同炊事(炊き出し)した韓国料理を食べる。学生時代に大阪の親戚に居住し、大学にある大学を卒業した(六年間在日し、その後、USAの大学を卒業した)滝尾とも仲良しであるthe bobosのママのソウさんが、炊き出しの責任者である。男女十数人で早朝から炊き出しをしている。今回、日本からソロクトを訪問する方の中には、「炊き出しの手伝いをして下さい」、と頼んでいる。炊き出しを手伝うと、韓国料理の作り方も、韓国語も多少は覚えられるはず。ただし、朝早く起き、一日中忙しいけれど‥‥。

 ボランティア活動は、現在は八百名いるソロクトの入所者であるハラボジ・ハルモニ(おじいさん・おばあさん)の家へ行き、洗濯、襖張り、壁紙の張替え、電気器具の修理、夜なか中かかってつくる「パンー菓子」の配達、用意したお土産の配達、繕い物などさまざまなことをしている。韓国の各地から来た若者たちは、「患者地帯」にある大講堂で、板張りの床へ毛布に包まって寝るが、日本から来た訪問者たちは、少し詰め込みですが、部屋にトイレ付きの部屋が提供されるはず。この鉄筋2階の宿泊所には、風呂場とシャワー室がありますので、風呂とシャワーは、そこを使用するはず。宿泊所は、「患者地帯」の中央公園に最近建てられたもの。

 八月八日(金曜日)の昼には、大講堂で「チャムギル(市民運動団体)創設二十年周記念式典」があり、夕方から、ボランティアに来た若者たちとソロクト入所者との「歌と踊り」の祭典=夏祭りがある。
日本から行った人で、「祭典」に参加して、「歌と踊り」たい人は(わたしも歌おうと思います!)は、祭典に参加して下さい。「祭典」の時は、摺り氷に餡子とジースと「ハッタイ粉」を氷にかけたものやスイカなどを、「式典」参加者たちに配る。「祭典」が終った後に、北生里にある火葬場の近くの海岸で、蝋燭を各自持って、キャンドルの式典が行なわれ、ソロクトで亡くなった約  一万名余の慰霊に祈りを捧げる。八日の一日中と九日の午前中には、ソロクト内の見学や入所者たちとの話し合い、韓国の活動者や研究者、行政担当者や政治担当者などとの懇談は、その間にする。四十歳代以上の方は、自治会の自動車(マイクロ・バス)で、島を見て回るが、特別の事情のない限り二十代・三十代の方は、自分の足で島を歩いてもらう。私(滝尾)が案内する。日本が植民地支配をしていた時代は、ハンセン病患者は百キロ以上もある荷物を背負って歩いた道である。いま、手ぶらで歩くくらいは、若い人たちは(七十二歳の滝尾も歩くのですから‥‥)その道を歩いて、体験してもよいと思っている。

 宿泊場所の近くにある「監禁室」にも、通常は釘が打たれていて扉が閉まっているが、特別に開けてもらって、若い人たちは二十分ほど監禁室の中に、男女別々の部屋に入ってもらおうと思う。かつて、監禁室に入れられた患者の人は、どんな気持ちをしたか。小さな小窓から僅かに漏れる光しかない空間(部屋)に入れられた患者たちの一ヶ月~二ヶ月の「絶望」を知ってもらいたいと、思う。日帝時代(日本統治時代)では、監禁室に出ると男子の場合は監禁室の隣りに建てられた「遺体解剖室」で、看護手たちにより、輸精菅の切断(断種手術)を受けた。まだ、現在も、断種に使ったとされる台(本当は、遺体安置台と遺体解剖台ですが、当時は「断種手術」に使用されたらしい)がある。二十分くらい監禁室の床に正座するくらい、なんでもないと思う。

  当時は、入所したハンセン病患者たちは、午前四時半に起床して、煉瓦つくりの土運びを男女ともに行なっている。午前中は、煉瓦焼きと焼いた煉瓦運びのため、末梢神経をらい菌に侵され、その治療やリハビリも受けずに、作業を腹減らして働かされた。だから、八日と九日の朝は、午前六時には、二十代、三十代でソロクトを訪問した方は起床してもらって、島を私の案内で、歩いて施設を見てもらいたいと思う。炊事を手伝う人は、大講堂の脇で炊事作業をして下さい。
 ソロクト(長島や多磨、菊池もそうですが‥‥)の早朝(曙)は、それは綺麗ですよ! 特に、海と空と緑の山の見えるソロクトと長島は、曙の景観はすばらしい。今回のソロクトの訪問の旅は、「観光」旅行でも、「視察」旅行でもなく、あくまでも小鹿島(ソロクト)の人たちから学ぶ=研修・学習する意味もある訪問ですから‥‥。

 八日の午後の昼間には、韓国の若者たち十数人が、韓国の民族衣装であるパジ・チョゴリ(男性)、チマ・チョゴリを着て、打楽器(大太鼓、小太鼓やドラ)を叩き、長い幟を持って島の各村々を歩き、夕方から始まる「歌と踊り」の祭典を知らせに、回る。もし、日本からの訪問した二十歳代の人で、その一行に加わりたいご希望の人があれば、言っていただけば事前に「ソロクト訪問団」として、韓国の民族衣装(パジ・チョゴリ、チマ・チョゴリ)と、打楽器を準備しておくから、島の六箇所ある生里(村々)を韓国の民族衣装を着て、打楽器を叩くか、幟を持って韓国の若者たちと一緒に、歩いていただく。この点については、五月十八日から二十三日まで、私は今回のソロクト訪問の事前準備と、打ち合わせに集会の主催団体であるチャムギルの代表である鄭鶴理事長か事務局長の金在浩さん(日本工業大学・博士課程卒業、現在は大邱の大学で教鞭をとっておられます。日本語は堪能です)に、お会いして、ソロクト訪問の打ち合わせをして来る。三月の時点では、チャムギル事務局は、日本からの訪問する人は、十名程度ということだったが、その語、電話で私がチャムギル事務局に連絡した結果、「三十名前後なら島での宿泊と食事は、何とかしましょう」とのことだった。
 車などは、入所者自治会のカンデイシ(姜大市)会長に頼んでみようと思う。

 ソロクトで、九日(土曜日)で昼前に定期フェリーで離島。七日に乗った「貸切り大型バス」がノクトン(鹿洞)で待っているので、それに乗って釜山まで帰り、夕方釜山のホテルで八月九日夜は泊まり、翌十日(日曜日)の午前中の飛行機で、大部分の人は帰国する。私たち少数の者は、小鹿島のボランティアの開会式に出席し、会場や炊き出し場の後片付け、掃除(炊事場や共同便所など)をし、午後三時頃、チャムギルの車でテグ(大邱)まで帰るか、都合が付かなければ、定期バスでスンチョン(順天)のバスターミナルへ行き、そこから、高速バスで大邱(東大邱)のバスターミナルに行き、タクシーでチャムギルの事務所に近いガーデンホテル(4つ星=ムクゲ)に宿泊する。ホテル到着は、午後八時か、九時近くになる。

 翌十日(日曜日)は、オプション(希望者のみ)でキリスト教医療宣教師の創設(1914年、フレッチャー設立)の大邱愛楽園に行き、同園の日曜日の教会礼拝に出る。年老いた同園の入所者が教会に集まってきて、牧師による礼拝と、ピアノ伴奏による賛美歌を歌う。それを聴き、その後に一九三〇年当時建設された煉瓦つくりの建物(いまも使用されている宿舎や集会所など)を河龍馬博士に案内してもらい、また、愛楽園長や牧師さんとも懇談する。その後、大邱市近郊の「定着村」に河龍馬(ハヨンマ)博士に案内してもらい訪問する。河龍馬博士は大邱市内にあるカソリック病院の皮膚科にお勤めで、一九七〇年代は、小鹿島のハンセン病療養所の医務課長をかなりの間、しておられた。また、解放直後には、大邱のハンセン病差別の解消につとめられた方。ハンセン病の治療では著名な医師で、韓国のハンセン病の歴史にも詳しい方である。慶北大学校名誉教授の徐舜鳳(ソシュンボク)先生の教え子である。八月十日の夜は、多分「チャムギルの打ち上げ会」があるはず。それに参加させてもらう予定。(以下、省略する=2005年9月29日・滝尾)

  このようにして、「ソロクト裁判」は始まったにである。  (2005年9月29日)

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「滝尾英二的こころの日々のメッセージ」のテーマの案。その「どれから書きましょうか?」

 「日々のメッセージ」のテーマのうち、すでに書きかけているものもあれば、今から書こうとしているものもある。日々「滝尾英二的こころ」のホームページの訪問者が(総数であるが)予想外多い。しかも深夜にも訪問者が何人もいらっしゃる。夜遅く寝て、朝はやく起きてみると「訪問者」された数を示す「visitors」の数字が10近く上がっている。今日現在(9月29日、2時30分)の数が2,097であるから、2,100をまもなく越すだろう。もちろんそれは総数であって、ひとりが何度も訪問されれば、その度に「visitors」の数字は上がる。
 しかし、かなりの方が、あまり知れていない「滝尾英二的こころ」の訪問者となっておられる。その方がたに対してどんな「日々のメッセージ」を書いたらよいのか、苦慮している日々である。
 訪問者に見て貰いたい写真も多い。「フォート・エッセイ」として、一回分として3~4枚の写真を示しながら写した時の情況やわたしの気持ちをエッセイとして書くということも考えている。毎日、「日々のメッセージ」を書き続けることが、訪問者を多くすることだ。また、ひとりの方がわたしの書く「日々のメッセージ」を期待しながら読んで下さる人たちこともわたしは大切にしたい。訪問者と「掲示板」で対話しながら、「ひとのいのちの尊さ」や「生きてゆくよろこび」などを共有したいと考えている。
 長渕剛の『乾杯』の歌いはじめにあるように「かたい絆に 想いをよせて 語り尽くせぬ 青春の日々 時には傷つき 時には喜び 肩をたたきあった‥‥」ことを考えながら、書いていきたいとも思う。
 時々のそんなことなどを「日々のメッセージ」のテーマとして書き続けようと思っている。「流木は枯れず」という言葉を先日の「日々のメッセージ」に書いた。また「継続はちから」ともいう。気長に書きつづけることが、いちばん大切なことのような気がする。
 いま考えている「日々のメッセージ」のテーマは、つぎのようなものである。

① 「ソロクト裁判」事始=こうしてこの裁判は始まった
②  韓国の仮面劇=統営五広大の両班(ムンドゥギ両班)のことなど
③ 『婦人倶楽部』にみられる「優生思想」と優生保護法
④  大谷藤郎氏の実像とその検討 (その2)
⑤ 「歌に生き、恋に生き」=東京で初めて見た歌劇「トスカ」
⑥  10月3日から6日までの東京への旅日記
⑦ 『飛礫』48号(秋季号)のわたしの論考の要旨=「市民学会」への期待と不安
⑧ 「2005年10月24日の判決前夜集会および判決報告集会のお知らせ」文への抗議、その後 ①
⑨ 「五木ひろしの歌と芸」に想いを寄せるわたし
⑩  ミクロネシア(「南洋」)のハンセン病患者たちと日本のハンセン病政策
⑪ 『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の批判
⑫ 「フォート・エッセイ」

 いま、時刻は9月29日(木曜日)の早朝の3:50である。この文を「滝尾英二的こころ」に掲示する前に「visitors」の数字をみておこう。
 「掲示」前に見たらちょうど訪問者の数が、2,100になっていた。 (滝尾英二 記す)

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2005年9月28日 (水)

「2005年10月24日の判決前夜集会および判決報告集会のお知らせ」文の撤回要求(抗議)

「2005年10月24日の判決前夜集会および判決報告集会のお知らせ」文の撤回要求(抗議)

                                                    2005年9月27日
                                               人権図書館・広島青丘文庫 主宰 滝尾英二

 「小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団」の公式ホームページを開いてみた。「更新履歴」には2005年9月26日付けで「10/24・25のお知らせのページを更新」とある。「10月25日ソロクト訴訟、楽生院訴訟・判決日のお知らせ」をクリックしてみると、「2005年10日24日前夜集会、2005年10月25日判決日のお知らせ」とあり、そこには「集会ご案内(24日・25日共通)」として、「韓国ソロクト・台湾楽生院訴訟―勝訴を勝ち取り、控訴させない集会と判決報告集会のお知らせ」というチラシがリンクしてあった。

 その画面をみて驚いた。「三きょうだい(台湾・楽生院)黄 金涼(日本名・政子)、黄 金井(日本名・菊子)、黄 燦桐(日本名・玄二)」と書かれてある。私は眼を疑った。この書き方は、まさに植民地時代の支配者と同じ意識の皇国公民化思想ではないか。

 このA5判大の文は、主催者関係者の誰かが「勝訴を勝ち取り、控訴させない集会と判決報告集会のお知らせ」のチラシとして作成されたものが、何の検討もされないまま、「小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団」の公式ホームページに「2005年10日24日前夜集会、2005年10月25日判決日のお知らせ」として利用され、またこの公式ホームページの責任者である弁護士の国宗直子事務局長も、日本の植民地支配政策が、「皇国公民化」という差別と民族否定の政策であったという認識のないまま記載内容を容認したものであろう。
 この文末には、同集会の主催は「韓国ソロクト・台湾楽生院(この言い方もおかしいが~)ハンセン病補償請求訴訟支援連絡会」となっており、連絡先は「ハンセン病国賠訴訟東日本弁護団」、HPの案内は「ハンセン病小鹿島更生園補償請求弁護団」となっている。弁護団も支援団体もいっしょになって、植民地当時の差別、民族否定の意識でこの二つの集会を持とうとしているのだ。

 2003年8月8日の小鹿島での「人権シンポジウム」において、この訴訟を始めた大きな意図として、小鹿島更生園に強制収容された人びとが日本の植民地統治時代に受けた被害事実および国家責任を明らかにしたいという意識があった。翌年春、台湾楽生院への調査結果から同院にも日本の植民地統治時代に受けた被害事実があることが弁護団の中でも認識され、2004年5月、熊本市内の白川公園での雨中の集会で、徳田靖之弁護士から、台湾楽生院の人たちの補償法申請をソロクト弁護団としても取り組みたいこと、その支援を!という訴えがなされた。被害事実の大きな内容として「皇民化政策の強行と民族否定政策」の国家責任ということがあったはずである。

 私も自著『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』(広島青丘文庫、2000年3月発行)の「Ⅱ、日本植民地支配下の小鹿島の子どもたち」で、民族教育を否定する皇民化政策を論じてきた。また、『小鹿島更生園強制収容患者の被害事実とその責任所在』(人権図書館・広島青丘文庫、2004年5月発行)でもこの問題を論じてきた。それらを一挙に吹き飛ばす今回の「差別記述」である。

 皇民化政策による創氏改名は、植民地支配の最たるものである。南次郎朝鮮総督によって朝鮮人の名前まで日本式に改められた。このことは、台湾でも同様な道をたどった。

 台湾楽生院に収容され、民族教育を否定する皇民化政策を強制された黄さんたち3名が、日本名として政子、菊子、玄二という名前を付けられ、「日本人」として教育されたと私たちに言うことと、日本人が黄さんたちのことを「日本名・政子、日本名・菊子、日本名・玄二」と書きまた呼ぶのは、意味がまるっきり違う。これは、皇民化政策による創氏改名=民族の否定という被害事実という視点を全く失った「植民支配者」の論理である。こんなことで、なんでこの裁判が闘われるのか。小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団は、答えて欲しい。

 これは、植民地支配という蔑視・差別とその上にハンセン病差別・蔑視が加わり甚大な被害となったという認識がまったくない。あきれはてて、言う言葉もない。こんな不条理なことを許してならない。
 全国の心ある人たちよ! この「通知文」を公表した小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団とハンセン病国賠訴訟東日本弁護団に対して、皇民化政策による創氏改名を容認している事実に、怒りをもって抗議を集中しようではないか。

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2005年9月27日 (火)

『未来』11月号の私の論文の掲載について

 「植民地下 小鹿島更生園での『生体実験』―KBS(韓国放送)の取材に答えて―」というテーマで、月刊『未来』11号の原稿を書き上げ、今日、同社編集部にメールに添付して送っておいた。11月初旬には、発行される。ソロクト・楽生院補償法請求の行政訴訟が10月25日に判決が出て原告が勝訴すれば、政府に東京高裁への控訴断念さすための闘いが行なわれる時期に、『未来』11月号は発行される。この冊子が闘いの一つの武器として、活用されれば嬉しさこの上もない。写真を二葉入れているので、全体で、約1万文字の論文である。

 この『植民地下 小鹿島更生園での「生体実験」―KBS(韓国放送)の取材に答えて―』の末尾には、つぎのように書いておいた。また、森正孝の論文の末尾にはつぎのような記述がみられる。「‥‥私たちの真の目的は、歴史責任を見すえ、理不尽に命を奪われた人びとの名誉を復権することをとおして、真の平和をこの東アジアに打ち立てることである。そのためにこの闘いは続けられる。」と結んでいる。同感である。
 いま、厚生省監修『らい文献目録・医学編』一九五七年発行、814ページに採録されている「ハンセン病目録」などを手がかりに、2~3行程度に内容が抄訳されている。その出典の雑誌名の原本にいちいちあたって、人体実験の有無を調べる必要があろう。あと私の余生は少ない。そのことを若い世代の研究者たちに期待したいと思う。

 ソロクト・台湾楽生院の補償請求訴訟の東京地裁での判決は、10月25日に行なわれる。植民地支配下にあって、収容した人びとに過酷な被害を日本国家が行なったこと、その国家責任を認め、日本政府に対するソロクトら原告の訴えを認める判決が出ることを期待している。

 ここ数日、『未来』の原稿を書いていたので、「滝尾英二的こころ」の「日記」を書くのが遅れている。しかし、この1ヶ月間で、訪問いただいた数は今日現在で延べ2,035に及んでいる。国内だけでなく、韓国からの「訪問者」もかなりあるらしい。
 10月上旬をめざして、戦前・戦中に撮った写真を含め、私が小鹿島を訪問し始めた1995年3月以降から現在までに撮影したり、蒐集したりした写真を多量に「滝尾英二的こころ」に、項目別に画像・写真を掲載を予定している。そのためもあって、10月3日夕刻、広島発の東京行き「夜間高速バス」に乗り、10月4日の夜は、水道橋にあるビジネスホテルに1泊。10月5日の夜に東京・八重洲口から出る「高速バス」の乗り広島へ帰る。これが一番安上がりである。持病持ちの老身には少々難儀だが、これも闘いだと思っている。その間、「滝尾英二的こころ」の小論が出せない。お許しを乞う。

 「流木は枯れず」という諺がある。毎日のホームページ「滝尾英二的こころ」に訪問していただくためには、毎日の内容を充実させなければ、その「ホームページ」は枯れてしまう。そういうホームページを私は数多く見てきた。こうした事例にはしたくない、これが私の「闘い」であると思っている。

 『飛礫』2005年48号・秋季号が10月1日には発刊される。そのなかには、私の論文を含めて3つのハンセン病問題の論文や報告が掲載される。一般の書店の店頭に並ぶのは、発刊から1週間は遅れるということだ。ぜひ、この『飛礫』48号、および『未来』11月号をお読みいただけたらと思う。
 この度の総選挙で自民党の圧勝に終わった。そして日本がますます危険な途を歩もうとしている。「平和憲法」がこれでは危なくなる。この度の『未来』11月号は、ジャーナリソトで作家の青木冨貴子さんの『朝日新聞』の「私の視点」掲載記事を引用した。
 「‥‥くしくも9月11日に日本で総選挙が行なわれる。多量破壊兵器があるといって踏み切ったイラク戦争に、日本がこれからも同調し続けるのかsどうかが最大の争点になると私は思っていた。しかし、選挙戦で大きな論議になっていないのはなぜなのか」、という論考を私の小論の冒頭に入れて書いた。
 道はいかに険しくても、その道をあゆみながら、そして闘いながら、私は彼岸に向かおうと思う。

                                     滝尾英二(05年9月27日 17:55)

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2005年9月24日 (土)

続・小鹿島更生園の患者への生体実験と七三一部隊(05年9月24日)

【1、七三一部隊の人体実験】

 「‥‥‥『9・11後、イラクを侵攻したことは、真珠湾攻撃の後、メキシコに侵攻したようなものだ』 当時、テロ対策全般の最高責任者だったリチャード・クラーク氏は03年の引退後、NBC放送の番組でこう発言し、イラク攻撃が一方的で、完全見当違いの軍事的冒険だったとかたった。(中略)60年前の終戦の直後にも米国の指導者はいかに惑わされたか、私はこの夏上梓(じょうし)した『731』に記した。時の連合国軍総司令官マッカーサーも、トルーマン大統領も、関東軍第七三一部隊が隠し持っていたペスト菌や炭疽菌などの実験結果を入手したいがため、隊長の石井四郎以下部隊員と秘密の取引を交わした。 (中略)データは米本土へ運ばれ、七三一部隊員はひとりも戦争犯罪に問われることはなかった。いまだに日本政府は七三一部隊が存在した事実は認めても、生物戦実験や研究が行なわれた事実を公式に認めたことはない。
 今回、くしくも9月11日に日本で総選挙が行われる。多量破壊兵器があるといって踏み切ったイラク戦争に、日本がこれからも同調し続けるのかどうかが最大の争点になると私は思っていた。しかし、選挙戦で大きな論議になっていないのはなぜなのか。」

 長文にわたって、上記の青木冨貴子さん(ジャーナリスト・作家:ニューヨーク在住。『朝日新聞』05年9月10日の「私の視点」に投稿し掲載された記事)を引用したのは、今回のテーマである「七三一部隊と小鹿島更生園の生体実験」の問題を考える貴重な視点を提供しているからである。なお、最近の新聞紙上で青木冨貴子さんを紹介したものに、『毎日新聞・東京夕刊』2005.08.23の「青木冨貴子さん『731』を刊行 冷戦下の戦犯免責、石井四郎ノートにみる」(桐山正寿)や、『朝日新聞・大阪朝刊』2005.09.18の「『細菌部隊』が戦犯追訴を免れた事情に肉薄―『731』青木冨貴子著、〔評者〕野村進(⇒Aahi.com/BOOK)がある。
『731』(新潮社・391p、1785円)青木冨貴子著、〔評者〕野村進は「読書欄」で、つぎのように『731』青木冨貴子著を紹介している。

 「‥‥‥アメリカにとっては、石井らを絞首台に送ることよりも、彼らが満州から密かに持ち帰った人体実験のデータのほうが、はるかに重要であった。とりわけペスト菌に感染させたペスト蚤は、「七三一部隊が発明した当時の最新秘密兵器」で、ソ連も虎視眈々と狙っていた。石井らは戦犯の追訴を免れるため、その背後にいた陸軍参謀本部は『天皇にも累が及ぶ』のをかわすべく、いわば血まみれのデータをアメリカ側にそっくり引き渡したのである。
 元七三一の面々は、素知らぬ顔で戦後の医学界に活躍の場を得た。自称『石井の番頭』はのちのミドリ十字を創設し、“薬剤エイズ事件”を引き起こす。(中略)日記に垣間見える石井の素顔が、人一倍の母親思いだったというのも、人間存在の底知れなさを感じさせるばかりだ。」

 今年8月15日から17日にかけて、『日経』、『読売(東京版)』、『朝日』、『中国』、『山陰中央』など各新聞が一斉に、【ワシントン=共同】の配信として「731部隊関係者に報酬、GHQ 報酬の見返りに」(『朝日』)とか、「731部隊、ペスト菌の開発詳述 日米で資料発見 ノミ使い細菌戦」(『中国』)といった見出しを付けた各新聞社の記事が掲載されていた。そのうち、【ワシントン16日共同】の『中国新聞』8月17日の27面の「社会」版に4段付きで、つぎのように記載されていた。その一部をつぎに紹介する。
「太平洋戦争中に細菌戦の準備を進めた旧関東軍防疫給水部(七三一部隊)が、ノミを使って致死性の高いペスト菌の細菌兵器を研究開発した過程や、ペストで死亡した患者データの詳細が十六日、日本側文書や米議会図書館の資料で判明した。同図書館は、部隊関係者が戦後、米軍に提出した人体解剖記録(英文)を一般公開する方針を決定。公開に先立ち、共同通信と神奈川大の常石敬一教授(生物・化学兵器)に閲覧を認めた。」

【2、小鹿島更生園での人体実験の真相】

 さて、この記事を読んで、神奈川大学評論叢書・第5巻『医学と戦争――日本とドイツ――』御茶の水書房(1994年6月)発行を久しぶりに紐解いてみた。すると、つぎのような記述がされているではないか。
 「医学界の中で、人体実験は公然の秘密であった。ということは嘱託の先生たちは、自分の弟子が部隊に行けば人体実験に手を染めるだろうということを知っていたはずなわけです。それを知っていて送っているわけです。
 それからさらに言うと、小島三郎なんていうのは、赤痢のワクチン、これは全然効かないんですけれども、この開発を頼まれたり、それから細谷省吾という東大の教授は、破傷風とかガス壊疽、そうしたもののワクチンの開発を頼まれています。で、試作品ができるたびに石井のところに届けているわけです。その試作品はどうなるかというと、それは当然、石井部隊などに送られて人体実験をさせられて、そのワクチンが有効かどうかということが確認されるはずなわけです。その結果は、東京の防疫研究室を経由して、それぞれの委託研究者に教えられるということになるだろうと思います。」(15~16ページ)。なおこれは、「日本における医学の軍事動員」と題する常石敬一氏の発言である。常石氏は1943年生まれ。1966年東京都立大学理学部物理学科卒業。現在か神奈川大学経営学部教授。科学史・科学社会科。著書に『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫、1993年)などがある。

 私はこの本を読んだとき、「七三一部隊(隊長・石井四郎軍医中将)」、「細谷省吾という東大の教授は、破傷風のワクチンの開発を依頼され、石井部隊などに送られて人体実験をさせられて、そのワクチンが有効かどうかということが確認されるはず」と。
 ところが、1997年12月9日、午前10時50分からの小鹿島でのCさん(当時70歳)の証言(それは滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社(2001年9月)に発表)である。
 「‥‥破傷風というのがあるでしょう? 人体にはいると腰が伸びきってしまいます。日本は当時、ここの患者が多いといって中でも治る見込みがない人間たちに、それを生きた体に注射で入れたんですよ。
 本当に、あれほど残虐な人間たちがいることは不可能としか言えません。本当に何とも言いようがありませんよ。癩患者の治療をすると言っておきながら、破傷風の研究に患者を使って人体実験をするなんて‥‥‥」(296ページ)。同じくDさん(当時79歳)の証言=「それから大きい事件は、さっき出た軍人、ほら、軍隊で医師をやる人。そう、軍医。その軍医が断種手術もしたし、医学の研究をいろいろやっていて。二四時間でひきつる注射。みんな、「ひきつる注射」と呼んでいました。頭がこんな風にひきつるんですよ。注射されると。そして二四時間で死ぬ。そのために人がものすごくたくさん死んだんです。」(300ページ)。
 さらに、2003年8月9日に、日本の弁護士三名(徳田、国宗、大塚)、報道機関三名と滝尾の計七名が、二名の小鹿島の入所者の聴き取りを行なった。それを国宗弁護士が録音し、国宗直子氏のホームページ(⇒)に「日本植民地時代の被害の聴き取り」として収録されている。その中で、入所者はいう。
 「‥‥注射されて神経が引きつれて死んだ人が何人もいる。何人かがねじれて死んだ人が何人もいるから怖くて診察に行かなかった。研究のためだと思う。治療については何の説明もなかった。大風子油は知っているがそれではない。それで二〇人くらいは死んだと思う。だから治療には行かない。昭和18年かそのころのことだったか、よく覚えていない。注射をされてからすぐに神経が引きつれて1日か2日で死んだ。みんな人体実験だと推測していた。実際はわからない。何の説明もないから我々にはわからない‥‥‥」。
こうした小鹿島入所者の聴き取りと合わせ考えると、1943年43年~42年ころ小鹿島更生園においても、七三一部隊同様に、破傷風のワクチンの開発のための人体実験が行なわれ、多くのハンセン病患者が、殺されたことを私は、確信している。その当時の小鹿島更生園長は、西亀三圭である。

【3、小鹿島更生園長・西亀三圭ら関係者を免罪にしてはならない】

 「滝尾英二的こころ」の9月2日付けの「小鹿島更生園の患者への生体実験と七三一部隊との関連をKBS(韓国放送)からの取材を受けて=雑感」のなかで、つぎのように書いた。
「小鹿島更生園で、収容された患者が死や傷害をもたらす人体実験がなされていたことを殆んどの日本人は知らない。また、知ろうともしない。私はここ10余年、全羅南道南端にある孤島・小鹿島を訪問し、何度となく小鹿島での患者の生体実験の証言を聞いた。小鹿島更生園長・西亀三圭たち日本人が引揚げるとき、園にある日本統治時代の書類はすべて、焼却している。したがって、小鹿島での患者の生体実験を資料的に裏付けることは、困難である。なお戦前西亀は、朝鮮総督符の警務局衛生課長から第5代小鹿島更生園長に就任している。戦後は厚生技官として1949年~52年まで栗生楽泉園勤務している。西亀の戦前に朝鮮で行なったハンセン病患者のおことの責任は、いまなお問われずにいる‥‥。」

 七三一部隊の隊長・石井四郎ら隊員の面々は、素知らぬ顔で戦後の医学界に活躍の場を得た。同様に、敗戦時の小鹿島更生園長・西亀三圭ら小鹿島の患者の人体実験に関わった面々は未だに、人体実験の事実を明らかにしようとしない。また、私自身を含めて研究者もこの問題の究明をおろそかにしている。
 小鹿島補償請求弁護団やハンセン病問題に関する検証会議の関係者だった人たちも同様、ソロクトでの人体実験を充分、明らかにはしていない。「人命・人権無視」のこの問題を、今なお放置しているかのようである。それは、何ゆえなのだろうか。

                      (滝尾英二、2005年9月24日に記す)

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_324_2_308向かって左:西亀圭三 
中:「哀悼の追慕碑」―1945年8月21日、西亀三圭園長らに雇用されていた朝鮮人職員らの手により、患者自治委員ら84名が虐殺された。この「哀悼の追慕碑」は、虐殺された84名を追慕する為に、現在の「本館前の場所」に建てられた。右の写真はその除幕式の模様。

 

_1736_1732 左:萬霊塔(納骨堂)の前に1991年に建てられた「恨鹿碑」
右:小鹿島病院の倉庫にあった葬儀用の「追悼」の文字のある花輪

              私たちの不作為の謝罪の意を込めて・・・

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2005年9月23日 (金)

「強制隔離・処遇改善表裏一体論」―大谷藤郎氏の実像・その再検討― (その1)

【はじめに】

 最近、読んだ「ハンセン病市民学会」のホームページの森川恭剛さんの『青木恵哉とその時代』と題する論考は、私の「意」とする内容であった。森川さんは、「ハンセン病問題に関する検証会議・検討会員であつたが、昨年10月7日の検証会議委員と検討会の合同会議に傍聴した際、あいにく、欠席されていたので、まだ私は一度もお目にかかったことはない。しかし、その研究や活動の数々は存知あげていて、尊敬できる研究者であると日ごろから思っていた。

 さて、ホームページに出ていた森川さんの『青木恵哉とその時代』の冒頭の報告要旨の一節をまず、紹介する。
「ハンセン病市民学会運営委員・琉球大学助教授 森川恭剛〔報告要旨〕 2005 年6月20日 第一回交流学習会(沖縄エリア)にて。
 1.熊本地裁判決は1975年頃から療養所内の生活条件等が一定程度改善されたことを理由として、隔離政策による被害が軽減していたと認識しています。これをある意味で追認したのが検証会議報告書における、らい予防法の改廃が「遅れた」理由に関する「強制隔離・処遇改善表裏一体論」という考え方です。全患協運動は人権論を棚上げにして処遇改善を要求したと指摘されています。しかし、ハンセン病隔離政策が療養所からの退所に関して消極的であったことは間違いなく、法廃止はむしろ「遅らされた」のだと思います。退所規定を持たないらい予防法は入所者の社会復帰を阻害して、ハンセン病差別を維持する法律でした。したがって療養所入所者の平均年齢が70歳に達して、これを廃止しても退所者が極めて少ないという時期になり、同法はようやく廃止されたのだと考えます。」

===================================
 この論考で森川さんは言及されていないが、法廃止を遅らせた中心的官僚の立場にいたのが大谷藤郎氏である。実際、大谷藤郎氏は、国立ハンセン病療養所課長、さらには厚生省医務局長として彼が行なったハンセン病施策は、ハンセン病患者を国内の13ある療養所に収容させ、入所しない人たちには治療体制やハンセン病患者への社会差別を放棄し、報道機関や学校への啓発推進を怠り、退職後は藤楓協会理事長になったが、1996年まで「らい予防法」や「優生保護法」を廃止せず、「経済的強制隔離と処遇改善」を行なった中心人物である。
 いま、『全患協ニュース縮刷版』や大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』勁草書房、1996年発行などで、1972年以降、厚生省の国立療養所課長に就任以来、「強制隔離・処遇改善」をして入所者の社会復帰を阻害して、ハンセン病差別を維持をはかり、非入所者か社会で生き難い情況をつくったことをはしなくも記述している。

 さらには、『らい予防法見直し検討会・議事録』(第1回から第8回)厚生省保健医療局エイズ結核感染症課編・発行を読んでいるが、その座長は大谷藤郎氏であり、厚生省からは岩尾総一郎エイズ結核感染症課長、長田浩志同課企画法令係長らが出席している。(岩尾総一郎、長田浩志著「らい予防法の廃止」、『公衆衛生』1999年3月発行、154~159ページ)。この『らい予防法見直し検討会』は1995年7月6日から同年12月8日まで8回(小委員会の2回は除く)開催されている。その中で、大東文化大法学部教授の中谷瑾子委員、名古屋大学法学部教授の森山昭夫委員とともに、藤楓協会理事長で国際医療福祉大学学長の大谷藤郎座長が最も悪質な発言を繰り返している。厚生官僚である岩尾総一郎担当課長が、資料提出などでらい予防法見直し検討会をリードしている。このことは、滝尾英二著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察―厚生省現職官僚「岩井証言」の批判―』第四集、広島青丘文庫(2000年12月1日)発行の「第一章・第四節、第五節34~63ページ」を参照されたい。

 今回の「滝尾英二的こころ」は、「強制隔離・処遇改善」を実行した大谷藤郎氏の実像について明らかにしていきたい。
 本年3月に出された『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』は、八百数ページの大部なものであるにもかかわらず、不思議なことに『らい予防法見直し検討会』のことが書かれていない。『見直し検討会』(1995年)にも『検証会議』(2002~05年)にも、委員として参加した人として、金平輝子、和泉真蔵、牧野正直がいる。また、神美知宏も両方の会に関わっている。しかも『らい予防法見直し検討会・議事録』(第1回から第8回)厚生省保健医療局エイズ結核感染症課編・発行は、「らい予防法」廃止の経緯やそれに続いて行われた『「らい予防法」違憲国家賠償請求事件』とも重要な関連をもち、同会関係者として証言した人として、和泉真蔵、大谷藤郎、岩尾総一郎ら各氏がいる。この重要な『らい予防法見直し検討会』の討議経緯が『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』のなかで、まったく出てきていない。検証会議の七不思議の一つである。この問題にも迫りたいと思う。

 【第1】、2000年3月10~11日に、鹿児島県鹿屋市の星塚敬愛園で開催された「第73回日本ハンセン病学会」での大谷藤郎氏の不思議な行動

_1618  2000年3月10~11日に、鹿児島県鹿屋市の星塚敬愛園で開催された第73回日本ハンセン病学会に掲載された報告文・「ハンセン病は終わったか ―ある悲しい報告―」が地元鹿児島大学皮膚科の4名の医師および吉井皮膚科の医師が行なった。当日の報告では、1997年度3月末までにハンセン病と診断された新患者は16名、うち日本人が8名であるといい、この中に1997年4月22日に近医皮膚科より国立鹿児島大学皮膚科へ紹介受診した90歳の鹿児島市出身の女性がハンセン病罹病者と診断し、治療を始めた。発表者からスライドで大きく写しだされた老女は、面長の美しい顔をしていた。_1620
 この女性がハンセン病だと診断されたのは、「らい予防法」が廃止された1996年4月1の約1年余り前のことである。ハンセン病と診断され、加療中、「患者と同居する家族や親族からは、ハンセン病に関する問合わせが相次ぎ(例えば、小児が近寄ってもよいかなど)」、ハンセン病と診断された2箇月後の6月、「患者は自殺(縊死)した。遺書等はなく、はっきりとその原因を断定することはできないが、家族の過剰なハンセン病に対する反応を考慮すると、その結果にハンセン病に対する誤解が深く関わっていたと考えられる」と、報告された。
 ハンセン病患者と初めて診断された老女が自殺(縊死)して、3ヵ年が過ぎようとしている。国は、国立鹿児島大学からどのような報告を受け、この事件を教訓として、何を行なったのであろうか。鹿児島大学皮膚科に対して、事実の究明と、どのような指導と援助をしたのであろう。それは、藤楓協会理事長である大谷藤郎氏の課題であったはずである。
 報告後、2,3の質問はあった。ところが、大会直後の大谷藤郎氏の「市民講演」が同所で行なわれたが、この「ある悲しい報告」に大谷氏はふれようともしなかった。「ハンセン病予防法」廃止に尽力し、1999年8月には、国賠訴訟では原告側に立って証言し、隔離政策に終始反対した小笠原登の直弟子を自認した大谷藤郎の面影はなく、自分が尽力した「らい予防法」廃止の自慢話に終始した「市民講演」の内容であった。私は大谷氏に、『「らい予防法」廃止された直前、この鹿児島の地でハンセン病と診断され、2箇月後に老女が自殺(縊死)したことを「らい予防法」廃止に尽力された大谷さんはどう思われるか』という質問をしようとした。
しかし、鹿児島空港発の飛行機に乗る時間に間に合わないと、今泉星塚敬愛園長と一緒にそそくさと会場を後にした。自分が尽力したという「らい予防法」廃止の2箇月余には、同地の鹿児島でハンセン病と診断の上、老女が縊死したというのに~。私はそれ以後、大谷という男を全く信頼できなくなった。

 【第二】裁判に弁護団に有利な証言をしても「過去の行為」の免罪にはならない。歴史事実には「免罪」として、過去の事実を消すことは出来ないこと。

最近、『らい予防法見直し検討会・議事録』(第1回から第8回)を読んでいるが、腹立たしいことが多い。『第6回らい予防法見直し検討会・議事録』を読んでみると、岩尾総一郎エイズ結核感染症課長が「それでは、今までいろいろと御論議いただきましたので、これを踏まえまして、座長とまた御相談させていただきますが、次回に報告書の素案というものを提示したいと思っております。」(40ページ)。ところが、和泉さんが指摘しているように議事録には「重要な」改ざんがなされている。その責任を岩尾総一郎担当課長から、たえず「座長とまた御相談させていただきますが、次回に報告書の素案というものを提示したい」とする大谷座長は、この「改ざん」問題の責任をどのようにとったのであろうか。

 滝尾英二著『「らい予防法」国賠請求事件資料の考察(第四集)―「岩尾証言」の批判―』広島青丘文庫、(2000年12月)発行の53~54ページには、私はつぎのようなことうを書いている。
ところが、「岩尾陳述書」は、奇妙な詭弁を展開している。以下それをみていこう。

 「‥‥疫学的には、社会経済状況の向上に伴いハンセン病の発病が減少することが知られており、現在の日本のように衛生水準が高くなると新たなハンセン病の感染・発病者は極めて少なくなると言われているが、このような知見が確立した時期はいつかについては、らい予防法見直し検討会でも検討されていない」(「岩尾陳述書」四ページ)という。その一方で、「専門家からなる(「らい予防法見直し検討会」-滝尾)医学検討小委員会がハンセン病の医学的知見について考察をくわえ、『いまではハンセン病は早期発見と早期治療により、障害を残すことなく外来治療によって完治する病気となった』との報告をを本委員会に対して行ったが、本委員会においては、「今では」というのはいつなのかということが問題となった」(「岩尾陳述書」四~五ページ)。
  さらに、大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』勁草書房の三六三ページには、「らい予防法立法時の過去の過ちの原因は、医学的に充分な論議検討を行なうことなく、ハンセン病の患者さんに対するステレオタイプの蔑視、偏見、差別観から、いとも簡単に伝染病として隔離や断種に走ってしまった点にあると考えている。(中略)検討会としては念には念を入れることとして、医学小委員会を設置して案をまとめて貰い、再度検討会として検討確認することとした。
  医学検討小委員会は次の委員(委員―中嶋  弘、牧野正直、村上國男、参考人―和泉真蔵、後藤正道、斎藤 肇)によって八月一〇日、八月二八日の二回にわたって作業を行ない、そこでハンセン病の医学について以下のようにまとめられた案が九月一四日の検討会で討議に付された上、そのまま原案通り採択された」と書かれている。

  ところが、「岩尾陳述書」には、大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』とは異なった内容記述がなされている。即ち、「本委員会においては、『今では』というのはいつなのかということが問題になった。これについては、委員の中でも様々な意見があり、小委員会の参考人であった当時の国立多磨研究所の和泉氏はDDSによって社会復帰者がたくさん出たからこの時ではないかとの意見を述べた。他方、同人は、臨床医の立場から本当に治るようになったということができ、誰もが完治ということに疑問をさしはさまなくなった時期としては、治療実績が向上し、再発率も非常に少ない多剤併用療法が提案された一九八〇年代であるとも述べた。また、当時の多磨全生園園長の村上氏は『障害を残すことなく』完治するかどうかについては、昭和四六年のリファンピシンが強力な殺菌作用を発揮したとして一つのけじめであると述べた。そして、『障害を残すことなく完治する』といえる時期については多剤併用療法以降ではないかという意見が委員の間で有力であったため、本委員会の報告書の医学的知見のところでは、小委員会報告書の『今では』の部分が『多剤併用療法が確立されて以降』という文言に変更された」(「岩尾陳述書」五ページ)という。

  「岩尾陳述書」は、極めて曖昧模糊とした「お役人」文書の典型である。見直し検討会小委員会の参考人であった和泉氏が、ハンセン病は……障害を残すことなく完治する病気になった時を、DDS使用する時期以降とするとしながら、他方、一九八〇年代の多剤併用療法以降とするとの臨床医としての提言をしたというが、それを何時、どこでしたのか、同じく見直し検討会小委員会の委員である多磨全生園園長の村上氏は、昭和四六年のリファンピシン使用の時期を一つのけじめとすると述べたというが、これも何時、どこでしたのか「岩尾陳述書」には書かれていない。小委員会報告書の「今では」の部分が本委員会において、このことが問題になり、「多剤併用療法が確立されて以降」という文言に変更されたのは、いつの本委員会なのかも曖昧である。大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』では、見直し検討会小委員会のまとめられた案が九月一四日の検討会で討議に付された上、そのまま原案通り採択されたと書かれている。採択された小委員会の原案は、その後、いつ「今では」の部分が「多剤併用療法が確立されて以降」という文言に変更されたのか、『らい予防法廃止の歴史』では、なにも語っていない。
  そこで、私はとても不十分な記述をしている大谷藤郎著『らい予防法廃止の歴史』などを参考にしながら、次のように推論した。これは、基本史料(らい予防法見直し検討会「速記録」など)を見ないで書いていないので、あくまでも私の「推論」であり、後日、原告ら代理人・裁判官は、基本史料によって「推論」を確めていきたい。

  岩尾厚生省元「ハンセン病担当」課長は、この度、熊本地裁(東京地裁にも)に提出した陳述書によれば、「厚生省としても、これらの意見を踏まえ、医学的知見と法が乖離した時期については、検討会での最大公約数的な意見を採り入れ、多剤併用療法が提言された以降であると整理した」(「岩尾陳述書」五ページ)という。「最大公約数的な意見」とは、なにをいっているのか、それは誰の意見なのか、その意味内容は具体的になにかは、「岩尾陳述書」には、一切述べられていない。

  「障害を残すことなく完治する」といえる時期については多剤併用療法以後ではないかという意見が委員の間で有力であったため、本委員会の医学的知見のところでは、小委員会報告書の「今では」の部分が「多剤併用療法が確立されて以降」という文言に変更された(「岩尾陳述書」五ページ)とある。「多剤併用療法が確立されて以降」という文言に変更された「らい予防法見直し検討会」は、第三回(九月一四日)の見直し検討会で討議された上、医学検討小委員会原案が通り、そのまま採択された。ところがいったい、その後、いつの本委員会で審議され、書き替えられたのか。大谷座長は、自著『らい予防法廃止の歴史』の中でそのことは、何も語っていない。そして、書き替えられた「らい予防法見直し検討報告書」は、同書の三六八~三七九ページに載録されている。

  再度言おう。大谷藤郎座長は、自著のなかで、医学検討小委員会は、「八月一〇日と八月二八日の二回にわたって作業を行ない、……まとめられた案が九月一四日の第三回親員会で討議に付された上、そのまま原案通り採択された」と書いている。大谷さんの書いていることが正しいとすれば、小委員会報告書の「今では」の部分が「多剤併用療法が確立されて以降」との文言に変更(「非常に重大な変更」)をしたのは、一〇月一六日行われた第四回「らい予防法見直し検討会」以降のことになる。最終回の「らい予防法見直し検討会」(第八回)は、一二月八日であるが、いったん第三回見直し検討会(九月一四日)で、そのまま原案通り採択されたものが、その後、再度、親委員会で「医学検討小委員会報告書」を無視して、「検討事項」にされたのは何故なのだろう。医学検討小委員会の「最終的な報告書」が、(報告書の原案を書いたという和泉参考人にも何の相談もなく)書き替えられたのは、第四回(一〇月一六日)から、最終回(一二月八日)までの第何回かの「らい予防法見直し検討会」で、再度蒸しかえされたのは何故か。それに基づいて、事務当局の当時「ハンセン病対策」を担当していた元厚生省保健医療局エイズ結核感染症課の岩尾總一郎課長、長田浩志エイズ結核感染症課企画法令係長たちが、大谷藤郎座長の助言を受けながら、最終「報告書」の作成がなされて、その結果、十二月八日の「らい予防法見直し検討会」に提出したのではないか。

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2005年9月20日 (火)

『どしがたきもの―1990年・秋・50日―』のまえがき、それを書いた故・多田司さんのこと

_213  庭の書庫にある山積みされた「資料の山」から、滝尾英二著『どしがたきもの―1990年・秋・50日―』が数冊出てきた。その冊子をハンセン病問題に取り組んでいる友人のいくにんかの人に「寄贈」したら、手持ちの同『冊子』が1冊を残して、なくなってしまった。別の学友からもこの『冊子』のことを知って、「私にも頂戴!」という依頼があったが、そういう事情で送れない。
 その「序文」を「激怒と絶望の吐露―まえがきにかえて―」と題して、親友だった故・多田司さんが書いてくれた。
 もともと、この『冊子』は私が公表・出版を意図して書き、また発刊したものではない。B5判で56ページのこの冊子は、活字ではなく手書きの文字が細かく書かれていて、出版も多田さんとその仲間たちが金を出し合い、業者に頼んで印刷・製本したもので、発行部数も100冊か150冊程度だったのではと思っている。その何冊かを多田さんから私に送ってきたものである。だから、ほとんどの人の目には曝されていない。今回の「滝尾英二的こころ」の作成者に、たまたま送ったことが一つの契機となり、少人数の方の間の話題になったに過ぎない。だから、この『冊子』は奇観本には違いない。また再刊する気持ちも、私にはない。
 しかし、冒頭に多田さんが書いてくれた「序文」は、いま現在の「ソロクト訴訟原告弁護団」や「ハンセン病市民学会」の一連の動きを考えるとき、参考にはなるだろう。「歴史は繰りかえされる」というから‥‥。そう思い、かつまた、親友・多田司さんへの好意に答えるという意味からも、冊子の「序文」・「激怒と絶望の吐露―まえがきにかえて―」を「滝尾英二的こころ」に掲載しようと考えた。

 私より年若い多田さんが、脳溢血で亡くなったことを知らされたのは、ソウルのホテルで、国際電話が連絡があったからだ。だから、葬儀には参列できなかった。その夕刻に閉門前のプルコダ公園(旧称「パゴダ公園」)に行き、多田さんを哀悼する歌を2曲、私は唄った。「憎しみのるつぼ」(ラーディン作詞・作曲、鹿地 亘訳)、「同志はたおれぬ」(ステークリッヒィ作詞、小野宮吉作詞)である。その後、私は「涙そうそう」であったと思う。

_1559 多田さんの思い出は多い。多田さんは、高等学校教職員組合の闘士であり、また広島県高同教定時制・通信制・養護学校専門部の理論的・実践的リーダーだった。私はといえば、県教育委員会事務局指導主事・県立教育センター指導主事などを長年勤め、その後は高校の管理職(教頭)や県立図書館の管理職(主監、副館長)の職にあった。いわば、水と油の仲であったはずなのに、妙に気があう「同志」だった。プルコダ公園(旧称「パゴダ公園」)に行き、多田さんを哀悼する歌「憎しみのるつぼ」は、多田さんに依頼されて広島県高同教福山地区定時制・通信制・養護学校専門部の1988年夏期全員合宿研究会で「特別報告・解放教育35年をふりかえって」のを講演した際、その最後に聴衆の皆の前で唄った歌である。
 全員合宿研記録『石積み・15』17~18ページによると、その時私はつぎのように話している。
 「‥‥‥私は仕事をしようとすると、一緒に真剣に仕事をする女の人がすぐ好きになるわけです。それをマドンナいうんですけど。そのマドンナには、自分の裏切りを見せとうないいうのがあるんですよ。だから、この職場で家族がおってもですよ。好き合う仲ができんと、それは本物の仕事にはならんのじゃないか、と思います。それから、そのうちに今度は男が好きになるんですよね。本当に。女も好きですけれども、男にほれるような、抱きしめたくい気持になることがあるんです。そういう感性のようなものが、やはり解放教育運動を、解放運動を支えていくんじゃないかと思います。
 昔の歌を印刷したものを持ってきとるんですけれども、今日配って歌おうか。歌唱指導しようか思うとるんですけれども‥‥‥一つだけ歌わせて下さい。

   「憎しみのるつぼに 赤く焼くる
    くろがねの剣を 打ちきたえよ
    くろがねの剣を 打ちきたえよ」

 一八九七年にモスコワの獄中で政治犯エリ・ラーディンが作詞・作曲したもんで、イリイッチ・レーニンが最も愛した歌です。 終わります。」

 1988年のころの広島県教委の管理職は、この程度の講演は可能であった。これが、多田さんと私とを堅く腕組みできたのだろうと思う。多田 司さんのご冥福を祈りたい。

********************************

「激怒と絶望の吐露 ―まえがきにかえて―」
                         多田 司

 研究会の場で、長い長い沈黙が続く。それが感動で失語しているというのとは全く異質で、無関心でしかないと感じられるとき、解放(・・ルビ)を希求するものにとって、その沈黙はどれほどの怖さであるか、思い量ってみたことがあるか。ひととしてのあたり前の感応といえるか、紛れもない人間の無視ではないのか。――1990年秋、高同教大会第Ⅱ・B分散会に露呈した問題の実像(・・ルビ)は、このようなうそ寒い情景の中にある。「同和」教育運動の基質の崩壊に他ならない。
 滝尾さんは、高同教なんぞこんなものだと、したり顔で講釈するわたしたちの横面をはり倒して、激怒した。この問題を総括すべくもたれた四回の会議に参加する中で、滝尾さんは、毎年の報告書などに「運動が形骸化・空洞化している」と書くその人が、自身の形骸化を何ら疑うことなく、またしても表層のところでⅡ・B問題を総括(処理)しようとしていることに、一層の憤怒と絶望を深めていった。そのことをわたしたちの前に隠さなかった。わたしたちもまた痛かった。
 この小冊子は、組織総括をするという高同教の会議に向けて、滝尾さんが渾身の情念と意力とを傾けて綴ったメッセージを収録したものである。組織総括はいずれ文字化され、公けの目にふれることになるだろうが、それは、めげつくした高同教運動の蘇生の糧になるはずもなく、机上に埃をかむる印刷物の一つでしかないだろうと予想される。口惜しいが、そうだ。なぜそうしかないか。滝尾さんの小論を順を追って読んでほしい。深情けのような訴えから、激しい糾問へと変じる経緯の中に、その絶望のほどが語り明かされていこう。
              ○
 「まえがき」を書かねばならぬ羽目になって、想い起こす滝尾さんのことは、たくさんある。その一つふたつに触れよう。
 たとえば、1983年全通研高知大会の報告者として、彼はこんな話をした。

 <‥‥‥森さんが49年間どんな思いで生きてきたか、それを聞かせてもらうようたのみました。二日前に、来るなという伝言をうけました。わたしはそれを無視して、大雨の中をタクシーにのり、ビールをさげて出かけました。森さんは怒った顔で『今晩は帰ってくれ』と言いましたが、無理にあがり、ビールをのみながら話を聞かしてもらいました。話すのがつらかったのです。あけ方近く、森さんの寝入ったあと、私は天井の豆電球をたよりに、聞きもらしてはならぬことをメモしてねました。‥‥‥>。
 いまどこに、こんな話がころがっているだろうか。

 わたくしごとで言えば、20年ばかり前、高校生が学校と教師に向けて総反乱を起こし、「多田の指導が悪い」という整理がされていく場面があったが、そのとき全県で唯一の同和教育指導主事が滝尾さんだった。対策会議の「多田先生の指導をせえ」という注文に、滝尾さんは「ぼくにはできない」と断ったという話を聞かされた。「はい」としか言いようがない場でのことだけに、こみ上げてくる感動にわたしの胸は灼けた。この激励は身にしみて今も臓腑に収まっている。
 滝尾さんをよく知る人が「あの人はのう、イエス・キリストど。じゃけんの、ローマ帝国に殺されるんよ」と言っていた。そうだと思う。帝国に征服された二級品のローマ死民(・・ルビ)どもが、組織的ひろがりとかやり方を名目に、背走屈伏の理屈をぬかすのは聞くに価しない。元軍国少年としては、第7章は気にくわず、<噛みついたまま果てる>ほうが納得だが、これもまた滝尾さんらしいところだろう。
 こんなことでこの冊子は編まれた。1990年秋を精魂こめて生きた滝尾さんの五十日であれば、「滝尾遺稿集」そのⅠとでもしておこうか。それにしてもだ、広島県にはパウロたちはいないんか、パウロたちは。(1991年1月10日記)

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2005年9月19日 (月)

「ちいさいものを撃つな!」 その①――インド・ネパール・スペインなどの旅―

 1983年8月2日~19日まで、インド・ネパールへ一人旅をした。「悩んだこころの生傷」を癒すための旅でもあった。5年間、わたしは、定時制高校と通信制高校に通う生徒たちの放つきびしい「光線」をモロに受け、当時のわたしの心身は、疲れて傷ついていた。「なんとか、それを癒したい」という思いで18日間のひとりで旅に出たのである。
 東京を飛び発ち、タイのバンコク空港を経て、インドのデリー空港に降り立った。当てもない旅だったので、堀田善衛著『インドで考えたこと』岩波新書で書いている堀田がカルチャー・ショックを受けたというインド北東部にあるガンジス河口にある都市・カルカッタにむかう。カルカッタ空港からタクシーで博物館へ直送してもらい、近くの安ホテルを宿に定める。
 公園の猿使い、街頭でひどい障害者の見世物、大道芸の数々、インドの神・カリーを祭る寺院、女性を入れないイスラム教の寺院、多種多様な民族の雑居、そして博物館で見たすばらしい文化財の数々。店が雑居する市場の服屋でインド人が私の着るインドの白木綿の衣装を作ってもらう。聖なる河・ガンジスの濁流に身を沈める女性たちの姿‥‥。当時のインドの紙幣は、インドで使用している主要な言語15種類あってその価格が表示してあった。地方語を入れると七百の異なった言語があるという。広大で人口の多いインドだから、それほど驚くことはない。
 面白かったのは、カリー寺院の前の広い道路上で、着飾ざった太っている中年の女性が、食べ物をやせ細った人たちに配っている。中年の女性に施しを受ける貧民たちは威張った態度で「施しもの」を受け取っている。それは何故かとインドの人に聞いてみると、「施しをすることによって来世にはよく生まれ変われるのだそうだ。だから施しを受けることによって、相手に幸せを与えるのだから、施しものを受け取る人たちは、威張っているのだ」という。後日、デリーに帰り古道具屋で真鍮製のお椀を買って、私も道端で「バクシイーシイー(お恵みを)!」と何度も言ったのだが、だれも私に小銭を投げ与えてくれる人はいなかった。現在、インドで買った真鍮のお椀は家の仏壇の前におかれて、仏を拝む際の鐘叩きとして、使用している。

_1481  カリー寺院を訪ねた翌朝早く、宿泊したホテルのすぐ近くにあるマザー・テレサのいる教会にひとりで訪ねた。マザー・テレサは、当時は病気で入院し、不在だったが、年老いたシスターに案内されてマザー・テレサの部屋に通された。その壁に掛ったマザー・テレサとローマ教皇=法王の写真及び、「法王の写真とラテン語?で書かれた文」、多分それは教会設立の承認書だったと思うが、その額が掛ってあった。
_1482  教会の庭先では、「おじや」のようなものが炊き出され、それを「ドラム缶」のようなものに、何缶となく積めていた。それらは「滝尾英二的こころ」に掲載された写真を見てもらいたい。しばらくして、トラックの荷台に、その「ドラム缶」のようなものを、全部ではないが積み込み、多くの若いシスターが、その荷台の上に乗りあがってきた。「マザーがつくった『死を待つ部屋』へ今から行く」という。私も荷台に同乗する。若いシスターたちは、動くトラックの荷台の上で、きれいな声で斉唱していた。

 行った先は、前日行ったカリーの寺院だった。死を待つ部屋の中に入ると、部屋はかなり広く、何室かあった。部屋に並べられたベッドには、一人ずつ痩せ細った老人たちが寝ていた。教会のシスターたちは、年配の女性の指示に従い、働き始めた。まだ、欧米人の男女の若者たち(多分、ボランティアだろうと思ったが)が働いていた。
_1422  すでに、「滝尾英二のアルバム」に掲載されているカリー寺院前の白い病院の十字文字が付けられた車が写る写真があるが、この一枚の写真は、若い男性が「担架」で死んだような老人を運こんでいる。あれはカリー寺院内にあるマザー・テレサの経営する「死を待つ部屋」から出て行く遺体を写したものである。とてもショッキングな場面であった。
 マザー・テレサはインドにおいてハンセン病患者の治療施設をつくっている。南アジア・西アジア・アフリカなどでは、現在は「治る病気」が、貧しい患者たちには、適切な治療されることがないでいる。医療関係者がいないか少ない上、薬品が高価なので貧しい人たちの患者には「高根の花」なのだ。ハンセン病患者は充分な治療を受けることができないでいる。だから、それがハンセン病患者の生活の貧しさも加わって、この地域がハンセン病の多発地域となっている。先進国の薬品会社は「特許権」を理由に、薬品のコピーも許さない。そのために、多くの人たちは「治る病気」であるハンセン病を治さないでいる。

 カルカッタから、飛行機でネパールに行く。白い峰が連なる雄大なヒマラヤを機上から眺めながらカドマンズ国際空港へ着く。空港から車で市内のホテルへ。ホテルの3階の大きな部屋が2つ、大きなベッド1つある部屋に数日、宿泊する。
_1383  街を歩くと、路上で子どもたちが輪になって1冊の絵本を読んでいる。街の道筋や広場では野菜や衣類、雑貨類を並べて売るバザールが開かれている。赤い民族衣装を着た少女がホテルの庭の手押しポンプで水を汲みに来た。その少女を写った写真、バスの上に乗った人たちの写真、ネパールの山上の寺院の小さな広場にたむろしている子どもたち、廃屋に立つ少年と少女の姿などをうつした写真の数々がある。あの子たちは、22年後の現在30代のネパール社会を担う年齢の人となり、あの頃は元気であった私は、年を老い、かつ「持病」の糖尿病と腰痛を病んでいる。政情不安ないまのネパールは何処へ~。

 カドマンズでは、街を歩いていると広場にたくさんの大きな鉄管が野積みされている。ネパールのことに詳しい人に「あれは何ですか」と聞いてみた。クボタ鉄鋼が水道用鉄管を日本から援助物資だと送ってきたが、カドマンズでは水道施設もなければ、これからも水道施設つくる計画もない。だからだいぶ前から鉄管がああして、野積みされたままですよ」という。日本政府による低開発国の開発援助も、現状の情況を調べず物資のみ送ればこんなことになる。
 ネパールで知り合った男女数人のグループと仲良しとなる。なんでも中古の乗用車を日本から正規の手続きをせずにインドやネパールに運び、これを売って金を儲けていると言っていた。彼らのお陰で、曼荼羅が描かれている細密画(タンカというらしい)を2枚購入できた。縦60㎝、横40㎝ほどの布地に細かい筆で綿密に書かれたのもである。ものによっては、細密画1枚書き上げるのにひとりの職人が3ヶ月もかかると言っていた。いま、壁にガラス付き額にタンカを入れて、私の寝室の壁に1枚、「つれあい」の居間の壁に1枚を掛けている。
 中古車運びのグループがネパール人の仲間を連れて、私の居るホテルに数人やってきて、ウオッカを飲みながら、大麻の樹脂の黒い小指ほどの大きさのものをマッチの火で炙り軟らかにして、それを紙巻煙草の中に入れて回し吸いを始めた。要らないと思えば「パス」すればいい。「ネパールにはマッシュ(きのこ)を食べると幻想の世界にしたれるので、一緒に食べに行かないか」と誘われたが断った。彼らが言うには、「インド文学の幻想的内容には、大麻の影響がある。半ば公然とみやげ物店で売っていて、この1本の価格は200円ほっだ」と言っていた。
 カドマンズの河川敷には、チベット難民が多数簡単な住居で住んでいる。中国のチベット政策の弾圧から難民がネパールへ逃れてきているのだという説明だった。

 首都のデリーに引き帰す。8月のデリーは、気温は摂氏40度に近いが空気が乾燥していて木陰は案外涼しく過しやすい。デリーでは扇風機1つの小さな部屋の安宿と、豪華なホテルとに泊まる。身なりが貧相だからか、後者のホテルの宿泊料金は、先払いである。白人客は後払いなのに~。
_1384  少年が自転車のペダルを漕ぐ「リキシャー」に乗ってデリー市内を見物する。坂道を必死で自転車のペダルを漕いでいる少年の後姿が、いまも忘れられない。
 デリーでは売買春は法で禁止されているのに、身をひさぐ少女たちが3階建のビルの室内の窓越しに客を呼んでいた。貧しい家の少女だろう。ニューデリーの豪華な邸宅に住む人たちがいる。反面、路上で寝る宿無しの人たちもいる。リキシャーを賃借りして客をとる人たちが、路上に客を乗せる自転車を並べて寝ている。洗濯を業としている人たちは、人の汚れを洗うためか被差別民として差別され、洗濯屋だけの集落があった。聖と賎、貧富の著しい差、女性差別等などを実感させられるインド・ネパールのひとり旅であった。そして私の人生を変える転機ともなった。

_1540_1539   スペイン・ポルトガル・モロッコの旅は、1986年7月7日~18日までの12日間の旅だった。そこで感じたことを何点かあげよう。
 第一は、スペインでみたフラメンコを踊る女たちのことである。『広辞苑・第四版』で「フラメンコ」を引くと、「(「フランドル」の意)スペイン南部アンダルシア地方のジプシー芸能から出た歌と踊り。ギターで伴奏」と書かれてある。『広辞苑・第四版』の発行は1991年11月発行の古いものを私は使っている。いまは改正されていると思うが、「ジプシー」は不適切語であり、通常は「ロマ」と呼ぶ。
 スペイン南部では、ロマの人たちが貧しい生活をして、崖に横穴をたくさん掘り、横穴の「アパート生活」をしている。ドイツのヒトラーが、「優生思想・政策」でゲルマン民族の優位性を強調し、ユダヤ民族と共に、ロマの人たちも虐殺した。あの激しく足を踏み鳴らしながら、ギター伴奏で、カスタネットを指に挟んで鳴らしながら、美しい民族衣装を着て踊る人を見ると、芸術的以外に、「キリスト教文明・文化」のもつ支配者論理と、それに対する支配抑圧された民族の、反骨の血を感じた。フラメンコを男性のギター伴奏で踊る女性たちの画像を送ったのは、その「被抑圧者」の怒りと哀しさの姿・表現を理解してもらいたかったからである。朝鮮の「仮面劇」にも、共通する民衆の知恵と、それに民衆の哀しみと喜びとを感じる演舞だと思った。
 第二は、気長な仕事の必要性である。
 バルセルナでスペインの建築家ガウディ(1852~1938)の神聖家族聖堂(未完成)を見た。このの建物は建築し始めて1世紀余りたったいまも、工事中で未完である。気の遠くなるような「気長さ」である。未完だが高い塔の上まで昇れる。仕事にこのような「気長さ」も必要だと思う。昼間は店を閉め、夜の10時ころから開店する飲み屋がある。ちょっと沖縄の久米島の飲み屋の開店時刻と似ているなと思った。
 第三は、ものを買う時は慌てて買わないことである。定まった価というものがない。買い物は売る方も、買う方も楽しみなだら気長に売買するものである。
 モロッコの「カスバ」の内にある絨毯を売っている店に入って感じたことだが、そこで、小さな絹製の手製の絨毯を売っていた。最初に慌てて買った人は日本円の2万円余りで買っていた。私は絨毯など買う気持ちはなかったが、店を出ると7,000円に負けるというので買っておいた。モロッコのカスバで買った絨毯は、20年ほど経った今も部屋に敷いて、当時を懐かしんでいる。スペインで食べたものとして、印象的だったものは、シェリー(スペイン南西部でつくる葡萄酒)を飲みながら生ハムを食べたことである。生ハムの塊りが天井からつるしてあって小刀で削ぎ、それを肴にシェリーを飲む。安くて美味しいかった。あの味が忘れられない。

 海外の旅で感じたことは、一口でいうと「ちいさいものを撃つな」ということであった。また、人びとの考えも行動ややり方も多種多彩、「十人十色」であるということであることを痛感した。
                                         (9月19日、4:20Am  滝尾英二)
   
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2005年9月18日 (日)

続・冬敏之さんから滝尾宛てにきた「はがき」と「封書」

fuyu   「冬敏之さんから滝尾宛てにきた「はがき」と「封書」」と題して、8月30日と9月1日(木)に「滝尾英二的こころ」へ投稿してから、もう20日が過ぎようとしている。昨日(9月17日)の午後、「滝尾英二的こころ」に写真資料・画像を掲示しようと自宅の書庫を整理していたら、冬敏之さんから滝尾宛てにきた「封書」「はがき」がそれぞれ1通ずつ出てきた。先に紹介した手紙と関連があるので、今回の掲示は、その続編として滝尾宛てにきた冬敏之さんの「はがき」「封書」の内容を紹介する。

 滝尾宛てに送られてきた「封書」は便箋に1枚に書かれてある。年号は書かれていない。12月24日と封筒の裏側に書かれている。切手の消印はうすくて読めない。
 「はがき」の消印は半分だけおされていて、芳(YOSHI)とあり、日付けも読めない。ただ、冬さんの「はがき」の文面に「『ハンセン病と人権―長島愛生園』をご寄贈頂きまして」云々とあることから、同冊子の発行が2001年1月24日(実は、実際に発行されたのは、2月末であった)ことから、2001年3月にいただいたものだと思う。)

 「封書」の方は、冬さんが「もの足らぬ」云々と書いているところから、皇太后節子の短歌のつくった「ものたらぬ おもひありなばいひいでよ 心のおくにしめおかずして」を指していること間違いない。もちろん、「つてづれ」というのは、「つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆくことかたきわれにかはりて」という短歌である。
  そうだとすれば、封筒の裏書の「12月24日」と書かれているところから、「封書」は、2000年12月24日に書かれたものだと考える。(「滝尾英二的こころ」2005年8月30日付けの「掲示」を参考にしていただきたい。)
さて、「封書」と「はがき」をつづけて下記に掲載する。

  ① (「封書」に書かれた文)=「前略、過日は遠いところを、ごくろうさまでした。滝尾さんのエネルギッシュなご活躍に、私も刺激をうけました。全生でもお話ができてうれしく存知ました。
 同封のものは、過日埼大での今年度の最終ゼミで発表したものです。いずれもう少し調べる必要があると思うのですが、私などなかなかできません。
 あなたが言われていたように、「つれづれ」は厚生省や職員地帯へ建てるべきでした。そうして「もの足らぬ」こそ、患者地帯の現在碑のある一等地へ建てるにが当然と思われます。
 節子の役割など負の部分については、所内ではタブーになっていて、今もその傾向は続いていると思います。今後いろいろしなくてはならぬことが多いようです。
 ではまた、体に気をつけてご活躍下さい。                  草々
 滝 尾 英 二 様                                冬 敏 之 」

 ② (「はがき」に書かれた文)=「前略、過日は『ハンセン病と人権・長島愛生園』をご恵贈頂きまして、たいへんありがとうございました。早速見せて頂きました。私が長島にいたころのことなど、懐かしく思い出しました。私も今年5月には、小説集『ハンセン病療養所』を出版することになり、昨日入稿しました。出来ましたらご覧頂くつもりです。裁判の方も何かと忙しくなってますが、私は目下、肝臓の治療の方に重点を置いてます。今後のご活躍を祈ります。」

 いま私は、「滝尾英二的こころ」というホームページの執筆に夢中である。そして、写真・図録・音声の諸資料の収集・整理などに励んでいる。これは、現在に対して「いかに考え、またいかに闘うか」という問題提議と同時に、22世紀=つまり100年後の世代にも、記録として残しておきたいということを意図している。
 もう、いま生きている人たちは、すべて死に絶えている。しかし、22世紀に生きる人たちに「100年前に生きた人たちの、真実に生きてかつ闘った歴史」を伝えたいと思う。つまり、冬さんを含めて「人の生命(いのち)の尊さと人権を守る」ために、真剣に生きてきた群像を記録=インターネット資料として残しておくという仕事がしたい。
 いまは、この世を去り、彼岸にいらっしゃる冬敏之さん! このようにしたいと思ってくれますよね。            2005年9月18日  午前2時50分  滝尾英二

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2005年9月16日 (金)

最近、思うこと。――私がなぜ「小鹿島更生園の歴史」にこだわり続けているのか。

 「滝尾英二的こころ」に掲載する「日記」を9月11日から4日間、書かずにきた。病気休養していたわけではない。「滝尾英二的こころ」に写真・画像を充実させるため、私が写した写真・画像および写真・画像で蒐集して未発表のものを掲載することに、時間をとられていたからである。
 「小鹿島更生園・台湾楽生院補償請求弁護団」の公式ホームページは「ソロクトの過去と現在」の写真を掲載しているが、内容が極めて乏しい。10月25日には、東京地裁でその判決があり、その前夜には、約1,000名規模の集会が持たれるという。しかし、その集会に集る人数の多寡だけが問題ではあるまい。この40日間で、どのようにして、多くの人たちに、日本の植民地支配期において、小鹿島更生園・台湾楽生院の「人命・人権無視」の施策・行為などが当時行なわれたのか、それは日本政府の責任ではないかを、知ってもらうことではないか。そのためには、今までの文字=文章による論考よりも、日本の植民地支配期の写真や図版、または現在の情況などの写真・画像を「滝尾英二的こころ」に数多く、かつ分り易く掲示する必要があろう。
 幸い私は十余年間、数千枚の写真を撮ったり、また蒐集している。この写真や資料を「滝尾英二的こころ」に掲示して、説明書(コメント)をそれに添えることが、10月25日の東京地裁でその判決前にすることが大切だと思う。

 この「滝尾英二的こころ」をどの程度の人たちがご覧いただいているか不明だが、次第に日本や韓国で見ておられる方が、増えていることは確かである。しかし、私が所有している写真資料・画像は、未整理のまま死蔵され、私自身、何があるのかも定かではない。
「ソロクト」の戦前撮った写真資料が、倉庫や書庫を探せばいろいろ出てくる。庭の書庫を丹念に調べると、未だ出てくると思う。しかし、山積みされた書庫の写真資料は、倉庫の中に入ることが出来ないほど山積みされていて、現在の私の体力では無理である。

 私は有志の方たちのインターネットの技術とハンセン病の認識に依拠しながら、「滝尾英二的こころ」を立ち上げて、その充実をはかっている。10月25日の東京地裁の判決までに、写真資料を多量に掲載し、分かりよいホームページ=「滝尾英二的こころ」を早急に作らねばならない。

 そうは思ったのだが、私のインターネットの技術は乏しい。写真・画像を「滝尾英二的こころ」に掲示するには、私が持っている写真資料などを接写し、それをパソコン送信することが不可欠である。早速、接近して複写出来、また250枚は撮影できる520万画素の小型デジカメを購入した。
 あとは、これをCDに現像し、その画像を自分のパソコンに取り入れ、担当者のところに送信できる技術を習得することである。幸い、その技術を何とか習得することが出来た。そんなことで、「滝尾英二的こころ」に掲載する「日記」を休んでしまった。読者に申しわけなく思っている。

 このことをしながらも、考えることが多々あった。その一つは、ハンセン病に罹患した事のない私、しかもかもソロクトと自分は、どういう関係があるのか。自分にとって「なぜ、ソロクトなのか?」という問題がある。
 ここ10余年、私は「ソロクト」のことに、こだわり続けてきた。しかし、私はなぜ「ソロクト」のことに、こだわり続けてきたかを、この際、明白にしいなければならいと思う。
 自分にとって、「ハンセン病原告の支援」とは一体なにか。私がソロクトを考えるには、もちろん、お金や名誉・社会的地位、学問的地位を得るためのものではない。しいていえば、ソロクトの人たち=その支援者を含めて、その人たちを「愛」する心があるからではいのか。それは、長いことつづけてきた人間関係・感情からきているもののような気持ちが、そうさせているのだと思う。

 私にとって‥‥、「古いアルバム」をめくりながら、ふと思ったことは、「アルバム」に出てくる森さんなど被差別部落の人たち、さらには、ハンセン病の「病歴者」の人たち、障害者の人たち、原爆被爆者たち、また、日本の植民地支配に苦しめられた人たち。そうした何百人もの人びととの思い出のなかで、それらの人たちとの「愛情」がつちかわれてきた。さらに、彼岸に既に旅立つ立った人たちをも含めての私の「愛情」が、いまの行動のエネルギー・原動力となっているように思う。
 結論的にいえば、私のハンセン病問題への取り組みは、ハンセン病問題のためだけでなく、ハンセン病とりわけ、ソロクトの人たちのことを知識として伝えることではない。ハンセン病問題を通して、ハンセン病患者、病歴者を含めて「小さきものを打つ」ものへの怒りであり、そしてまた、私を含めての「小さきもの」への限りない「愛情」のようなものだと思っている。

 今日の昼、広島厚生年金会館において「五木ひろしと石川さゆりのふたりのビックショー」を見に行った。久ぶりのコンサート観賞である。2時間半、メドレーを入れてふたりで「35曲」も歌った。石川さゆりのまだ10歳代の「津軽海峡・冬景色」、また「風の盆恋唄」、名曲「天城越え」や「転がる石」、「秋のメルヘン」など。五木ひろしは「夜空」、「長良川演歌」、「暖簾」、「千曲川」、「ふりむけば日本海」等など。しかし最後に五木ひろしと石川さゆりのデュエットで歌った「いつでも夢を」が最高によかった。原音は、若かりし橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲であるが、この曲の作曲した故・吉田正さんにちなんで、最後の曲としたのだろう。
 五木ひろしと石川さゆりのふたりが「いつでも夢を」を歌った。「そうだ、私もいつでも夢を持ち続けなければならない」と思う。

 帰り道で、歌謡曲のDVDを3枚も買った。
 「五木ひろし、55才ハッピーバースデー」、「美空ひばり―東京ドームⅢbyDVD」、「BEGINの15周年ドギュメント」の3枚である。
 美空ひばりのDVDにはライヴだけでなく、「ドームへの道、ドーム準備、ドーム楽屋」というヒストリーが40分も収録されていた。石垣島出身の「BEGIN」のDVDには、「こんな気持ちで15年やってきた。これがBEGINスタイル。貴重映像で綴った15年の歩み、歌声が聞こえる本番直前‥‥」とそのDVDの帯には書かれていた。明日以降、休息時間にはゆっくりと、これらDVDを視聴したいと思っている。

 広島厚生年金会館の会場には、島津亜矢(熊本市出身)と、夏川りみ(沖縄の石垣島出身)のコンサートのポスターが張り出されていた。ふたりとも「威風堂々の体格」で、声量豊かに歌う歌手である。出来たら、また再び広島厚生年金会館に見に行こうと思う。

                  (‘05年9月16日  午前3時35分  滝尾英二)

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2005年9月11日 (日)

『「ソロクト弁護団」に対する質問および問題点の指摘』

 山口の地で部落差別と闘っている会のかたから、「滝尾英二的こころ」へコメントが来た。
「‥‥滝尾さんのブログをみつけ、読み始めています。真摯な取り組みに敬意を表します。広島の知人にも知らせました」と書かれてあった。書かれた日付は、9月9日とある。だとすると、滝尾が9月7日に「滝尾英二的こころ」に掲載した『「ソロクト弁護団(国宗直子代表兼事務局長)」に対する質問および抗議』の内容はご存知のはず。今回の「滝尾英二的こころ」のテーマは、この問題を詳細に書くとともに、8月29日夜に行なった水口眞寿美弁護士の『この裁判では何が争われたか』と題する集会発言再録のその後についても論じたいと思う。

 イギリスの歴史家・ギボン(1737~94)は、『ローマ帝国衰亡史』(6巻)の中で同帝国の衰亡した原因として、「古代ローマ人の無知や慢心」をあげ、「かれらは、未開の周辺諸国を蔑んでいただけでなく、ときにはその存在さえ忘れて、しだいに自国と全世界とを混同するまでになっていた」と書いている。つまり、古代ローマ人の道徳的退廃にローマ帝国衰亡の要因を求めているのだ。
 このギボンのいうことになぞらえていえば、ソロクト弁護団の衰亡は、弁護士たちの道徳的退廃に起因していると思われても仕方がないと思う。ここ数年を顧みれば、きりがないのでさし向き今回の「小鹿島更生園、台湾楽生院補償請求弁護団」(以下「ソロクト弁護団」という)のうち、今年の5月以降にことを限って、話をすすめたいと思う。

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 まず、この度「不正確な点を一部修正して再録しました」と水口眞寿美弁護士の『この裁判では何が争われたか』と題する集会発言再録について言及したいと思う。つぎの3点に考えていきたい。

 第一は、9月10日(?)に書き換えられた「水口眞寿美弁護士の『この裁判では何が争われたか』と題する集会発言再録」には、冒頭に「(不正確な点を一部修正して再録しました)」とある。
 9月9~10日ころの「ソロクト弁護団」公式ホームページは、水口眞寿美弁護士の集会発言を書き換えたと思われるが、いつそれが書き換えられたのか、不明である。
 「更新履歴」には、「2005・9・3更新」とあり、そこには、「2005/9/3  8/29期日のご案内を更新」と書かれていて、「水口眞寿美弁護士の集会発言再録」のことは「更新履歴」とは書かれていない。それはなぜか、「ソロクト弁護団」は回答してもらいたい。

 第二は、果たして修正された「水口眞寿美弁護士の集会発言再録」は、事実に沿って正確なのかが問われているが、この点、後述する滝尾の意見を読まれて、ご回答をお願いしたい。

 第三は、「不正確な点を一部修正して再録しました」という。修正された「水口眞寿美弁護士の再録集会発言」は正確で、9月3日の記述は、不正確だといっている。なぜ、「不正確な点」が書かれたのか、その点を明らかにし、ご回答いただきたい。
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 私は、戦前・戦後を通じて数多くの警察・検察当局がおかした冤罪事件を知っている。そのことを通じて、警察・検察当局の被差別者に対する差別・偏見にみちた見込み調査、長期間拘留して過酷な取り調べ、その結果、強制された自白、デッチ上げられた証拠、警察・検察の証拠隠滅、また、それに基づく警察・検察のマスコミ関係者への発表の数々を知っている。その警察・検察のマスコミ関係者への発表を鵜のみにした報道記者たちの報じる「報道記事・放映」で、世論が形成されたという歴史事実を知っている。
 戦後だけでも、「死刑確定後再審無罪事件」として免田事件(発生・1948年)、財田川事件(1950年)、島田事件(1954年)、松山事件(1955年)さらに、「死刑判決事件」として、帝銀事件(1948年)、三鷹事件(1949年)、牟礼事件(1950年)、藤本事件(1952年)、名張毒ブドウ酒事件(1961年)などを私は知っている。
 松川事件(1949年)狭山事件(1963年)は、藤本事件(1952年)とともに、とりわけ私の人生に大きな影響を与えた冤罪事件であった。そして、いままた、こともあろうに「ソロクト弁護団」により、人権を守るはずの弁護士のつくる「ホームページ」で、日本国内いな、全世界へ「インターネット」を使用して、1938年6月に大阪からソロクトへ送致された人たち22名は癩患者窃盗犯事件関係者と書かれ、多くの人たちに、そのように知らされて認識させているのである。

 部落解放同盟中央本部のホームページによると、「狭山事件」について、つぎのように書いている。
 「部落差別が生んだえん罪 狭山事件」
「いまから37年前の1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、脅迫状がとどけられるという事件がおきました。警察は身代金を取りにあらわれた犯人を40人もの警官が張り込みながら取り逃がしてしまいました。女子高校生は遺体となって発見され、警察の大失敗に世論の非難が集中しました。
 捜査にいきづまった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を集中し、なんら証拠もないまま石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、1カ月にわたり警察の留置場(代用監獄)で取り調べ、ウソの自白をさせて、犯人にでっちあげたのです。地域の住民の「あんなことをするのは部落民にちがいない」という差別意識やマスコミの差別報道のなかでエン罪が生み出されてしまったのです。」

 ”もっとも美しい黒人”といわれデンゼル・ワシントン。今年のアカデミー賞にもノミネートされるなど、実力も兼ね備えたブラック・アクターとしてハリウッドの頂点に立つ。このデンゼル・ワシントンが主役を演じる『ザ・ハリケーン(THE HURRICANE)』をDVDでみた。主人公は黒人であるゆえに、冤罪で投獄された天才ボクサー「ルービン・カーター(ハリケーン)」である。テレビでも放映された。また、このUSAで起きた冤罪事件の救援のため、ボブ・ディラン(Bob Dylan)も「ハリケーン」を作詞・作曲し、また歌った。8分33秒もの曲である。1975年にUSAのNew Yorkにあるコロンビア・レコードから「DESIRE(願望)」と題して発売されたものを私はもっている。この冤罪事件は、ルービン・カーターの無罪釈放を勝ち取った。

 1938年6月に、大阪からソロクトへ送致されたハンセン病を罹病した人たち22名を「窃盗犯の人びとだからソロクトへ送致された」と、人びとに認識させてはならない、私はそう思っている。

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2005年9月 9日 (金)

「ハンセン病問題」と優生思想・優生政策の推移(その9)=ハンセン病療養所の患者に対する性管理と人権侵害

 日本において、ハンセン病療養所でワゼクトミーがいつから始まったのであろうか。ワゼクトミーを全生病院でハンセン病患者に、初めて施術したのは同病院長であった光田健輔であった。多麿全生園患者自治会編『倶会一処(くえいっしょ)―患者が綴る全生園の七十年―』一光社(1979年)には、つぎのような記述が「年表」の7ページに載っている。

 「一九一五年(大正四年)四月 ○断種手術を前提に、所内結婚を認める。療養所が終生の生活の場となる傾向を強めるに従い、患者両性間の交りが行われ、施設側は年々増加する出産児の措置に窮していたが、解決策として光田は、逸早くワゼクトミー(精系結絮手術)を採用することにした。最初の希望者三〇名。内務省は法的隘路を「患者から承認書を取って行う」よう指示し、それ以来婚姻の届出は断種手術の申込みと同義語となった。
○ 池田某(38才)に対し最初のワゼクトミーを行う(24日)」。

  光田健輔は、自ら行ったワゼクトミーについて、数多くの報告をしている。第25回日本皮膚科学会で「簡単なる輸精管切除術」を報告し、同題目で『皮膚科及泌尿器科雑誌』第25巻第6号(1924年)で発表している。その内容は、光田健輔著『癩に関する論文』第二輯・長濤会、1950年9月・出版、130ページをみることで容易である。その後、光田が報告・記述した「断種」に関する記述は数多い。その内容の中から、その一部を紹介しておく。

 「患者に「ワゼクトミー」を施せる患者の二〇ヶ年の経験よりして本法は被手術者に何等性欲の減退を招来することなく、母体の妊孕、分娩により病勢の悪化を予防し、然も其操作は極めて簡単にして癩の根絶法中白眉たることを強調す。而して其術式として演者は輸精管下部の切除、即ち局所麻酔の下に陰嚢後面皮膚を僅かに1cm切開し輸精管を露出し、其一部を切除することを推奨す」(「ワゼクトミー」に就て、『皮膚科泌尿器科雑誌』第41巻第3号・1937年・日本皮膚学会第32回岡山地方会で発表)。

 「……我等の癩療養所では男子患者にワゼクトミーが隠然行はれ一〇〇〇人を越えたと思はれる。(中略)本例研究の動機となつて、「ワゼクトミー」後二四年生存し社会的に活動を続けた、栗○に其の一側の睾丸を提供する様に勧告した。彼は全生病院に二〇年も療養を続け、引続き愛生園に来り活動を続けて居る神経癩である。彼は五一歳で……大正四年春二八歳の時、全生病院に於て率先して「ワゼクトミー」手術を受けた」(『レプラ』第10巻第1号、1939年、第12回日本癩学会に於て発表)。

 「ライ夫婦は子供を生まないほうがいいので、これは人道上からもライ予防の見地からいっても、重大なことである。私は医者として真剣にこの問題を検討した結果、優生手術(ワゼクトミー)をやることが、いちばん適切な方法だと思った。これはその名の示すとうり、優生学にもとづいて人類の遺伝的な素質をなくするために、外国で早くとなえられていた。……その方法は男子の輸精管の一部を切って上下の端をしばり、流れを絶つのである。これは局部麻酔で二十分くらいでできる簡単な手術であった。
  だが、実施するとなると国法で禁じられていることであるから、念のため弁護士の花井卓造氏や、東大の牧野英一博士にたずねてみた。その回答によると、「他の第三者が告訴すれば傷害罪を構成する」ということであった。善意と誠実でやることだ。勇気を出さなくては、何事もできるものではない。私が告訴されれば刑務所へ行くまでのことだと覚悟をきめた」(光田健輔『愛生園日記』毎日新聞社、一九五八年)。

 しかし、これら光田の発表した報告文のなかで、私が一番腹立たしく思ったのは、第12回日本癩学会において発表し、『レプラ』第10号第1号、1939年に発刊した『断種手術を施24を経過したる患者の睾丸及び副睾丸の変化』という報告文である。(同報告文は、光田健輔著『癩に関する論文』第三輯、1950年12月に収録されている)。

 「……「ワゼクトミー」後24年生存し社会的に活動を続けた、栗○に其の一側の睾丸を提供する様に勧告した。彼は全生病院に20年も療養を続け、引続き愛生園に来り活動を続けて居る神経癩である。彼は51歳で……大正4年春28歳の時、全生病院に於て率先して「ワゼクトミー」手術を受けた」と書きつづけて、さらに、つぎのように光田は記述する。
 「(昭和13年)9月15日早田医官により左睾丸を摘出した。
栗○酒気 20余年思出記:
 ……昭和13年9月12日光田園長殿が輸精管削除手術を受けて24年間、性的生活をして居る者は珍らしい。医学上の貴重の資料であるから(左睾丸)を呉れぬかとの仰せがありました。私は言下に差し上げますと申しました。
そして左の「コーガン」一つ取る手術を受けたのであります……9月15日入室手術の準備をしたのでありまあす。局部注射で30分間で手術は終つたと思ひます。手術中さのみ疼痛も感じませんでしたが、コウガンを取る時は、実に下腹内まで異様の不快の感でウントキバッてこらへましたが、問はれても答への出来ぬ位イヤな疼痛苦悩が2-3分間いたしました。縫合する時少し痛みましたが、手術後はさのみ痛みはありませんでした。……全く手術症が癒えるまでには4週間かかりました。
 尚コウガンを取つた時は、筋を取つた時の様にボツキは、全くいたしませんでした。10月12日第2回の性交をこころみましたが、この時も精液はホンノ少しばかり出た様に感じました。
 性交の時のボツキ力は手術前の如くでありません。其の力弱く女はたよりないと云ふて居ます。」

 「人体実験とは、生きている人体を使って実験することにより、死や傷害をもたらす行為」だとしたら、長島愛生園で光田健輔、早田医師によって行なわれた入所者患者・栗○さんの左睾丸を摘出手術は、「人体実験」だと言わざるを得ない。ところが、寡聞にして「ハンセン病患者の被害事実」、とりわけ法廷で「優生政策」を批判する弁護士からも、藤野豊氏・藤目ゆき氏・松原洋子氏など「優生思想・政策」を研究している諸氏の研究物のなかにも、この「人体実験」の報告をきかない。『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の中でも、この長島愛生園で光田健輔、早田医師が行なった栗○さんの左睾丸を摘出手術=「人体実験」のことは、ひどい人権侵害であるにも関わらず書かれていない。

 では、ハンセン病患者の男性患者に、光田健輔はどのような理由で、ワゼクトミーを実施したのであろうか。光田の記述の中から時代順に並べてみると、本音と建前とが見え隠れしてくる。一九二〇年六月、光田は「癩患者男女共同収容を可とする意見」を書く。それは全生病院で最初のワゼクトミーをはじめた一五年春から、五年後のことである。この意見書は、熊本の「回春病院」院長ハンナ・リデルが「政府にして近き将来に於て国立療養所を、設けらるるに於て男女を各別に収容せられんことを希望せりと云う、之に対して予は全く反対なる意見を有する者なるが故」書いたものだと、光田は「意見」書のなかで述べている。
  この「意見」書は、三節からなっている。「第一  管理上経済上男女共同収容の可なること」、「第二  両性各別隔離は却て自暴自棄的行為を助長すること」、「第三  次代の危険防止は容易なり」の三点をあげている。その中から、第二と第三の内容を次に述べておく。

 「第二  両性各別隔離は却て自暴自棄的行為を助長すること。 ……性欲の禁断は屡々情緒の変態を来し、尼院及女監獄にありては沈鬱悲観的の気分あり、男子のみの場所には乱暴狼藉の気分あり、殊に癩の如き自暴自棄的患者に在りては其の情調の激越なるに当らば癩病院を脱出して健康なる女子を犯すことなしとせず、明治四十二年某療養所の開院後間もなく男患者は看護婦に向て暴行を加えんとせるものあり、又近年某私立療養所に於て癩患者は教養ある尼僧を挑発し此れと相携へて噴火口の烟と消えし悲劇あり、夫れ性欲を抑圧せしむることは少数の患者に出来得べきも多数の患者を収容して終生此れを療養せざるべからざる療養所にありては困難と云わざるべからず、……男女の関係に於て乱暴狼藉を許さざるが故に如何なる自暴自棄の患者と雖も女性の歓心を得んとするに当りては、其の暴威を逞うする能はず、虎変じて反て猫の如き者となる、又如何なる莫連名淫なる婦人にしても其の適当なる配偶を得るに当ては恰も処女の稚態に変ず」。
 「第三  次代の危険防止は容易なり。  ……思うにリデル嬢が両性各別隔離所を設くべしとの説は内縁の夫婦が療養所内に続々成立し其の結果次代たるべき子孫の繁殖せん事を恐れ此の不幸なる児童の出産を防止すべしとの意に外ならざるべし、吾人も亦斯る児童の産れざらん事を欲す、若し療養所内に於て人生の好伴侶たる異性に求めんとする癩患者は予め極めて容易にして無害なる中絶法を行い、……蓋し癩に於ては睾丸は早期に犯され自然的中絶の事は早晩到来するものなれば、此の自然の妙機を補助すべき事は敢て天意人道に反するものに非らずと信ず」。

  光田健輔の「癩患者男女共同収容を可とする意見」の文章が、一九二〇年六月に出されていることに注目したい。その五年前の一九一五年春、光田は全生病院で最初の断種手術(ワゼクトミー)を施術している。また、前掲『倶会一処』の「年表」によると、「一九一六年(大正五年)三月 ○大隈内閣によって、癩予防に関する法律が一部改正され、「療養所の長は命令の定むる所に依り被救護者に対し必要なる懲戒又は検束を加うることを得」と規定された。(法律第二一号)(一〇日)。 「(同年)六月 ○癩予防に関する施行規則改正(内務省令第六号)。療養所長の被救護者に対する懲罰検束の権限が規定され、併行して監禁室が設置された」。

  こうした一連の歴史の動きをみていくと、光田のいう「癩患者は予め極めて容易にして無害なる中絶法」、つまり断種手術(ワゼクトミー)の施術が、療養所に入所しているハンセン病患者の医療・福祉が目的なのでなく、「癩療養所長」として療養所入所者の管理・統制が目的であったことは明白である。日本統治下の朝鮮での療養所入所者への断種手術(ワゼクトミー)の施術が、一九三六年四月から実施されたが、その目的も同一であった。
  光田健輔は、断種手術(ワゼクトミー)について、その後「医学的」な説明をしている。一九三六年四月の『愛生』に「「ワゼクトミー」二十周年」と題して書き、戦後の一九五八年五月、『愛生園日記』を毎日新聞社から発行し、同書に「ワゼクトミー」という項目でも、断種手術(ワゼクトミー)について記述している。光田の『愛生園日記』の中の該当箇所を、つぎに紹介したい。

 「子供が生れることも自然のなり行きであるから、そこに考えなければならないことが 起ってくる。結論からいえば子供を生ませてはならないのだが、子供を生んだ場合、どういうことになるか説明してみよう。
    一、彼らは伝説と経験から、ライの子はライになることが多いと考えている。
  二、母体がライであった場合の妊娠分娩はライ菌に対する抵抗力を失って、病勢つ
  のらせることは周知の事実である。
    三、男子の睾丸は、皮膚の最も繁殖する温床である」。

  一九三六年四月に発刊した『愛生』誌に掲載の「ワゼクトミー」の記述は、『愛生園日記』とほぼ同じ論旨である。「断種により男女並存せしめ得べし」の項では、「母体が癩であった場合に……潜伏したる癩菌が児童に出現発病しないとは保証は出来ないのである」、「斯の如き児童の将来は他の健康児と比較にならなぬ程暗黒で、父母として其責任を考えない者は人にあらずと云うてよいものである」。
 「第二、母体が癩であった場合妊孕分娩は婦人の癩菌に対する抵抗力を奪い急に病勢を増悪ならしむる事は周知の事実である。男性は此意味に於て傷害罪を犯したるものとして責任重大である。……第三、男子の睾丸は癩の好発する臓器であって、皮膚と共に癩菌の最も多く繁殖する源泉である。其精管内には精虫に混じって癩菌の存する事も事実である。……兎に角病的精液は妊孕せしむる力を有するものであっても生理的のものとは異なるもので虚弱児を孕ましむるものであり、又後来胎児に感染せしむる可能性のものである」。
 「以上の理由により癩夫婦は妊孕せしめざる事が人道上から云うも癩予防の見地から云うも重大なる意義を有す。妊孕を予防する方法は断種法を実行するにある」。

  光田のこのような見解に対して、藤野豊さんは「光田は、母親の胎内での感染や父親の精子からの感染、あるいは妊娠による母親の病勢の進行、乳児への母親からの感染を恐れてこうした処置(断種手術)をおこなったという(光田健輔「性の道徳」・『山桜』一二巻六号、一九三〇年六月)が、このような認識にもとづけば、ハンセン病自体は遺伝病ではないにしても、それに類似した形で、母子、もしくは父子感染していく危険性を内在させているとみなされるわけであり、ハンセン病は優生主義の対象に組みこまれうるのである」(『日本ファシズムと医療』岩波書店、一九九三年)と述べている。

  日本のハンセン病療養所では、どのくらいの患者が「断種手術」をうけたのか。光田健輔を含め、日本の医師たち自身の報告を通して、「断種」の実施の状況をみていくことにする。
  厚生省監修・犀川一夫編『らい文献目録(医学編)』長島愛生園発行、一九五七年に収録されている論文「内容抄録」のなかから、ハンセン病患者に断種手術についてみていくことにする。

① 野島泰治(所属・大島療養所)「癩患者に行える輸精管切徐例に就いて」 *『レプラ』第二巻第三号(一九三一年九月)。
「一九二三年より一九三一年の間に五五名のらい患者に輸精管切徐術を施し……」。

② 榊原五百枝(所属・九州療養所)「癩患者に施せる輸精管切徐術に就いて」 *『レプラ』第七巻第四号(一九三六年一一月)
「らい患者三三例について余の方法による輸精管切徐術を実施した……」。

③ 藤田敬吉(所属・全生病院)「癩患者に対する断種手術に就て」
*『レプラ』第一〇巻第六号(一九三九年一一月)
「断種手術として全生病院において大正四年より昭和一四年(一九一五~三九年)まで男性三八五名輸精管切徐を行ったが……」。

④ 玉村孝三、矢島良一(所属・楽泉園)「癩患者に対する断種手術に就て」 *『日本公衆保健協会雑誌』第一七巻第一一号(一九四一年一一月)
「七年間に男子一四〇名に対する輸精管切徐術を実施して来たが……」。

  以上、四施設の医師から収容している患者の断種手術の実施数が報告されている。この中には長島愛生園などお療養所は含まれていないし、断種手術の時期・期間も限られている。しかし、限定されたなかでも「断種」を受けた患者数は六一三人に及んでいる。いったい断種手術を受けたハンセン病患者数は全体で、なん人だったのだろうか。最初にこの断種手術を始めたのは光田健輔であるが、この件について、つぎのように述べてている。
「大正四年(一九一五年)「ワゼクトミー」を全生病院に実行して二十年になる。我々同志によりて行うたのは千人に垂んとする数である」(『愛生』一九三六年四月号)。それから十五年の後、『愛生』一九五一年二月号に掲載して、光田はつぎのようにいっている。
「毎年の産児問題の解決を、私は、漸く当時芽生えたばかりの優生術によって解決したが、それは実に一九一五年(大正四年)で、今から三六年前の事であった。……我が国では、ライ療養所だけでも二〇〇〇以上の材料がある」。

                      (2005年9月9日  滝 尾 英 二・記す)

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2005年9月 8日 (木)

「ハンセン病問題」と優生思想・優生政策の推移(その8)=朝鮮の新聞紙上に書かれた「断種」と民族優生思想

 滝尾は、自著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社(2001年9月)で『「優生思想」とハンセン病』を198~212ページに書いた。その中で1938年2月2日付の『朝鮮日報』に掲載された「時事解説・断種法立案説」という記事を紹介しておいた(209ページ)。また、同書の脚注の中にも、「○ 朝鮮総督府の御用新聞『京城新聞』(本社・ソウル)に一九三八年四月二一日から二三日まで工藤武城(婦人科学専門)が三回にわたり「断種法を縳る是非」と題して連載記事を書き、その中で、「婦人は最近実行されてゐる断種法は、精神にも身体にも、何等の有害なる作業を残すことなく」、「唯々生殖力を除くのみ」で、「これに因って、将来生れても、単に世人の迷惑計りではない、生れた当人も終生悲惨なる劣敗者として自分自身を呪ひ親を呪ふ。子供を生むと、何れが幸福なるべきやは論ずるまでもない」と述べている(209ページ)。

 滝尾英二 編・解説『植民地下 朝鮮におけるハンセン病資料集成』第5巻「新聞記事のみるハンセン病 Ⅱ」、2002年7月発行に収録した記事のうち、「断種に関する記事」や、「優生思想・優生政策」を書いた「記事見出し」および、この『~資料集成』発刊以後に収録した新聞記事も、その「見出し」を掲載しておいた。なお、「断種、優生思想・政策」に関する『朝鮮日報』『東亜日報』などの記事本文について、若干の記事を日本語に訳して掲載しておいた。

◎ 断種法について  医学博士・金重華 『東亜日報』、1933・06・08
◎ 優生学協会発起 民族社会の将来を思い 十四日千代田グリルで 『朝鮮日報』、
1933・09・13  ⇒【日本語訳】
◎ 優生学大講演会 朝鮮優生協会主催で 『朝鮮日報』、1933・09・26
◎ 講話・人類の優生学的思想とその運動 『朝鮮日報』、1933・10・03
◎ ナチスの怪法令―男女強制断種法 来年一月から実施、白痴と精神病者を防止するため、経費として七百万円計上 『朝鮮日報』、1933・12・22 ⇒【日本語訳】
◎ 新刊紹介・優生 第一輯、朝鮮優生協会 定価十銭 『朝鮮日報』、1934・09・02
◎ 不幸児の楽園―小鹿島癩療養所訪問記(6) 異性問題の葛藤に地方熱の軋礫 金昌洙 『東亜日報』、1934・09・19
◎ 優生大講演会 『東亜日報』、1934・09・26
◎ 朝鮮優生協会主催 日時・一月二十二日午後七時半、場所・鐘路中央基督教青年会 第二回優生大講演会、東亜日報社学芸部後援 『東亜日報』、1935・01・21
◎ 優生講演会会場{写真} 『東亜日報』、1935・01・23
◎ 社説・優生思想普及の必要 『東亜日報』、1935・01・26
◎ 殺人犯と悪疾者には子女生産を禁止 梅毒患者も手術してから結婚 今度の議会に上程された断種法案 『東亜日報』、1935・03・08 ⇒【日本語訳】
◎ 断種手術を受ける人が一年に二十万人 『東亜日報』、1935・04・05 ⇒【日本語訳】
◎ 新刊紹介・優生 第三輯、 定価 定価朝鮮優生協会十銭 『朝鮮日報』、1936・11・08
◎ 優生学と優境学 遺伝・環境・教養等に関して(一)(二) 梨花女高教員・李徳象 『朝鮮日報』、1937・06・10~12 ⇒【日本語訳(1)(2)】
◎ 時事解説・断種法立案説 『朝鮮日報』、1938・02・02 ⇒【日本語訳】
◎ 〔学芸〕断種法の科学的根拠―人間楽園を建設する第一歩(一)~(三) 世専教授 ・金鳴善 『朝鮮日報』、1938・02・10~12 ⇒【日本語訳(1)~(3)】
◎ 天刑病者 小鹿島更生園訪問記 ④ 情熱は人間の本能―廃人にも愛・愛 光州特派員・崔仁植 『京城日報』、1938・03・09 
◎ 〔趣味と学芸〕断種法を縳る是非(一)~(三) 工藤武城 『京城日報』、1938・04・21~23
◎  優生学から見た断種とはどんなもの? 帝大病院岩井内科・金思□ 『東亜日報』、1938・05・05  ⇒【日本語訳】
◎先天性劣悪民族防止のため断種法制定についに到着、厚生省民族優生会が決議、遠からず具体案作 『東亜日報』、1938・06・19
◎ 朝鮮に重大影響 総督府態度が注目 『東亜日報』、1938・06・19
◎ 社説・説 断種法施行説 『朝鮮日報』、1938・06・20 
◎ 〔学芸・小抄〕優生学会解散 『東亜日報』、1938・09・28 ⇒【日本語訳】
◎ 〔科学〕断種法に関して①~④ 李重澈 『東亜日報』、1938・11・01~09
◎ 民族優生保護法(断種法に代わる名)、本会議通過は疑問 『東亜日報』、1939・02・19 ⇒【日本語訳】
◎ 新断種法の目標、悪質増加の沙汰 民族変質の防止、但反対論も相当強硬 『東亜日報』、1939・10・13 ⇒【日本語訳】
◎ 議会へ提案する優生法、悪質遺伝素質を持った人口の増殖防止 『東亜日報』、1940・03・01
◎ 優生法案に賛否両論 『東亜日報』、1940・03・10
◎ 国民素質向上促進 断種法を実施することに 新年度には内地では実施 『東亜日報』、1940・03・13
◎ 優生法の実施期は一個年後? 1940・03・15
◎ 国民優生法案 希望決議附可決 貴族院委員会にて 『東亜日報』、1940・03・27
◎ 優生法公布 実施は明年七月頃 『東亜日報』、1940・05・01

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 以上、37タイトルの新聞記事の「見出し」と、その新聞記事の日本語の訳文を17ほど掲載した。また、私の机上には何冊かの「優生思想・優生政策」の研究書籍が置かれている。まず、その書籍をあげておこう。

① 太田典礼著『堕胎禁止と優生保護法』経営者科学協会(1967年4月)発行
② 小泉英一著『堕胎罪の研究』敬文堂(1956年9月)発行
③ 藤野 豊著『日本ファシズムと医療→ハンセン病をめぐる実証的研究―』岩波書房(1993年1月)発行
④ 藤野 豊著『日本ファシズムと優生思想』かもがわ出版(1998年4月)発行
⑤ 藤目ゆき著『性の歴史学―公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ―』不二出版(1999年3月)発行
⑥ 日本性教育協会編『現代性教育研究〔隔月刊〕―人工妊娠中絶―』小学館(1982年12月)発行
⑦ 神奈川大学評論叢書・第5巻『医学と戦争―日本とドイツ―』御茶の水書房(1994年6月)発行

 これらの「優生思想・優生政策」に関する書籍を読んで共通する問題は、日本が植民地支配をしていた地域=例えば、台湾・朝鮮・ミクロネシアなどの諸地域において、日本人関係者が犯した「優生思想・優生政策」に関した・政策・行為が、研究対象から外されていることである。
 藤野 豊著『日本ファシズムと優生思想』かもがわ出版を読んでも、527ページを割いて書かれた労作だとは思う。しかし、その中には日本国内の「日本ファシズムと優生思想」が論じられているが、日本ファシズムを論じているのに、国内問題のみを取り上げ日本が植民地支配をしていた諸地域を外して、果たして「日本ファシズム」政策なり、思想なりが全体像として歴史的に把握できるのだろうか、という疑問をもっている。私は植民地支配下の人びとの「歴史」を研究しないで、「日本ファシズム」の全体像は描けないと思っている。
 それが顕著に出ているのが、藤野氏が大きな役割りを果たしたと思われる「ハンセン病問題に関する検証会議」が出した『~最終報告書』(2005年3月発刊)だと考えている。藤野氏は、検証会議委員と検討会員を兼ねていた。

 この『最終報告書』は、日本が植民地支配をしていた地域=例えば、台湾・朝鮮・ミクロネシアなどの諸地域において、ハンセン病政策がどのようになされたか、という検証・研究が極めて弱いと思う。それが、未だに植民地支配下にあった人たちへの国家謝罪、戦後補償がなされないことの大きな問題点の一つであると思われてならない。

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2005年9月 7日 (水)

「ソロクト弁護団(代表兼事務局長)」に対する質問および抗議

 「ソロクト弁護団(代表兼事務局長)」御中

       「ソロクト弁護団(国宗直子代表兼事務局長)」に対する質問および抗議

                   「チャムギル」日本支部長
                   人権図書館・広島青丘文庫 主宰 滝 尾 英 二

             郵便番号=739-1733
                  広島市 安佐北区 口田南 ***********

 下記の通り、「ソロクト弁護団(代表兼事務局長)」に対して質問および抗議します。「質問」のご回答は、9月21日(水曜日)までに文章でお願いいたします。
 なお、小鹿島更生園・台湾楽生院 補償請求弁護団」のホームページ担当の上田序子弁護士には、本日、この「~質問および抗議」文は、メールでお送りいたしております。

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 質問項目(その1)=水口真寿美弁護士の集会発言再録の記録として、つぎのような報告があったと、書かれています。
「‥‥‥運用上も、例えば、1938年に日本本土で発生した窃盗団事件において、同時に身柄を拘束された者のうち、ある者は、岡山県長島癩療養所へ、ある者は朝鮮小鹿島癩療養所へそれぞれ送致収容されています。」のこの記述は、実際に水口真寿美弁護士の集会発言した内容ですか。

 質問項目(その2)=「1938年に日本本土で発生した窃盗団事件において、同時に身柄を拘束された者のうち、ある者は」云々の「小鹿島更生園・台湾楽生院 補償請求弁護団」のホームページの記述は、わたしは不適切であり、ソロクトへ強制収容させられた方がたの認識を誤らす内容の書き方だと思います。「ソロクト弁護団」は、この
水口弁護士の報告文を適切だと思われていますか。

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――「集会(弁護士会館2階 講堂クレオ)」=「ソロクト・楽生院裁判を勝たせるつどい」

 日時 8月29日  開場6時  開始6時30分
 場所 弁護士会館2階 講堂クレオ   住所〒100-0013 東京都千代田区霞が関1-1-3
            主催 ソロクト・楽生院ハンセン病補償請求訴訟支援連絡会
            連絡先 042-540-1742(ハンセン国賠東日本弁護団)

 その夜の「集会」で、「~この裁判では何が争われたか~」と水口真寿美弁護士の集会発言をしています。その再録の記録として、つぎのような報告があったと「小鹿島更生園・台湾楽生院 補償請求弁護団(代表兼事務局長・国宗直子弁護士)」公式ホームページには、書かれています。
 代表兼事務局長の国宗直子弁護士に、かつて私がいただいたホームページの内容において、その内容の責任に関して、『‥‥この公式ホームページの内容は「ソロクト等弁護団」の代表である私が、すべて責任を持つということ』をわたしは、「メール」でいただいたことがあります。
 さて、その「小鹿島更生園・台湾楽生院 補償請求弁護団」(代表兼事務局長・国宗直子弁護士)公式ホームページの「ダイヤリー」の「8月29日・楽生院訴訟第3回口頭弁論」の中で、水口真寿美弁護士の集会発言再録の記録として、つぎのような報告をしたと、書かれています。


 「‥‥‥運用上も、例えば、1938年に日本本土で発生した窃盗団事件において、同時に身柄を拘束された者のうち、ある者は、岡山県長島癩療養所へ、ある者は朝鮮小鹿島癩療養所へそれぞれ送致収容されています。 (中略)
 小鹿島更生園と台湾楽生院は、旧癩予防法施行当時のわが国のハンセン病隔離政策に基づいて、国が設置したハンセン病療養所に他なりません。従って、小鹿島更生園と台湾楽生院が告示1号に該当することは明白です。」。

 はたして、水口真寿美弁護士の集会発言が、どのようなものか実際、当夜どうだったのかは、「ソロクト・楽生院裁判を勝たせるつどい」にわたし(滝尾)は参加していませんので、正確には分かりません。しかし、この「小鹿島更生園・台湾楽生院 補償請求弁護団」のホームページには、水口真寿美弁護士の集会発言の中に、下線のような記述なされたとなっております。

 「1938年に日本本土で発生した窃盗団事件において」という認識は、1938年当時の「大阪の警察発表資料」に基づき、戦後の大阪府警察本部発行の『大阪府警察史』第2巻、大阪府警察本部編集委員会編で書かれていたものです。つまり、滝尾(わたし)が東京地方裁判所・民事第3部へ『陳述書』(2005年1月17日付)に書きましたように、大阪府警察本部発行の『大阪府警察史』の「第2巻(1972年発行)に『7 らい患者窃盗団事件』という項目があり、逮捕した被疑者の内『比較的弱症と認められる5人の身柄は、4月7日と30日の2回に分けて朝鮮釜山警察署へ引渡した。被疑者A以下10人は、岡山県長島らい療養所へ、被疑者B以下22人は、朝鮮小鹿島らい療養所へそれぞれ送致収容した』(同書770頁以下)と記述されているのです。」

 このように述べたと同時に、わたし(滝尾)は、同じ『陳述書』で、「1938年6月28日付の「京城日報」や「東亜日報」には、6月26日朝釜山港に入港した臨時連絡線で、大阪府から追放された19名の朝鮮人「癩患者」が護送つきで送還され、全員小鹿島更生園に送られたことが報道されています。」と書いています。

 大阪府警察本部発行の『大阪府警察史』第2巻がいうように、また、1938年6月28日付の「京城日報」や「東亜日報」が報道しているように、6月26日朝、大阪から釜山港へ臨時連絡船で19名のハンセン病患者と、4名のモルヒネ中毒者の計23名が転送され、「大阪の町中を徘徊」していた朝鮮人が、小鹿島更生園へ送られたということは、事実でです。しかし、戦前・当時の大阪の警察署がいうよう、それが「日本本土で発生した窃盗団事件」の人びとであったか、どうか疑わしいのである。つまり、警察発表は、戦前といわず、戦後=現在といわず、警察が「被疑者」の検挙の理由は、なんとでもつけるものです。

 そのことは、わたしも滝尾英二編・解説『植民地下 朝鮮におけるハンセン病資料集成』第4巻の「解説」などで強調し、ハンセン病患者は「恐ろしい存在」だから「隔離・収容しなければならない」とハンセン病患者の「終身絶対隔離」を主張してきた。その筆頭者が光田健輔であり、「国会の参考人」として、しばしば「朝鮮人犯罪説」を主張したことは、「ソロクト弁護団」弁護士も周知のことだろうと思います。
弁護士は、司法権力から「冤罪」を含めて、多くの弁護を引き受けている。それが、今回の大阪から釜山港へ、さらに「小鹿島更生園」へ送致された人たちを、警察発表通りに「‥‥例えば、1938年に日本本土で発生した窃盗団事件において、同時に身柄を拘束された者のうち、ある者は、岡山県長島癩療養所へ、ある者は朝鮮小鹿島癩療養所へそれぞれ送致収容されています。」となど、書いているのでしょうか。
 少なくとも、大阪の警察署の発表によると「日本本土で発生した『窃盗団事件』‥‥」と窃盗団事件に「  」書きし、「窃盗団事件」前文には、「戦前の大阪の警察署の資料によると」という説明くらい出来なかったのでしょうか。悔やまれます。

 現在でも、「自衛隊の海外派兵」や、「日の丸・君が代」反対のビラを個人の郵便受に入れたり、路上で配布している人たちを犯罪者として、警察は留置しているではありませんか。そうした人権無視の警察報道を、鵜呑みにしている「人権を守ることが出来る」弁護士なのでしょうか。
 水口弁護士の「例えば、1938年に日本本土で発生した窃盗団事件において、同時に身柄を拘束された者のうち、ある者は、岡山県長島癩療養所へ、ある者は朝鮮小鹿島癩療養所へそれぞれ送致収容されています。」と。
 「~この裁判では何が争われたか~」と水口真寿美弁護士が集会発言したという「小鹿島更生園・台湾楽生院 補償請求弁護団」のホームページをみたら、憤慨すると思います。またこれを、「ソロクトに強制収容されたハラボジ・ハルモニ」が知ったら、どのように思うでしょうか。自分らの味方だと思い、かつ「ソロクトに強制収容されたハラボジ・ハルモニ」の護身者だと思っている方々は、「ソロクト弁護団」をわが味方だと思っているのに‥‥‥と思うと、実に、私は情けなくなります。

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 「滝尾英二的こころ」というホ-ムページを立ち上げています。

http://takio.cocolog-nifty.com/kokoro/ です。この「ソロクト弁護団(代表兼事務局長)」に対する質問および抗議は、今夕、「滝尾英二的こころ」のホームページに、さらに書き足して掲載し、皆さまのご意見をお聞きします。よろしかったら、「滝尾英二的こころ」をご覧下さい。
 滝尾英二=takio@furea-ch.ne.jp 

                          滝尾英二より

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2005年9月 6日 (火)

「ハンセン病問題」と優生思想・優生政策の推移(その7)=小鹿島療養所患者に対する性管理と優生思想の展開 ②  

 光田健輔たちによって、推進められた「断種」(輸精管切徐手術)は、朝鮮にも持ち込まれ、施術されるようになった。その経緯について述べてみたい。
  一九二七年四月十三日、朝鮮総督府医院長志賀潔は、東京の帰りに釜山経由でソウルに帰ったが、その帰路、記者たちに「癩病の根絶」について談話している。『東亜日報』及び『大阪朝日新聞・朝鮮版』は、つぎのように報じている。

   『癩病の根絶は、去勢の他は無道理/去勢で遺伝防止 ◇志賀博士 談』(見出し)。
                      (一九二七年四月一五日付『東亜日報』)
   東京で開催された日本生理学会に出席した滋賀総督府医院長は、十三日夜に帰郷た。氏は、朝鮮に比較的多い癩病に対して「癩病絶滅策に関しては以前から研究もし、相当なる意見も持っているが、最も近道は去勢して遺伝しないようにすることが一番いいようだ。しかし、これは、人道上において問題があるので簡単に採用することはできないが、かといって現在、朝鮮に約三万名の患者がおり、今後もっと増えることが予想されるので、去勢に関する法律でも制定し根絶を期することなしには、将来、恐ろしい結果を導くことになるだろうと語った」。

   『患者の希望で去勢を実行し、癩患の撲滅を期する/志賀博士の内地帰来談』(見出し)。
                                 (一九二七年四月十四日付『大阪朝日新聞・朝鮮版)
 「総督府医院長志賀博士は十三日朝釜山通過帰城したが氏のはなしに、鮮内における癩患の現在数は警察当局の調査をみると七千人といふことになつてゐるやうだがその実数はすくなくも三、四万人はゐる、癩の撲滅予算をはかるため内地では患者の希望によつて去勢を実行してゐるが、その徹底を期するには鮮内でもこれを実施するに如くはないと思ふ、いろいろ治療法も講究されてゐるが未だに適確なものは発見されず全治者は三、四パーセントしかない有様で患者の血族関係者を引離し別居せしむるなどいふことは実際問題として行はれないことではないかと思はれる=釜山」。

  志賀潔のこの談話が『東亜日報』などに報道された六年後、光田健輔は長島愛生園書記の宮川量(一九〇五~四九)を伴って、小鹿島慈恵医院など朝鮮の「癩」療養所を視察の旅に出た。一九三三年七月十六日から十一日間の視察中、大邱に立寄り『大邱日報』
に、つぎのような記事談話をしている。

  「レプラ患者は隔離すれば減る/輸精管断切は自他とも幸福/来邱中の光田健輔氏談
                                          (一九三三年七月二五日付『大邱日報』)

 癩患者の救主とまで云はれてゐる権威者岡山邑久郡国立癩療養所長島愛生園長光田健輔氏はこの程来鮮、全南順天、小鹿島両地の癩患状況を視察し京城を経て二十四日大邱府外内塘洞大邱癩病院を視察後同日慶州に向け出発したが氏は語る、
  「朝鮮には皆様の御尽力の御陰で癩予防協会が建設されることとなつたのは病人は勿論一般社会のために慶賀に堪へない、この癩病は隔離療養すれば次第に減少するもので将来朝鮮の癩患も年を逐ふて影が消えて行く事と思ふ、内地には明治三十九年想定二万四千名も居つたが隔離して爾来その数を減じ現在は一万四千三百六十一名(警察の調べ)しか居らず国立七ヶ所、私立六ヶ所の療養所に約五千名が収容してゐるが従来は流浪患者のみを収容してゐたけれども数年前より普通患者でも伝染され易い危険な患者に対しては県知事が強制的に入院隔離せしめる権力を有することとなつた。
 而して療養所に入れば見違へる程病気が癒り入所してない患者とは比較にならない、然し七年十四年も立つて再発することがあるから之には困る、尚ほ本能性の異性接近問題についても各人各説があるが、僕の所では希望者に限り男の輸精管を切つて自由に夫婦生活をさせてゐるが之はたゞ子を産まないだけであつて普通の夫婦関係と豪も変りはない。そこで近来夫婦にならうと云ふ患者は進んで申込み手術を受けることとなつた大正(大正四・一九一五)年来、僕の手術してやつたのが三百名に上つてゐるこの病気は遺伝するのではなく全身に拡つてゐる母の病菌が軟弱な胎児を襲ひ伝染するのであるから自分の為子の為社会の為に子を産まぬのが最も良策である。
 今日府外、内塘洞の患者部落を視た時数多い子供が居ることには心から気の毒で見られなかつた今のところ内地では東京療養所その他でも輸精管切断を実施中であるが成績良好である、朝鮮における患者も自発的に手術すれば結構なことであらうと思ふ」。

  光田健輔が朝鮮の視察旅行した一九三三年、九月一日には周防正季が小鹿島慈恵医院の四代院長に任命された。小鹿島慈恵医院第一期拡張工事の始まりである。第一期拡張工事の落成式は、一九三五年十月二十一日挙行された。翌三六年四月には小鹿島更生園でも断種(輸精管切断)手術が、夫婦同居の条件として施術されることとなった。収容患者の急増による園側の、患者に対する「管理・統制」の強化である。また、日本国内の療養所とは異なり、植民地朝鮮の小鹿島更生園では、収容患者の処罰としての「断種」が加わり、実行された。妊娠した女性は堕胎させられ、胎児は殺された。

 小鹿島更生園『昭和十二年年報』(一九三八年七月)は、「夫婦患者ノ同居」の項でつぎのように記述している。

 「一、当園患者ハ大正六年開園以来男女別居制ヲ維持シ来タルガ昭和九年以降ノ大拡張ニ伴フ多数患者ノ増加収容ニ依リ夫婦患者ノ数又著シク増加スルニ至リ之ヲ此ノ侭抑制シテ依然別居制ヲ維持スルニ於テハ自然渠等ノ気分ヲ荒廃セシメ遂ニハ物議ヲ生ジ事端醸成ノ因ヲ為スニ至ルベク看取セラレタルヲ以テ寧ロ渠等ノ要求ニ先タチ一定ノ条件ノ下ニ夫婦同居ヲ認ムルコトヲ決シ昭和十一年四月ヨリ之ヲ実施セルガ現在同居者四百七十一組ニシテ尚相当増加ノ傾向ニ在リ而シテ之レガ為渠等患者ノ気分非常ニ緩和サレ自然島内生活ノ安定ニ大ナル効果ヲスニ至リツゝアリ其ノ収容状況左ノ如シ。
      夫婦同居者
中  央  三九        旧北里  一九四        西生里    六
南生里  七六        新生里  一〇〇        東生里  五六
  計  四七一組

二、夫婦同居ノ許可標準
1.戸籍上ノ夫婦タルモノ
2.戸籍上ノ夫婦ニ非ザルモ事実正式ニ婚姻ノ式ヲ挙ゲタルモノ
3.古ク収容前ヨリ内縁関係ニ在リタルモノニシテ一般ニ認メ得ルモノ
4.5.(略)
6.以上ノ各項ヲ具備スルモ之ヲ其ノ侭同居セシムルニ於テハ隔離収容ノ意義ヲ
  忘却スルニ至ルベキヲ以テ予メ本人ノ申出ニ依リ断種法(精系手術)ヲ行ヒタ
  ル上同居セシムルコトニ為シ居レリ」。

「夫婦患者同居者」の数は毎年増加しているが、その他はまったく同じ文面の記述が、一九三七年から四一年までの小鹿島更生園発行の各年度『年報』に書かれている。
  つぎに各年度ごとの「夫婦患者同居者」数を示しておく。(以下省略)。

 以上見てきたような公式に『年報』が明記した「精系手術」して同居した患者(一九四〇年末には、八四〇組)以外にも、処罰としての「断種手術」が行なわれている。その人数は当時の公式な行政文書には記載されてはいないが、多くの証言から伺い知ることができる。監禁室の隣り建物の「解剖室」と隣り部屋の「遺体安置室」で、看護手などが監禁室を出所する際に、行なったという。解剖室の壁には、罰として「断種手術」を受けた人物=李東の詩が、現在の国立小鹿島病院によって、韓国語で書かれた詩が掲示されている。

 その昔、思春期に夢みた
 愛の夢は破れ去り
 今 この二十五の若さを
 破滅させゆく手術台の上で
 わが青春を慟哭しつつ横たわる。
 将来、孫が見たいと言った母の姿‥‥
 手術台の上にちらつく。
 精管を絶つ冷たいメスが
 わが局部に触れるとき‥‥
 砂粒のごと 地に満ちてよとの
 神の摂理に逆行するメスを見て
 地下のヒポクラテスは
 きょうも慟哭する (李東)

(註)詩中の「ヒポクラテス」とは、医学の父と呼ばれる古代ギリシヤの医学者である。

シム・ジョンファン著『あゝ、七〇年~輝かしき悲しみの小鹿島~』(一九九三年七月)には、つぎのような一文が書いてある。――南生里に入院した李(イ)東(ドン)とい う青年は、敬虔なキリスト教徒で、たくさんの患者仲間から尊敬を受けていた。
ある日、原土場で採土作業をしていたが、作業の障害になる松の木二本を植え替えろと、佐藤主席看護長の命令を受けた。その時、自分の病舎の同僚患者が急病で倒れたので、 医者の治療を受けるために患者を背負い、治療本館内科室に行った。そして、佐藤 の命令をすっかり忘れてしまった李東は、その次ぎの日、煉瓦原土場現場に出頭しろという命令を受けた。佐藤はその原土場の上にうつ伏せにした李青年を、靴で首っこをむちゃくちゃに蹴りながら、「貴様のようなももの生命は、あの松の木より劣るのだ」と棍棒で殴った後、監禁室に入監させた。出監した日は手術台に載せられ、例によって断種手術を受けたが、断腸の思いを込め一編の詩を書いて、静かに医者のメスを受けた。

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「ハンセン病問題」と優生思想・優生政策の推移(その6)=小鹿島療養所患者に対する性管理と優生思想の展開 ①

  初代の蟻川園長につづく二代目園長の花井善吉時代の「患者に対する性管理」は、園長が、朝鮮内のキリスト教療養所に倣って園内での「男女分離性管理」を行ない、その男女分離性管理のために宗教の自由、慰安の推奨、教育の推進などを行なった。
  ところが、四代園長・周防正季の時代となると園の管理上から、一九三六年四月より、「夫婦同居」を認めると共にその男女同居者には、「断種手術=精系手術」を実施する。また患者の管理強化を徹底さすために、同園職員により処罰としての「断種」も行なっている。これは国内でもハンセン病療養所長であった光田健輔たちが行なっていた患者に対する性管理の方法である。(「処罰」としての断種は、国内の療養所でも行なわれていたが、小鹿島ほど大規模には行なわれていない。)

 こうした性管理は、一方で、ハンセン病患者を劣った存在、淘汰し絶滅しようとした優生思想でもあったが、「朝鮮における優生思想の展開」=朝鮮民族の優秀性をいう「朝鮮優生協会」が一九三四年九月一四日に各界有志を網羅して発起された。それには、「朝鮮癩患者救済研究会」の執行医院長・尹致昊も参加している。「同優生協会」は『朝鮮日報』の一九三六年一一月八日の「新刊紹介」記事によると、『優生』第三輯を定価十銭で発行している。発行所は京城府寿松町四六の一九である。しかしこの「朝鮮優生協会」は、一九三八年九月二八日付け『東亜日報』の「学芸小抄」の記事によると、朝鮮総督府により解散させられている。理由は不明であるが、日本のファシズムが進行するなかで、日本民族の優位性を主張した優生思想が、精神障害者、癲癇、ハンセン病患者、刑務所収監者、娼婦、同性愛者、乞食などを「劣性」とする優生思想と相俟って、そうした主張がされ、かつ実施されていく。

  『「らい予防法」違憲国家賠償請求事件・原告最終準備書面(事実編)』(二〇〇〇年一二月八日)にいうように、「戦前に行なわれてきた断種・堕胎の目的が、ハンセン病患者の子孫を根絶やしにするまさに『患者撲滅政策』そのものであったこと」、「そして断種・堕胎のもたらしたものは、患者の人間性を毀損し心身に大きな傷を与えたことと、人間的な家族生活の喜びを奪い、社会復帰や老後の支えとなる家族や子孫を持つことを不可能としたことも忘れてはならない。」(一一八頁)と述べられている。そのことと関わって、朝鮮の場合の「断種」のもつ意味を人材育成研究所代表の辛 淑玉(シン・スゴ)さんは、つぎのように書いている。

  ――「朝鮮半島に根付いた儒教文化は、子孫繁栄を絶対的な義務としました。その善し悪しは別として懲罰のために断種をされるとはどういうことか、断種が失敗して妊娠した女性がどのような扱いを受けたか、あなた(小泉首相)は一度でも想像したことがあるのか?」(兵庫部落解放研究所『ひょうご部落解放』二〇〇二年・一〇三号)。
  さらに、『世界』第七二五号(二〇〇四年四月号)の「小鹿島ハンセン病補償請求が問うもの」インタビュー記事で滝尾英二は――「文化がこれほど違うから、今度の裁判でも、日本の文化をそのまま韓国にもっていって同じ方法で解決しようと思っても、できないだろうと思います。『断種』一つとっても、その苦痛というのは日本では想像もできない。族譜があったりする儒教の社会で、お家のための子孫繁栄をすべて絶たれるということですから」と述べている。

  こうしたことを前提として、「小鹿島療養所患者に対する性管理と優生思想の展開」について、植民地朝鮮ではどのように推進していったかを、日本国内の優生思想の関わらせながら書いてみたい。

第一節  断種手術を前提にして所内結婚をみとめたそれ以前の「性管理」

 (その一)花井二代園長を小鹿島慈恵医院に訪ねた木浦の三木冠者は、『朝鮮司法協会雑誌』一九二九年七月号の「レプラ島を訪問して」と題して次ぎのように花井善吉院長(一八六三~一九二九年一〇月一六日)のことばを書いている。花井最晩年のことである。

  「院長曰く内地の癩療養所の統計に依れば逃亡者三千余なるも当所は一人もいない。又性の問題が却々困難で窃にステリリゼーションが行はるか、此処では其の問題が起きない、御覧の通り男女収容舎は余り隔り居らず、又何等の障壁なきに好成績である、之には二つの試みがある。其一は患者のじ治制である即一舎の患者十人中選挙して舎長を定む、此上に契長一人を選挙する、飲食其の他の配給に、炊事に皆舎の自治である、舎中は舎長取締り解決する、舎間の問題や舎長の決せぬ事柄は契長の下で解決する、契長も捌けざるに於て院長に持ち出すと、又性の悩みに付ては、彼等を宗教信仰に入らしめる、一番入り易き基督教を入れた、牧師が一二回は島に来る、信者は毎日一度は礼拝堂に集まる、斯くて信者は信者として又無信者は無信者として互に相戒めて居るとの事である。」(滝尾編『~資料集成』第6巻所収より)。

 花井院長の患者の「性管理」をわれわれは、どのように考えたよいのだろうか。そのことと関連して、シム ジョンファン著『あゝ、七〇年~輝かしき悲しみの小鹿島~』(一九九三年七月)は、つぎのように書いている。(原文は韓国語である。)

  私が最初にワゼクトミーの傷跡を見たのは、韓国全羅南道の南端にある国立小鹿島病院を訪れた時である。TBS(東京放送)筑紫哲也の「ニュース23」の特別番組「もう一つの強制不妊――韓国・植民地での強制断種――」の取材協力のため、国立小鹿島病院に行き、日本統治時代に「断種」を受けた人びとを尋ねた時だった。TBSのカメラマンやデレクターを屋外で待たせておいて、通訳を依頼した李さんと二人で障害者病棟の当時七十歳のハラボジ(おじいさん)の部屋を訪れ、取材のため予定されていた部屋へ連れ立って行った時のこと。ハラボジはまったく失明していたのが、部屋に入るなりパジ(朝鮮式ズボン)とパンズを脱いで、股間の断種の傷跡を日本人の私に見せるのであった。肌は驚くほど白かった。陰嚢のうしろの部分に横長に二、三センチほどの「みにくい」傷跡があった。あれは、手術台で正式に医者がメスで執刀した傷跡ではない。一瞬の出来事だったので、私は茫然として、それを見た。通訳の李さんを通じて、ハラボジにパジを穿くようお願いした。
  そのあと、TBSのカメラマンやデレクターを屋内に入れ、聞き取りや撮影を行った。私は、そのハラボジの掌をたゞ握っているだけだった。その場面の一部は、TBS系統のテレビ局を通じて、九七年一二月二二日の夜、全国に放映された。このテレビの放映を見、更に、『未来』一九九八年五月号(第三八〇号)の拙稿「ハンセン病療養所・小鹿島入園者の証言」を読んだ畏友の石岡隆充さんから、次のような私信が送られてきた。

  「……ハンセン病になること、朝鮮民族に生れたこと(だから、処罰としての「断種」を受けた―滝尾)、そこからくる一切の不幸は、当人にとっては不条理そのものであり、いかなる言葉からも癒されることは、たぶんないでありましょう。
  この情況においては、生きているということが、そのことにおいて、一つの宇宙です。宇宙は抹殺されてはならぬ、という大兄の息づかいを感じとり、慄然とします。前便の葉書に書いた「宝石の輝き」とはこのことです。生の根源をかいまみる思いで読みました。ここまでくると、すべてが空しくなり、結局は写真になってしまうのでしょうか。テレビで拝見したときに、目の不自由な人の掌を大兄がしっかり握って、「おじいさん」と心を込めて聞き出しておられた、ご様子をみました。活字ではそのことが一切ありません」。

  ハラボジは、十三歳のとき、薪用にと無断で木の小枝を切ったというだけで、処罰として断種手術を受けた。同年一二月九日 午前一〇時〇二分から一〇時二〇分までの小鹿島でのインタビューの一部である(拙著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島ー』未来社、2001年9月発行の「補考1」で全文掲載した)。

 「私は断種手術を一九四一年に受けましたが、断種は四一年から始まったのではなくて、その前からです。そして佐藤院長(首席看護長―滝尾)のときには、あまりのひもじさと重労働と過酷な扱いのせいで脱走する人が出ました。脱走してつかまるともう有無を言わさずに断種手術です。
  また、他にも院内でも反日的だとか、反抗的だとか決めつけられれば断種です。それから院内で盗み等の事件が起こったら断種。断種ということがはじまると小鹿島では、男女の営みをしたりすれば有無を言わさず断種手術が加えられるようになりました。
 何故、断種などをするようになったかというと、ドイツで癩病患者などにそれをする法律があったでしょう。だから日本政府も「癩患者には全く治る見込みはない。子供を産んだって、カラスの子はカラスだし、山犬の子は山犬になるのだ」という考えで、患者が子供を持つことが出来ないようにしてしまったのです。
 断種なんて本当に残虐なやり方です。あー、全く何とも口にはいえません。時代の過ちだったというにも。考えるほど惰りを感じるし、悔しくて、私の国、韓国という母国で、一体どうしてあんなひどい目に合わなければならなかったのか。
 ハンセン病患者も世界のあちこちでちゃんと暮らしていて、患者の息子や娘たちも元気に育っています。病気「ハンセン病」にもならずに。私は子どもをつくれる体に戻れない。たとえ、″対馬〃を私にくれたって、私は子ども一人つくることは出来ません。この年齢(とし)になって、この恐怖(こわ)さを噛みしめて生きていますが、もし、私が神を信じていなかったら、自殺していたかも知れません。
病にかかり、そんな手術までされて患者たちはこの世を去りました。もう、ほとんどの人が世を去りました。私は幼くして入所して、患者のうちでは若かったから今までいますけれど、断種の経緯はこんなことでした。」

 日本統治下の小鹿島更生園では、一九三六年四月には、従来の夫婦患者別居の頂則を改め「内地の如く」夫婦同居を許可したが、その条件として男性患者の精管切除手術(「断種」)を施した。小鹿島更生園『昭和十六年年報』によると、一九四〇年末現在の夫婦同居者は八四〇組に及んでいる(この事実は、一九九七年一一月七日付『毎日新聞』で報道された)。
 患者の「断種」は、職員に反抗する者や逃亡する者などに対して、処罰としても行れた。同島には日本統治時代につくられた赤レンガ造りの監禁所や、刑務所の建物が残されているが、監禁所の建物に隣接して「解剖室と遺体安置室」があり、遺体安置室には「断種台」が置かれている。ハラボジは、十三歳のとき、看護手の執刀で処罰としての「断種」が行われたのである。

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2005年9月 5日 (月)

「ハンセン病問題」と優生思想・政策の推移(その5)=優生政策を推進した人たち①

 『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』(2005年3月発行)は、全886ページと大部なものである。しかし、先に述べたように、「優生思想・優生政策」とハンセン病政策については内容が薄く、且つ軽い。書かれた分量もすでに指摘したように、「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」は、わずか20ページほど述べられているに過ぎない。
 この項で、どんな人物が何回出てくるか調べてみた(引用文献された人は除く)。光田健輔をはじめ全部で30名の人物名が載っている。――光田健輔、氏原佐蔵、牧野英一、林芳信、菅井竹吉、今田虎次郎、ハンナ・リルデ、大澤謙二、シャルマイヤー、丘浅次郎、福原義柄、湯沢、日戸修一、高野六郎、赤木朝治、中野一、藤田敬吉、野島泰治、玉村孝三、矢嶋良一、青木延春、鈴木文治、田中養達、加藤久米四郎、小野清一郎、平塚らいてう、中馬興丸、荒川五郎、八木逸郎、谷口弥三郎である。
 この内、光田健輔は、「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」の中で35回も名前が出てくるが、光田健輔意外の29名は、1度か2度、多い人でも5度ほど書かれているに過ぎない。前述した安部磯雄の名前も出てこない。

 『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の記述内容が、国内中心意識をなっている上、政策史・医学史的なアプローチに終始する面が強いということは否めない。私が、若い学徒であったとき、大きな影響を受けたものとして、アイリーン・パウアの著書がある。三好洋子訳で東京大学出版会(1954年12月)発行された『中世に生きる人々』である。著者の社会史学者・アイリーン・パウアは、つぎのように述べている。

「‥‥歴史小説が今なお歓迎されているにもかかわらず、歴史を書棚から追放したのは、歴史は死んだものを対象とするという通念であり、困ったことには、歴史は生きた人間の労働や感情とはほとんど関係ない事件や状態をとり扱うものだという通念である」と。

 私は、日本ハンセン病問題を考えるとき、また研究するとき絶えずこの著名なイギリスの社会史研究者アイリーン・パウアのことばを思い出す。この度、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』を読んで、とりわけ日本ハンセン病政策を人権抑圧した過去の歴史と「優生思想・優生政策」を考えるとき、「歴史は生きた人間の労働や感情とはほとんど関係ない事件や状態をとり扱うもの」であってはならないということを強くもつ。

 その「ハンセン病政策と優生政策の結合」として、わずか20ページほど述べられていること自体、設定されたテーマ、また仮説設定の立て方において適切であったとは言えまい。また、個々の資料の扱いや1948年7月13日、法律第156号をもって「優生保護法」が公布され、同年9月11日から実施された。これが廃止された1996年6月までの約半世紀にわたって廃止されることなく続いたのである。また、96年4月1日まで「優生保護法」のなかには、優生手術及び人工妊娠中絶を行なう対象に「ハンセン病の項目」が残っていた。長きにわたるその経緯や責任の追及がなされていないのではないか。『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の記述内容を読んで、率直に私はそう思った。
 また、「民族優生思想・政策と植民地下朝鮮。朝鮮と日本の優生主義とハンセン病問題」という内容記述も『最終報告書』にはなされていない。これは、検証会議委員、および検討会員の「自国民意識」「自民族一国意識」の故に、そのようになったのであろう。これまた、検証会議委員、検討会委員の怠慢というべきである。

 そう思いながら、竹田津六二著『図説・妊娠調整法』白揚書館(1932年1月初版、1946年10月重版)の小冊子を紹介することにした。
 この冊子は、B6判で138ページ。敗戦直後の‘46年10月に重版するということもあって、用紙は粗悪である。最近、古書店で購入したのだが、医学博士・北井啓之の「序」、竹田津六二の「自序」についで「X光線レントゲンの装置と婦人に対し避妊実施の図」という写真2葉が載り、さらに、その裏ページには「第一図・女子生殖器。第二図・男子生殖器」の解剖図が図示されている。
 第一図の説明文は「之は、正面から子宮を中心として観た処の解剖図で左右両方に卵巣があり其の上方には輸卵管(ラッパ管)があり各々子宮口に通じてをる。素と卵巣に因って生じた卵子は大抵この輸卵管に於て精子と出会ひ、それから子宮腔に出、そこで胎児として成長し、十ヶ月の後、子供になって生れるのである。」と書いている。
 第二図の説明文は、「睾丸の裏にある副睾丸から輸精管が出て尿道に合してをる。この輸精管を結紮する避妊法・即ちスタイナハ氏の所謂「若返り法」の於ては、図面十の部分を少し切り開き輸精管×を結紮するのである。」と述べている。
 竹田津六二著『図説・妊娠調整法』はさらに、「避妊する必要ある人々」として、つぎのように書いている。

A 黴毒・癩病・精神病その他悪性遺伝の傾向ある者
 劣悪・病弱な仕様の無い人間が増加すれば、健全な国民は其の為に多大な負担を受け、国家は甚だしく発展を阻害される。とにかく不良素質者は、国家国民にとつて厄介極まる重荷である。
 優生学上から観て、最も恐るべき病気は黴毒である。(中略)次に癩病。我日本国は、世界文明国で第一等国の癩病国であり、毎年行はれるゝ陸海軍の壮丁検査で発見されゝ患者だけでも一千人を降らない由。当局の調査に拠ると、全国の癩患者総数は一万四千人位らしいが、実際は十万内外だらうとの事である。其の内現在隔離されてをる者は三千人程に過ぎず、此方面に対する政府の施設は甚だ薄い。英国では百年以前に於て癩病は絶滅され、其の他の欧米諸国でも今日極めて稀に有る位しかない。此病気は学問上は遺伝で無いやうだけども、非常に伝染し易い故治療と共に患者を隔離しなければならぬ。されど現今の我国に於ては総ての患者を挙げて隔離収納(ママ)する迄には迚も手が届かないから、せめて避妊だけでも十分励行して、早く此の患者の種を絶ちたい。
 おほよそ、所詮癒る見込めない精神病者其の他確実に遺伝或は伝染あする不治の者には、外科手術を以て永久的絶対避妊法を施す方が吾人の幸福に副ふ所以である。(72~74ページ)

 さらに、竹田津六二著『図説・妊娠調整法』は別項でも、つぎのように主張している。それは、個人の「生きる」という人権を無視した優生思想に基づく「富国強兵意識」であり「国家中心意識」であるといえよう。

 ――現在我国の人口は約六千三百万人であるが、それは優劣混淆の(即ち城弱な者、無教育な者、失業者、無頼漢、犯罪人、白痴低能、不愚者、廃人等其の他劣悪な者をも皆算へた)総計で、若し劣等な者が無くなつて優秀な者ばかりになれば、其の六千万が五千万に減じたとテ国力は少しも減退せず、否却つて国家は富強になる。戦争の場合に於ても、精鋭は能く烏合の衆に勝つ。
 妊娠調節は、一概に人口を減少させるものではない。詰り厭ふべき不幸な出産を予防して、真に健全有為な人口の増加を図るのだ、国家を衰退させるものではなく、又民族の自滅を馴致するものでもない、此事は尚ほ後章の処々に於て詳しく説く。(30ページ)

 『図説・妊娠調整法』を書いた竹田津六二という人物を私は知らない。医学博士・北井啓之の「序」によると、「竹田津君は熱情に富む沈着な警世家、世故に長け、人情に通じ、別けても却々の能文家で‥‥‥殊に其の朝子夫人は産婆として陰に陽に夫君を援けて行かるゝ、まことに本邦の産児制限運動に先駆をなす好夫人であり、日本民族の将来を益する事決して尋常で無からうと存じます。」と書いている。(3ページ)
 この小冊子を読みながら、特につぎのことを強く思った。

 第一は、戦後のことであるが、広島のある女性障害者・Sさんのことである。彼女は施設への入所する際、広島市内の病院でコバルト60による放射線照射を受けるように言われ、不妊にさせられた。その後遺症で現在もなお、Sさんは苦しんでいるという事実である。

 第二は、石川達三著『生きてゐる兵隊』に書かれたことや、先に私が書いた「七三一部隊」の人体実験や小鹿島更生園での人体実験した軍医たちも、はじめから「悪魔」ではなかった。家では、よき夫であり、父親であった。ところが、「組織」に入ると一転して「悪魔」になって人の尊い「いのち」を奪ってしまうことである。

 犀川一夫医師も冬敏之さんの「手紙」に書かれている田尻敢医師にしても、私が知る限り人柄のとて、とてもいい人だということは、長島愛生園の当時の入所者からしばしば聞いている。しかしその一方で、患者に「優生手術」を数多く執刀した医師であった。
 この行為は事実として研究・検証しなくてはならないと思う。私が藤野豊氏が『飛礫』第47号(2005年・夏季号)に書いている「‥‥検証会議が、解明すべきことは、誤った隔離政策を推進した国家とそれの関わった関係各界の責任であり、個々人の責任ではないのである。」(157~8ページ)に問題を感じるのは、このことと関わっている。つまり、個々人の主体的責任が問われていくことが、優生政策の問題を、ハンセン病問題として解明する上でどうしても必要だと思うからである。

 今日、送られた福岡市内の『古書目録』をみていたら、つぎの2冊の古書が書かれてあったので、早速電話で注文(後に、住所などメールで)しておいた。内容を読んで「滝尾英二的こころ」のホームページの「日記」にその内容を掲示したいと思う。
 ご期待を乞う!
 『大村朝鮮人収容所調査団報告書』A5判・37ページ 同調査団刊 1977年発行。『壁をたたくもの(第3~5集)』内田守人編 熊本刑務所教育後援会刊 1964年~。

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2005年9月 4日 (日)

「ハンセン病問題」と優生思想・政策の推移(その4)=『婦人新報』は、予防局長・高野六郎の「人工問題と民族優生運動」を掲載

 (資料⑤)日本基督教婦人嬌風会発行『婦人新報』第五一六号(一九四一年三月号)は、厚生省予防局長医学博士・高野六郎の第五回純潔講座に於ける講演の概要=「人口問題と民族優生運動」を掲載し、その中では、高野六郎予防局長は、つぎのように述べている。

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 <一口に人口問題と云つても、時と場所によつてその考へ方がつがつて来てゐる。日本に於ても世界大戦後の不況時代には今とはまるでちがつて、人間の数が多すぎるから失業者が多く、又食料も足りなくなり、生活文化の低下を来して来る、人口の多すぎる事が世界不安の根本問題であるから、適正な人口に喰止める事が必要であると云ふマルサス流の考へ方であつた。政府は人口食料問題調査会が設けられたのもその意味からであつた。
 然るに十数年を経た今日では国民の世界観は根本的に変つて来た。彼の独逸に於ても欧州の秩序を維持し指導するには独逸民族の優秀性を増すと同時に数を増す必要があるとして、これを第一義に取上げてゐる。独逸に限らず新興民族はいづれも、如何にして自民族の血を純潔に、然して多く保つかと云ふ事に全力を注いでゐる。我が国に於ても日本民族が東亜共栄圏を指導する実力を持つ為には、数と質に於て圏内で最も優秀でなければならぬとして、日本国民の繁栄を目標として取扱ふ様になつて来た。

 生めよ、ふやせよ、よき子孫を作れと云ふ。よき子孫を作る事は即ち優生運動であつて、如何に数がふえても劣悪な者ばかりでは何にもならない。下村海南博士は貴族院に於て「人間の中にはマイナスの者とプラスの者とある。マイナスの人間がいくらあつてもだめだ」と簡にして要を得た演説をされたがまことにその通りである。

 優生運動は医学の知識を基礎にした運動であるが、一体医学と云ふものも、その理想とするところは次第に変つて来てゐるし、又医学に対する国家国民の要望も色々に変化して来てゐる。以前は医学は病気を治すおとだとされてゐた。しかし現在では、国民の健康を維持するばかりでなく、これを向上させる事が理想だとされて来たので、(中略)即ち内因としての生来性のもの、つまり遺伝病は後から取除くわけにはいかない。

 遺伝とは一口に云へば親から子へ、子から孫へつたはるものであるが、そもそも人間は無数の細胞から成立つてゐるものであるが、最も大切なのは次の時代の人間を作り出すところの生殖細胞であつて、男性の精子と女性の卵子が半分づつ寄つて来て一つになり、それが次第に分裂して一個の人間を形成するに至る。その時、そのもとになる生殖細胞の核を成す染色体に、遺伝の因子がついてゐると生物遺伝学では結論してゐる。つまり受胎の時にその計画図は出来上つて了ふので、宿命的に悪い疾病の素因を受けた子供は、生れ乍らにして甚だ気の毒な状態である。それを未然に防ぐにはどうしたらよいかと考へるのが、優生運動による疾病予防であつて、医学はどうしてもこゝまで遡らなければならない。(中略)

 先に政府は人口政策要綱を閣議に於て発表した。日本民族は非常に優秀であるから、これが発展してゆかねばならぬ。東亜共栄圏指導者としての権威を保持する為に、従来の個人主義を排し、民族主義を基盤とした新しい世界観の上に立つて増殖力及び資質に於て他の民族を凌駕しなければならぬ。数に於ても質に於ても優秀なる民族になるには大約次の方法によることが考へられる。

 一、 人口を増加すること。
1 多く生むこと
2 生れたら殺さないこと――少し殺すこと

 二、 資質をよくすること
1 予防医学の活動により弱い体をなくすること、
  強いものは鍛錬してよりよくすること
2 よく生みつけること
 この最後のものが優生運動である。

 まず第一に多く産むこと、
 人間も生物学的にみればかなり大きい産児能力を持つてゐる。女は月経来朝後一二年すれば可能だし、男も相当早くから生殖能力はある。しかし文化の向上した、文芸・科学を好む人種は生殖に興味を持たず、産児能力が低下する。が如何に文化生活が向上しても、生理的に生めなくなるものではない。生まうとする興味と、保育する経済力があれば、相当生めるものである。事実は生めないのではなく、生まないのである。かうなると事は思想問題になつて来る。
 産児報国! 子を生む事は民族興隆の義務だ! (中略)

 それでは如何にして多く生ませるかと云ふ事になるが、厚生省に於ても未だその具体的方法はきまつてゐない。政府の人口政策では今後十年間に結婚年齢を現在のそれより三年位引き下げて、男子二十八歳を二十五歳に、女子二十四歳を二十一歳位にしたい、又一夫婦の産児数を四人から五人にしたいと希望してゐる。(中略)国によつては既に健康結婚法が実施せられてゐて、米国では花柳病患者、独逸では遺伝的悪質者及びユダヤ人は結婚を許可されない。(中略)

 次は資質増強のことである。
 世間には質の心配をしてゐては数の方が間に合はぬから、まず数を第一として質はそんなに問題にしないでよいと云ふ説もあるが、それはいけない。どこまでも優秀な者を数多くといふたてまへでなければならない。(中略)否今一歩進んで胎児のうちから、否それ以前の健康結婚法から指導してゆきたいのである。この結婚法によつた夫婦から生れ出る子供は優生学的にみてよい子供の筈であるから、これを十分保護し鍛錬して、優秀な日本人に作り上げたい。国民皆兵が日本人の義務であるならば、一人の落伍者もない事が理想でなければならない。
 生れ出る者の素質をよくする為には、優生の施設を十分に、生れ出た者はより良く鍛錬すること、それが日本民族の資質増強の為になさねがならぬ当面の急務である。

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 彼の要項の中に「優生思想の普及をはかり、国民優生法の強化徹底につとめる」とあるが国民優生法とは何か、その大要は次の通りである。此の法律は前議会を通り此の七月頃から実施すべく目下準備中であるが、その目的は、国民の中から悪質の遺伝素因を除くこと、即ち遺伝学上からみた国民の素質を高める事である。実際の方法としては、甚だしい者は断種するといふより他にはない。勿論十分な診断と精密な検査によつてきめるのであるが、去勢手術は人体に故障を生じるので、それ以外の簡単で確実な方法による事になつてゐる。この為に人口が減ると云ふ事は問題にならない。然しこれは一般には法が強制するのではなくて、医者が十分診断して決定したらば、その当人が手術を受けたいと申出る、さうすれば政府はこれを許可する事といふたてまへである。本人の代りに医者が申請する事も出来るし、甚だしい悪質の遺伝を有する者に対しては本人の意思を尊重しない場合もあるが、大体に於て決して圧迫的に強制するものではない。

 又劣性遺伝を有する者同志の夫婦で当人達はそれ程でなくても、一人二人生れた白痴であり、今後生れるものもさうなるみこみであるといふ場合、断種を申出られた府県知事は優生審査委員会を設けて、こゝに於てよいときめられればその手術を許可する事になつてゐる。
 一方この法律はその裏に於て、単に産児制限を希望して断種の手術を受けたがる者があるのは、人口問題の一障害であり、社会風潮上甚だ面白くないので、故なくして断種や妊娠中絶の手術を行つた医者を罰することになつてゐる。
 即ち此の法は人口問題に関し、数に於ては不埒な親をいましめて生産を促し、質に於ては悪いものを淘汰すると云ふ大役を荷ふものである。(文責在記者)>。

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 以上、厚生省予防局長医学博士・高野六郎の第五回純潔講座に於ける講演の概要=「人口問題と民族優生運動」が、基督教婦人嬌風会発行『婦人新報』第五一六号(一九四一年三月号)に掲載されたものであるが、この「第五回純潔講座」はどのような講座なのか、基督教婦人嬌風会発行『婦人新報』第五一五号(一九四一年二月号)に掲載記事を紹介してみよう。(滝尾)

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 <第五回 純潔講座――日時 昭和十六年(1941年=滝尾)二月五日~二月八日
           場所 神田区駿河台一ノ一 佐藤新興生活館
    講義及講師
二月五日(水) 午後六時~同七時三十分
「大政翼賛会と純潔運動」   衆議院議員  杉山元治郎
同日  午後七時三十分~同午後九時
「現下の社会情勢と純潔運動」   衆議院議員前司法次官  星島二郎

二月六日(木)午後六時~同七時三十分
「公娼廃止運動と純潔運動」   国民純潔同盟顧問  安部磯雄
同日  午後七時三十分~同九時
「性教育と純潔運動」   国民純潔同盟総主事  岩間松太郎

二月七日(金)午後六時~同八時
「民族優生運動と純潔運動」   厚生省予防局長  高野六郎
同日  午後八時~同九時
『座 談 会』
二月八日(土)午後一時~同二時三十分
  (東京帝大病院三階皮膚科外来第一号室)
「性病予防問題」  聖路加病院皮膚科部長・日本性病予防協会常務理事  飯田英作
同日  午後二時三十分~同四時
  性病予防映画観賞及び土肥教授記念標本室見学の予定
    ――――― ○ ―――――
    聴講規定
一、 聴講者は満十八歳以上の男女にして当方の承認を得たる方に限ります。
一、 聴講者は原則として四日間皆出席を望みます。但し止むを得ざる差支へある方には希望講義の聴講を許します。
一、 聴講希望者は二月二日迄に御申込みの事
   神田区錦町一丁目(基督教会館内)   国民純潔同盟>。

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 机上には、日本キリスト教婦人嬌風会編集『日本キリスト教婦人嬌風会百年史』ドメス出版(1986年12月)がある。A5判で1062ページの大部な本であうが、「国民優生保護法」についても、「優生保護法」についても、「年表」には、「一般情勢」として、1940年の項で「国民優生保護法公布(5月)」及び、1948年の項で「優生保護法公布(7月)」と出てくるもみである。それは、なぜ故なのだろうか。(滝尾)

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「ハンセン病問題」と優生思想・政策の推移(その3)=安部磯雄が長島愛生園を訪問す③

 廓清会本部発行『廓清』第二六巻第十一号(一九三六年十一月)は、理事長・安部磯雄著「国立癩病院訪問記」と題する巻頭文を掲載し、その中で安部磯雄は、つぎのように述べている。

 「‥‥‥長嶋の光田健輔院長の話では、大体全国で一萬五千人位だと云つて居る。又これは誰れであつたか忘れたが、五萬人位は隠れて居ると云ふ事であつた。併し何れにしても少くて一萬五千人、多くて五萬人であるから、この五萬人であるから、この五萬人を処分することは大して六ヶ敷ない。この病気は伝染は酷くないがかう云ふ病気が国内にあると云ふ事は、悲惨でもあり、耻かしい事でもあるから、国家は全力をさゝげてこれが絶滅をやらねばならぬ。(中略)費用は殖えない。そこで待遇が悪くなる訳であるが内務省からは幾らと極つて居るから、すぐに殖やされない。切り詰めた費用でやるから、そこに無理が生ずる。(中略)もつと多く国立病院を造つて、一人も個人の家には置かないやうにしたい。瀬戸内海などには幾らでも島があるから、仮りに五萬人の患者があるとしても、何はさて置いてもこれを収容することにしたい」。

 つまり、阿部磯雄は、日本にいるハンセン病患者をすべて国立病院を瀬戸内海の島につくって収容せよと主張しているといえよう。阿部磯雄は、先に述べてように、ハンセン病患者の子孫を絶つため、患者の「断種」を強制せよと主張し、また、長島愛生園を訪問して、一萬五千人乃至五万いるとされるハンセン病患者をすべて、国立病院を瀬戸内の島々に収容せよと主張しているのである。そして、ハンセン病患者を収容しる国立病院への「絶対隔離収容」を主張した「巻頭文」を『廓清』誌上に「国立癩病院訪問記」として書いている。(滝尾)

 (その④)廓清会本部発行『廓清』第二六巻第十一号(一九三六年十一月)理事長・安部磯雄著「国立癩病院訪問記」より。

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沖之島から長嶋へ  今月の半過ぎに岡山の山陽高等女学校の五十年期に当るので、岡山に旅行した。私は山陽高等女学校の創立当時暫く教へて居た関係で、今度招かれて講演の為めに行つたが、その序手に多年希望して居た国立公園大山(ダイセン)に登り、引続いて沖の島にも旅行した。これは兼ねての希望であつた。十四五才の頃山陽先生の日本外史を読んだ時からの希望で、後鳥羽天皇、後醍醐天皇の旧跡を訪れたいと思つて居た希望が、今回達せられた訳である。その目的を達して再び岡山に立ち帰つて来てこれも兼ねて訪問したいと思つて居た瀬戸内海にある長嶋の国立癩病院の参観をした。その日は日和でもあり、丁度村の記念日でもあつて、色々な催もあると云ふ事なので、二三の知人とその島を訪問することになつた。その癩病院は国立であるから、総ての施設はよく出来て居る。治療室、事務所、集会所などあり、集会所は七八百人位は裕に這入ることが出来る施設である。唯この癩病院の一つの特色は患者の這入る家は、全部個人もしくは団体からの寄附によつて建てられたもので、建物も十坪を標準にして居る。十坪で五百円かゝる。これが島全体では千二三百人が収容されて居るが、住宅は全部十坪住宅で、日本の所有慈善団体の名が附いて居て、その名札には何々寮と書いて居り。例へば山陽高女寮と云ふ名が附いて居る。沖の島(長島カ?=滝尾)は景色のよい処で、私の行つた時には天候もよかつた。島それ自身が瀬戸内海の大きな島で、島全部は癩病院に占領されて居り、千二三百人居る。病気から云ふと気の毒であるが、あゝ云ふ美くしい島で、静かな生活をして居られる事は、或る意味で幸福だと思つた。何だか癩病患者がうらやましい気がした。

悲惨なる癩患者  私は癩病患者を如何にし(ママ)べきかと云ふ事を前から考へて居た。併し私の意見を発表する事は、世間から非難されるだらうと思ふて、発表を遠慮して居たが、もう発表してもよいと思ふから具体的な方法を述べて見る。最近私は有名な草津の温泉に行つた時に、癩病患者を見たが、あそこに居る患者は大体三通りに別れている。国立病院に収容されて居るものが一つ、次ぎは英国人のリー夫人が永い間世話をして居る癩病院がある。もう一ッは入院して居ないが、ある部落に全国から集つて来て居る。これが二百四五十人位であつたが、或はもつと多いかも知れないが、私は希望に応じて講演したが、その時集つたのは、二百人から二百四五十人位であつたから、もつと多いだらうと思ふ。そこに居る人は自分で働いて金を得て居るものもあるし、又故郷から秘かに金を送つて貰つて居る人もあるが、さう云ふ人でも、故郷とは音信が出来ない。もし草津に居ると云ふことが知れると、家族や親戚の間で悲劇が起る。さう云ふ事が知れた為めに縁組が破れると云ふやうな事が起るから、秘密にして居る。私はこれを見た時に、堪えられない感じがした。台湾に行つた時にも、台北の近くの淡水に行つたが、そこには英国のテイラーと云ふ医者夫婦が、自分で台北に病院を経営し居て、そこの利益で淡水の癩病院をやつて居る。それから熊本ではミス・リデルと云ふ人が、長い間癩病患者の世話をして居たが、日本で遂ひに死んだ。かう云ふ事を考へて見ると、癩病患者の救済と云ふ事に就いては心を痛めて居るのであるが、外国人の厄介にならねばならぬ程国民の手が充分延びて居ない。それでも国立病院が処々に起されるやうになつたのは、非常に悦ぶべき事である。かう云ふ風になつて来たので、最早時期が来たやうであるから、私の考へて居る事を天下に発表して世間に批判して貰ひたい。

癩の存在は国辱  一口に云ふと癩病があると云ふ事は国辱だと考へる。これが非常な人数ならば如何ともする事は出来ないが、数は多くない。長嶋院長の話では、大体全国で一萬五千人位だと云つて居る。又これは誰れであつたか忘れたが、五萬人位は隠れて居ると云ふ事であつた。併し何れにしても少くて一萬五千人、多くて五萬人であるから、この五萬人であるから、この五萬人を処分することは大して六ヶ敷ない。この病気は伝染は酷くないがかう云ふ病気が国内にあると云ふ事は、悲惨でもあり、耻かしい事でもあるから、国家は全力をさゝげてこれが絶滅をやらねばならぬ。序手にお話するが、先頃長嶋の癩病院でストライキが起つた。それも色々説明の仕方があるが、根本問題はかう云ふ処にある。それは患者が無理に押し掛けて来るのがある。さうなると院長も患者の人数が殖えるが何うするかと患者に謀ると、患者も承知するから後から来たものを収容するが、費用は殖えない。そこで待遇が悪くなる訳であるが内務省からは幾らと極つて居るから、すぐに殖やされない。切り詰めた費用でやるから、そこに無理が生ずる。それが不平となつて爆発した。だから癩患者を否応なしに収容して貰ひたいと云ふならば、もつと多く国立病院を造つて、一人も個人の家には置かないやうにしたい。瀬戸内海などには幾らでも島があるから、仮りに五萬人の患者があるとしても、何はさて置いてもこれを収容することにしたい。その光田健輔併し政府の財政も困難であるから、さうたやすく出来ない。緊急な用事に要るから、癩病の方までは廻はらない。そこで何うしたらその財源を得られるかに就いて、二三十年来考へて居る。その案を出したい。
*註:(「富籤も一種の娯楽」の項目は省略=滝尾)

悲惨な生活に泣く人々を救へ  日本では社会事業をやるのに、寄附金を募集して居る。併し金はなかなか集らない。そして費用はかゝる計りである。だから国家は富籤をやつて、金を集めたらよいと思ふ。それも何んの為めでもよいと云ふのではなく、目的は癩病患者を救済すると云ふこと、これに対して異存はあるまいと思ふ。さうなれば全国に癩病人が五萬人あるとしても、一時に収容することが出来る。私は三十年もこの事を考へて居る。それは悪い事ではないと思ふ。さう云ふ風にて社会事業の為めに金を得ることを考へて居るが、今は不敢取癩病を撲滅する為めに富籤をやることにしたい。それが終つたら肺結核の撲滅の為めに施設することにしたい。かう云ふ病気にかゝるものはかゝる人が可愛想であるから、さう云ふ人達を優待する為めの、博愛心がなくてはならない。かう云ふ事に就いてもし調査する必要があつたら、政府で調査をやつたらよい。富籤は博打とは違ふから、目的が社会事業に限ることにして、今日一番よい方法であると思ふ。癩病を撲滅出来ないなど云ふことは耻辱である。一度さう云ふ病気になつたら、実に可愛想であるから、これを救済してやらなければならない。私は草津へ行つた時にその人々の悲痛の訴を聞いたが、たまらない思ひがした。あの人々は親戚知己からも見難され、生きながらにして孤独の一生を送らねばならぬ。その悲惨な事実を見ては国民全体が慎重にこれが救済について考へて貰はねばならぬ。  (十月二十八日)」と。

              滝 尾 英 二 (人権図書館・広島青丘文庫・主宰)

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2005年9月 3日 (土)

「ハンセン病問題」と優生思想・政策の推移(その2)=安部磯雄の場合②

  前回に引き続き、廓清会本部発行『廓清』に掲載された安部磯雄の「優生思想」および「断種」の奨励、「体力の充分な人が殖へる事が国家の為めである。さうなれば国家の利益である。頭数の殖える丈けが国家の強みではない」とする「断種」を国家の為めとする「国家主義」に注目する必要がある。それが、廓清会本部発行『廓清』に掲載された安部磯雄理事長の主張であるだけに、ことは重大である。
 光田健輔の「優生手術」は、こうした『廓清』理事長・安部磯雄らの支持・声援のもとに拡大・強化されていく。『廓清』という廃娼運動の全国組織の機関誌の「巻頭文」の主張が、阿部磯雄の「優生思想と優生施策の実施」を主張していることである。こうした事実を『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』は書こうとしない。こういうことは、後稿にも数多くあるということを「滝尾英二的こころ」の読者は考えて欲しいと思う。日本基督教婦人矯風会の機関誌『婦人新報』の記事にも見られることである。
 「ハンセン病政策と優生政策(優生思想)」を考える際の大きな視点であろう。この点に注目して、以下挙げる諸資料を読んでいただきたいと思う。(滝尾)

 「その②」の資料は、廓清会本部発行『廓清』第二六巻第五号(一九三六年五月)に掲載された安部磯雄著「国民生活と人口問題」と題する巻頭文は、「断種法」に関して、つぎのように述べている。
 *註:(「人口問題は国民生活を基礎に」「空頼みの移民政策」の項目は省略=滝尾)

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 第一に手数の掛らぬ方法  今日でも産児制限が広く行れて居る事は事実であつて、政府でも喧しく干渉はせぬし、可成多く行れて居る。これは教育のある知識のある人々の間に行れて居るが、最も必要のある労働階級には、方法が解らない為めと、解つて居ても、実際に実行出来ない為めに、徹底して行はれて居ない。これは有る意味から云ふと矛盾である。行はなくともよい人々の間に行はれて居て、必要のある方面に行はれて居ない。勿論産児制限と云ふ事は、国家が率先してやるべきものか何うかは議論の余地があるが、邪魔をしてはいけない。個人の自由に委せねばならぬ。で制限と云ふ事に就いて、何う云ふ方法が行はれて居るかと云ふに、それは色々であるが、サンガー夫人の方法なども悪くはないが、これは知識階級、中流階級にはよいが、下層階級には向かない。私の云ふのは、間違つて居るかも知れないが、手数のかゝらぬ方法は行れ悪い。実行が出来るや否や疑問である。で手数のかゝらぬ方法を考へねばならぬ。手数のかゝらぬ方法ならば、断種法と云ふ方法を考へれば、制限法としては有効である。それなら手数はいらない。これは何う云ふ事であるかと云ふと、簡単な手術である。それはこの手術を行へば、絶対に子供は生まれない。

 悪質遺伝と断種  子供が絶対に生れないと云ふのだから、一寸考へると恐ろしいやうであるし、普通の人は恐ろしがる。けれどもその方のよい方面を見れば、そうかなと思はれる節がある。独逸でもヒツトラーが人種改善の為めに断種法と云ふのを奨励して居る。悪質の遺伝とか、低能者とか、子孫に悪質の遺伝をするやうなものを挙げて、例へば癩病と云つたものには、強制的に断種法を行はせる。国家の法律を作つて実行して居る。これは我々が広い考へで云ふと、人種の改良と云ふ事から考へて、悪質の遺伝である癩病患者と云つたものに、この断種を行へば心配はないと思ふ。この断種法は子供を残さない。けれども性欲までも奪ふのではない。だから癩病院の如きでは安心である。癩病患者でも性欲がある。これを奪ふ事は人道上出来ない事である。処が断種法は簡単で性欲は奪はない。唯妊娠しないだけであるから、これ位便利な方法はない。日本でも東京の東村山村には癩病院があるが、こゝに院長をしていて居た光田健輔氏が、癩病患者でも男女の取締か六カ敷、そこで断種法を行へば夫婦になつてもよいと云ふ人情味のある仕方を取つた。子孫を遺さないと云ふことが重要な事である。男女の欲を奪ふ事はよくない。断種法をやれば夫婦生活を許すと云ふ事にした。今その院長は岡山県の瀬戸内海に面する長島に、癩病患者を収容してゐる国立病院があつて、そこへ行つてやつて居らるゝが、かう云ふ場合には断種法が悪いと思ふ人はなからう。

 米国白痴院に於ける実行  私は先年アメリカへ行つた時に思つたのであるが、アメリカと云ふ国は進んだ所があると共に、又一面保守的な処があつて、ヒツトラーのやうには思ひ切つた事は出来ない。併しカリフォルニャ州では感服した事はある。それは白痴院であるが、低能者を世話する病院であるが、その病院では父兄親戚の承諾を得れば、男女共断種法を行ふ事が出来る。本人は馬鹿だから何んな事になるか解らないので、安心の為めに行ふのである。報告書のやうなものを読んだが、それによると白痴でも顔の美くしい女があるから、そう云ふのは何うかするとだまされて妊娠すれば、親の苦痛でもあるし、国家としても考へなければならない。それで断種法をやるのであるが、女の方は手術が少し面倒である。併し親の承諾を得れば娘にも断種法を行ふ。さうすれば妊娠は避けられるから悲惨な事は起らない。アメリカのやうな六ヶ敷国でも、白痴院には実行して居る所を見ると、日本でも考ふべき問題である。

 別名は若返り法  断種法と云ふと人々は嫌かも知れないが、(中略)若返り法と云ふと言葉は穏やかであるが、断種法である。私は果して若返るか何うか知らないが妊娠は確かにせぬ、夫婦ならば男がやればよい。婦人は六ヶ敷から男の方がよい。この手術は法律違反でないから、産児制限にはこの方法が簡単でよい。手術料は二十円から二十五円位で出来るやうである。併し或る人は安くして十円位でやつて居る人もある。又中には出せる人ならば二十五円位出して貰ひたいが、出せなかつたら五円位でもよいと云ふ人もある。兎に角一へんでよいから、それを行えば子供は絶対に出来ない。一生子供がいらない人なら、安心する事が出来る。概して云へば悪質の遺伝があれば、国家の為めに子孫を遺さないやうにしたい。出来れば国家の力で実行すればよいのであるが、それも今の処出来ないから、個人の自由に委せるより仕方はあるまい。
*註:(「貧乏救済策として」の項目は省略=滝尾)。

 「その③」 廓清会本部発行『廓清』第二六巻第八号(一九三六年八月)に掲載された安部磯雄著「人問題から観た産児制限」と題する巻頭文で、つぎのように述べている。
 *註:(「統計に現れた農村の健康状態」の項目は省略=滝尾)。

 人口増加と健康の因果関係  でこれを問題として考へねばならぬのは、今日のやうに人口が増加すると、生活程度が低下するから、従つて健康に影響を及ぼして来る。これは都市と農村とは問はない。毎年全国では百萬の人口が殖へて行くとなると、結局は生活程度が下ると云ふ事になる。生活程度が下ると云ふ事は国民の健康上悪い条件である。それが為めに健康情態が下つて行く、これは見やすい道理ではないかと思ふ。で私共はかねて称へて居る通り、この健康情態の低下を防ぐ為めには、何うしても産児制限と云ふ事を考へざるを得ない。所が現在のやうな情態になつても、未だ多数の人がこれに反対であるやうに思ふ。この産児制限に対する反対論は大体今まで考へられた処によると、理論から来て居るのではなく、一つの感情の上で反対する場合が多いやうである。感情と云ふ言葉が不適当なら、常識論として産児制限に反対して居ると云つてもよいのではある。それ等の人は研究しないで反対して居る。これについて反対論の主なるものは二つある。一つは申すまでもなく、宗教思想から来たもので、あらゆる宗教はその立場から、大体産児制限に反対して居る。今一つは国防とか軍備とかの立場から、産児制限に反対して居る。先づ大体反対論はこの二つに別けて考へられる。これについて大ザッパではあるが以下説明したい。

 産児制限は宗教に反せず  最初に宗教の方面から云ふと、反対論の根拠は子供の生れるのは人間業ではない。神や仏の力である。是を人間が人為的に制限するのは宗教の精神に反すると云ふのである。則ち自然の道理に反するものであると云ふ簡単な趣意から来て居る。併し私はさうは考へない。(中略)
地球上は手を入れずにほつて置いたら雑木や雑草は繁茂して人間が参つて終ふ。それを人間は自然に打勝つて雑草や雑木を引抜いて行く、林野もよい樹木を植へる為めには、よい木丈けを残して間引く。農業でも雑草は引抜いて終ふ。山林事業でも間引をやつてよい樹に育てる。だから一部の宗教家が考へて居るのは全く根拠がない議論である。自然のまゝに委せ置いたのでは、農業も植林も出来ない。併しこの場合一寸誤解を解きたいのは、産児制限は昔は堕胎を意味したのであつた。だから堕胎は間引くと云ふ文字を使つた。然しこれは人情に反する。生れて来たものを間引くのは人情に反するから、私はそれには賛成せぬ。併し今の産児制限は生れたものを間引くのではなく、生れないやうにするのであるから堕胎ではない。堕胎は法律でも禁止して居るから、宗教の立場から計りでなく、又国法にも反するから、それは考へて居ない。唯未然に防ぐと云ふ産児制限法と云ふものは、何等宗教に抵触せぬから、安心して実行して差支はない。

 国力の充実には産児制限  第二の軍隊と兵力を増す為めには、人間が多くなければならないと云ふ論議である。これも実際上から考へると空論である。国が小さくて、人口が百萬とか二百萬しかないと云ふのならば、いざ戦争と云ふ時には、五萬か十萬の兵隊しか出せないから心細い。けれども日本のやうに一億の人口をもつて居れば、どんな戦争になつても、武器や食糧さへあれば、人間に不足は考へられない。武器や食糧の不足と云ふ事がなければ、千萬でも二千萬でも動員出来る。だから兵隊が少くて困ると云ふやうな事は問題にならない。小さい国では兎に角我が国では心配はない。寧ろ産児制限をして財政を豊かにすれば、常に国民兵として訓練して置けば一朝戦争があれば国民が悉く兵隊だから、兵隊の少ないのを憂ふる必要がない。だから国防上よりと云ふ議論にも根拠はない。私共は反つてこれと反対に産児制限を行ふ事によつて、生活難が緩和されたら、国防の為めに何れ位貢献するか知れないと思ふ。兵隊の量よりも質が大切である。量に就いては日本では心配はない。財政が豊かなら良い武器を造ることも出来る。日本は国民全体が兵隊であるから、何を苦しんで頭数丈け殖やすか。(中略)

 貧民階級は産児制限をしたくとも産児制限の方法を知らない。これは手数が要るから出来ない。相当の教育のある人でなければ面倒でやれない。で私は附け加へて実際問題として、私の意見を述べて見たい。

 寧ろ国家の幸福なり  私共は貧乏問題を常に考へて居るから、生活苦に陥つて居る人を救ひ上げたいと心掛けて居る。それで多産で困つて居ると云ふ場合に特別の制限法を国家として考へるか、実行してやる必要がないかと思つて居る。知識階級と云ふ言葉は面白くないが、この階級はやらうと思へばやれるから、これはほつて置いてもよい。それ等の人々は産児制限の方法は知つて居る。やらうと思へばやれる。唯無学な貧民階級になると子供が多くて困つて居るが、どうしたら生まないかその方法を知らぬ。だから私は将来国家が相談所を設け、この人は制限すべきだと認定した時は、医者にそこから相談してやるやうにしたい。今では絶対に子供を生まない手術が出来るから国家が調べて貧民階級に属するもので、子供が幾らかある人には、国家の費用でさう云ふ方法を教へてやるやうにしたい。これは国家としても親切な遣り方である。これによつて幾らか貧乏を緩和することが出来る。最もここでは知識階級は取扱はない。貧民にのみ手術してやる。(中略)一方貧民階級と貧乏から救済されるし、又国民全体の問題としては不健康なものを少くして、健康の低下をなくする。そして国民全体の健康を維持すると共に、貧乏を緩和する事が出来る。だから人口の殖えるのを国家が延びて行くと考へるのは間違である。体力の充分な人が殖へる事が国家の為めである。さうなれば国家の利益である。頭数の殖える丈けが国家の強みではない。私はさう思ふのである。

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「ハンセン病問題」と優生思想・政策の推移(その1)=安部磯雄の場合①

 「ハンセン病問題と優生思想・優生政策」に関する資料として、まず『廓清』に掲載の安部磯雄、および『婦人新報』に掲載の高野六郎の「著述」を「滝尾英二的こころ」に長期に連載することにした。「ハンセン病問題を考える」上で、優生思想・優生政策を正確、かつ的確に把握することは、極めて重要だと考えるからである。
 同時に、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』が、今年の3月に出た。その「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」191~208ページにこの問題が取り上げられている。「要約版」は、「13:日本におけるハンセン病政策と優生政策の結合 #7」29~31ページが、それである。
 『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』が全ページが、886ページもあるなかで、「第七 ハンセン病政策と優生政策の結合」にさかれたのは、わずか20ページに過ぎない。

 「検証会議委員兼検討会委員に藤野豊氏(富山国際大学人文社会部 助教授)と検討会委員には松原洋子氏(立命館大学大学院先端綜合学術研究科教授)の両氏がこの、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』の作成に加わっている。両氏とも、優生思想・優生政策研究者として著名である。
 しかし、『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』を一読しる限り、記述内容は意外に弱く、且つ薄い。優生思想・政策は、日本におけるハンセン病問題を考える場合、極めて重要な問題=根幹の問題であるが故に、私は「~最終報告書」の内容を批判し、また、その記述を資料を示し補う必要を感じている。「滝尾英二的こころ」の読者には、「資料紹介」が多く、読みにくいことを気にしながら、あえてこのような文を書かなければならないことをお許しいただきたい。

 安部磯雄の著述を四編紹介するに際して、廓清会本部発行『廓清』会本部理事長・安部磯雄とは、どのような人物かをはじめに紹介してみたい。鷹柳光寿・竹内理三編『角川・日本史辞典(第二版)』角川書店(1987年)にとると、つぎのように書かれている。

 <あべいそお 安部磯雄 1865~1949(慶応1~昭和24) 社会運動家。福岡県の生まれ。同志社卒業後アメリカに留学、キリスト教社会主義の立場から1898(明治31)社会主義研究会に加わり、1901には幸徳秋水らと社会民主党を創立、その宣言文起草。日露戦争では非戦論を唱え、05 石川三四郎らと雑誌「新世紀」を発刊したが、10大逆事件後は実践運動から離れた。大正デモクラシーの興隆とともに復帰し、社会民主主義右派の長老と目された。24(大正13)フェビアン協会長、26社会民衆党委員長、28(昭和3)代議士に当選、32年社会大衆党委員長、戦後は日本社会党顧問。また、早大野球部の創設者。熱心な産児制限論者として有名。主著「地上の理想国瑞西」「社会問題概論」>(29ページ)。

 宮川寅雄解説『世界婦人』(復刻版)全三八号、龍渓書舎(1981年5月)発行によると、『世界婦人』は、1907年1月1日に創刊され、毎月2回、後に月1回刊行され、福田英子が編集・発行したのであるが、安部磯雄は福田英子を助けて、女性解放紙に、「女性解放」の記事を多くの寄稿している。『世界婦人』の寄稿者としては、堺利彦、幸徳秋水、大石誠一郎、田中正造、神川松子、石川三四郎などがいた。

 『廓清』一九一一年七月、創刊され、以降一九四五年一月発行の終刊号に至るまでの長きにわたって刊行された廓清会の機関雑誌である。廓清会文部役員は、顧問・大隈重信(伯爵)、会長・島田三郎(衆議院議員)、副会長・矢島揖子(婦人嬌風会頭)と安部磯雄、機関誌『廓清』編輯人・益富政助などである。廃娼運動の全国組織として知られている。安部磯雄は早大の講師から教授となり、多く同誌に寄稿している。一九二三年の島田三郎会長の死去に伴って、安部磯雄は廓清会の理事長となっており、安部は、『廓清』の巻頭言を書き、その時々の時流において、自説を述べている。
 『廓清』を中心として、安部磯雄の新マルサス主義の理論家がどのように議論を変化させ、侵略戦争の進行とともに、「国策としての早婚」「なるべく早くお国の為めに結婚する」ことを繰り返していったか『廓清』を読みながら思った。藤目ゆき著『性の歴史学―公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ』不二出版(一九九八)の第十章 優生保護法体制』343~377ページの中で、鋭くその点を指摘している。

 安部磯雄は、廓清会本部発行『廓清』第二六巻第二号(一九三六年二月)に「最高峰に立てる社会事業」という巻頭文である。そのほゞ全文を紹介しよう。

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 「困難なる癩病救済事業  大体今日の社会事業と云ふものを観察して見ると、その精神に於いては、何の社会事業を見ても、実に麗はしいと云はんか、或は尊いと云はんか、何れも立派なものである。今や社会事業は欧米諸国に於いて盛なるは、私がこゝに申すまでもなく、我が国でもだんだん盛んになつて来た。勿論日本では昔から社会事業としては立派なものがあるから、今更ら新らしい事業とは云へないかも知れないが、社会事業が社会的に認められるやうになつた事は悦ぶべき事である。殊に社会事業の中でも、代表的――と云つては適当でないかも知れないが――社会事業として最も困難であり、或る意味で非常な犠牲を払はねばならぬ社会事業は、癩病人の為めに設けられて居るものである。外の社会事業も何れも困難な事業であるが、癩病患者を取扱ふ事から云ふと、他は比較的の云ふと、犠牲を払ふ点も少いと思ふ。かう云ふ意味で私は如何なる社会事業を見ても感服するが、殊に癩病患者の為めに尽して居る人を見ると、感服では云ひ足らない。自然に頭が下るやうな感じがする。自分自身で考へて見へも、他のものなら自ら進んで従事出来ると云ふ確信があるが、癩病救済の事業は今すぐに飛び込んで行くか何うかと考へる時に、何とも云へない感じが涌いて来る。でさう云ふ事業に従事して居る人に、満腔の敬意を払ふものである。

 台湾に於ける癩患者収容所  先頃台湾の旅行中に、癩患者を収容して居る病院を二ヶ所見たが、一ッは講演を頼まれたから行つたのである。台湾にも癩患者の収容所は二ヶ所しかないであろうと思ふ。それを大体話して見たい。一つは台北の北の方淡水と云ふ処にある癩患者の収容所であるが三十年前に出来て居るやうである。それの経営者は英国人ドクトル・テイラーと云ふ人であるが、そこへ行つて見た。(滝尾註=マッカイ医院のこと。清水寛著「植民地台湾におけるハンセン病政策とその実態」2001年6月刊、一四六~七ページ参照)そこは道がよくないので、総督府で自動車を出してくれたのであるが、行つて見ると場所はよい処であつた。そこは淡水と云ふ川が流れて居るが、病院はその岸の一方にあり、海に近く、農業によく、土地が肥えて居る。病院は少し小高い方に向つて居て、建物は赤煉瓦で造られ、幾棟にもはつて居る 一棟に四人が住ふ(ママ)事になつて居る。そして気候が一年中暖かいから、室の中は簡単で、下はコンクリートの床になつて居り、一人々々のベットがあつて、綺麗になつて居る、室もよく出来て居る。大体男女を別々にするやうに寄宿舎は出来て居る。その他毎朝集る礼拝堂や事務所は大きなものがある。他に病院に属する畑があつて、それは入院患者が少しづゝ農業をやるやうになつて居る。だから野菜は自分で作つたものを食べる。耕作の方法は各々受持がありそれを耕して居る。人々は競争心があるから、よいものを作る。そして時々展覧会をやつて、優勝者には賞品を与へる。そこに収容されて居る人数は割合に少い。それは経費の関係であらう。総督府からも補助しては居るが、その額は余り多くないので、経営は自身がやつて居る。恐らくテイラー氏が維持費を自分で稼いで居るのげはないかと思ふ。テイラー氏は台北に普通の病院をもつて居る。そこで病人を診察して居るのであるが、癩病で入院の必要なものは、淡水の癩病院にやるやうにして居るのではないか。私の行つた時はティラー氏は台北に行つて居て逢えなかつたが、細君に逢ふことが出来た。その他に本島人の牧師が居た。私はミセス・ティラーに逢つて見て、理想的な婦人であると思つた。柔和で、親切であつた。あゝ云ふ態度で患者に接したならば、癩病患者も何んなに感謝するか知れない。その後台北で講演した時に、会後牧師館で懇談会があり、その時ドクトル・ティラーにも逢つた。このティラー氏夫妻は三十年近くかうしてやつて居るのではないか。かう云ふ人に逢ふと、実際私の頭は自然に下るやうに思つた。この外にこれは台北の近くに、総督府が経営して居る癩患者の収容所がある。それに行つて見た。それは総督府が金を出して居るから、収容して居るから、収容して居る患者の数は多い。百五十人から二百名位の患者が居るやうである。収容されて居るものは本島人が多い。私の行つたのは講演の為めであつたが、患者中の日本語の解るものが出席したのであらう、それが二三十人居り、外に事務員が二十人近くも居て、その人々に講演した。私は患者よりも、事務員に話す積りで話した。病院のある場所は、街から隔つた閑静な処で、建物は木造であるが小ざつぱりしたものであつた。台湾にはこの二つの癩病院があるのであるが、果してこれで全部の癩患者が収容されて居るか同うか知らない。この事から考へて、私は更らに日本全体の癩病が、何う扱はれて居るかと云ふ事に興味を感ずるものである。

 外人に先鞭付けられた癩病院  日本内地の患者収容所は、昔は外国人の手で経営されて居た。これは日本人はその人々に感謝する共に、肩身が狭かつた、誰れでも知つて居るのは、熊本の癩病院であるが、これはレデル嬢によつて設立経営されて居た。この人は先年亡くなつて、全国にセンセイションを起した位に有名であるが、長い間癩病患者の為めに、無理をして一生を捧げ、日本で亡くなつた。第二は群馬県草津にある癩病院であるが、これはリー夫人が経営している。この人も大分前からやつて居る。もう一ッは箱根にあるが、これは天主教の方でやつて居るので、仏蘭西人か或はその他の外国人によつて経営されて居る こう云ふ事を考へると、日本の社会事業として困難なものは外国人の手によつてやられて居る。これが外国では何うなつて居るかと云ふに、癩病患者の多いのは、米国のハワイが一番有名であるが、このハワイは島から成り立つて居るから、大小合せせると沢山あるが、その中にモロカイと云ふ島があり そこが一番癩患者が多い。そこに天主教の僧でダミエンと云ふ人が行つて、患者の世話をして居たが、後には自分が感染して死んだ。私は人間の犠牲的精神と云ふか、愛の精神と云ふか、このダミエンなどのやつた事はその代表的のもので、キリストの精神をそのまゝ生して行くと云ふ事は、このダミエンの生涯などはさうではないかと思ふ。かう云ふやうに癩病の救済に対しては、外国人によつて、手を附けられたのである。

 国立癩病院に働く二友人  この困難な事業に対して、外国人にのみ委せて居たのを肩身が狭く思つて居たが、私は幸ひにして近頃日本人の間に癩病の救済事業に従事して居る人があることを知つた。それは国立の癩病院に働いて居るが、役人でも余程の篤志家でないと出来ない。私は不幸にして二人しか知らない。二人でも熱心に従事して居るのは心強い。一人は元東京に居た人で、東村山村の療養所に居て、院長をして居た光田健輔と云ふ人で この人には前から逢ひたいと思つて居たがその機会がなくて逢えなかつた。今は岡山の永島(ママ)に国立癩病院が出来て、そこの院長に転任した。何日かは訪問したいと思つて居たが、昨年或る事情の為めに急に逢ふ用事があつたので、丁度内務省では癩病に関係して居る人の人の大会があり、幸ひ光田氏の下に働いて居る林文雄と云ふ人も来て居たので、二人に逢つた。それ以来年報なども送つてくれるので、事情を知ることが出来る。その林と云ふ人は癩病研究の為めに留学した専門家である。昨年鹿児島県に収容所が出来て、そこに院長として赴任した。収容所は鹿児島湾の東海岸に当る所に出来たので、林さんはそこへ行つた。私は機会があつたら、岡山へも鹿児島へも行つて見たいと思つて居る。これが私が癩病院に就いて自分の知つて居るものである。

 断種法を実行した達見  私が光田院長に興味を感じたのは、今それをやつて居られる何うか知らないが、東京郊外の東村山村の癩病院に居る時に、収容者は癩患者として収容して居るから、始め男女を別けて、その間に大きな溝を堀つて、一方から一方へは行けないようにして収容した。それでも何うして行くのか、男の方が溝を越えて女の方を尋ねると云ふ事実が解つた。本人を召んで怪しからんではないかと責めると、患者の云ふには、では先生は奥さんと別々の室で寝ますかと云はれたので、成程かう云ふ不幸な位置に居る人々だから、性欲の満足までも奪ふ事は残酷であると思つて、断種法を行つたら問題は解決さるゝであらうと決心して患者を集めてその話をした。男子の方はこの手術が容易だから、この理屈を男の患者に云つて断種法をやれば、子孫が出来ないから、それをやつたら夫婦になりたければ許すと云ふ事にした。これは普通の人では考へられないがそれを実行した。さう云ふ訳で一度光田と云ふ人に逢ひ、親しく事情を聞いて見たいと思つて居たが、幸ひに知己になつたから、岡山や九州へ行く場合があつたら、訪問して見たいと思ふ。兎に角癩病を救済する事が、外国人だけがやつて居るのではなく、日本の医者にもやはりさう云ふ事をやつて居る人があることを知つて私は大変愉快に感ずるものである。

 人生最大の悲惨事  最後に一言述べて置きたいのは、癩患者が収容されて居るから人の目に触れないので、実際を知らないから同情が起らないかも知れないが、仮りに自分の近親が罹つたら何うであらうか。これは一家が死の宣告を受けたやうなものである。社会からは交際を絶たれるし、若い人々は結婚も出来ない。こんな悲惨な事はないから、国家は速かに癩病だけは力を尽せば、根絶が出来るから、この方に力を尽して欲しい。日本全国では何萬人がこれに罹つて居るのであるが、昔は天刑病などゝ云つて嫌つた程であるが、これは国家の力で無くするより外はない。そして思ひ切つて沢山の収容所を作つて、山の中であるとか、人里離れた処に収容して癩病を根絶する。これより外に方法はない。

*註:(「資金捻出方法の一私案」、「諸外国の例を研究せよ」の項は、省略する。=滝尾)

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 *菊池一郎先生!お久しぶりです。お元気ですか? 森田隆二さん、はじめまして!「滝尾英二的こころ」をお読みいただき、その上にコメントまで書いていただき、感謝しています。有志の方たちのお力で、すばらしいホームページを作っていただきました。知り合いの方に、「滝尾英二的こころ」というHPがあることを、紹介いただけば、うれしいと思います。(滝尾英二より)

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2005年9月 2日 (金)

小鹿島更生園の患者への生体実験と七三一部隊との関連をKBS(韓国放送)からの取材を受けて=雑感

 私は、今年の8月15日、KBS(韓国放送)のディレクターから「小鹿島での生体実験と七三一部隊」というテーマの取材を受けた。午後一時前に、東京からレンタルカーできた3名(ディレクター、通訳、カメラマン)が自宅を訪ねてきて、約2時時間余りの取材を行なった。

 小鹿島更生園で、収容された患者が死や傷害をもたらす人体実験がなされていたことを殆んどの日本人は知らない。また、知ろうともしない。私はここ10余年、全羅南道南端にある孤島・小鹿島を訪問し、何度となく小鹿島での患者の生体実験の証言を聞いた。(小鹿島更生園長・西亀三圭たち日本人が引揚げるとき、園にある日本統治時代の書類はすべて、焼却している。したがって、小鹿島での患者の生体実験を資料的に裏付けることは、困難である。なお戦前西亀は、朝鮮総督符の警務局衛生課長から第5代小鹿島更生園に就任している。戦後は厚生技官として1949年~52年まで栗生楽泉園勤務している。西亀の戦前に朝鮮で行なったハンセン病患者のことの責任は、いまなお問われずにいる‥‥。)

 小鹿島での患者の生体実験のことを、私は本や雑誌に書きもしたが、読者の反応は鈍かった。しかし、私が最も反省するのは、「家永・教科書裁判」で、石井部隊による「七三一部隊の人体実験」のことは、かなり前から知らされていた。同時に、小鹿島での患者の生体実験のことを知っていた。しかし、この両者を関連つけて、論考することはなかった。今回、KBSが取材にきて、その関係を考えるようになった。
 未来社編集部の好意で、『未来』11月号でこの問題を掲載することが、可能になった。詳細は『未来』誌のほうに譲りたい。

 滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未來社(二〇〇一年九月)発行には、(TBSの藤原デレクターやカメラマンと私は、一九九七年一二月九日に聞き取りした)を収録している。その中で二人の方から具体的な「人体実験」の証言を記述している。TBS(東京放送)が一九九七年一二月九日といえば、日本では「らい予防法違憲国賠訴訟」が提訴される以前であり、小鹿島の入所者の証言を著書として書いたのは、熊本地裁判決(01年5月11日)のあった直後のである。しかし、この小鹿島入所者の人体実験の証言は、ハンセン病問題に関わる弁護士やその支援者から、そして研究者の誰からも顧みられなかったし、取り組みもなされなかった。

 私の手元には、何冊かの七三一部隊の人体実験に関する書籍がある。
① 教科書検定訴訟を支援する全国連絡会編『家永・教科書裁判・第三次訴訟 地裁編(4)―南京大虐殺・七三一部隊』ロング出版、1991年10月発行、(A5判・414ページ)。
② 常石敬一著『消えた細菌戦部隊―関東第七三一部隊』ちくま文庫、1993年6月、文庫判・308ページ)。
③ 吉林省社会科学院ほか編・江田憲治編訳『証言・生体解剖―旧日本軍の戦争犯罪』同文館、199年7月、(B6判・204ページ)。
④ 神奈川大学評論叢書・第5巻『医学と戦争――日本とドイツ――』御茶の水書房、1994年6月、(A5判・244ページ)。

 これら①~④の本には、参考文献がたくさんあげられている。ところが、日本植民地時代のハンセン病患者への人体実験に関する研究物・論考は、きわめて少ない。皆無といっても過言でない。私は自著『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未來社(二〇〇一年九月)発行の中で、つぎのように書いた。しかし、この問題はまったくというほど、この事実を、ハンセン病問題に取り組む関係者は無視乃至は、これを軽視した。

 「‥‥それから、一九四二年か四三年のことだったと思いますが、破傷風というのがあるでしょう? 人体にはいると腰が伸びきってしまいます。日本は当時、ここの患者が多いといって中でも治る見込みがない人間たちに、それを生きた体に注射で入れたんですよ。
 本当に、あれほど残虐な人間たちがいることは不可能としか言えません。本当に何とも言いようがありませんよ。癩患者の治療をすると言っておきながら、破傷風の研究に患者を使って人体実験をするなんて‥‥‥。」(おじいさん<七〇歳>Cさん)(二九六~七ページ)。

 「それから大きい事件は、さっき出た軍人、ほら、軍隊で医師をやる人。そう、軍医。その軍医が断種手術もしたし、医学の研究をいろいろやっていて。二四時間でひきつる注射。みんな、「ひきつる注射」と呼んでいました。頭がこんな風にひきつるんですよ。注射されると。そして二四時間で死ぬ。そのために人がものすごくたくさん死んだんです。」(おじいさん<七九歳>Dさん)(三〇〇ページ)。

 二〇〇三年八月八日に、チャムギル(社会福祉をすすめる会・代表は鄭鶴理事長)が主催して、小鹿島で「国際人権シンポジュウム」が開かれ、日本から滝尾の呼びかけで二六名、この人権シンポジュウムに参加した(『未來』第四五八号=二〇〇四年一一月号、参照)。その翌日の午前に、日本の弁護士三名(徳田、国宗、大塚)、報道機関三名(泉熊日記者、田端共同通信熊本記者、三宅大阪本社記者)と滝尾の計七名が、二名の小鹿島の入所者の聴き取りを行なった。
 それを国宗弁護士が録音した。それは国宗さんのホームページに「日本植民地時代の被害の聴き取り」として収録されている。その中で「C・Gさん八三歳(一九二一年六月一七生れ)のかた」は、つぎのように、語っている。

 「‥‥当時はもちろんここには入らないほうが良かった。何回考えてもそれは入らないほうが良かったというのは当たりまえのことでないですか。
 注射されて神経が引きつれて死んだ人が何人もいる。何人かがねじれて死んだ人が何人もいるから怖くて診察に行かなかった。研究のためだと思う。治療については何の説明もなかった。大風子油は知っているがそれではない。それで二〇人くらいは死んだと思う。だから治療には行かない。昭和18年かそのころのことだったか、よく覚えていない。注射をされてからすぐに神経が引きつれて1日か2日で死んだ。みんな人体実験だと推測していた。実際はわからない。何の説明もないから我々にはわからない‥‥‥」。

 二〇〇四年一一月一〇日放映された「韓国KBS政策ドキュメント=小鹿島の真実」は、この人体実験について、小鹿島住民の証言として、「生きた人間の体に注射をして骨髄を抜くことまであった」という。その残虐な事件現場を取材したとして、金キジンおじいさんの証言を放映している。

 「*‥‥より衝撃的なのは生きている人の胸から骨髄まで奪ったと言うことである。治療ではない研究目的であった。証言(その当時、ここに注射のようなものを当てて、このようにするので中に芯が入っていくのだ。ここに入っていくのでちくりとする。我々が当時心臓から血を取ったのではないか、そのように思った。
「*抜くとき痛くない?」
 証言(あれは、痛かったですよ、骨が中に入っていくので、どれほど痛いかったか分からない。)
 「*他の人たちも理由なく抜いたのか?」
 証言(強制的だった。血を抜かなければ、ここで生きられない。食べ物もくれなかった。)

 ソロクト弁護団長(本年二月まで)、現・人権委員会の人権政策局長の朴燦運さんは、「ハンセン病をとりまく人権問題とその解決のための方策提示」と題して昨年10月11日に大韓弁護士教会主催の「ハンセン病人権報告会」で報告した。(その報告内容は、『飛礫』四五号、二〇〇五年一月に「つぶて書房」から発刊されている。原文の韓国語を広島市在住の井下春子さんが日本語に訳し(一一六~一三六ページ)、滝尾も同『飛礫』誌の中で六ページにわたりそのことについて「解説」ている(一三七~一四二ページ)。
 朴弁護士はその報告のなかで、小鹿島更生園の医師たちが行なった「人体実験」について、つぎのように述べている。「(4)断種手術および胸骨骨髄穿刺――日帝時代に小鹿島では、‥‥小鹿島ハンセン者たちは、(日帝時代に)治療をするという名目で胸の真ん中を刺して骨髄を抜く胸骨骨髄穿刺という癩菌検出を強要された。こうした慣行は解放後にも一九五〇年代まで継続されたという主張がある」(一二二ページ)。

 七三一部隊が石井四郎軍医=軍医としては最高位である軍医中将が率いており、国際的には認められなかった細菌戦の研究が植民地の人たち・直接被害者である人たちを「サル」とか「マルタ」とか称している。小鹿島更生園の患者を人間扱いにせず、佐藤看護長は「貴様のようなものは、あの松の木よりも劣るのだ」と口ぐせしていた。また、未来社発行の自著『朝鮮ハンセン病史』に書いたDさんの証言もあるように、大阪の軍医が断種手術もしたし、医学の研究として、「ひきつる注射」もして人体実験をしている。すなわち、医学の名による軍事研究であり、戦闘を有利にするための「医学研究」であった。

 この残虐な人体実験の事実を、今次のソロクト補償請求弁護団は、東京地裁の法廷内で深刻な患者に対する人権侵害だとして議論をたたかわしたのだろうか。それは私が、今年1月17日に同裁判所に提出した『陳述書』においても同様で、そのことは書かれていない。私自身、自己批判・反省せざるを得ない。

 ソロクト補償請求弁護団も、『訴状(2004年8月23日』において「‥‥さらに、同園では、入所者に対して何らかの薬剤の試験的使用などが行われ、このために入所者が死亡した例がある。非人間的な環境にあって、入所者らが完全に人権を抑圧されている状態に乗じて、人体実験までが行われたことが強く疑われるのである‥‥‥」とは述べている。しかし、ソロクト弁護団が法廷内でも、このことを、するどく追及したということをきかない。今年3月に出された『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』も、同様である。
 いま、厚生省監修『らい文献目録・医学編』1957年発行、814ページに採録されている「ハンセン病目録」を手がかりに、2~3行程度に内容が抄訳されているその出典の雑誌名の原本にいちいちあたって、人体実験の有無を調べる必要があろう。あと私の余生は少ない。そのことを若い世代の研究者たちに期待したいと思う。
                                                           滝尾英二(05年9月2日)

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2005年9月 1日 (木)

冬敏之さんから滝尾宛てにきた「封書」――冬さんの新良田教室の青春時代

 「滝尾さま。 冬さんへの思いと追悼の文章、読みました。しみじみと、そして、当時と今についてきっぱりと語られていて、とても胸にきました‥‥」。これはわが学友からきたメールの一部である。
 それは、冬さんの「はがき」に書かれた優しい心づかいからきたもの‥‥。
_162  一昨日は、冬さんからきた二枚の「はがき」を紹介したが、今回は、滝尾宛てに送られてきた「封書」の内容を書いてみたい。
 「封書」は便箋に6枚に書かれてある。2000年3月7日付けの滝尾宛ての手紙で「上福岡局」の消印が押されている。細いペンで能筆に書かれたもの。内容は主に「冬さんの青春時代=新良田教室(にいらたきょうしつ)」のことが書かれてある。
 「新良田教室」つまり長島愛生園内に設立され、正式には岡山県立邑久高等学校(定時制課程普通科)新良田教室で、開校されたのは、1955年9月16日である。この予算獲得については、全患協の歴史に残る「らい予防法」闘争のなかで、教育の機会均等を訴えて、政府に強力に要請した結果、獲得したものである。冬さんは新良田教室の一期生。 各療養所で行われた義務教育のほかに、新たに高等学校教育を行なうことが出来るようになった。

 1955年8月25日に第一回入学学力試験が行なわれ、54名が受験し、30名(男性27名、女性3名)が合格し、9月16日に「愛生会館」で開校式が行なわれた。詳しくは、『新良田・閉校記念誌』1987年2月発行を参照していただきたい。
 『新良田・閉校記念誌』は、B5判で256ページ。なお、冬さんは、月刊『愛生』の1959年3月号(新良田教室第一期卒業記念特集号)で「新良田教室論」と題する文を書いている。
 冬さんの滝尾宛ての書簡は、つぎのような内容である。

 ――「前略。『近代日本のハンセン病と子どもたち・考』をご寄贈下さいました、たいへんありがとうございました。私のことも文中、いくつかご紹介頂いて恐縮しております。内容的のも深く、調査も綿密で、教えられるところが、多々ありました。
 「新良田教室」の論考では、とくに興味深く読みました。その中の「お召列車」は、私たち一期生の中でも、関東出身者の入学生一〇名と引率の医師、職員、家族をのせた郵便車を半分に仕切った(当時、特別の郵便車はなかったのか、古い一般車輌をベニヤ板でかんたんに仕切り、その前方に私たちが乗った。また、機関車のすぐあとに連結されていたと記憶している)普通車が、前日早朝に青森を始発し保養園、新生園、楽泉園で入学生や引率者をのせ、品川で一夜を明かし(引込線でホームのはずれに停車)私たちは二時すぎに乗車しました。そして、四時ごろか、あるいはもう少し早かったか、機関車に連結されて出発、沼津で二名の入学生をのせたのですが、その一人が初代の生徒会長の金煌(こう)氏で、最年長の三〇才でした。列車は夜も走りつづけ、米原で蒸気機関車に代わり、翌日の10時ごろに岡山駅に到着しました。九月十日のことで、これが高校お召列車の第一号で、九州方面からの七名の入学生は、翌十一日に到着したそうです。
 列車の中では、入口には各園から派遣された職員が坐り、停車中もよほどのことがない限り、出入りは禁止されていました。全生園の引率は、のちに菊池恵楓園の園長になられた田尻先生で、他の職員に呼びかけてマージャンをはじめられたのですが、停車のたびに一般車客が入ってくるので、その阻止に大わらわで、とうとう一卓もできなかったようです。夜中も同様で、一寸気の毒でした。貼しがあったかどうか記憶にないので、或いはなかったのかもしれません。「これは貸切りですから」と、乗り込もうとあする乗客に、その都度説明していた田尻先生の困った顔は忘れられません。もちろん、ジュースその他、必要な買物は全部職員がやってくれ、「君たちは、そこにおればいい」と言われました。ただ、翌朝になって洗面所の水が切れ、しかたなく駅のホームにある水場で顔を洗ったのを覚えています。

 愛生園に着くと、収容所の桟橋から山の上の道まで、白、白、白の人垣で、まるで桜の花が咲いたようでした。それは、丁度私たちの到着が12時過ぎであり、自治会や一般の入園者は昼食の時間だったから、代わって職員が白衣のまま出迎えてくれたのです。驚いたことは、30メートルほどの桟橋の両側は看ゴ婦さんや准看の生徒さんがずらりと並び、ビートルズが来たかのように、私たちは熱烈な歓迎をうけ、その間を通らせてくれました。どこからか手がのびてきて、肩や背中をさわられたり、中にはかむって来た野球帽を取られ、とうとう返って来なかった少年もいました。
 翌日の九州方面は、早朝の到着で、出迎えも少なかったらしく、白衣も余りなかったようです。

 上陸後すぐ、風呂へ入ることを命じられ、出て来ると、着てきた衣類はパンツまでなく、財布やお金も見当たりません。係の人(入園者)が帳面を持って来ていて、お金は一応、園の通帳へ入れたので、明日その通帳渡すからと説明されました。また、衣類はすべて消毒に出したので、この方は二、三日あとになるとの話でした。結局、持って来たこおりやカバン等が戻ったのは、五日ぐらいあとで、その持ち運びは前会長の池内健次郎さんらがやってくれたということを、昨年の訪問の時に知りました。時計や金属類はさびていて、使えなくなっていました。収容病棟にどの位いたか、記憶にありません。その日のうちに寮へ行ったのか、あるいは翌日だったか、私は忘れてしまいました。

 一つこゝで申上げておきたいことは、いわゆるお召列車は八年ほど仕立てくれたとのことですが、では卒業の時はどうだったかというと、これは「野放し」なのです。自分で切符を買い勝手に帰れというのです。学校は「全生園から頼っている生徒だから、卒業後は全生園に帰ってもらう。それが園との約束だ」と私に言いました。お召列車の目的は、「病毒の伝撤」阻止の他に「逃亡」を防ぐ目的もあったはずですから、当然、卒業した時にもお召列車が必要なのに、それをしなかったわけです。怠慢ですね。
 今ふり返ってみると、長島上陸第一歩にうけた若い看ゴ婦さんや(準看の=滝尾)生徒さんたちの熱烈な歓迎と、そのあとでの持物全ての消毒という明暗が、強い印象として残っています。三年半の高校生活ですが、以後看ゴ婦さんたちに親切にしてもらったり、一緒にハイキング(といっても島の中ですが―)に何人かは行ったことなど、ほんの僅かでも青春らしい光も射していたと感じています。同級生の藤田君の死など、総じて暗い青春でしたし、病気が治っても外へ出られないという絶望感は、いつも心の底によどんでおりました。

 多少勝手なことを書きましたが、お許し下さい。
こちらでは、ハンセン病児童(草津)の報告書づくりが追込みにかかっています。気がかりは、全体の原稿がギリギリでないと集らないので、時間切れで目を通す余裕がない場合もあると思われることです。それも実力かと考えない訳ではありませんが――。
 今後とも、いろいろとご教示頂きたく存じます。
 くれぐれもお体に気をつけて下さい。奥さまのことは大事にして下さい。   草々

    三月七日                   冬 敏之

 滝 尾 英 二 様

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