「人間扱いされなかった私たちの時代が来ました。皆さん、長生きして下さい。今、死んではいけません。」(『ソウル新聞』2005年9月26日)
「人間扱いされなかった私たちの時代が来ました。皆さん、長生きして下さい。今、死んではいけません。」(ハンセン者人権団体「ハンビット福祉協会」の林ドゥソン会長の声)
これは、2005年9月26日の『ソウル新聞』に載ったハンセン者人権団体「ハンビット福祉協会」の林ドゥソン会長の声である。林ドゥソン会長といえば、明日(10月1日)発売される『飛礫』48号、(秋季号)に「ハンセン病歴者たちにたいする基本的差別の実態」林ドゥソン(ハンビット福祉協会会長)が掲載される。訳者は私の小学校・高校の同期生である井下春子さん(井下さんも1997年1月のチャムギル主催のボランティアに5名の広島県からの参加者であった)である。
2005年9月26日の『ソウル新聞』に「日帝ハンセン者抑圧、光復後も偏見変わらず」を見出しの記事で、「強制動員真相究明ネットワークの福留範昭さんが紹介されたソウル新聞の記事(翻訳も福留さん)」が出ているということを、昨日(9月29日)に、神戸の秋山さんから知らされた。この記事を「滝尾英二的こころ」の訪問者にぜひ知らせたい、こういう思いが私の頭に去来した。福留範昭さんと連絡をとって「滝尾英二的こころ」のホームページに掲載したい、こういう思いがつのってくる。幸い福岡におられる福留さんと連絡がとれ、「滝尾英二的こころ」に掲載することを了承していただいた。
『ソウル新聞』のこの記事は、『飛礫』45号(2005年冬期号)に滝尾が「解説・朴燦運弁護士『ハンセン病をとりまく人権問題とその解決のための方策提示』について」に掲載したように、2004年10月11日、大韓弁護士協会の主催で「ハンセン病人権報告会」か韓国の国会議員会館で開かれ、朴永立(パク・ヨンリップ)弁護士の司会でハンセン病関連の主要団体からの発言があり、「ハンビット福祉協会」の林ドゥソン会長も報告されている。
この記事に出てくる漆谷(チルゴク)農園は、2001年8月、河龍馬先生に導かれて私は、金子哲夫・川田悦子の両国会議員を案内した「定着村」であり、2003年8月には、小鹿島での「国際人権シンポジウム」などに参加した人たちの一部が河龍馬先生に案内されて行ったところでもあった。
そのことは、国宗直子さんのホームページの「ソロクト通信5>テグから(抜粋)のなかで、つぎのように述べている。
「‥‥次に同じく河先生の案内で、テグ近郊の定着村に行きました。漆谷(シッコク)農場といいます。斜面に貼りついたような集落でした。ここでは養鶏を主要産業にして元療養所にいた患者のみなさんの自活に成功したところです。河先生はここの初期の園長をなされており、皆さんの自活のサポートに尽力されました。
村では、丁度教会で礼拝が行われており、大人の人の大半は教会にいらっしゃったようです。代わりに元気な子どもたちが歓声をあげて遊んでいました。日本の療養所とはここが一番違いますね。
ただ、いくつか疑問も感じました。人里離れたこの村は確かに患者の自活には成功したけれど、ここが新たな被差別部落になっているのではないかということ。他の定着村も、主要には養鶏が生活の糧となっており、実質的には職業選択の自由が保障されているわけではないように感じたこと。などなどです。定着村は各村で経緯も実態も異なるということでしたので、ここだけを見て何かを言うのは早計だとも思いました。これからも勉強を重ねていきたいと思いました。」
『ソウル新聞』が書いている「益山農園でも、初日に78名に対する相談が終わった」という益山農園も私にとって思い出の深い「定着村」である。この村のことは、滝尾英二著『朝鮮ハンセン病史』未来社(2001年9月)発行のなかの291~2ページで書いているように親しくしていた故・シム・ジョファンがいらっしゃった「定着村」である。今はソウル大学校歴史学部の鄭教授や、写真家の大石芳野さんと一緒に訪ねたところでもある。私がひとりで、この益山農園を訪問したこともある。
こうした地域で、いまハンセン病歴者の闘いが始まっているのである。そう思いながら、この『ソウル新聞』を私は読んだのである。
この新聞に出てくるハンセン病歴者の皆さん。「長生きして下さい。今、死んではいけません。まもなく新しい夜明けを迎えますよ!」。
この「滝尾英二的こころ」に掲載を許していただいた強制動員真相究明ネットワークで、この記事の翻訳者である福留範昭先生! ありがとうございました。 (滝尾、2005年9月30日・記す)
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[ソウル新聞 2005-09-26 08:36]
「日帝ハンセン者抑圧、光復後も偏見変わらず」
「人間扱いされなかった私たちの時代が来ました。皆さん、長生きして下さい。今、死んではいけません。」
今月24日の午後:ハンセン病療養施設の慶尚北道安東(アンドン)市聖者院聖堂。近隣の漆谷(チルゴク)農場とサメ農園(金泉 キムチョン)等からやって来たハンセン者※50名余りが見守る中、マイクを手にしたハンセン者人権団体「ハンビット福祉協会」の林ドゥソン会長の声が本堂内部を揺るがせた。
[※ 訳注 : 原文ではハンセン人となっているが、便宜的にハンセン者の訳を当てた]
彼らは、1917年から1945年まで日帝によって小鹿島(ソロクド)に強制的に收容された人たち。この日の会は、今後彼らが日本政府を相手に提起するハンセン者第2次補償訴訟を説明するために大韓弁護士協会(弁協)の主幹で行われた。
●「今、死んではいけません。」、「そうだ、あそこが監禁室だった。冬にあそこ閉じ込められて死んだ人々が多かったな。」 納骨堂・中央公園など小鹿島を撮った映像が放映されると、あちこちで苦痛の記憶が、感嘆の声となった。」
昨年10月25日ハンセン者117名は、日帝の小鹿島の隔離収容に対する補償を要求して、日本政府に初めて訴訟を起こした。日本政府が、2001年制定された特別法によって過去に強制収容されていた自国のハンセン者には補償をしたが、小鹿島の被害者には補償を拒否したことに応じたものだった。
その宣告裁判が、丁度1年後の来月25日開かれる。
●小鹿島の生活を証明しなければ…1次訴訟より難しいもよう
昨年の1次訴訟の原告は光復後も続いて小鹿島に残っていた人々だった。一方、提起される第2次訴訟の原告は光復後小鹿島を離れ、全国各地に散って生きてきた280名余りだ。
弁護士協会は訴訟原告の募集のために、この日の聖者院や益山(イクサン)農園(全羅北道益山)をはじめ、週末ごとに全国巡回説明会を開く。益山農園でも、初日に78名に対する相談が終わった。弁護士協会は来月17日までに訴訟準備を終える計画だ。
第2次訴訟は、被害者たちが日帝強制支配期に小鹿島に收容された事実を証明する文書がほとんどなく、第1次の時よりさらに困難な闘いになる見込みだ。だが、陰に隠れて暮らしてきたハンセン者は、訴訟を通して声を出せるということ自体がうれしいという。
ハンビット福祉協会の林会長は、「歳月と苦痛の末、老いたハンセン者が訴訟を起こし、より元気になった」と言い、「今回の訴訟が、ハンセン者に対する偏見と社会的差別をなくすのに寄与したらと思う」と話した。
弁護団団長を務める朴ヨンニプ弁護士は、「1次訴訟宣告と2次訴訟の提起は始まりに過ぎない」とし、「日本政府に対する訴訟に続き、国内ハンセン病患者の人権侵害に対する実態調査等を通して、補償特別法制定を推進するだろう」と明らかにした。
●小鹿島を出ても困難な生活…関心、光復以後も続かなければ
1次訴訟で社会的関心が集められ、ハンセン者は一層自信を得た。
人目を避けてひっそりと暮らしてきた彼らが、自分の権利のために発言し始めた。サメ農場で住んでいる朴某(81)氏が代表的だ。23才で爪と眉毛が抜けて、ハンセン病発病の事実を知るようになった朴氏は警察署倉庫に3日間閉じ込められた後、小鹿島(ソロクド)に行った。
光復になり、故郷の慶尚北道金泉(キムチョン)に戻ったが、近所の人の横暴のため、再び流浪の生活をしなければならなかった。村のはずれまで追いかけてきて、他の場所に行き、天幕に火を灯し、暴力を加えた村の人々を避け、同じ境遇の人々と一緒に郡守に請願して国有地にやっと居を定めた。
しかし、「正常人」の村から子供でも1人いなくなれば、村には間違いなく警察がやってきた。ハンセン病患者が、子供たちを捕まえて食べ、埋めたというぶっそうなうわさのためだった。
朴氏は、「その時も、私たちの村にはハンセン病を体験した病歴者だけがいただけで、患者はなかった」と言い、「二の句が継げない私たちに、警察は『申告があったので、捜索せざるをえない」と言った」と回想した。
特に、慶尚道地域のハンセン者にとって、1991年の「大邱(テグ)カエル少年失踪事件」は、人知れぬ傷とて残っている。少年らを拉致し、薬を使って埋葬したと見なされた漆谷(チルゴク)農園は、公権力とマスコミによって、やたらとあばき立てられた。
朴氏は、「今になって、私たちの無罪が明らかになったので、それでも幸い」と言った。
(滝尾・注=原文では「ハンセン人」となっているが、訳者は「ハンセン者」と訳し、「ハンセン病歴者」と直していただいていい、といわれたが、そのまま、訳文通り「ハンセン者」として「滝尾英二的こころ」は掲示したことをお断りしておく。)
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