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2005年8月31日 (水)

「聴き取り」雑感――ソロクトで行なう聴き取り・考

_213  もう15年前だが、私は『どしがたきもの―1990年・秋・50日―』という冊子を出した。B5判で56ページの自家本で、手書きの文字が小さく紙面に書かれたもの。非売品である。
 その「まえがき」は、多田司さんが「激怒と絶望の吐露―まえがきにかえて―」として書いている。小部数しか印刷しなかった『冊子』ではあるが、私にとっては、人生をあゆむ上に大きな方向づけをしたものであった。

 その中で多田さんは、私のことについて、つぎのように書いている。

 「‥‥想い起こす滝尾さんのことは、たくさんある。その一つふたつに触れよう。
たとえば、1983年全通研(=全国通信制高等学校研究会)の報告者として、彼はこんな話をした。
<‥‥‥森さんが49年間どんな思いで生きてきたか、それを聞かせてもらうようにたのみました。二日前に、来るなという伝言を受けました。わたしはそれを無視して、大雨の中をタクシーにのり、ビールをさげて出かけました。森さんは怒った顔で『今晩は帰ってくれ』と言いましたが、無理にあがり、ビールをのみながら話を聞かせてもらいました。話すのがつらかったのです。あけ方近く、森さんが寝入ったあと、私は天井の豆電球をたよりに、聞きもらしてはならぬとをメモして寝ました‥‥‥>。
 いまどきに、こんな話がころがっているだろうか。」

 このことについて、1985年10月17日、第30回広島県高等学校同和教育推進協議会に約1,000名の参加して、尾道市公会堂で開かれた。私は、「広高同教30年の教育運動から学ぶ」と題する記念講演で長時間、行なった中で「森さんへの聴き取り」についても話をした。この内容は、ソロクトの入所者への参考にもなるだろうと思い、「ソロクト弁護団」には、そのことを連絡しておいた。
 私がハンセン病問題の研究や運動に参加する場合、どうしても、部落解放教育・部落解放運動に関わった経験を基底=下敷きとして、進めている。そういう意味で、「森さんへの聴き取り」の体験を広くハンセン病問題にかかわっている多くの方々に知ってもらいたいと思う。この記念講演は、『広高同教30年のあゆみ・第一集 講演編』の冒頭に掲載されている。その講演で、私はつぎのような報告を行なっている。

 「‥‥一昨年の寒いある晩の島の学集会で、通信制の部落の生徒の生活体験を語るテープをききました。その中で、三二歳になる生徒が、「教科書が買えなかったし、昼の弁当を持って行きたくても、入れるおかずがありません。砂糖をかけても、しょう油をかけても、おかずにはなりません。かくして食べようとすれば馬鹿にされて、からかわれたものです」と、話すところがあります。
 それを聞いた部落の人じゃない「もの持ち」のある生徒が、「三〇代の人で、中学校の頃そんなことがあったのかねえ、考えられん」と言いました。すると森さんが、自分が小・中学校の時は、このようなことが現実にあったこと――弁当を持って行けなかったこと、漁に行って稼がなければならなかったので、学校へ行けなかったことなど話してくれました。すると「もの持ち」の生徒が、「こんな長い文章、森さん書けんでしょうがあ」と言う。森さんは無言でした。彼は学校へ満足に行けなかったことなどあって、文章がよく書けないのです。それを知っていながらの「もの持ち」の生徒のいやがらせでした。

 「森さんよ。自分がどんな思いで、どういう生き方をしてきたか、教えてやれいやぁ。じゃけえ、あんたの生い立ちを書けいや」と私は言いました。
 「書くのは苦手だから、駄目じゃ」と言うので、「そんなら、一晩森さんのところへ泊まらしてもらって、私に語ってくれんか。それを文章にするのは、私がやろう」と言いますと、「それならば、やってみよう」ということになりました。
 泊めてもらう日を三月一日と決めました。学習会を終えて、その夜、二月一九日の夜は、私も森さんも、だいぶ飲みました。ところが、三月一日の二日前になって同僚の教員を通して森さんは私に「当日来てもらったら困る。女房が用事があって、里へ帰ったので、なんにもしてあげられないので」とことづけたのです。私は「奥さんがいないほうが、かえって話しやすかろう。彼の伝言は無視しよう」と自分一人で決めてしまいました。
 当日は、昼過ぎから大雨になりました。私は島の波止場からタクシーに乗りました。途中で酒屋へ寄って、ビールの大ビンを四本買いました。小型タクシーで森さんの家まで1,400円の道のりです。
 木造の町営住宅の二軒長屋の森さん宅へ行った時は、日もとっぷり暮れ、雨はどしゃぶりで、私のズボンのすそはずぶ濡れでした。
 「こんばんは! 森さん」と言いながら、玄関の戸を開けました。森さんは怒った顔をして、ぶっきらぼうに、「顧問の先生に言うとったじゃろう。今夜は女房がいないので、来てもらったら困るということを。今晩は帰ってくれんさい」と言うのです。
 私は、森さんが自分の生きてきた三八年間を、しんどかった生きざまを語ることが、どんなに大変なことか、よくわかったのです。でも、ここで引きさがったのでは私の負けです。そして、森さん自身を駄目にしてしまいます。
 「この雨の中を、ぼくに帰れ言うんか。何時の船に乗って帰れ言うんか。自分の生い立ちをしゃべりとうなかったら、しゃべらんでもええ。持って来たビールだけは家へあげて飲ましてくれいやぁ。あがるで‥‥‥。」
 心やさしい森さんは、私を家の中に入れてくれ、森さんの手料理の酒のさかなで、とうとうビール六・七本も二人であけてしまいました。二人が寝たのは、もう夜の一二時をだいぶまっわっていました。
 「この雨で、明日も仕事はなかろう」左官をやっている森さんは寝る前言っていました。私たちはビールをあけながら、話しました。森さんは自分の生い立ちや生活を語り、それから私に「しゃべったことを書いてくれてもええで」と言ってくれました。森さんが眠ったあと、私は天井の豆電球の明りを頼りに、森さんの語りを文章にしました。――森さんは、私が薄明りで鉛筆を走らせていたことを、本当は知っていたのです。

 翌日、学校へ帰って森さんの語りを清書しました。四〇〇字原稿用紙にして、一二枚の分量です。私はそれを森さんのもとへ速達便で送りました。「聞きちがったところは、訂正します」と添え書きしておきました。
 森さんから電話があり、何箇所かの改正をしました。その中には森さん自身が思いちがいがってあの夜語ったというところもありました。その清書を十数部印刷し、次の学習会に出かけて行きました。その夜の学習会で、森さんがこの原稿で仲間たちに自分の生い立ちを語ることになったからです。
 でも、その夜、森さんは学習会へ来ませんでした。仕事を終えると、子供を車に乗せて、里から帰る奥さんをむかえに行くと言って、呉の街へ行ってしまったのです。「Iのおやじ」さんは、「森は、うまいこと言って逃げてしもうた」と笑っていました。自分を語るということは、たとえ気心の知れた仲間うちでも、しんどいのだということを「Iのおやじ」さんは知りぬいていたのでしょう。森さんの生きざまを書いたプリントは、当日は生徒たちには手渡さず、次回は森さんにどうしても来てもらって、語ってもらおうということになりました。
 その夜の学習会は、いつもと違って「Iのおやじ」さんたちが戦中・戦後のこの地域のこの地域のこと、自分たちの仕事のことなど、たくさん話してくれました。カナコギの話がその中で熱っぽく話し合われました。
 あとで、森さんに聞いたのですけれど、私が速達便で送った生い立ちの文を読んで、何度も読み返して、そして涙がとまらなかったそうです。だから、あの夜の学習会へはどうしても出られなかったと言います。それでも、次の三月一八日の学習会には、森さんは出席しました。その日が、年度の最終回の学習会でした。
 コピー印刷した原稿は、仲間の四人がかわるがわる読みました。森さんは「やっぱり涙がでるて、声がつまる」と言って読みませんでした。でもとても感動的な学習でした。

 私はながながと、被差別部落に生まれ、育った森さんの聴き取りのことを、「滝尾英二的こころ」の中で書いた。それはなぜか。この森さんからの「聴き取り」の話は、要約したが、小鹿島の人たちの聴き取りをしている「ソロクト弁護団」にもメールで書き送っている。そのことをソロクトでハラボジ・ハルモニの聴き取りをしている弁護士の方がたに、ぜひ聞いてもらいたかったからである。

 「ケモノの皮剥ぐ報酬として、なまなましき人間の皮を剥ぎとられ、ケモノの心臓を裂く代価として、あたたかい人間の心臓を引裂かれ、そこへくだらない嘲笑の唾まではきかけられた呪われの夜の悪夢のうちにも、なお誇りうる人間の血は、涸れずにあった」(全国水平社創立大会・宣言)というこの社会に、森さんも生きてきた。また、ソロクトのハラボジ・ハルモニも同じように差別社会に生きてきた。しかし、人権を奪われ、くだらない嘲笑の唾まではきかけられた被差別者たちは、部落の人たちだけではない。ハンセン病の病歴者だけだけでもない。原爆被爆者、在日朝鮮人を含む数多い在日外国人、アイヌ民族、障害者など日本には数多く人権を奪われた人たちがいる。
 そうした人たちに「生きてきた道」を聴き取りする時は、森さんと同じような、生きてきた道程の中で味わった哀しさ、苦しさ、悔しさを回顧さすことである。なまがわきの「かさぶた」をはぐような行為だともいえよう。私は、そのことを知ってもらいたかったからである。
 差別問題に関わって私は、半世紀が経緯する。そして、今なお聴き取りのむつかしさ、困難さを克服できないでいる自分がある。

                              滝尾英二(2005年8月31日)

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2005年8月30日 (火)

学友・冬敏之さんから学ぶ―冬さんの書簡を通して

_162  十何年も、ハンセン病問題に関わっていると、書斎や寝室にあるプラスチック製の資料入れケースがら、すでに故人となられた方々の書簡・遺品などが出てくる。今回は、今は亡き故・冬敏之さんの二通の葉書を紹介しよう。

 第一は、2000年4月19日付けで「上岡」局の消印がある「はがき」である。第二は、同じ月の6月15日付けで「三方」局の消印の押された「はがき」である。ともに、細いマジックペンで「はがき」一面に能筆な文字で書かれてある。

 第一、「はがき」に書かれた内容は次のようなものである。

 「前略 「『らい予防法』国賠請求事件資料の考察」及び同「大谷証言について」の二冊をお送り下さりまして、ありがとうございました。短い期間によく調べられた労作と存じます。とくに滝尾さんのテーマである植民地下の朝鮮問題や、訴訟における「国」側の答弁書や準備書面への反論は、原告側代理人弁護士も行うと思いますが、何はともあれ、参考になるものの一つと思います。
 ただ、二つだけ若干の意見があります。この論考を認めた上で申し上げるにですが、時期的に、「こちら側の準備書面の不備を」突くことは、できれば、これ以上してほしくないということです。これは作戦上申上げることで、私も東京地裁へ提出した準備書面にいくつかの誤りがあるのを知りましたが、それをあえて指摘しないことにしています。指摘することで、せっかくの弁護団の意気込みをくじいては損になると考えるからです。もう一つは、田中等さんとの論争も、それはそれとしておやり頂いてよいが、紙上での公開はもうして欲しくないということ。お互いに敵ではないのですから。この二点について、釈迦に説法を十分承知の上申し上げました。気を悪くしないで下さい。(冬 敏之)

 私が、昨年(2004年)5月以来、とりわけ10月以降の「ソロクト補償請求弁護団代表兼事務局長」である国宗直子弁護士と不仲な関係となった。しかし、国宗弁護士をはじめとする同弁護団の弁護士たちに、私は不信をつのらせた以後も「ソロクト弁護団」に協力続けた一因に、この亡くなった冬敏之さんのご意見もあってのことだともいえる。

 ことに、今年5月23日の第5回ソロクト訴訟裁判前後のソロクト弁護団の行為はひどかった。しかし、7月19日に結審した後までは、私が「ソロクト弁護団と決別・離反したこと」は、我慢して書かなかった。しかし、特定・小数者しか見ることの出来ないホームページ「語り合いましょう」に、ソロクト弁護団と滝尾の離別・決別について書くようになった。私の言動が「弁護団の動向」と無縁の時期になったと考えたからである。ソロクト裁判の判決を意識しての私なりの行為である。彼岸で冬さんも許していただけるだろうと思う。
 東京の田中等さんとは、「仲良く喧嘩した仲」であり、いまはソロクトの「ハンセン病歴者」の差別からの解放を願って、ともに仲良く闘う友人として、親交を暖めている。

 第二、冬さんのもう一つの「はがき」に書かれた内容を書くこととしよう。

 「拝復、おはがきありがとうございました。当地は一週間も雨で、梅雨の雨量の3分の2位が降ったとのことです。そのせいか、精神的・肉体的に不安定で落込みました。多分にうつ病でしょうが、妻に言わせると「あなたはそううつ」だとのことで、危険らしい。自分でもそれは知ってるのですが、その原因は永年の拘禁から来てるのか、それとも生まれつきのものか、よくわからない。私はやはり後天性のもので、それも予防法によると考えたい。
 節子(皇太后)の歌、ありがとうございました。「島に住む」とあるので、愛生園を想定してるのは明らかで、それも光田から奏上によるイメージがあってのことと推定できます。光田が皇室にくい込んでいた証拠としても貴重です。ありがとうございました。(冬 敏之)

 節子(皇太后)の歌の私への謝辞は、1932年1月10日、当時に大宮御所で歌会を行ない、その時つくった節子の短歌を、財団法人藤楓協会編『創立三十周年誌』1983年3月20日発行に記載されていた。それを、冬さんに私が連絡したことに対してのものである。
 冬さんのいう「島に住む」の節子の短歌は、
  「市町(まちまち)をはなれて遠きしまに住む 人はいかなるこころもつらん」
 もう一首の短歌は、
  「ものたらぬ おもひありなばいひいでよ 心のおくにしめおかずして」
 と節子は歌会で歌ったという。

 冬さんからは、『ハンセン病療養所―冬敏之短編小説集』壷中庵書房、2001年6月発行(「多喜二・百合子賞受賞」)され、私の同書の寄贈を受けた。また、長島愛生園で収録された1975年10月12日(日曜日)に、邑久高校新良田(にいらだ)教室の一期生である冬敏之(1933~2002)のインタビューは、入所者・社会復帰者の主体性を強めようという内容のものである。現在から30年前の42歳の冬さんのインタビューは、豊かな被差別経験との闘いにより培われた冬さんの思想を知る上にも、たいへん貴重である。今そのテープの複製を私は持っていて時折、元気であった冬さんの行き方から、私は多くを学んでいる。

 2002年元旦にきた冬さんは、ご自身が肝臓がんにおかされての身体であるにもかかわらず、私の健康を気を使った「賀状」書きとどけられた。そして、その年の2月、惜しまれながら彼岸に旅立たれた。私より2歳も年若い69歳というのに‥‥。

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2005年8月29日 (月)

ソロクト訴訟の問題点・疑問点(その1)

 二十数年前だったか、私が東広島市八本松の県立教育センターに勤めていた頃、同僚の運転する車に同乗して広島の自宅へ帰る夕刻。車のラジオから「小沢昭一的こころ」という「ちょっとエッチな」でも、小沢昭一でなければ語れない洞察力のある民放番組を聞きながら帰路についたものである。「小沢正一的こころ」のような内容のあるものは、到底書けないが、人権問題=とりわけ「ハンセン病問題」を随想風に、毎日書けたらとよいなと思っている。乞う、ご期待を!

 今日は、「ソロクト訴訟の問題点・疑問点(その1)」として、東京地裁の法廷で充分論議されなかったが、『補償法』にひとり反対した川田悦子さんの意見を論議すべきではなかったか。被告=国は2001年6月19日付け『朝日新聞』に掲載された「補償金法案に反対した川田悦子衆院議員」の記事を証拠書類として提出し、この裁判の問題の本質をそらそうとする。だから、ソロクト弁護団は「準備書面」で反論するだけでなく、法廷の場で被告の答弁書を論破すべきでしょう、として、徳田靖之弁護士らに『えつこ通信第5号』のコピーを送付したことがある。

 この問題を掲示するに際し、当の『朝日新聞』の川田悦子議員のインタビュー記事を紹介するとともに、川田悦子議員(無所属)自らが書いた2001年8月1日発行の『えつこ通信、第5号』を紹介しようと思う。
『朝日新聞』の記事は、つぎの内容のものである。

 「中身濃い法作る責任――補償金法案に反対した川田悦子衆院議員」の見出しで、「川田悦子衆院議員は、死亡者や旧植民地などへの補償が不十分だとしてハンセン病補償金法案にただひとり反対した。「87年に国がエイズ予防法を準備したとき、らい予防方が下敷きだと聞き、療養所を訪ねて、衝撃を受けました。80年代ですから、差別的な法作りを進めたのが日本です。日本占領下の朝鮮半島のハンセン病療養所では、薬物などで患者を虐待したとも聞いています。何が行なわれたかを検証し、補償から漏れる人がいないか調査すべきです。素早い立法はいいことですが、『熊本判決』だけが下敷きでは視野が狭い。国会は独自に中身の濃い法を打ち出す責任があります。8月には韓国に行くつもりです」

 2001年6月22日法律第六十三号「~補償金の支給等に関する法律」直前の6月19日の『朝日新聞』の記事である。それから、約40日後の8月1日発行の『えつこ通信、第5号』」に、川田悦子さんはつぎのように、書いている。

 「ストップ・ザ“馴れ合い政治”違いを認めて論議しあうことが議会政治」(見出し)

 政治の世界は「馴れ合い」が蔓延している。議論せずに駆け引き、根回しがおこなわれている。これで国会のすべてが運営されていけば、恐ろしいことになっていく。つい最近のことを言えば、ハンセン病裁判の判決(5月11日)を受けて、国会決議を出すことになったときもおかしかった。文章が私に提示されたのは6月6日。社民党の議員が委員会中に案を見せてくれた。「昭和60年の最高裁判決を理解しつつ」という文は政府声明を正当化そるようだ納得できないところだった。「これでは同意できないですね」と私は言った。そうしたら、社民党の議員は、へんな決議なら出さないほうがいいと野党は考えていて、たぶん決裂するでしょうと言った。その言葉を聞いて、ホッとした。ところが、翌日の午後になって委員会(厚生労働委員会=滝尾)の最中に共産党の議員が私のところにやってきた。「川田さん、国会決議これでいくということになってきたのだけど、どうしますか?」と聞いてきた。「真相究明」という言葉を削除するということになってきたという。共産党の議員も「昭和60年の‥‥」というくだりはとうてい納得できないので、削除を要求したが、受け入れてもらえずひとり孤独していて、もうこれ以上頑張れないのでトップに相談したら止むを得ないので、妥協してこの文章で同意することにしたという。なんという事態になっているのだ!昨日社民党の議員から聞いた話と明かに違っている!驚いて、委員会室を飛び出し、議員室に戻ってきて、国会決議の内容が正式のルートから届いているかどうか秘書に聞いてみると、ちょっと前に届いているという。

 すぐさま社民党の議員のところに走る。運良く在室していたので、「昨日の話と違っていることが起きている。どういうことなのでしょうか。こんなふうに議論もなく決められてきて、結論をおしつけられるのはおかしいい。自分の意見を述べる場がないのは納得できない。こんな国会決議には賛成できない」と語気を強く言い放った。すると、一人だけ反対するならこれからの国会活動に協力しなくなると言ってきた。まるで脅しの世界だ。あまりのひどい言葉い唖然としてしまい、怒りがこみあげてきた。とっさに私はこれを打開するにはどうすればいいのか次の行動に走った。
    (中略)
 しかし、納得できないまま賛成するわけにはいかないので、弁護団に原告団の意見がどうなっているのかを委員会室の廊下から携帯電話で尋ねると、「責任の文言が入っているのでこれで了解している」という。万事休すである。民主党の議員の説明によると、どうも原告弁護団が与党と協議してOKしているので、いくら野党が提案しても受け入れてもらえない状況になっているという。たしかに政権党が力を持っているのは確かだが、はじめにそこと協議している限り野党の力を発揮する場面はない。ひどい話だ。弁護団のやり方はまちがっているように思えてくる。野党無視も甚だしい。こういうやりかたで国会決議はできあがってしまった。そして私は仕方なく賛成することになってしまった。

 ハンセン病補償の法律もまったく同じ経過を辿った。集中審議で1分でも2分でもいいから発言させてほしいと願ったが、それも叶わず、法律は成立。一度妥協すると、ずるずると賛成していく羽目になる。しかし、今度の法案に対しては納得できないので反対することにした。熊本裁判の判決をもとにした内容であり、国会の責任が断罪されたことを反省しての補償の内容になっていない。裁判では法的に拘束された(療養所にいた)かどうかで補償の金額が決められているが、これでは国会が悪法をつくり、長いこと放置してきた責任をとっていない。国会が作る法律は、熊本地裁判決とちがっていい。判決よりも中身のあるものにする責任がある。これでは過酷な療養所を逃げ出し、隠れるように生きてきた人々や、療養所を出てからも苦労しながら生活をしてきた人々のことを考慮していない無慈悲なものになる。
 それにこのような隔離政策を行なったのは、日本国内にとどまっていない。富国強兵の植民地政策のもとで朝鮮半島や台湾においても日本政府はもっとひどいことをおこなってきたという。そして既に亡くなってしまった人への償いは具体的なことは明示されていない。十分な討議もせずに、このような内容の法律を国会は急いでつくってしまった。それに私は腹が立った。国会では民主主義は死んでいる。委員会ではただひとり反対し、本会議でも480人中ただ一人の反対だった。たったひとりの反対にすぐにNHKと朝日新聞が取材にきてくれて、報道してくれた。そのことで今まで薬害エイズを一緒にたたかってきた人から「反対してくれて良かった」「全会一致は怖い。ひとりよく頑張ったね」と励ましの電話をいただいた。またハンセン病の歴史研究家(=滝尾)から「よくぞ反対してくれた」と歓迎された。

 480人中ひとりだけ違った行動をとるというのは、かなり勇気がいるが、やはり自分が納得できないことは声をあげていかなくてはならないと思う。
 協調性がないとか、わがままだとか非難する人もいるが、日本のような国では、少数者の意見や意見の違いをお互いに認め合うことをしていかないと、恐ろしい社会になっていく。最初に大きな声をあげた強者に引っ張られてしまう。国会は一部の議員だけで決めるのではなく、会議室で大いに議論して決めてかなくてはならない。6月末で長い国会も閉会したが、密室での馴れ合い政治を変えていかなくてはならないと、ますます痛感させられた第151国会だった。

 この川田悦子議員がいうことは、ソロクト補償請求訴訟の東京地裁の裁判でも原告弁護団の行動をみていると同じことを繰り返していることを痛感する。法廷の場で、2001年5~6月の過程を経て、6月22日に成立した法律第六十三号「~補償金の支給等に関する法律」をめぐって、被告=国とはげしく「ソロクト弁護団」はやり合った場面を私は見ることはできなかった。

 そして「誰よりも強く思いを寄せ同志であったはずの人々を、蹴散らし、踏みにじり、遠ざけている」という「ソロクト弁護団」裁判進行の現実を見てきたが、これも「歴史の発展の無慈悲さ」の持つ一齣だったのかと思わざるを得なかった。
 「一木一草に天皇制がある」(竹内好)ということ、すなわち「同化か、同化できなければ、排除」という論理は、「ソロクト弁護団」の論理でも貫かれているといえよう。
 たしかに、2001年5月11日の熊本地裁判決からハンセン病補償法成立に至る経緯において、日本国内のハンセン病患者への絶対隔離圧制の事実を否認し、「恥ずべき」歴史を指弾してきた。しかし、その一方で「無慈悲」をきわめた歴史の過程であったことも否めない。川田悦子さんの『えつこ通信』を読みながら私はつぎのことを思っていた。

 川田悦子さんから来た「はがき」は、FAXで、徳田さんと国宗さんの法律事務所には送っておいたが、その書かれた内容は、――「先日、TBSより取材がありましたが、結局カットされました。(8月中旬には、「TBSから『補償法案に反対した唯一の‥‥』。(滝尾宛てに『‥‥近く「ソロクト裁判」が始まるのですね」と喜んだ手紙が川田悦子さんからきていたが‥‥)どうも補償法律に反対したことが、厚生省側に有利になっているとの理由らしいようです。(―これは推測ですが‥‥。)なぜ私が反対したのかはいっさい明らかにされません。事務所を閉じることになり、私自身も東京を脱出します。とてもイヤな社会・政治ですね。(川田悦子)」と書かれていた。川田悦子さんは今、長野県の諏訪で自然農業に勤しんでいる。

 「補償法」に反対した川田悦子さんに、こんな哀しい思いをさせる「戦術」をとる「ソロクト弁護団」に対してなにをいったらよいのか、いう言葉がない。「補償法」は植民地の療養所への除外項目がないが、「厚生労働省告示224号」の植民地の療養所の記述がない。それにより「申請棄却」が不当という「理屈」で裁判を進めることの矛盾は、やがて「歴史」によって、「ソロクト弁護団」とその支持者は裁かれるだろう(この支持者のなかには、滝尾をも含めて‥‥)。「厚生労働省告示224号」には、日帝統治下の植民地のハンセン病患者を療養所に隔離収容したが、その療養所の項目がないと、なぜ「告示」が厚生労働省が出された時点、またはその後、誰かそれを指摘した人がいなかったのか。弁護士たちも「ソロクトの被害事実」は知っていても、2年余も沈黙していたではないか。このことは、いずれその真相が明らかになることだろう。

 8月16日の夜は松江の宍道湖で、「精霊流し」があった。そのとき私は、さだまさしの「精霊流し」を口ずさんだ。

  去年のあなたの想い出が
  テープレコーダーからこぼれています
  あなたのためにお友達も集ってくれました
  二人でこさえたお揃いの
  浴衣も今夜は一人で着ます
  せんこう花火が見えますか
  空の上から

 こんな悲しい歌を、小鹿島をはじめとして、私はいくどとなく韓国各地で口ずさんだことか。空からかしか見ることのできぬ幾万の亡くなった韓国のハンセン病患者たちの「たましい」は、こうした「精霊流し」をいまなお、空を「さまよいながら」見ているのです。

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Blowin’ In The Wind (風に吹かれて)を皆で唄いたい

ボブ・ディラン(BOB DYLAN)
 Blowin’ In The Wind (風に吹かれて)

どれだけ道をあるいたら
一人前の男としてみとめられるのか?
いくつの海をとびこしたら 白いハトは
砂でやすらぐことができるのか?
何回弾丸の雨がふつたなら
武器は永遠に禁止されるのか?
そのこたえは、友だちよ、風に舞つている
こたえは風に舞つている

Haw many roads must a man walk down
Before you call him a man ?
How many seas mast a white dove sail
Before she sleeps in the sand ?
Yes, ‘n’how many times must the cannon balls fly
Before they’re forever banned ?
The answer, my friend, is blowin’ in the wind,
The answer is blowin’ in the wind.

幾年月 山は存在しつづけるのか
海に洗いながされてしまうまえに?
幾年月 ある種のひとびとは存在しつづけるのか
自由をゆるされるまでに?
何度ひとは顔をそむけ
見ないふりをしつづけられるのか?
そのこたえは、友だちよ、風に舞つている
こたえは風に舞つている

何度見上げたら
青い空が見えるのか?
いくつの耳をつけたら為政者は
民衆のさけびがきこえるのか?
何人死んだら わかるのか
あまりにも多く死にすぎたと?
そのこたえは、友だちよ、風に舞つている
こたえは風に舞つている

このボブ・ディラン(BOB DYLAN)「Blowin’ In The Wind(風に吹かれて)」の歌を、このHPの管理者と、その読者・掲示者たちが、いつの日にか、声を合わせて、楽しく合唱・斉唱出来る日が、いつくるのでしょうか?

 その道は、遥かに遠く、その道のりは、けわしいと思います。そして、そのこたえは、「Blowin’ In The Wind(風に吹かれて)」がいうように「友だちよ、風に舞つている こたえは、風に舞つている」のでしょうか?

                 2005年8月27日の広島・滝尾英二でした。

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小鹿島での夏期ボランティアに参加して

 7月28日、チャムギルの金在浩(キン・ゼホ)事務局長から、「われわれは予定の通り、小鹿島へ行きますが、滝尾さんはどうですか。皆さん、滝尾さんとの再会を楽しみにしております。ご連絡お待ちしております。金 在浩」というメールが、韓国の大邱から届く。金事務局長からは、すでに、「今年の小鹿島の夏期ボランティアは、8月1日から4日間の日程で行なう」ということは、事前の電話連絡で知らせてあった。

持病「糖尿病」と歩行困難という身体の不安はあったが、東京地裁の「ソロクト補償請求訴訟」も7月19日に結審し、10月25日の判決を待つ段階で、一度は小鹿島の方々やその支援者の行なうボランティアには、ぜひ参加したいと考えていた。急いで韓国行きの交通便の手配をした。一番、安くしかも、確実にチケットが入手できるのは、広島港から釜山港まで行き来す国際フェリー便=「銀河号」の利用である。広島港を7月30日、午後5時の出港の片道切符を購入し、7月31日午前9時30分釜山港着と決め、その旨を金事務局長のメールで連絡し、小鹿島のボランティアへの参加を伝えた。

 お昼過ぎに、大邱の常泊のガーデンホテルに到着。夕方までホテルで仮眠。夕食はチャムギルの幹部・趙行善さんの招待でチャムギル会員らと会食した。趙さんから紺色で麻製のチョゴリ、各地のアリランが収録されたCDをいただく。翌8月1日の午前7時、ホテルまで車で金在浩さんが迎えにきてくれ、小鹿島のボランティアの参加者の集合場所に行く。貸切バスが10台並んでいる。私は、趙行善さんと専門カメラマンの朴載鳳さん、それにインタネット新聞の写真報道記者・除泰榮さんと同じバスに乗る。この4名は4日間の小鹿島のボランティアには、終始一緒に行動することになる。

 三十数人乗る貸切バスが10台だから、大邱から小鹿島のボランティア活動に行く若者たちは、総勢約300余名である。参加者は、高校生・大学生が多いようだ。4時間余りかかる車中では、自己紹介やチャムギルの歌の指導などがあった。私の自己紹介は、韓国語と英語のちゃんぽんで行なったが、最後に趙さんから各地のアリランが収録されたCDで、前夜、歌の練習をしていたので、民謡アリランの一節を披露したら若者たちは、喜んで拍手してくれた。途中、インターチェンジで、朝食とトイレ休憩が2度ほどあった。

 小鹿島に着くと、中央里にある大講堂に行く。そこが若者たちの宿泊場所であり、また、ボランティア全員の炊き出しが行なわれていて、多種多様な韓国料理を各自、金属製の食器に盛って食事をとる。私たちは、時に大講堂の室内で、時に屋外の草むらに椅子に腰掛けて食事をするのだが、ボランティアに参加した若者たちは、禁酒・禁煙であり、海岸での水泳も禁止されている。私たち高齢者は新築された自治会の事務室の同じ建物内にあるオンドル部屋で、寝起きをした。
 ボランティアの初日は、大講堂で開会行事が、若者のリーダーが司会して行なわれた。開会行事には趙さんからいただいた紺色で麻製のチョゴリを着て参列し、司会者から指名されて、挨拶をした。韓国語で、「今日わ!。広島から来た滝尾です。」と述べ、ついでに「アリラン」を唄ったので、好評だった。

_151  第2日目は、若者たち20余名とトラックの荷台に乗って、北生里のボランティア活動に参加した。北生里は、西に広がる海岸と巨木があり、その大きな木の下には木製の縁台が置かれてハラボジ・ハルモニたちが、縁台に腰を降ろして憩んでいる。高台にある教会、赤煉瓦造りの倉庫、北生里の診療所、日常品を売っている売店、なだらかな草むらにはかつては豚舎が立ち並んでいたが、現在は撤去され、きれいに整地されている。海岸の端にある火葬場は以前は、日帝統治期の赤煉瓦つくりの建物があったが、今は撤去されて、白い火葬場の建物となっている。みどりのある風景が、そこにはあり、また、こころ温まるもてなしを北生里のハラボジ・ハルモニから受けた。

_146 私たちは、北生里のハラボジの指導により、20歳半ばの女性のボランティアのリーダーの指示に従って土運びや樹木・草刈りなどの作業を行なう。はじめ私は木の下の縁台に坐って作業を見物していたが、リヤカーに土盛りをスコップで入れて、教会前の高台に運ぶ作業を若者たちが、余りにも楽しそうにやっているので、仲間に入れてもらう。帰路はリヤカーに数人乗って2、3人がリヤカーの舵をとり、下りの坂道を駆け下りるのだが、まるで東京ドームのゴーガードに乗って歓声をあげている若者たちのようだ。私も帰りの坂道を降るリヤカーに乗せてもらう。爽快だった。
 作業の合間、合間に休憩がある。縁台に坐って配られた冷たいジュースを飲み、中にはハラボジを相手に韓国式将棋を指す若者がいる。ハラボジの方が強く、若者はなかなか勝てない。女性のボランティアのリーダーは、3日目の夜にある「歌と踊りの祭典」に、チマ・チョゴリを着て踊るのだと言い、踊りの所作に余念がない。数人の若者たちがたどたどしい日本語で話しかけてくる。

_129  このボランティアの中に、上手に日本語を話す少女がいた。金孝恩さんである。父親が京都大学工学部に留学し、母親と姉とともに幼稚園まで京都で暮らしていた。今、父は大邱大学工学部の教授で、金属工学を教え、母は同大学で日本語を教えているという。「姉の日本語は私よりずっと上手です」という。高校2年生の大柄の身体の明朗な少女である。自分のことを「かんこくのちょんちゃん」と呼び、携帯のメールアドレスを書いてくれた。金孝恩ちゃんの友人は孫周延さんで、現在、大邱の大学の栄養学を学ぶ1年生だという。孫さんは清楚で温厚な性格。金孝恩ちゃんと対照的で、もくもくとボランティアの作業をこなしている。金孝恩ちゃんの携帯で3名並んでの写真をとる。その夜の入所者の聴き取りには、私の通訳として金孝恩ちゃんは付いて行くという。

_124  二日目の夜は、失明しているがハーモニカ吹奏者として著名なムン・チェホ夫妻の部屋を訪ねる。前述した趙行善さんと専門カメラマンの朴載鳳さん、インタネット新聞の写真報道記者・除泰榮さん、それに通訳として金孝恩ちゃんと私の5名である。部屋に入ると、失明しているムン・チェホとその妻のキム・ヨンツゥさんの日常生活の世話をしている高齢の女性の3名がこの部屋で同居している。
 キム・ヨンツゥさんは、1936年に小鹿島に親と一緒に収容され、島の患者が通う小学校に通学していたという。私が小学校時代に唱歌を習らったろうと思い、唱歌「春が来た」を唄うとキム・ヨンツゥさんは驚くほどの美声で「春が来た」を唄い、また「夕焼小焼」、「しょうじょじのたぬきばやし」、「めだか野学校」などを唄い、戦争中習った「出征兵士を送る歌」や「露営の歌」まで唄われるので、びっくりした。また、ムン・チェホさんの吹くハーモニカにあわせて韓国の民謡や歌曲も数多く唄われた。

 ムン・チェホは、中央棟広場での「歌と踊りの祭典」の舞台でも、長いハーモニカを使用して演奏されていた。ムン・チェホは言葉が少なかったが、キム・ヨンツゥさんは多弁だった。
 戦争中の労働=とりわけ、「かます編み」や煉瓦つくりの作業がきつかったこと。食糧の配給が少なく絶えず空腹だったこと。解放直後の患者が多数、朝鮮人職員によって虐殺された様子など立て続けに話された。また、結婚は解放後であるが、結婚と同時に断種手術を夫は受けたこと。自分は東京裁判の原告であるが、夫のムン・チェホさんは、戦争中1年間、この小鹿島に入所していたが、原告ではない。補償申請をしたが、適応外だといって、申請が受理して貰えなかったという。「この点の問題は日本の弁護団に話してみましょう」と答えておいた。そして、夜も遅くなるので、翌日も訪問することを約束して、辞した。携帯で連絡して車を呼び、金孝恩さんを大講堂まで送るよう頼み、私たちは自室にもどった。

 MINNIE MOUSEの模様のTシャツを着て、NIKEの運動靴を履き、奇妙な歌を唄う私は、若者たちのアイドルだった。「一緒に写真の中に入って下さい!」とか、「この菓子を食べて下さい」とか、「サインをして下さい」とか、多くの韓国の若者たちから依頼された。ボランティアの若者たちや小鹿島のハラボジ・ハルモニと別れることは、実に辛かった。日本から持参した約50冊の韓国語に翻訳された自著は、専門カメラマンの朴載鳳さん、インタネット新聞の写真報道記者・除泰榮さん、国会議員で元弁護士の朱豪英さん、小鹿島病院の粱鐘卓庶務課長、金孝恩ちゃん、孫周延さんなどに寄贈しておいた。
 私の健康が許せば、再度、チャムギル主催の小鹿島のボランティアに参加し、ともに働き・語り・唄い・おいしい食事をたらふく食べたいと思う。この日の遠からんことを念じながら、小鹿島と大邱を後にした。

DSC01078             

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1万余の「怨霊」よ、この声が、とどけよ!

2005_08310002   5月23日の夜の星陵会館で、もう一つの歌唱が原告の李幸心(イ・ヘンシム)さんと滝尾=「広島の一匹オオカミ」の重唱で韓国の歌「ARIRANG(アリラン)」と「トラジ」を会館のテラスで、雨降る空に向かって、ソロクトの1万余の「怨霊」に歌った声を聞いた人は少ないだろう。

 それを聞いたのは、原告の蒋基鎭(チャン・ギジン)さんと、李幸心さん、その介添えをしていたソロクトの自治会員の金成坤さん、そして「広島の一匹オオカミ」とカメラマン(高波淳さん)の5名だけだろう。しかし、ソロクト訴訟「報告会」にふさわしいそれは「鎮魂歌(リクイエム)」であった。

「海を渡った隔離政策」を知る集会も途中休憩が15分ほどあったその時、蒋基鎭(チャン・ギジン)さんの要望だと李幸心(イ・ヘンシム)さんの介添えをしていた自治会員の金成坤さんが、会場ロビーで自著を販売していた「広島の一匹オオカミ」を呼びにやってきた。蒋基鎭さんが「ロビー外のテラスで、記念の写真を撮るので来てもらいたい」というのだ。蒋基鎭さんとはもうソロクトでの2年間の付き合いである。
雨が降っていたが、テラスまでには降り込んではいなかった。私に「蒋基鎭さんと李幸心さんの坐る車椅子の真ん中に入ってくれ。いまから記念撮影をする」と蒋基鎭さんいう。指が全て欠けて手先がおふたりとも丸くなっている手を握り、蒋基鎭さんとは長い頬ずりを交わす。「金成坤さんも写真に入ろうよ」と私は言って4名の記念撮影!。昼間の東京地裁の証言で李幸心さんが、「唱歌が上手だった」と証言していたので、私が「アリラン」を歌うと、驚くほどの美声で和し、ふたりの「重唱」(ジュエット)となる。二曲目は「トラジ」を歌った。「ソロクトの1万余の「怨霊」よ、この声が、とどけよ!」とばかり夜空にむかって歌った。

 このことは、「ソロクト弁護団のHP」にも書かれていない。だが、今次裁判にイニシエーションとして、必要なことであった。この夜の重唱で、「広島の一匹オオカミ」の今次裁判でなすべきことは、終わったとのだと思った。   (滝尾 英二)

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2005年8月27日 (土)

歌に生き、研究に生きて

 私は毎夜、カラオケ・スタジオへ歌の練習に行っている。お客の多い時は、2~3曲しか唄えないこともあるが、それで私は満足している。今夜はなにを唄おうかと前もって考えて行く。夕食後の1時間半は、自宅でカラオケ・スタジオで唄う歌の練習に励む。自宅では、声を出して唄うことは少ない。我が「つれあい」が、「近所迷惑だ」と嫌がるからである。たいていは、イヤホンをつけて、その歌の入っているCDを聞いていて練習しているが、最近は、書斎の机に置いてあるパソコンにDVDを入れて、歌手が唄う口や顔などさらに、その表情を参考にして練習し、その夜唄う歌の「予習」に励んでいる。
 (歌の練習は、声を出しての練習はできないので、イメージ・トレイニングにならざるを得ない。)

 昼間は人権問題研究、とりわけハンセン病問題の研究に勤しんでいる。パソコンで、ハンセン病問題に関わってホームページを見たり、受信したメールの返信を書いたり、また、書きかけた論文の続きを書いたりするので、夕食後の歌の練習やカラオケ・スタジオでの時間は、ほどよい昼間の疲れやストレスの為によいようだ。
 自宅から3・5kmも離れているカラオケ・スタジオから、帰路につくのは、午後11時過ぎとなる。タクシー以外の交通手段がすでに途絶えているので、歩いて帰宅する。
その歩行は、持病の「糖尿病の運動療法」にもなり、健康のためになる。人影の少ない夜道をこ1時間かけて休憩をとりながら歩くのであるが、その夜、唄った歌の復習をしながら、帰宅するので、これまた私にとって歌の勉強になる。

 昨夜は、小椋 佳が作詞・作曲した「しおさいの詩」と、藤田敏雄作詞・佐藤 勝作曲の「若者たち」などを唄った。唄う歌名を選ぶとき、どうしても現在の自分の心境によって左右される。昨日は、ハンセン病問題について、こころが揺れる不快なことが、続いたが、これでへこたれてはならない。私にとって、歌は「人生の進軍ラッパ」だと思う。そういう気持ちで、この2曲を選んだ。

 それにしても、根強く残る日本人の「自国民中心意識」には、ハンセン病問題に取り組んでいる多くの人たちにもあって、その壁を打ち崩すにはしんどい。その壁を崩すことは、つまり「堅氷をわる」ことは、わが身の温かい体温でもって、この「堅氷」を溶かなければならないようなことだと思う。
 若いとき読み、今も座右の書としている石母田 正著『続 歴史と民族の発見』には、「歴史の発展の無慈悲さ」を説いている。その「歴史の発展の無慈悲さ」に自分は耐えられるか、どうか。いま、私にかせられた課題だと思わずにはいられない。絶対少数で、いま、この闘いを、ハンセン病問題の課題だと考えて、その課題に取り組んで考える。

 「若者たち」の作詞者の藤田敏雄はこう回想している。「むなしく青春が終わってしまった男の、新しい世代への遺書、男らしく生きてほしいという願いを呼びかけの形で書いたもの」だという。「男らしい」という言葉は私には気に入らないが、しかし、毎日掲示している「語り合いましょう」というホームページの掲示板には、「新しい世代への遺書」として、私は掲示文を書いているのは事実であろう。

 小椋 佳は「しおさいの詩」でこう唄っている。

 しおさいの浜の岩かげに立って /しおさいの砂に涙を捨てて /思いきり呼んでみたい /果てしない海へ /消えた僕の /若い力呼んでみたい

 青春の夢にあこがれもせずに /青春の光を追いかけもせずに /流れていった時よ /果てしない海へ /消えた僕の /若い力呼んでみたい
 恋でもいい /何んでもいい /他のすべてを捨てられる /激しいものが欲しかった

 しおさいの浜の岩かげに立って /しおさいの砂に涙を捨てて /思いきり呼んでみたい /果てしない海へ /消えた僕の /若い力呼んでみたい

                       HIROSHIMA の滝尾 英二  (2005年8月27日)

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2005年8月24日 (水)

小鹿島の「歌と踊りの祭典」で重唱する李幸心さんと私(滝尾)

 5月23日、東京地裁103号法廷で、原告ふたりの尋問があったが、証言された原告のひとり・李幸心(イ・ヘンシム)さんと、その夕べの雨降る星陵会館で報告集会の半ばの休憩時間、星陵会館のテラスで、李幸心さんとアリランとトラジを私は、重唱した。

DSC01070 私は、本年8月1日から4日まで小鹿島であったチャムギル主催のボランティアに参加し、その3日目の夜の中央広場の「歌と踊りの祭典(集会)」にも、李幸心さんと飛び入りで重唱した。これがその時の写真である。

 その日のお昼過ぎ、このボランティアに参加した大邱のオーデオ専門業の趙行善さん、専門カメラマンの朴裁鳳さん、インターネット新聞報道記者の除泰榮さんらと共に小鹿島の入所者の部屋で聴き取りをしていた。中央公園北側の建物のお宅を訪問し、その建物の出口で、電動車に乗って帰宅しようとした李幸心さんとお会いした。はじめは屋外で話しをしていたが、一階入り口の李幸心さんの部屋で話をしよう、ということになり、李さんの部屋で、日本植民地時代のハンセン病患者の被害情況のお話しを聞いた。
その夜は、チャムギルが中央棟の広場で、「歌と踊りの祭典」があった。車椅子で蒋基鎮(チャン・ギシン)さんもこの祭典にお出でになってていたので、ご挨拶をする。
前列の木製の長椅子には、李幸心さんが坐っておられる。「歌と踊りの祭典」たけなわとなる。私が李幸心さんに「飛び入りで、ふたりで歌いましょうか」というと、李幸心さんはうなずく。祭典の進行係に言って、飛び入りの許可をもらう。
 やがて、マイクでふたりの名前と紹介があり、手をつないで舞台に坐り、はじめ無伴奏で「アリラン」を重唱し、次いで「カラオケ」伴奏で韓国の歌謡曲を唄う。韓国語で歌詞を李幸心さんが唄い、私はカラオケのメロに合わせて「ラ ラ ラ~」と大口を開けて歌いあげた。唄いおわると、300余の観客が大喝采!

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 審査の結果、李幸心さん・滝尾のふたりは「特別・人気賞」をもらった。そして副賞として、1キログラム入りの「押し麦」の袋を二個もらった。その様子は、チャムギルの金在浩事務局長が、デヂカメで撮影し、帰国してみると、すでに、広島の自宅のパソコンのメールに、写真が「添付」されていた。

 8月3日の午前中、金新芽さんの部屋にお邪魔し、金さんの自室にあるピアノの伴奏で私は、「荒城の月」を唄った。その夜の「歌と踊りの祭典」には、失明されている金新芽さんもお出でになり、唄い終えた李幸心さんと私を呼んで、「上手に唄えましたね」と、おほめの言葉をいただいた。小鹿島での楽しいひと時であった。

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2005年8月20日 (土)

「医療が病いをつくる」いうこと

 安保徹・新潟大学教授著『医療が病いをつくる』岩波書店(2001年11月)発行の「はじめに」の中で安保さんは、つぎのように書いています。
「碁の上手の藤沢秀行や、将棋の上手の米谷邦雄は、全知全能の神様の力が一〇〇とすると自分たちの碁や将棋はたかだか六か七の力で勝負していると言っていた。現代医学の力も一〇〇のうち、せいぜい五か六の力で患者に対応しているような気がする」と。

 私は、韓国チャムギル主催の小鹿島での夏期ボランティアに、今年は8月1日から4日間、参加しました。韓国全土から300余名が参加しました。わずか、4日間、若者たちと、スコップで手車に土を乗せ、それを数人で丘の上の運ぶ作業や、高齢者病棟の身体が全く不自由で、視覚も聴覚も失われた方々に「みかん」をむいで、一袋づつ口に運ぶと、唇の感覚で、みかんを食べてくださる。また、日本植民地時代から小鹿島更生園に収容されたハラボジ・ハルモニの部屋にお邪魔し、一緒に歌を唄い、当時の被害を受けた話を伺うなどのことどをしてきました。
 インタネット新聞記者と、カメラのプロの方と行動をともにしました。3日目にそのインタネット新聞記者とチャムギル新聞編集の若者ふたり、計3名のインタビューを自治会室で、1時間ほど受けたのですが、質問は「なぜ、日本から遠い小鹿島まで来たのですか。しかも長いこと。4日間も‥‥」ということでした。私はこの質問にこう答えました。
 「私は死ぬるまで、生徒として、ここのハラボジ・ハルモニたちから、学ぼうとしています。ここのハラボジ・ハルモニたちは私にとって先生です。今回、小鹿島のここのハラボジ・ハルモニたちから、数多くのことを教えていただきました。感謝でいっぱいです。身体が許す限り、何度となく、この島に来て、学ぼうと考えています。今回、小鹿島を訪問した理由は、そのためです」と質問に答えました。
 いくら勉強しても、分かることは僅かです。真実の歴史が一〇〇あれば、私が知ることは、二か三に過ぎません。90数パセントは未知です。ハンセン病政策やハンセン病問題の殆んどは、暗やみのなかで、わずかに小さな灯火が、その闇のなかに灯った程度です。そのことを私を含めて自覚することから、ハンセン病問題は取り組まなければならないように思います。「汝、驕るなかれ!」ということを自戒のことばとしなければ、と考えています。『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』が今年の3月にでましたが、そこに書かれてある内容は、日本ハンセン病問題を解明する上での闇のなかの極わずかで小さな灯火程度に過ぎないと痛感しています。

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2005年8月19日 (金)

『未来』11月号掲載原稿を執筆中です

植民地下小鹿島更生園での「人体実験」―KBS(韓国放送)の取材に答えて―を月刊『未来』11月号に掲載するため、執筆中です。もう一つは、今年8月1日から4日までチャムギル主催の小鹿島でのボランティア活動に、韓国の若者たち、300余名と参加。働き、唄い、話してきました。そのレポートを書いています。
10月10日発売の『飛礫』48号(秋季号)に、論文が発表されます。「ハンセン病市民学会」の事務局長の藤野豊氏の言動への疑問・批判の内容となっています。

 なお、『未来』11月号の小論は、7ページ(10,000字)ほどのもので、「旧関東軍防疫給水部」=731部隊の「生体実験」を視野に入れた内容になっています。いずれも、ソロクト行政訴訟判決が10月25日午前10時から東京地裁第301号法廷で行なわれ、その前後に発刊されます。ご活用いただけば、幸いです。昨夜、松江から自宅に帰りました。(広島青丘文庫・滝尾英二より)

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2004年11月10日、韓国KBSの「小鹿島の真相」を読んでいます

 KBSが、政策ドギュメント番組「小鹿島の真相」が、韓国では04年11月10日に韓国全土に放映されました。その番組のビデオにダビングしたものをKBSは、私に送ってくれました。その番組の内容を小学校・高校の同期生で学友の井下春子さんが日本語に、言葉のある部分を訳してくれました。どうして、このような内容の番組を、日本ではNHKをはじめ、各テレビ番組は作製して、放映しないのでしょうか。

 その一部の日帝時代のソロクト住民(ハンセン病患者たち)への人体実験の証言は、滝尾がこの度、『未来』11月号に掲載予定の原稿にも、収録しています。 ともあれ、日本人が持つ「自国民中心意識」、「自民族中心思想」の呪縛から原告弁護団はじめ、その支援者や報道機関関係者などの意識が、依然として変わらないところに問題があります。そして、竹内好さんが、かつて指摘したように、「一木一草に天皇制がある」ように思われてなりません。
 しかし、ソロクト補償請求訴訟にソロクトの原告が勝訴し、国内・国外の世論が政府に控訴断念させる運動を多くの人々が真剣に闘い、そして、政府に「高裁への控訴を断念させる意義」は極めて大きいと、私は考えており、そのために私なりに全精力をあげて闘っています。ここ数年余年は、そのために闘ったと思っています。
 だから、原告弁護団の方々にも「苦言」を言ってきたつもりです。しかし、残念ながら、私の意見・行動は原告弁護団とは基本のところで異なっています。残念・無念なことです。その可否は、やがて「歴史」が証明してくれると思います。本年の10月10日発売の『飛礫』48号=秋季号や、11月初旬に発売される月刊『未来』第470号=05年11月号の私が書いた「小論」は、いずれホームページにも、掲載していただけるでしょうし、いずれが正しいか、このホームページをお読みいただく方の判断を待ちたいと考えています。

 今は、韓国の「チャムギル」代表の鄭鶴さんが、本年の小鹿島でのボランティアに4日間参加し、ソロクト補償請求弁護団と滝尾との「離反・決別」を報告した時、鄭鶴代表が紙にかいてくださった「人即天、忍即天」ということが「冬の時代」を生き抜くための知恵として必要かもしれません。

 少しセンチのなった時に考えます。学生時代に、東京の池袋にあった映画館「人生座」の立ち見で観た映画「赤い靴」の劇を!  赤い靴を履いた主人公のモイラシャーラーが演じる踊り子は、赤い靴がある限り、どんなに足が痛んでも、心身が疲れきっても、「赤い靴」ある限りそれを履いて踊りつづかねばなりません。そして、結末は、この踊り子は鉄道に飛び込むんで、自殺します。「赤い靴」というイギリス映画を今、思い出しています。
 私は決して自殺はしませんが、どんなにつらくとも、自然死するまで、私は書きつづけ、唄いつづけなけれがなりません。天がそういう運命を授けたのだと思い、これからも、書き続け、唄いつづけます。
 加山雄三が唄い、また弾厚作の名で作詞・作曲している「君といつまでも」という歌の「アンコ」のセリフでいうように、「幸せだなァ 僕は君といる(=研究している)時が一番幸せなんだ 僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろう」という心境になり、たいものですね(笑)。 

  

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